テレンバッハ『メランコリー』(12)

 しばらく放ってあったテレンバッハ『メランコリー』の症例を見直してみます。

〈症例12〉女性患者ミーナ・Dは、いつも似たような事情で何回もメランコリーにかかっていて、1959年には5回目の入院ということになった。まずはじめに、彼女のメランコリーの主要なテーマをいくつかまとめておこう -これらのテーマは入院のたびごとにいつも同じものだったのである。それは次のようなものだった -自分は結婚に《無関心》だったから、自分たちの結婚は非合法であり、無効である。結婚前、自分は何一つ教わらずに時間を無駄に過ごした。自分は罪深い女で、人生の生き方を間違えた。もうお祈りにも懺悔にも行けなくなった。家庭の中はすっかりだめになった。夫は自分のために傷ついた。死んだほうがましだ。4回目の入院では洗浄強迫と不潔恐怖が現れた。納屋で首を吊ったり、窓から飛び降りたりしようとしたが、何とか防止することができた。
(一段落略)
 患者自身、入院中に何回も繰り返して話してくれた内容を、回復後の診察のときにも完全におぼえていた。精神病以外の時期における罪の主題の歴史は、彼女の幼児期にはじまる。《いろいろなあやまち、毎日のあやまち、それをもうずっと前からくよくよ考えていました》。その中心になっていたのは、6、7歳のころに性器を触ったということだった。これはのちになって何回も懺悔したのに、40年後の今日になってもまだすっきり片付いていない。(略)いつも彼女の罪責感の中心におかれるのは結婚式のことであったが、この結婚式の直前に次のようなことが起こった。彼女はその当時から、現在の夫と結婚するのが良いことかどうかについての自信が持てなかった。式の前の水曜日に、彼女は婚約者に手紙で破断を申し入れた。彼は書留郵便で彼女の責任を問うてきた。夜になって、そのことについての話し合いがなされて、その結果、あらためて婚約がかわされた。彼女の家族は皆、それには反対であった。婚約者が教会に行かない人だという村の噂がいろいろと持ち出された。婚約者は反キリスト教的ナチ党員だったのである。彼は《いっしょに宗教的な生活を送る》という約束をしたが、彼女はそれでも信用することができなかった。式の当日、祭壇の前に進み出ても、この疑惑は彼女の心を離れなかった。彼女は、できることなら《いやです》と言いたかった。自分の不正直さ、というよりむしろ臆病さで心が重くなり、自分自身を責めながら教会を出たが、いましがた挙げたばかりの結婚が正当なものだとはどうしても思われず、それどころかこの結婚の有効性についての重大な疑念すら生じてくるのだった。結婚したその日から、彼女は本当に憂鬱になってしまった。夫婦間の性交渉は、最初からしっくり行かなかった。彼女はその当時もその後もずっと不感症であり、性行為のたびごとに、あとで罪責感を覚えた。この疑惑を、彼女は結婚以来ずっと持ち続けていた。とはいっても夫との相互理解は良好で、《夫婦仲は良かった》。ともかくも、彼女はどう見ても明朗活発で、新聞に土地の方言で詩を載せたり、あるクラブで芝居を企画した時に重要な役を演じたり、パーティーのために長い詩を作ったりした。しかしその間も、心の中は疑惑にむしばまれていた。とりわけ彼女を苦しめたのは、四人ものしつけの良い勤勉で健康な子供が夫との間に恵まれたという現実と(そのことを考えると彼女は非常に元気になった)、この結婚が良心に照らして無効な仕方で結ばれたということの間の矛盾であった。そして、この結婚が無効なものだということが、いつも変わらずメランコリーのテーマになった。(みすず版邦訳179~180頁)

 原文をみるとまず、「自分は結婚に《無関心gleichgueltig》だったから、自分たちの結婚は非合法であり、無効nicht gueltigである」という箇所で、病歴・症状の語られ方のなかに言語的なつながりがあるのが面白いと思います。あとは「もうお祈りにも…行けないnicht mehr in die Kirche...gehen」「婚約者が教会に行かない人だdie mangelnde Kirchlichkeit des Braeutigams」「反キリスト教的ナチ党員der antikirchlichen NS-Partei」の3か所には「Kirch教会」という語が繰り返し用いられていることも挙げておきましょう。「反キリスト教」の部分はむしろ「反教会主義的」ぐらいの意味ではないでしょうか。

 さて、この患者の結婚について「彼女の家族は皆、それには反対であった」ようですから、それでも二度目の婚約をした彼女が結婚に「無関心」であったはずはないと思います。そもそも、無関心ならば一度婚約を破棄したりしないでしょう。むしろ、患者本人は結婚を望んでいたのだが相手の宗教上の姿勢について家族から心配された(加えて自分もある程度心配であった)ので、結婚後は、自分自身が結婚をどのように考えていたのかという点について自らを偽り続けている、といったところではないでしょうか。

 6~7歳の頃から性に無関心ではなかったこと、結婚後の夫婦仲の良さ、4人の子供に恵まれているなどの事実についても、上のように考えたほうがしっくりきます。

 性格について言えば、患者は「明朗活発」で、社会的にはやや出過ぎたことにも手を出す人のようで、やっぱり日本の精神科医が考えるメランコリー親和型の類型には収まりそうにないと思います。

 この症例は287~289頁でも言及されています。

ここでもやはり、《無効な結婚》という負い目が絶えず現前し続けている。そして婚約時代を思い出すたびごとに、状況は自家撞着の規定を受けることになる。ある人が罪のためにみずからの結婚の存続を否定せざるを得ず、しかも結婚が -家族に気を配ることへの配慮という‐ その人の現存在の意味全体を満たすものであったような場合、それは自家撞着以外の何ものでもないだろう。いやおうなしにレマネンツを生じさせる決定的な契機は、ある特定の構造を持った人が、みずからの実存し得ない状況を実存するはめにおちいって、そこで自己実現が不可能になるという点にある。(みすず版邦訳288~289頁、下線は引用者)

 私は下線部についてむしろ、「ある人が、表向きの自分[と家族]の価値観に逆らうような結婚を存続するために、罪を語り続けざるを得ない」と考えられるのではないかと思います。これはこれである種の自家撞着といえるかもしれません。

メランコリー [改訂増補版]

H. テレンバッハ(著), 木村 敏 (翻訳)

出版社: みすず書房; 改訂増補版 (1985/12/5)

 前の記事(ヤスパース『原論』についての記事)で、「意識下」という日本語には意識の内部という意味とその逆の意味の両義がありうるらしいが私は前者しか知らなかったと書きましたが、このテレンバッハ『メランコリー』のひとつ前の症例11にも出てきます。当ブログで症例11を検討した時は省略した段落です。

《若気のあやまち》がその後もずっと意識下に現前していたことを示す例としては、次のような出来事がある。エーファ・Sは、終戦後、ある米軍将校クラブで働いていた。そこでは皆が、彼女が結婚していることを知っていた。それなのに、あるとき彼女は、特有な隠語で《Sねえちゃん》と呼びかけられた。その時彼女は仕事の手を休めて考えた。《抗議すべきだろうか - 抗議してもよいだろうか - 抗議してはいけないだろうか》。(みすず版邦訳177頁)

