フロイト全集19から『制止、症状、不安』第7章

 岩波版の第7章の検討に進みます。

それゆえ、動物恐怖症の不安は、自我の危険に対する情動的反応である。ここで信号化される危険とは、去勢の危険である。(岩波版54頁)

 「自我の危険に対する情動的反応」の箇所ですが、「自我の」は、「危険」ではなく「反応」にかかります。日本語表現でそれを強調するとしたら「危険に対する、自我の情動的反応である」とでもすると良いかもしれません。

 また、「ここで信号化される危険」の箇所は原文で「die Gefahr, die hier signalisiert wird」なので、むしろ危険は信号で伝えられる内容であって、危険そのものが信号になるわけではないと思います。ですので「signalisieren」の訳としては「信号で知らせる」というのが素直で、上の箇所の訳としては「ここで信号で知らされる危険」とでもすべきでしょう。

 ところで、岩波版では、次の二箇所では「注意喚起の信号を送る」という訳がなされています。

症状は、不安の増長によって注意喚起の信号を送られる危険状況を避けるために作り出されるのだ、と言ったほうがより正しい。(岩波版56頁、下線は引用者)

こうして私たちには、不安は情動として注意喚起の信号を送るのみならず、状況の経済論的諸条件を出発点に新たに生み出されることになる、という第二の可能性をまのあたりにするのであることも考え併せねばならない。(岩波版58頁、下線は引用者)

 「信号で知らせる」とするにせよ「注意喚起の信号を送る」とするにせよ、もともと一語の動詞であった語なのに、「信号」という名詞を含む表現に訳してしまうと、意味は正しくても読みにくくなってしまうきらいがあります。私としては、上の3箇所はいずれも受動形なので、「信号される」という一語で訳しておいて、「信号」には「しら」というルビを振って、「知らされる」と読ませるのがシンプルでよいと思います。このブログではルビを振れないので、次のように表記しておきます。

それゆえ、動物恐怖症の不安は、危険に対する、自我の情動的反応である。ここで信号される[=知らされる]危険とは、去勢の危険である。(岩波版54頁の代案、下線は変更箇所)

症状は、不安の増長によって信号される[=知らされる]危険状況を避けるために作り出されるのだ、と言ったほうがより正しい。(岩波版56頁の代案、下線は変更箇所)

こうして私たちには、不安は情動として信号される[=知らされる]のみならず、状況の経済論的諸条件を出発点に新たに生み出されることになる、という第二の可能性をまのあたりにするのであることも考え併せねばならない。(岩波版58頁の代案、下線は変更箇所)

 次の箇所は、前後の文脈には波及しない短い箇所ですし、代案も並べて紹介します。

こうした限定が選択されるに際しては、彼の神経症すべてを支配しているさまざまな小児的な契機の影響が示されている。(岩波版55頁)

こうした限定が選択されるに際しては、神経症によって彼を支配しているさまざまな小児的な契機の影響が示されている。(代案)

 さらに次へ行きます。これも一文で完結する箇所なので、代案とまとめて紹介します。

しかし、超自我のいかなる側面を自我が恐れているのか、と問うならば、超自我による懲罰は去勢懲罰から発展的に形成されたものである、という考え方が浮かび上がる。(岩波版56頁)

しかし、超自我の側からの何を自我が恐れているのか、と問うならば、超自我による懲罰は去勢懲罰から発展的に形成されたものである、という考え方が浮かび上がる。(代案)

 最後は日本語の問題です。

私たちは不安を、これまでは危険の情動信号と見なしてきたが、今では不安は、去勢の危険に関することが非常に多い点からして、喪失、分離に対する反応であると私たちには見える。この結論に反するようないくつかの事柄も、これはすぐ後で示されるが、私たちは極めて奇妙な一致があることに驚かざるを得ない。(岩波版58頁)

 引用箇所の二文目の意味が私には読みとりにくいので、次のように提案します。

この結論に反するようないくつかの事柄 -これはすぐ後で示される- もあるかもしれないが、私たちは極めて奇妙な一致があることに驚かざるを得ない。(代案)

 なお、上に引用した一文目に含まれる「分離Trennung」は、たとえば41頁などで「欲動の分離」という際に用いられた「Entmischung」とは原語が違いますし、別の訳語、「分断」「切離」などが良いのではないかと思います。これは同じ58頁に何度も登場します。

 訳語について最後にまとめて指摘しておきます。52頁2~3行目の「結びつき」は他の箇所と統一するなら「拘束」とすべきです。逆に53頁の8~9行目の「制止」は、他の箇所で「制止」と訳されている語ではないので別の語にすべきで、「阻害」ぐらいが良いでしょう。同じく53頁14行目の「危機」は「危険」に、58頁1行目の「刺激量」は、「興奮量」とすべきです。

 蛇足ですが、次の引用箇所の「直接的direkt」の箇所は、私が使っているFISCHER社のポケット版の原文では「間接的indirekt」とありました。ネットでは「direkt」と書かれた原文が探せたので、おそらく岩波版のままで正しいでしょう。

不安を自我の危険に対する反応であるとみるならば、生き延びることができた生命の危険に引き続いて起こることが非常に多い外傷性神経症を、生命の不安あるいは死の不安の直接的帰結としてとらえるのは自然で、この場合、自我の依存性や去勢は考慮に入れられない。(岩波版56~57頁)

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻) 

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

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フロイト全集19から『制止、症状、不安』第6章

 この論文の岩波版の検討を続けてきましたが、今回は第6章に進みます。

強迫神経症儀礼は、なかったことにする、という意図にその第二の根を持っている。第一の根は、ある特定の事柄が起こらないように、あるいは反復しないように、という予防であり用心である。両者の差異は容易に把握できる。用心の措置は合理的であり、なかったことにすることで「棚上げ」するのは非合理的で、魔術的性質のものである。むろんこの第二の根の方がより古いもので、環境世界に対するアニミズム的態度に由来するものだと想定しなければならない。なかったことにすることへの努力は、出来事を「《起コラナカッタ》」こととして扱うその決然とした仕方において、正常なものに対して際立った様相を呈するが、しかし、そこから先なんの対抗策もとられることなく、出来事もその帰結も気にされることがない。他方で神経症においては、過去を自ら解消し、身体運動によって抑圧しようと努める。(岩波版47頁、下線は引用者が付した)

 一つ目の下線部「(なかったことにすることへの努力は)正常なものに対して際立った様相を呈する」は、原文では文頭にあり、「seine Abschattung zum Normalen findet」です。文頭にある以上、「seine」は、前文の「第二の根」を指していると思われます(もちろん「アニミズム的態度」の可能性もありますが、前文全体が「第二の根」について語っているのでこちらをとります)。さらに「Abschattung」を辞書で引くと、「1)abschattenすること 2)輪郭、シルエット」(小学館独和大辞典)、「1)輪郭、略図 2)陰影、《哲》射映」(博友社大独和辞典)とあり、動詞「abschatten」は「1)…に陰影〈濃淡〉をつけ[て際立たせ]る 2)暗くする、影にする 3)…の輪郭〈シルエット〉を描く」(小学館)、「1)輪郭〈略図〉を描く 2)陰影〈濃淡・ニュアンス〉をつける」(博友社)とあります。私はここを、「第二の根は正常なものにも影を落としている」、つまり正常者にもその痕跡が認められるという意味だと考えます。よって下線部について以下のように代案を提案します。

[正常なものが]出来事を「《起コラナカッタ》」こととして扱おうという決心の際の、なかったことにすることへの努力において、第二の根が正常なものにも影を落としている。しかし、[正常なものでは]そこから先なんの対抗策もとられることなく、出来事もその帰結も気にされることがない。(代案)

 これの次の文で下線を付した「身体運動によって抑圧」の箇所ですが、ここは「抑圧」の原語「Verdraengung」の意味に帰って、「押しのけ」「排外」「圧排」といった意味を念頭に置かないと、なかなか腑に落ちないところだと思います。日本語の「抑圧」という語は、心の奥底へ押さえつけるといったニュアンスで読んでしまいがちですので注意が必要でしょう。この段落の最後の文(引用箇所よりもはるか後ろ)の「抑圧」もそうです。

 その次の段落には「その連想的諸連関は抑圧されるか中断されて」という部分(48頁10行目)がありますが、そこで「抑圧」と訳されている語は原書で「unterdruecken」なので「禁圧」か「抑えつけ」ぐらいが良いでしょう。