 この「意識下に現前」の原語は「subliminale Praesenz」ですので「サブリミナルに現存」とでも訳し換えておきましょう。「現前」という訳語もやはり意識内の出来事という誤解を与えやすいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヤスパース『原論』の再読(第三章第二~三節)

 久しぶりにヤスパース『原論』に手をつけてみます。これは先週、症例検討会で自分の鑑定例を紹介した際に、参加しておられた先生から、病的過程か人格の発展かというヤスパースの考え方に言及されたのがきっかけです。

 まずは単純な誤植から。

197頁

時として接続的な血管運動性、神経衰弱的症状群、たとえば災難の後など。

〈代案〉

時として持続的な血管運動性、神経衰弱的症状群、たとえば災難の後など。

 次も単語レベルの問題ですが、221頁に「意識下の」という語が3回ほど出てきます。この日本語は、私の語感だと「意識内の」という意味にとりたくなるのですが、原語は「Unterbewusstsein」で、文脈からいっても、「意識される閾よりも下の」「潜在意識の」という意味でしょう。手持ちの辞書では大辞泉で「下」をひくと

「名詞に付いて、そういう状態のもとにある、その中でのことである意を表す。『戦時下・意識下』」

とあり、私の語感に一致しますが、新明解の「下」には

「①表面に現れない部分。『地下・意識下』 ②…のもと、…に属すること。『インフレ下の日本経済・支配下』」

とあり、両方の意味があるようです。これははじめて知って驚きました(もし片方の辞書だけ持っていたら、相反する二つの意味のどちらかだけが正解と思ってしまいそうですよね)。

 さて、そのすぐあとに、「第3節 病気に対する患者の態度」の章があり、これは病識に関する理論として非常にしばしば引用される箇所です。しかし文献上あまり指摘されてはいませんが、ここでヤスパースは患者の態度を明瞭に二段階に分けています。

222頁

一 患者は病気の症状を消化加工する。すなわち、ある体験Erlebnisは消化加工して妄想体系にする(以下略)。二 本当の意味でいう態度というのは、人間が自分の体験Erlebenにむきあって観察し判断することである。自我が自分の中で経過してゆく出来事に向かいあうこととか、自我が対象から目をそらして自分を「反省」しながら自分自身に向かいあうという精神生活の根本現象は、病気の時にはめったにない。心理学的な判断によって何をどのように体験するかが意識されるようになる。患者がその体験Erlenbenに対して正しい態度が理想的にとれるようなのは、患者が「病識」があるという。[原語は引用者が付け加えた]

 第一段階の「体験」は、客体化されたものということでしょうか、原文では「Erlebnis」という名詞が用いられており、一方で第二段階の「体験」には、「Erleben」という、動詞をそのまま名詞化したものが用いられています。(Spitzerが英語論文でexperienceとexperiencingの両者を使っていたことを参考にして)後者は、「進行中の体験」とでも訳したらよいかもしれません。

 このあとしばらくは、おもに前者の「体験」への反応について説明されます。後者について語られるのは、次の箇所から以降です。

225頁

 この第一群ではいずれの場合にも患者の病気の内容に対する患者の態度から特徴を知り、また変化した精神生活への患者の反応から、内容の消化加工から、特徴を知ったのである。第二群では患者が内容ではなくて[進行中の]体験Erlebenと自己に目を向けてこの出来事の原因をたずねながら彼の病気の一つ一つの様子や病気全体を判断する時にとる患者の態度から特徴を集めるのである。こういうものは皆総括して疾病意識とか病識といわれる。

 「体験」の原語の区別に着目することで、上の第一群と第二群との相違が明瞭になると思います。

 最後は構文上の誤訳です。ただし長い一文なので訳しづらく、みすず版も3文に分けています。私は前後をひっくり返すことにしました。

229頁

 急性精神病の最中より重要なのは、精神病が経過して回復してからそれに対してとる患者の態度である。すなわち判断がはっきりしているので、その内容からみると、本当の態度を見てとる上に間違いをおこさせやすい。それゆえこの病像全体を誤って解さないようにしなければならない。

〈代案〉

 もし病像全体を誤って解さないようにしたいのであれば、表明された判断の内容 -これが間違いをおこさせやすい- を通じて、本当の態度に到達することが重要である。これは急性精神病の最中よりも、精神病が経過して回復してからそれに対してとる患者の態度に際して、さらに重要[な注意点]である。

精神病理学原論 

カール ヤスパース (著), Karl Jaspers (原著), 西丸 四方 (翻訳)

みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

Allgemeine Psychopathologie Ein Leitfaden Fur Studierende, Arzte Und Psychologen (1913) Karl Jaspers (ペーパーバック - 2009/11)

出版社: Kessinger Publishing (2009/11)

 222頁の引用箇所の「向き合う」の原語は「gegenuebertreten」「sich gegenueberstellen」ですが、私は、「向き合う」っていう言葉、ニュースやドキュメント番組なんかで「認知症と向き合う」みたいな表現を聞くとすごく嫌なんです。なんででしょうかね。

 なお、今回の記事の内容のほとんどは、ヤスパースの同じ教科書の後年の版「精神病理学総論」についてすでにこのブログで取り上げました。参照ください。

http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-8dd7.html

http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-e838.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

フロイト全集19から『制止、症状、不安』第8章

 岩波版の第8章の検討に進みます。前の2つの章と比べ、この章には直すべきと思える箇所が非常に多く見つかったので、今回は長くなりました。一つ一つはさほど読解に影響しなかったりもするので、どこまで拾い上げたらよいかも迷いました。

 まずは次の箇所から。

私たちは、不安の本質私たちに解明してくれるようなひとつの認識を求めている。つまり、不安について、その真実と誤謬を区別してくれるような〈あれか、これか〉を求めている。しかし、これを得るのは困難であり、不安を把握することはそれほど容易ではない。(岩波版59頁、下線は引用者が付した)

 一つ目の文の「不安の本質が私たちに解明してくれる」は、原文を見ると「不安の本質を私たちに解明してくれる」とも取ることができます。文法的にはどちらも可能ですが、直後の二文の内容と見比べてみれば、「不安の本質を」と解釈せざるを得ません。

 次は文脈に関する点なので段落全体を引用します。

不安の原因を出生という出来事に求めるなら、当然予測される反論に対して弁護する必要がある。反論とはこうである。不安はおそらくあらゆる生物、少なくともあらゆる高等生物に起こる反応であり、出生を体験するのは哺乳類に限られるので、出生が全ての哺乳類にとって外傷の意味を持つとするのは疑問である。つまり、出生をその手本としない不安というものがある、と。しかし、この反論は、生物学と心理学の間の垣根を越えて立てられている。不安が危険の状態に対する反応として生物学的になくてはならない機能を果さねばならないという、まさにそれゆえにこそ、不安はさまざまな生物において、さまざまな仕方で準備されていなくてはならない。人間とかけ離れた生物にあって、私たちには、不安の感覚と神経支配が人間の場合と同じものなのかどうかもわからない。だからといって、人間にあっては不安の原型は出生過程にあるとする考え方が妨げられるわけではない。(岩波版61頁9~10行、下線は引用者が付した)