 次です。

正常な集中の過程は、神経症のこのような手続きにかこつけてなされている。(岩波版48頁)

 これは主語と目的語が逆です。

神経症のこのような手続きは、正常な集中の過程にかこつけてなされる。(代案)

 この短い段落の問題点はこれぐらいだと思います。

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻) 

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

 今年のセンター試験の国語の問題は木村敏でしたので、新聞の問題文を読んでみました。私はいつも木村敏の自己論はまさしく国語の問題にすぎないという気がしてるんですが、この問題文の内容からもやはりそういう印象を受けました。

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フロイト全集19から『制止、症状、不安』第5章(2)

 あけましておめでとうございます。今年は、再び我々の生活を大きく脅かすような出来事がないことを切に願っています。

 見通しをつけづらい論文、『制止 症状 不安』の岩波版を、行きつ戻りつしながら読み進めていますが、結局、5章以降は原文と一字一句照らし合わせてみることにしました。すでにこのブログでは、5章の翻訳上の問題を取り上げたことがありましたが、原書と突き合わせてまた新たに見つかった点を紹介します。

また、強迫神経症においては、いつも、その最下層において極めて早期に形成されたヒステリー症状が見出されるようである。しかし、それ以降の形成は、ある体質的要因によって決定的な仕方で変容させられる。リビードの性器的編成は、脆弱で、あまりにも抵抗力を欠いていることが明らかとなる。自我が、自らの防衛努力を開始した際に自我が手にする最初の成果は、自我が、(ファルス期の)性器的編成が完全に、あるいは部分的に、それ以前のサディズム肛門期へと逆戻りさせられる、ということである。(岩波版40頁、下線は引用者)

 これは誤植のようで(私はどうして一度目に読んだとき気づかなかったのでしょう)、三つめの「自我が」を省いてください。なお、その直前の「成果Erfolg」は、41頁10行目で同じ事態が説明される際には「戦果」とされています。

 次の問題点に移ります。

早期小児期の自慰を続けようとする誘惑は、容赦なく厳禁され、それゆえにまた必ずしも成功せず、退行的(サディズム肛門的)表象に依拠するようになる。他方でその誘惑はまた、ファルス的編成への抑えつけようのない関与を代理表現している。(岩波版42頁、下線は引用者)

 この訳文では、「成功せず」の主語は「誘惑」であるかのように読めますが、原文は違います。

早期小児期の自慰を続けようとする誘惑は、容赦なく -だからといって必ずしも成功しないが- 厳禁され、いまや退行的(サディズム肛門的)表象に依拠するようになる。他方でその誘惑はまた、ファルス的編成の克服されていない関与を代理表現している。(代案、下線は変更箇所)

 二つ目の下線部は、何が何に関与しているかという事項関係に関する訂正と、「bezwingen」の訳語を岩波版40頁8行目と統一するという点で変更しました。

 次です。

なぜなら、まさしく抑圧された自慰が強迫的行為という形で、満足への接近をどこまでも追求するからである。(岩波版42頁、下線は引用者)

 いつものことですが、「抑圧」は「verdraengen」の定訳なので、ここの「unterdruecken」は「禁圧する」とか、岩波の全集のたとえば『精神分析概説』などで用いられていた「抑え込む」といった訳にしたほうが良いでしょう(岩波版44頁6行目の「抑圧」も同様です)。二つ目の下線部については些細な変更かもしれませんが一応直しておきます。

なぜなら、まさしく抑え込まれた自慰が強迫的行為という形で、満足へのかぎりない接近を掴み取るからである。(代案、下線は変更箇所)

 次です。

ヒステリーの防衛過程は抑圧に限定され、そこでは、自我は好ましくない欲動の蠢きを避けて、無意識の経過にこれを委ね、その運命にこれ以上関与しない。もちろん、このことが唯一正しいわけではないが、実際、私たちは、ヒステリー症状が同時に超自我の懲罰要求の満足を意味するような症例を知っている。(岩波版42頁、下線は引用者)

 下線部の日本語表現からすると、その後には、ヒステリーの防衛過程が抑圧に限定されているような例が挙げられるであろうと思えますが、そのあと実際に挙げられているのは、ヒステリーが抑圧以外の役割を果たすような例です。以下のように訂正します。

ヒステリーの防衛過程は抑圧に限定され、そこでは、自我は好ましくない欲動の蠢きを避けて、無意識の経過にこれを委ね、その運命にこれ以上関与しない。もちろん、このことが唯一正しいわけではない。というのも、実際、私たちは、ヒステリー症状が同時に超自我の懲罰要求の満足を意味するような症例を知っている。(代案、下線は変更箇所)

 次です。

かくして、一方では幼児期の攻撃的な蠢きが再び目覚め、他方では新たなリビード的蠢きの、程度差はあっても大きな部分 -最悪の場合にはその全部- が、退行によって予め敷かれた軌道に従い、攻撃的で破壊的な意図として登場する。このような性愛的要求の仮装と、自我における強い反動形成の帰結として、ここに性欲に対する闘いが、倫理的な旗幟のもとで継続される。(岩波版44頁、下線は引用者)

 下線部ですが、原文では「Infolge dieser Verkleidung der erotischen Sterebungen und der starken Reaktionsbildungen im Ich」とあり、2つ目の「der」は、「Reaktionsbildungen」が複数形ですから2格であり、「der erotischen Sterebungen」と同格です。岩波版ではこの「der」を誤って3格と解したようで、「dieser Verkleidung」と同格であるかのように訳されています。この点を改めて(ついでに私なりの訳語選択で「Strebung」を「要求」ではなく「志向」と訳して)、以下のように提案します。

かくして、一方では幼児期の攻撃的な蠢きが再び目覚め、他方では新たなリビード的蠢きの、程度差はあっても大きな部分 -最悪の場合にはその全部- が、退行によって予め敷かれた軌道に従い、攻撃的で破壊的な意図として登場する。性愛的志向と自我における強い反動形成とのこのような仮装の帰結として、ここに性欲に対する闘いが、倫理的な旗幟のもとで継続される。(代案、下線は変更箇所)

 次の箇所で今回の最後にしましょう。

この疾病を最初から支配していた、エスと超自我との間の極度に先鋭化された葛藤は、無力で媒介しえない自我がどのような方策を用いても、それに巻き込まれることから逃れようがなくなるほどに拡張することもある。(岩波版44頁、下線は引用者)

 下線部「zur Vermittlung unfaehig」ですが、「(エスと超自我とを)調停しえない」ということでしょう。

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻) 

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

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フロイト全集19から『制止、症状、不安』第4章(3)

 この論文は何度もわからなくなって元に戻って読み返しているのですが、第4章にまたひとつ翻訳上の問題が見つかりました。

・・・その後私は、第三の症例として、ある若いアメリカ人を見出した。彼において動物恐怖症は形成されなかったが、まさにこの欠落ゆえに他の症例を理解する一助となるのである。彼の性的な蠢きは、彼が読み聞かせをしてもらうある空想的な子供用の物語によって燃え立つのだったが、それは、食べることのできる物質でできている人間(ジンジャーブレッドマン)を、食べてしまうために追いかけて捕まえるアラビアの酋長についてのものだった。彼自身この食べることのできる人間と同一化しており、酋長が父の代替物なのは容易に見て取れるが、この空想が彼の自体性愛的な活動の最初の基礎となった。父親に食われるという表象は、幼児が保持する典型的かつ太古的な財産であり、神話(クロノス)や動物生態との類似は広く知られている。
 このように病的性格を緩和させる事情があるにもかかわらず、この表象の内容は、私たちにとってやはり異様なものであり、これを子供において認めることができるとは信じがたいことである。(岩波版30~31頁、下線は引用者)

 一つ目の下線部の『容易に見て取れる』は『leicht kenntlich』、二つ目の『病的性格を緩和させる』は『Erleichterung』です。後者の語には『leicht』という部分が含まれることから、一つ目の下線部を踏まえており、『容易化』といった意味になると考えるのが自然だと思います。

 ですので二段落目は次のように訳したほうがつながりが分かりやすそうです。

 このような容易化にもかかわらず、この表象の内容は、私たちにとってやはり異様なものであり、これを子供において認めることができるとは信じがたいことである。(代案、下線は変更箇所)