 「だからといって」は原文で「also」ですが、「それゆえ」に訂正しないと段落全体の論理が理解困難と思います。

 次です。

個人がある新たな危険状況に陥った際、その時点での危険に見合った適切な反応を示す代わりに、不安状態すなわち昔の危険に対する反応でもって応えるなら、容易に目的にかなったものではなくなってしまう。しかし、危険状況が切迫していると認識され、不安の噴出という信号で注意喚起されるならば、そこには再び合目的性が見いだされる。(岩波版62頁、下線は引用者が付した)

 「signalisieren」という動詞については前回も取り上げました。ここでは「信号で注意喚起する」という訳になっていますが、フロイト理論で「注意Aufmerksamkeit」という語は一つの特殊な働きを指しますので、このように別の語を訳す際の補足としては用いない方が良いです。前回述べたように、「信号される」と訳しておいて「知らされる」とルビを振るのがよいと個人的には思いますが、とりあえず下線部について、「不安の噴出によって信号される[=知らされる]ならば」という代案を提案しておきます。なお、引用しませんでしたが、3行後ろの名詞「注意喚起」も「信号」とすべきです。

 次へいきましょう。

出生の危険と言う時、その語にまだ心的な内実は全くない。確かに私たちは胎児に関して、それが生命の破滅というあり得べき帰結について何か知識らしいものを持つと前提とすることはできない。胎児に気づくことができるのは、彼のナルシス的リビードの経済における巨大な障碍にほかならない。巨大な興奮量が彼のもとに押し寄せ、新種の不快の感覚を生み出し、少なからぬ器官が無理に備給を高め、それは程なく始まる対象備給の序曲のようなものである。このうちのどの器官が「危険状況」を印づける目印として用いられることになるのだろうか。(岩波版62頁)

 下線部「was davon」を、「このうちのどれ」に変更すべきと思います。つまりここは前の文の全体を指しているのであって、「少なからぬ器官」のみを指しているのではないと思います。

 次です。

憧れの人物の想起像は間違いなく強く備給され、恐らく当初は幻覚のように備給されるのだろう。しかしそれは実を結ばないので、まるでこの憧れが不安へと転じるかのように見える。あたかもこの不安が困惑の表現であり、まだまだ未発達の人間が、この憧れの備給で事情をどう好転させたらよいのか皆目わからずにいるかのような印象を与える。つまり、不安は対象の不在に対する反応であると思われる、そして以下のことを私たちに類推させられる。すなわち、去勢不安もまた、貴重と思われていた対象からの分離を内実とし、そして、根源的な不安(出生の「原不安」)は母親からの分離の際に出現する、と。(岩波版64~65頁)

 「ersehnen」は辞書では「待望する」ですし、「Sehnsucht」を「思慕」として訳し分けるよう代案を提案します。他にも、最後の一文は現在と過去がひっくり返っていたりと、細かい不適切箇所があります。

待望される人物の想起像は間違いなく強く備給され、恐らく当初は幻覚のように備給されるのだろう。しかしそれは実を結ばないので、まるでこの思慕が不安へと転じるかのように見える。あたかもこの不安が困惑の表現であり、まだまだ未発達の人間が、この思慕の備給をうまく扱う術を皆目わからずにいるかのような印象を与える。つまり、不安は対象の不在に対する反応であると思われる、そして以下のことを私たちに類推させられる。すなわち、去勢不安もまた、貴重と思われている対象からの分離を内実とし、そして、根源的な不安(出生の「原不安」)は母親からの分離の際に出現した、と。(岩波版64~65頁)

 ここで「分離」とされているのは全て「Trennung」の訳なので、前回も論じておいた理由から、「分断」とか「切断」が良いと思います。

 次は岩波版のままでも良いかなと思いましたが、一応、代案と並べて紹介しておきます。

外部の対象が、知覚によってとらえられ、出生時を喚起するような危険な状況に終止符を打ってくれる・・・(岩波版65頁)

知覚によってとらえられうる外部の対象が、出生時を喚起するような危険な状況に終止符を打ってくれる・・・(代案)

 次。

まず当初、自分の体を新たにしつらえることによって胎児の欲求をすべて満たしていた母親は、子供の出生後も同じ機能を部分的に、別の手段によって継続する。(66頁、下線は引用者が付した)

 下線部「durch die Einrichtungen ihres Leibes」は、「自分の体のいくつかの仕組みによって」ぐらいでよいです。

 次の箇所は、細かな訂正点の連続なので、まず代案と並べてみてもらいましょう。

対象喪失という不安の条件は、今後も引き続き大きな影響力をもつ。次に引き続く不安の変容はこれもまた去勢不安で、ファルス期に出現する。この去勢不安は分離への不安であり、同じ条件に結びついている。ここでの危険とは、性器が分離されてしまうことである。フェレンツィの至極正当な思考の道筋によって、私たちはここにおける早期の危険状況の内実との関連をはっきりと知ることができる。ペニスに対する高いナルシス的な評価は、この器官を所有することが、性交行為において母親(母親の代替物)と再び合一するための保証を含意する、という点に基づくであろう。男根が剥奪されてしまうことは、母親との新たな分離を示唆することにほかならず、それゆえ再び(出生の時のような)不快に満ちた欲求の緊張に寄る辺なく晒されることを意味する。しかし、その亢進が恐れられている欲求は、特殊化されたもの、すなわち性器的リビードの欲求であって、もはや乳児期のような恣意的なものではない。(岩波版66~67頁、下線は引用者が付した)

対象喪失という不安の条件は、今後も引き続き大きな影響力をもつ。次に引き続く不安の変容は去勢不安で、ファルス期に出現する。この去勢不安はこれもまた分離への不安であり、同じ条件に結びついている。ここでの危険とは、性器が分離されてしまうことである。フェレンツィの至極正当な思考の道筋によって、私たちはここに、危険状況のより早期の内実との関連をはっきりと知ることができる。ペニスに対する高いナルシス的な評価は、この器官を所有することが、性交行為において母親(母親の代替物)と再び合一するための保証を含意する、という点に基づくであろう。男根が剥奪されてしまうことは、母親との新たな分離を示唆することにほかならず、それゆえ再び(出生の時のような)不快に満ちた欲求の緊張に寄る辺なく晒されることを意味する。しかしいま、その亢進が恐れられている欲求は、特殊化されたもの、すなわち性器的リビードの欲求であって、もはや乳児期のような任意のものではない。(代案、下線は変更箇所)

 ここには、あえて訂正しませんでしたが訳語の問題もありまして、上にも触れたように「分離」を「分断」か「切断」ぐらいにすべきであるのと、「男根」はふつう「ファルス」の訳として用いられる同義語なので、上の引用の後ろから二つ目の文にある「男根Glied」には「陰茎」の訳語が良いと思います。

 次は論文タイトルにもある「制止」という語の訳語の統一性にも関わってくる箇所です。

一つ目は、エスにおいて、自我に対し危険状況の一つを賦課する何ものかが生じ、制止のために、これが自我に対し不安信号を送るように駆り立てる場合である。(岩波版68頁)

一つ目は、エスにおいて、自我に対し危険状況の一つを賦課する何ものかが生じ、したがって自我が、阻害のために不安信号を送るように駆り立てられる場合である。(代案)

 次も語句レベルの訂正点なので、代案と並べて紹介します。

すなわち、禁欲や、性欲の蠢きの流れがその乱用によって阻害される場合、また、性欲の蠢きがその心的加工から逸脱する場合には、不安が直接リビードから生じる。(岩波版69頁、下線は引用者が付した)

すなわち、禁欲や、性的興奮の経過がその乱用によって阻害される場合、また、性的興奮がその心的処理から転導される場合には、不安が直接リビードから生じる。(代案、下線は変更箇所)

 次も主に訳語の統一性についてです。

その場合は恐らく、不安を一時的に宙づりにしておくことを学び取っている自我はそこから逸れ、次いで症状形成によって不安を縛り付けておこうと試みるのである。(岩波版69頁、下線は引用者が付した)

 はじめの下線部は原文で「ersparen」で、この論文の岩波版では、45頁1行目「省略する」や13行目「せずに済ませている」、51頁1行目「なしで済ませた」といったあたりに既出の語です。二つ目の下線部「binden」は他のほとんどの箇所で「拘束する」と統一されています。

その場合は恐らく、不安を一時的に宙づりにしておくことを学び取っている自我は、この不安をなしで済ませ、次いで症状形成によって不安を拘束しようと試みるのである。(代案、下線は変更箇所)

 次の箇所は、ややこしいので代案も並べて示しましょう。

心的な寄る辺なさという危険は、自我の未熟な時期と対をなす。例えば、対象喪失の危険は小児期のはじめにおける自立の欠如と、また、去勢の危険はファルス期と、超自我への不安は潜伏期とそれぞれ対をなす。他方で、これらの危険状況と不安条件が全て並列的に存続し、自我に不安反応を引き起こさせる。それは、本来の相応しい時期よりも遅い時期のこともあれば、それらのいくつかの時期が同時に作用することもある。(岩波版69~70頁、下線は引用者が付した)

心的な寄る辺なさという危険は、自我の未熟な時期と対をなす。例えば、対象喪失の危険は小児期のはじめにおける自立の欠如と、また、去勢の危険はファルス期と、超自我への不安は潜伏期とそれぞれ対をなす。他方で、これらの危険状況と不安条件が全て並列的に存続し、本来の相応しい時期よりも遅い時期に自我に不安反応を引き起こさせうるあるいはそれらのいくつか[のみ]が同時に作用することもある。(代案、下線は変更箇所)

 原文を見る限り、岩波版の訳のように「遅い時期か、いくつかの時期か」という択一ではなく、「全ての時期か、そのいくつかの時期か」という択一のようです(Aber es koennen doch alle diese Gefahrsituationen und Angstbedingungen...[略], oder es koennen mehrere von ihnen...[略])。

 次が最後ですが、ここも代案と並べて見ていただきます。最初の下線部は、フロイトの他の著作のいくつかで繰り返し論じられている点です。

これまでは、抑圧過程のうち、意識と運動の間の妨害と、代替物(症状)形成という、自我に向いた側に目を向けるだけで事足れりとして、抑圧された欲動の蠢きに関してすら、それが無意識において未規定の形で長期に変化せぬまま存続する、と想定していた。(岩波版71頁註、下線は引用者が付した)

これまでは、抑圧過程のうち、意識や運動への妨害と、代替物(症状)形成という、自我に向いた側に目を向けるだけで事足れりとして、抑圧された欲動の蠢きに関してすら、それが無意識においていつまでも長く変化せぬまま存続する、と想定していた。(代案、下線は変更箇所)

 最後に訳語についてもう少し補っておきます。まず59頁14行目の「分離」は、ここまで区別すべきと論じてきた「Entmischung」「Trennung」のいずれとも違い、原文で「Isolieren」ですので、まあ「単離」ぐらいに訳しておくと良いと思います。次いで60頁1行目で、不安が呼吸や心拍に影響を与えることについて「運動性の神経支配、つまり放散過程」と書かれている部分は、私の訳語選択では「運動出力性の神経伝達、つまり放散過程」としたいところですし、ここ以外にもいくつかでてくる「運動性」「神経支配」の語はみな「運動出力性」「神経伝達」がよいでしょう。「神経支配」というと、解剖学的・静的な構造を指すように思えてしまいます。今回の記事の最後の引用箇所、71頁の註の「意識や運動への妨害」も、「意識や運動出力への妨害」がいいと思います。

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻) 

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

 FISCHER社のポケット版では、岩波版59頁11行目の 「さまざまな不快な情動」の箇所が「Verlustaffektenさまざまな喪失情動」になっていまして、意味からして明らかに誤りと思います。実際、ネットで読める原文では「Unlustaffekten」となっていまして、そちらが正しいでしょう。前の章にも誤植と思われる箇所があったことをここに書きましたが、この論文に関してはFISCHERのポケット版はあまり信用してはいけないかもしれません。このシリーズは、他の論文ではほとんど誤植に気づくこともありませんし、入手容易で持ち運びも軽く重宝しているのですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

フロイト全集19から『制止、症状、不安』第7章

 岩波版の第7章の検討に進みます。

それゆえ、動物恐怖症の不安は、自我の危険に対する情動的反応である。ここで信号化される危険とは、去勢の危険である。(岩波版54頁)

 「自我の危険に対する情動的反応」の箇所ですが、「自我の」は、「危険」ではなく「反応」にかかります。日本語表現でそれを強調するとしたら「危険に対する、自我の情動的反応である」とでもすると良いかもしれません。

 また、「ここで信号化される危険」の箇所は原文で「die Gefahr, die hier signalisiert wird」なので、むしろ危険は信号で伝えられる内容であって、危険そのものが信号になるわけではないと思います。ですので「signalisieren」の訳としては「信号で知らせる」というのが素直で、上の箇所の訳としては「ここで信号で知らされる危険」とでもすべきでしょう。

 ところで、岩波版では、次の二箇所では「注意喚起の信号を送る」という訳がなされています。

症状は、不安の増長によって注意喚起の信号を送られる危険状況を避けるために作り出されるのだ、と言ったほうがより正しい。(岩波版56頁、下線は引用者)

こうして私たちには、不安は情動として注意喚起の信号を送るのみならず、状況の経済論的諸条件を出発点に新たに生み出されることになる、という第二の可能性をまのあたりにするのであることも考え併せねばならない。(岩波版58頁、下線は引用者)