 すでにこの章については二度
http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-2784.html
http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-44eb.html
扱っているので、それらと併せて参考にしていただければ幸いです。気づいては付け加える繰り返しになってしまて読みづらいでしょうが、これも、私にとってはその時々に考えたことの日記でもありますのでご寛恕ください。

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻) 

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

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ヤスパース『原論』の再読(第三章第一節)

 ヤスパース『精神病理学原論』を再読して、翻訳上の問題を取り上げるシリーズの続きです。

精神的反射弓というのは主観からみれば了解的関連で、対象意識から感情や努力や反抗、最後に行為が「出てくる」のであるが、客観的にはこれに反して因果的なつながりで、外部刺激が消化加工と反応を引き起こすのである。(みすず版邦訳183頁、下線は引用者が付した)

 主観的には『了解的な関連』、客観的には『因果的なつながり』とされているわけですが、『関連』と『つながり』という日本語の二語の意味の相違は小さいので、なぜ言い換えられているのかいまひとつわかりません。原書で後者は『Folge』ですので、次のようにして対比を強調してみます。

精神的反射弓というのは主観からみれば了解的関連で、対象意識から感情や努力や反抗、最後に行為が「出てくる」のであるが、客観的にはこれに反して因果的な帰結で、外部刺激が消化加工と反応を引き起こすのである。(代案、下線は変更箇所)

 次に移ります。

だから一次的なのは妄想体験、幻覚であり、二次的なのは理性的な働きによって得られた妄想体系(健康な心によって病的な出来事が消化加工される)である。(みすず版邦訳186頁、下線は引用者が付した)

 ここで『体験』には『Erleben』という動詞形が用いられていますが、ここ以外の箇所で使われる名詞『Erlebnis』(すでに客体化された体験やその内容を示す)と使い分けられています。この相違は病識についての説明では極めて重要であって、以前にも『精神病理学総論』(岩波の三巻本)について取り上げましたhttp://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-8dd7.html

 さらに、ここでは『幻覚』も動詞形が用いられていますので、次のような代案を提案します。

だから一次的なのは妄想体験すること、幻覚することであり、二次的なのは理性的な働きによって得られた妄想体系(健康な心によって病的な出来事が消化加工される)である。(代案、下線は変更箇所)

 なお、動詞形の『体験Erleben』は、191頁では『遭遇』と訳されています。

 次の箇所に進みましょう。

決断不能、けりをつけられないなどが精神衰弱者にあり、またブロイラーの両価性というのがあって、これは早発性痴呆の患者にことにある事実で、同じものを同時に憎みかつ愛することができるとか、正しいと思いかつ誤っていると思うことができるとかいうことで、たとえば正しい見当識を持っていながら同時に妄想的な見当識を確信をもって曲げないごときである。(みすず版邦訳190頁、下線は引用者が付した)

 最初の部分に訳し落としがありますので補ってみます。ついでに、全体の文型を少し整えてみます。

決断不能、けりをつけられない、準備を整えられないなどが精神衰弱者にあり、またブロイラーの両価性というのがあって、これは早発性痴呆の患者にことにある事実で、同じものを同時に憎みかつ愛することができるとか、正しいと思いかつ誤っていると思うことができるとか、またたとえば正しい見当識を持っていながら同時に妄想的な見当識を確信をもって曲げないごときである。(代案、下線は変更箇所)

 さらに次へ進みます。

五 欲動の発展、情熱、評価、世界観、人生観。人間の何かを得ようという努力や願望を分析すると根本的な、質的に独特の、それ以上さかのぼれない究極の欲動のもとというものに至る。(みすず版邦訳193頁、下線は問題箇所に引用者が付した)

 ここは初めの部分に余分な補足があります。ただ、原語の『Anschauungen』の一語では訳しづらいのも確かです。あとの二か所は訳語の問題です。

五 欲動の発展、情熱、評価、見解。人間の何かを得ようという志向や願望を分析すると根本的な、質的に独特の、それ以上さかのぼれない究極の欲動素質というものに至る。(代案、下線は変更箇所)

 『欲動素質』としたのは原語で『Triebanlagen』ですが、ちなみにこれは185頁から186頁にまたがる部分では『もちまえの欲動』とされています。

 次が今回の最後です。代案もまとめて紹介します。

第一群は感覚的欲動で、性欲や食欲などである。(みすず版邦訳193頁、下線は問題箇所に引用者が付した)

第一群は官能的欲動で、性欲や食欲などである。(代案、下線は変更箇所)

 ここで『官能的』としたのは『sinnlich』です。

精神病理学原論 

カール ヤスパース (著), Karl Jaspers (原著), 西丸 四方 (翻訳)

みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

Allgemeine Psychopathologie Ein Leitfaden Fur Studierende, Arzte Und Psychologen (1913) Karl Jaspers (ペーパーバック - 2009/11)

出版社: Kessinger Publishing (2009/11)

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フロイト全集19から『制止、症状、不安』第3章(2)

 この論文は難しいので何度も前に戻って読み直しています。第3章の翻訳の問題点はすでに取り上げました。http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-1c6f.html

 しかし前回取り上げた以外にもいくつか訂正すべき箇所があると思われたのでもう一度検討してみます。

通常は、抑圧されるべき欲動の蠢きは孤立したままである。抑圧の行為が自我の強さを私たちに示すものだとしても、抑圧はまた一方で、自我は無力であり、エスの個々の欲動の欲動の蠢きに対し、影響を及ぼせないことを明らかにする。というのも、抑圧によって症状へと生成する過程は、自らの存在を、自我編成の外部において、それとは無関係に主張するからである。(岩波版22~23頁、下線は引用者)

 下線部「生成する」は、「geworden ist」なので完了形です。「nun」という一語も抜けています。代案は次のようになります。

通常は、抑圧されるべき欲動の蠢きは孤立したままである。抑圧の行為が自我の強さを私たちに示すものだとしても、抑圧はまた一方で、自我は無力であり、エスの個々の欲動の欲動の蠢きに対し、影響を及ぼせないことを明らかにする。というのも、抑圧によってすでに症状になった過程は、いまや自らの存在を、自我編成の外部において、それとは無関係に主張するからである。(代案、下線は変更箇所)

 次の疑問箇所です。

自我の非性化されたエネルギーは、それが結合と統一化を求める努力のうちにも自らの由来を物語っており、この総合への強迫は、自我が力強く増長すれば増長するほど増大する。このようにして、自我がまた、症状を何とかして自らに結びつけ、その紐帯を介して自らの編成に組み込むため、あらゆる可能な方法を用いて症状の異質性と孤立とを解消しようと試みるのは、納得のゆくところである。(岩波版23頁、下線は引用者)

 下線の「結合」は、原文では「Bindung」で、岩波の全集ではたいてい「拘束」と訳されています。フロイトはこれ以外の論文で、拘束されたエネルギーと拘束されないエネルギーという分類を行っていますから、ここでもエネルギーの拘束と関連した話題なのかもしれません。二つ目の下線も動詞形ですが同じことです。

自我の非性化されたエネルギーは、それが拘束と統一化を求める努力のうちにも自らの由来を物語っており、この総合への強迫は、自我が力強く増長すれば増長するほど増大する。このようにして、自我がまた、症状を何とかして自らに拘束し、その紐帯を介して自らの編成に組み込むため、あらゆる可能な方法を用いて症状の異質性と孤立とを解消しようと試みるのは、納得のゆくところである。(代案、下線は変更箇所)

 次は単なる訳し落としです。

パラノイアにおける妄想形成では、患者たちの鋭敏な感覚と空想に対し、彼らにとっては求めようがない一つの活動領野が切り開かれる。(岩波版25頁)

パラノイアにおける妄想形成では、患者たちの鋭敏な感覚と空想に対し、彼らにとってほかでは求めようがない一つの活動領野が切り開かれる。(下線は追加箇所)

 前回の訂正箇所と合わせて、少しでも読みやすくなると良いんですが。

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻) 

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

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テレンバッハ『メランコリー』(11)

 この著作で紹介されている症例をひとつずつ取り上げてきたシリーズの11回目です。今回は、あまり大きな改訳が必要な箇所は含まれないので、下線で変更個所を示すだけにします。みすず版邦訳の問題は主に、「精神病」という訳語が用いられていないことにあります。