 「信号で知らせる」とするにせよ「注意喚起の信号を送る」とするにせよ、もともと一語の動詞であった語なのに、「信号」という名詞を含む表現に訳してしまうと、意味は正しくても読みにくくなってしまうきらいがあります。私としては、上の3箇所はいずれも受動形なので、「信号される」という一語で訳しておいて、「信号」には「しら」というルビを振って、「知らされる」と読ませるのがシンプルでよいと思います。このブログではルビを振れないので、次のように表記しておきます。

それゆえ、動物恐怖症の不安は、危険に対する、自我の情動的反応である。ここで信号される[=知らされる]危険とは、去勢の危険である。(岩波版54頁の代案、下線は変更箇所)

症状は、不安の増長によって信号される[=知らされる]危険状況を避けるために作り出されるのだ、と言ったほうがより正しい。(岩波版56頁の代案、下線は変更箇所)

こうして私たちには、不安は情動として信号される[=知らされる]のみならず、状況の経済論的諸条件を出発点に新たに生み出されることになる、という第二の可能性をまのあたりにするのであることも考え併せねばならない。(岩波版58頁の代案、下線は変更箇所)

 次の箇所は、前後の文脈には波及しない短い箇所ですし、代案も並べて紹介します。

こうした限定が選択されるに際しては、彼の神経症すべてを支配しているさまざまな小児的な契機の影響が示されている。(岩波版55頁)

こうした限定が選択されるに際しては、神経症によって彼を支配しているさまざまな小児的な契機の影響が示されている。(代案)

 さらに次へ行きます。これも一文で完結する箇所なので、代案とまとめて紹介します。

しかし、超自我のいかなる側面を自我が恐れているのか、と問うならば、超自我による懲罰は去勢懲罰から発展的に形成されたものである、という考え方が浮かび上がる。(岩波版56頁)

しかし、超自我の側からの何を自我が恐れているのか、と問うならば、超自我による懲罰は去勢懲罰から発展的に形成されたものである、という考え方が浮かび上がる。(代案)

 最後は日本語の問題です。

私たちは不安を、これまでは危険の情動信号と見なしてきたが、今では不安は、去勢の危険に関することが非常に多い点からして、喪失、分離に対する反応であると私たちには見える。この結論に反するようないくつかの事柄も、これはすぐ後で示されるが、私たちは極めて奇妙な一致があることに驚かざるを得ない。(岩波版58頁)

 引用箇所の二文目の意味が私には読みとりにくいので、次のように提案します。

この結論に反するようないくつかの事柄 -これはすぐ後で示される- もあるかもしれないが、私たちは極めて奇妙な一致があることに驚かざるを得ない。(代案)

 なお、上に引用した一文目に含まれる「分離Trennung」は、たとえば41頁などで「欲動の分離」という際に用いられた「Entmischung」とは原語が違いますし、別の訳語、「分断」「切離」などが良いのではないかと思います。これは同じ58頁に何度も登場します。

 訳語について最後にまとめて指摘しておきます。52頁2~3行目の「結びつき」は他の箇所と統一するなら「拘束」とすべきです。逆に53頁の8~9行目の「制止」は、他の箇所で「制止」と訳されている語ではないので別の語にすべきで、「阻害」ぐらいが良いでしょう。同じく53頁14行目の「危機」は「危険」に、58頁1行目の「刺激量」は、「興奮量」とすべきです。

 蛇足ですが、次の引用箇所の「直接的direkt」の箇所は、私が使っているFISCHER社のポケット版の原文では「間接的indirekt」とありました。ネットでは「direkt」と書かれた原文が探せたので、おそらく岩波版のままで正しいでしょう。

不安を自我の危険に対する反応であるとみるならば、生き延びることができた生命の危険に引き続いて起こることが非常に多い外傷性神経症を、生命の不安あるいは死の不安の直接的帰結としてとらえるのは自然で、この場合、自我の依存性や去勢は考慮に入れられない。(岩波版56~57頁)

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻) 

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

フロイト全集19から『制止、症状、不安』第6章

 この論文の岩波版の検討を続けてきましたが、今回は第6章に進みます。

強迫神経症儀礼は、なかったことにする、という意図にその第二の根を持っている。第一の根は、ある特定の事柄が起こらないように、あるいは反復しないように、という予防であり用心である。両者の差異は容易に把握できる。用心の措置は合理的であり、なかったことにすることで「棚上げ」するのは非合理的で、魔術的性質のものである。むろんこの第二の根の方がより古いもので、環境世界に対するアニミズム的態度に由来するものだと想定しなければならない。なかったことにすることへの努力は、出来事を「《起コラナカッタ》」こととして扱うその決然とした仕方において、正常なものに対して際立った様相を呈するが、しかし、そこから先なんの対抗策もとられることなく、出来事もその帰結も気にされることがない。他方で神経症においては、過去を自ら解消し、身体運動によって抑圧しようと努める。(岩波版47頁、下線は引用者が付した)

 一つ目の下線部「(なかったことにすることへの努力は)正常なものに対して際立った様相を呈する」は、原文では文頭にあり、「seine Abschattung zum Normalen findet」です。文頭にある以上、「seine」は、前文の「第二の根」を指していると思われます(もちろん「アニミズム的態度」の可能性もありますが、前文全体が「第二の根」について語っているのでこちらをとります)。さらに「Abschattung」を辞書で引くと、「1)abschattenすること 2)輪郭、シルエット」(小学館独和大辞典)、「1)輪郭、略図 2)陰影、《哲》射映」(博友社大独和辞典)とあり、動詞「abschatten」は「1)…に陰影〈濃淡〉をつけ[て際立たせ]る 2)暗くする、影にする 3)…の輪郭〈シルエット〉を描く」(小学館)、「1)輪郭〈略図〉を描く 2)陰影〈濃淡・ニュアンス〉をつける」(博友社)とあります。私はここを、「第二の根は正常なものにも影を落としている」、つまり正常者にもその痕跡が認められるという意味だと考えます。よって下線部について以下のように代案を提案します。

[正常なものが]出来事を「《起コラナカッタ》」こととして扱おうという決心の際の、なかったことにすることへの努力において、第二の根が正常なものにも影を落としている。しかし、[正常なものでは]そこから先なんの対抗策もとられることなく、出来事もその帰結も気にされることがない。(代案)

 これの次の文で下線を付した「身体運動によって抑圧」の箇所ですが、ここは「抑圧」の原語「Verdraengung」の意味に帰って、「押しのけ」「排外」「圧排」といった意味を念頭に置かないと、なかなか腑に落ちないところだと思います。日本語の「抑圧」という語は、心の奥底へ押さえつけるといったニュアンスで読んでしまいがちですので注意が必要でしょう。この段落の最後の文(引用箇所よりもはるか後ろ)の「抑圧」もそうです。

 その次の段落には「その連想的諸連関は抑圧されるか中断されて」という部分(48頁10行目)がありますが、そこで「抑圧」と訳されている語は原書で「unterdruecken」なので「禁圧」か「抑え込む」(←岩波の全集では多くの論文でこれが使われている)ぐらいが良いでしょう。

 次です。

正常な集中の過程は、神経症のこのような手続きにかこつけてなされている。(岩波版48頁)

 これは主語と目的語が逆です。

神経症のこのような手続きは、正常な集中の過程にかこつけてなされる。(代案)

 この短い段落の問題点はこれぐらいだと思います。

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻)

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

 今年のセンター試験の国語の問題は木村敏でしたので、新聞の問題文を読んでみました。私はいつも木村敏の自己論はまさしく国語の問題にすぎないという気がしてるんですが、この問題文の内容からもやはりそういう印象を受けました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

フロイト全集19から『制止、症状、不安』第5章(2)

 あけましておめでとうございます。今年は、再び我々の生活を大きく脅かすような出来事がないことを切に願っています。

 見通しをつけづらい論文、『制止 症状 不安』の岩波版を、行きつ戻りつしながら読み進めていますが、結局、5章以降は原文と一字一句照らし合わせてみることにしました。すでにこのブログでは、5章の翻訳上の問題を取り上げたことがありましたが、原書と突き合わせてまた新たに見つかった点を紹介します。

また、強迫神経症においては、いつも、その最下層において極めて早期に形成されたヒステリー症状が見出されるようである。しかし、それ以降の形成は、ある体質的要因によって決定的な仕方で変容させられる。リビードの性器的編成は、脆弱で、あまりにも抵抗力を欠いていることが明らかとなる。自我が、自らの防衛努力を開始した際に自我が手にする最初の成果は、自我が、(ファルス期の)性器的編成が完全に、あるいは部分的に、それ以前のサディズム肛門期へと逆戻りさせられる、ということである。(岩波版40頁、下線は引用者)

 これは誤植のようで(私はどうして一度目に読んだとき気づかなかったのでしょう)、三つめの「自我が」を省いてください。なお、その直前の「成果Erfolg」は、41頁10行目で同じ事態が説明される際には「戦果」とされています。

 次の問題点に移ります。

早期小児期の自慰を続けようとする誘惑は、容赦なく厳禁され、それゆえにまた必ずしも成功せず、退行的(サディズム肛門的)表象に依拠するようになる。他方でその誘惑はまた、ファルス的編成への抑えつけようのない関与を代理表現している。(岩波版42頁、下線は引用者)

 この訳文では、「成功せず」の主語は「誘惑」であるかのように読めますが、原文は違います。

早期小児期の自慰を続けようとする誘惑は、容赦なく -だからといって必ずしも成功しないが- 厳禁され、いまや退行的(サディズム肛門的)表象に依拠するようになる。他方でその誘惑はまた、ファルス的編成の克服されていない関与を代理表現している。(代案、下線は変更箇所)

 二つ目の下線部は、何が何に関与しているかという事項関係に関する訂正と、「bezwingen」の訳語を岩波版40頁8行目と統一するという点で変更しました。

 次です。

なぜなら、まさしく抑圧された自慰が強迫的行為という形で、満足への接近をどこまでも追求するからである。(岩波版42頁、下線は引用者)

 いつものことですが、「抑圧」は「verdraengen」の定訳なので、ここの「unterdruecken」は「禁圧する」とか、岩波の全集のたとえば『精神分析概説』など多くの後期論文で用いられていた「抑え込む」といった訳にしたほうが良いでしょう(岩波版44頁6行目の「抑圧」も同様です)。二つ目の下線部については些細な変更かもしれませんが一応直しておきます。

なぜなら、まさしく抑え込まれた自慰が強迫的行為という形で、満足へのかぎりない接近を掴み取るからである。(代案、下線は変更箇所)

 次です。

ヒステリーの防衛過程は抑圧に限定され、そこでは、自我は好ましくない欲動の蠢きを避けて、無意識の経過にこれを委ね、その運命にこれ以上関与しない。もちろん、このことが唯一正しいわけではないが、実際、私たちは、ヒステリー症状が同時に超自我の懲罰要求の満足を意味するような症例を知っている。(岩波版42頁、下線は引用者)

 下線部の日本語表現からすると、その後には、ヒステリーの防衛過程が抑圧に限定されているような例が挙げられるであろうと思えますが、そのあと実際に挙げられているのは、ヒステリーが抑圧以外の役割を果たすような例です。以下のように訂正します。

ヒステリーの防衛過程は抑圧に限定され、そこでは、自我は好ましくない欲動の蠢きを避けて、無意識の経過にこれを委ね、その運命にこれ以上関与しない。もちろん、このことが唯一正しいわけではない。というのも、実際、私たちは、ヒステリー症状が同時に超自我の懲罰要求の満足を意味するような症例を知っている。(代案、下線は変更箇所)

 次です。

かくして、一方では幼児期の攻撃的な蠢きが再び目覚め、他方では新たなリビード的蠢きの、程度差はあっても大きな部分 -最悪の場合にはその全部- が、退行によって予め敷かれた軌道に従い、攻撃的で破壊的な意図として登場する。このような性愛的要求の仮装と、自我における強い反動形成の帰結として、ここに性欲に対する闘いが、倫理的な旗幟のもとで継続される。(岩波版44頁、下線は引用者)

 下線部ですが、原文では「Infolge dieser Verkleidung der erotischen Sterebungen und der starken Reaktionsbildungen im Ich」とあり、2つ目の「der」は、「Reaktionsbildungen」が複数形ですから2格であり、「der erotischen Sterebungen」と同格です。岩波版ではこの「der」を誤って3格と解したようで、「dieser Verkleidung」と同格であるかのように訳されています。この点を改めて(ついでに私なりの訳語選択で「Strebung」を「要求」ではなく「志向」と訳して)、以下のように提案します。

かくして、一方では幼児期の攻撃的な蠢きが再び目覚め、他方では新たなリビード的蠢きの、程度差はあっても大きな部分 -最悪の場合にはその全部- が、退行によって予め敷かれた軌道に従い、攻撃的で破壊的な意図として登場する。性愛的志向と自我における強い反動形成とのこのような仮装の帰結として、ここに性欲に対する闘いが、倫理的な旗幟のもとで継続される。(代案、下線は変更箇所)

 次の箇所で今回の最後にしましょう。

この疾病を最初から支配していた、エスと超自我との間の極度に先鋭化された葛藤は、無力で媒介しえない自我がどのような方策を用いても、それに巻き込まれることから逃れようがなくなるほどに拡張することもある。(岩波版44頁、下線は引用者)

 下線部「zur Vermittlung unfaehig」ですが、「(エスと超自我とを)調停しえない」ということでしょう。

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻)

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

フロイト全集19から『制止、症状、不安』第4章(3)

 この論文は何度もわからなくなって元に戻って読み返しているのですが、第4章にまたひとつ翻訳上の問題が見つかりました。

・・・その後私は、第三の症例として、ある若いアメリカ人を見出した。彼において動物恐怖症は形成されなかったが、まさにこの欠落ゆえに他の症例を理解する一助となるのである。彼の性的な蠢きは、彼が読み聞かせをしてもらうある空想的な子供用の物語によって燃え立つのだったが、それは、食べることのできる物質でできている人間(ジンジャーブレッドマン)を、食べてしまうために追いかけて捕まえるアラビアの酋長についてのものだった。彼自身この食べることのできる人間と同一化しており、酋長が父の代替物なのは容易に見て取れるが、この空想が彼の自体性愛的な活動の最初の基礎となった。父親に食われるという表象は、幼児が保持する典型的かつ太古的な財産であり、神話(クロノス)や動物生態との類似は広く知られている。
 このように病的性格を緩和させる事情があるにもかかわらず、この表象の内容は、私たちにとってやはり異様なものであり、これを子供において認めることができるとは信じがたいことである。(岩波版30~31頁、下線は引用者)

 一つ目の下線部の『容易に見て取れる』は『leicht kenntlich』、二つ目の『病的性格を緩和させる』は『Erleichterung』です。後者の語には『leicht』という部分が含まれることから、一つ目の下線部を踏まえており、『容易化』といった意味になると考えるのが自然だと思います。

 ですので二段落目は次のように訳したほうがつながりが分かりやすそうです。

 このような容易化にもかかわらず、この表象の内容は、私たちにとってやはり異様なものであり、これを子供において認めることができるとは信じがたいことである。(代案、下線は変更箇所)

 すでにこの章については二度
http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-2784.html
http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-44eb.html
扱っているので、それらと併せて参考にしていただければ幸いです。気づいては付け加える繰り返しになってしまて読みづらいでしょうが、これも、私にとってはその時々に考えたことの日記でもありますのでご寛恕ください。

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻) 

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヤスパース『原論』の再読(第三章第一節)

 ヤスパース『精神病理学原論』を再読して、翻訳上の問題を取り上げるシリーズの続きです。

精神的反射弓というのは主観からみれば了解的関連で、対象意識から感情や努力や反抗、最後に行為が「出てくる」のであるが、客観的にはこれに反して因果的なつながりで、外部刺激が消化加工と反応を引き起こすのである。(みすず版邦訳183頁、下線は引用者が付した)

 主観的には『了解的な関連』、客観的には『因果的なつながり』とされているわけですが、『関連』と『つながり』という日本語の二語の意味の相違は小さいので、なぜ言い換えられているのかいまひとつわかりません。原書で後者は『Folge』ですので、次のようにして対比を強調してみます。

精神的反射弓というのは主観からみれば了解的関連で、対象意識から感情や努力や反抗、最後に行為が「出てくる」のであるが、客観的にはこれに反して因果的な帰結で、外部刺激が消化加工と反応を引き起こすのである。(代案、下線は変更箇所)

 次に移ります。

だから一次的なのは妄想体験、幻覚であり、二次的なのは理性的な働きによって得られた妄想体系(健康な心によって病的な出来事が消化加工される)である。(みすず版邦訳186頁、下線は引用者が付した)

 ここで『体験』には『Erleben』という動詞形が用いられていますが、ここ以外の箇所で使われる名詞『Erlebnis』(すでに客体化された体験やその内容を示す)と使い分けられています。この相違は病識についての説明では極めて重要であって、以前にも『精神病理学総論』(岩波の三巻本)について取り上げましたhttp://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-8dd7.html

 さらに、ここでは『幻覚』も動詞形が用いられていますので、次のような代案を提案します。

だから一次的なのは妄想体験すること、幻覚することであり、二次的なのは理性的な働きによって得られた妄想体系(健康な心によって病的な出来事が消化加工される)である。(代案、下線は変更箇所)

 なお、動詞形の『体験Erleben』は、191頁では『遭遇』と訳されています。

 次の箇所に進みましょう。

決断不能、けりをつけられないなどが精神衰弱者にあり、またブロイラーの両価性というのがあって、これは早発性痴呆の患者にことにある事実で、同じものを同時に憎みかつ愛することができるとか、正しいと思いかつ誤っていると思うことができるとかいうことで、たとえば正しい見当識を持っていながら同時に妄想的な見当識を確信をもって曲げないごときである。(みすず版邦訳190頁、下線は引用者が付した)

 最初の部分に訳し落としがありますので補ってみます。ついでに、全体の文型を少し整えてみます。

決断不能、けりをつけられない、準備を整えられないなどが精神衰弱者にあり、またブロイラーの両価性というのがあって、これは早発性痴呆の患者にことにある事実で、同じものを同時に憎みかつ愛することができるとか、正しいと思いかつ誤っていると思うことができるとか、またたとえば正しい見当識を持っていながら同時に妄想的な見当識を確信をもって曲げないごときである。(代案、下線は変更箇所)

 さらに次へ進みます。

五 欲動の発展、情熱、評価、世界観、人生観。人間の何かを得ようという努力や願望を分析すると根本的な、質的に独特の、それ以上さかのぼれない究極の欲動のもとというものに至る。(みすず版邦訳193頁、下線は問題箇所に引用者が付した)

 ここは初めの部分に余分な補足があります。ただ、原語の『Anschauungen』の一語では訳しづらいのも確かです。あとの二か所は訳語の問題です。

五 欲動の発展、情熱、評価、見解。人間の何かを得ようという志向や願望を分析すると根本的な、質的に独特の、それ以上さかのぼれない究極の欲動素質というものに至る。(代案、下線は変更箇所)

 『欲動素質』としたのは原語で『Triebanlagen』ですが、ちなみにこれは185頁から186頁にまたがる部分では『もちまえの欲動』とされています。

 次が今回の最後です。代案もまとめて紹介します。

第一群は感覚的欲動で、性欲や食欲などである。(みすず版邦訳193頁、下線は問題箇所に引用者が付した)

第一群は官能的欲動で、性欲や食欲などである。(代案、下線は変更箇所)

 ここで『官能的』としたのは『sinnlich』です。

精神病理学原論 

カール ヤスパース (著), Karl Jaspers (原著), 西丸 四方 (翻訳)

みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

Allgemeine Psychopathologie Ein Leitfaden Fur Studierende, Arzte Und Psychologen (1913) Karl Jaspers (ペーパーバック - 2009/11)

出版社: Kessinger Publishing (2009/11)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

フロイト全集19から『制止、症状、不安』第3章(2)

 この論文は難しいので何度も前に戻って読み直しています。第3章の翻訳の問題点はすでに取り上げました。http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-1c6f.html

 しかし前回取り上げた以外にもいくつか訂正すべき箇所があると思われたのでもう一度検討してみます。

通常は、抑圧されるべき欲動の蠢きは孤立したままである。抑圧の行為が自我の強さを私たちに示すものだとしても、抑圧はまた一方で、自我は無力であり、エスの個々の欲動の欲動の蠢きに対し、影響を及ぼせないことを明らかにする。というのも、抑圧によって症状へと生成する過程は、自らの存在を、自我編成の外部において、それとは無関係に主張するからである。(岩波版22~23頁、下線は引用者)

 下線部「生成する」は、「geworden ist」なので完了形です。「nun」という一語も抜けています。代案は次のようになります。

通常は、抑圧されるべき欲動の蠢きは孤立したままである。抑圧の行為が自我の強さを私たちに示すものだとしても、抑圧はまた一方で、自我は無力であり、エスの個々の欲動の欲動の蠢きに対し、影響を及ぼせないことを明らかにする。というのも、抑圧によってすでに症状になった過程は、いまや自らの存在を、自我編成の外部において、それとは無関係に主張するからである。(代案、下線は変更箇所)

 次の疑問箇所です。

自我の非性化されたエネルギーは、それが結合と統一化を求める努力のうちにも自らの由来を物語っており、この総合への強迫は、自我が力強く増長すれば増長するほど増大する。このようにして、自我がまた、症状を何とかして自らに結びつけ、その紐帯を介して自らの編成に組み込むため、あらゆる可能な方法を用いて症状の異質性と孤立とを解消しようと試みるのは、納得のゆくところである。(岩波版23頁、下線は引用者)

 下線の「結合」は、原文では「Bindung」で、岩波の全集ではたいてい「拘束」と訳されています。フロイトはこれ以外の論文で、拘束されたエネルギーと拘束されないエネルギーという分類を行っていますから、ここでもエネルギーの拘束と関連した話題なのかもしれません。二つ目の下線も動詞形ですが同じことです。

自我の非性化されたエネルギーは、それが拘束と統一化を求める努力のうちにも自らの由来を物語っており、この総合への強迫は、自我が力強く増長すれば増長するほど増大する。このようにして、自我がまた、症状を何とかして自らに拘束し、その紐帯を介して自らの編成に組み込むため、あらゆる可能な方法を用いて症状の異質性と孤立とを解消しようと試みるのは、納得のゆくところである。(代案、下線は変更箇所)

 次は単なる訳し落としです。

パラノイアにおける妄想形成では、患者たちの鋭敏な感覚と空想に対し、彼らにとっては求めようがない一つの活動領野が切り開かれる。(岩波版25頁)

パラノイアにおける妄想形成では、患者たちの鋭敏な感覚と空想に対し、彼らにとってほかでは求めようがない一つの活動領野が切り開かれる。(下線は追加箇所)

 前回の訂正箇所と合わせて、少しでも読みやすくなると良いんですが。

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻) 

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

テレンバッハ『メランコリー』(11)

 この著作で紹介されている症例をひとつずつ取り上げてきたシリーズの11回目です。今回は、あまり大きな改訳が必要な箇所は含まれないので、下線で変更個所を示すだけにします。みすず版邦訳の問題は主に、「精神病」という訳語が用いられていないことにあります。

〈症例11〉薬局助手のエーファ・Sは人間関係においてはいつも -なかでも道徳的なことがらに関しては- 大変きちんとしていた。《信頼を裏切るなどということはしたくないのです -それがあたりまえだと思ってきました》。子供のころから、自分とはなんの関係もないことでとがめられたりした場合にも、ひどく自信のない気持になるのだった。自分がなにか罪を犯したときには、自分を《けっして許せない》し、そのことを《けっして忘れられない》のだった。《何年かたってからでも、自分の罪のことがどうしても思い出されてくるのです》。実際に犯した罪状のひとつとしては、22歳のとき(つまり30年も前に)最初の婚約者と肉体関係をもったということが挙げられる。それ以来この罪の思い出は、折にふれて、大変な失敗をしてしまったという気持を伴って現れてくる。また終戦直後の窮乏時代に、妊娠を心配して、(夫の勧めで)椅子にわざと激しく腰をおろすという手法で生理を誘発しようとしたこと -それからさらに、《アンケートに嘘を書いて》、それが公務員である夫の地位にかかわるかもしれないと思ったことなども思い出された。
 メランコリーから回復した後に、彼女自身、これらの出来事について次のような意見を述べている。《他の人がそのようなことをする場合には、見過ごすことができるのです。でも私自身は、若いころから身についている義務感のために、自分のこととなるとそんなふうには見られないのです。そんなことは私の性質に反することですから(略)》(略)
 さて、メランコリーの中では、あらゆる過失がグロテスクに形を変えて彼女の口から語られる。14歳になる彼女の息子は糖尿病にかかっているが(これは事実であった)、これは最初の婚約者との不義の関係に対する神罰である。自分は子供をおろしたし、 -《心の中》だけではあったが- 浮気をした(事実彼女は、夫以外のある男性に《とても憧れて》いたことがあったが、その男はこのことをまったく知らなかった)。彼女が病院に入っているのは、自分の人生を台無しにしたからだ。というわけで、彼女は自宅で両手首の動脈と頸動脈とを切ったのだった。
 三回の入院に際しては、いつもきまってこんな風に妄想的に加工された負い目や罪の主題がメランコリー性精神病の中心におかれていた。その他、何よりも、重篤な抑止症状が彼女のメランコリー性精神病の特徴をなしていた。
 この症例においては、メランコリーの中へと陥って行く筋道が、前の症例ほど細部にわたってわかっていない。ただ、二年来くすぶっていた夫との葛藤が急激に先鋭化した時点で、精神病が始まっていることだけは確かである。彼女は夫の極端な性的願望のすべてに応じなかったため、夫は他の女性と関係をもった。このような状態は、1958年のクリスマスの前に危機的な局面を迎えた。3回目のメランコリー相がはじまったのはそのころである。(みすず版邦訳177~8頁、下線部は変更箇所)

 この症例の性格については、整理整頓とか仕事熱心さとして現れるような几帳面さについての言及はなく、人間関係上の道徳に関する几帳面さのみが紹介されています。症例記載をみる限り、他人への親切に努めるというわけでもありませんし、何らかの尽力を日常的に必要とするものは何もないようなのです。これは、テレンバッハの他の症例記載や理論的説明とは異なるものという印象を受けます(ここまでほかの症例では、日本で普通に論じられるメランコリー親和型と、その原典とされるテレンバッハ理論との相違について述べてきましたが、この症例は、そのテレンバッハ理論とも違う気がします)。

 このように自らの道徳的義務感を強調して訴える症例からは、私はどうしても、「自分はこれほど道徳的な人間である」という言外の自己愛的な主張を読み取ることも可能ではないかと思えてきます。

 あるいは、自らのかつての不義の関係や浮気にまつわる訴えを語ることは、妄想のなかで夫の仕打ちに対して復讐しているとの読みも可能と思います。夫の指示通りに月経誘発したことを自責したり、「夫が公務員の地位を失うのではないか」と訴えたりというあたりにも夫への攻撃性が隠れていそうです。

メランコリー [改訂増補版]

H. テレンバッハ(著), 木村 敏 (翻訳)

出版社: みすず書房; 改訂増補版 (1985/12/5)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«ヤスパース『原論』の再読(第二章第二~三節)