〈症例11〉薬局助手のエーファ・Sは人間関係においてはいつも -なかでも道徳的なことがらに関しては- 大変きちんとしていた。《信頼を裏切るなどということはしたくないのです -それがあたりまえだと思ってきました》。子供のころから、自分とはなんの関係もないことでとがめられたりした場合にも、ひどく自信のない気持になるのだった。自分がなにか罪を犯したときには、自分を《けっして許せない》し、そのことを《けっして忘れられない》のだった。《何年かたってからでも、自分の罪のことがどうしても思い出されてくるのです》。実際に犯した罪状のひとつとしては、22歳のとき(つまり30年も前に)最初の婚約者と肉体関係をもったということが挙げられる。それ以来この罪の思い出は、折にふれて、大変な失敗をしてしまったという気持を伴って現れてくる。また終戦直後の窮乏時代に、妊娠を心配して、(夫の勧めで)椅子にわざと激しく腰をおろすという手法で生理を誘発しようとしたこと -それからさらに、《アンケートに嘘を書いて》、それが公務員である夫の地位にかかわるかもしれないと思ったことなども思い出された。
 メランコリーから回復した後に、彼女自身、これらの出来事について次のような意見を述べている。《他の人がそのようなことをする場合には、見過ごすことができるのです。でも私自身は、若いころから身についている義務感のために、自分のこととなるとそんなふうには見られないのです。そんなことは私の性質に反することですから(略)》(略)
 さて、メランコリーの中では、あらゆる過失がグロテスクに形を変えて彼女の口から語られる。14歳になる彼女の息子は糖尿病にかかっているが(これは事実であった)、これは最初の婚約者との不義の関係に対する神罰である。自分は子供をおろしたし、 -《心の中》だけではあったが- 浮気をした(事実彼女は、夫以外のある男性に《とても憧れて》いたことがあったが、その男はこのことをまったく知らなかった)。彼女が病院に入っているのは、自分の人生を台無しにしたからだ。というわけで、彼女は自宅で両手首の動脈と頸動脈とを切ったのだった。
 三回の入院に際しては、いつもきまってこんな風に妄想的に加工された負い目や罪の主題がメランコリー性精神病の中心におかれていた。その他、何よりも、重篤な抑止症状が彼女のメランコリー性精神病の特徴をなしていた。
 この症例においては、メランコリーの中へと陥って行く筋道が、前の症例ほど細部にわたってわかっていない。ただ、二年来くすぶっていた夫との葛藤が急激に先鋭化した時点で、精神病が始まっていることだけは確かである。彼女は夫の極端な性的願望のすべてに応じなかったため、夫は他の女性と関係をもった。このような状態は、1958年のクリスマスの前に危機的な局面を迎えた。3回目のメランコリー相がはじまったのはそのころである。(みすず版邦訳177~8頁、下線部は変更箇所)

 この症例の性格については、整理整頓とか仕事熱心さとして現れるような几帳面さについての言及はなく、人間関係上の道徳に関する几帳面さのみが紹介されています。症例記載をみる限り、他人への親切に努めるというわけでもありませんし、何らかの尽力を日常的に必要とするものは何もないようなのです。これは、テレンバッハの他の症例記載や理論的説明とは異なるものという印象を受けます(ここまでほかの症例では、日本で普通に論じられるメランコリー親和型と、その原典とされるテレンバッハ理論との相違について述べてきましたが、この症例は、そのテレンバッハ理論とも違う気がします)。

 このように自らの道徳的義務感を強調して訴える症例からは、私はどうしても、「自分はこれほど道徳的な人間である」という言外の自己愛的な主張を読み取ることも可能ではないかと思えてきます。

 あるいは、自らのかつての不義の関係や浮気にまつわる訴えを語ることは、妄想のなかで夫の仕打ちに対して復讐しているとの読みも可能と思います。夫の指示通りに月経誘発したことを自責したり、「夫が公務員の地位を失うのではないか」と訴えたりというあたりにも夫への攻撃性が隠れていそうです。

メランコリー [改訂増補版]

H. テレンバッハ(著), 木村 敏 (翻訳)

出版社: みすず書房; 改訂増補版 (1985/12/5)

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ヤスパース『原論』の再読(第二章第二~三節)

 ヤスパース『精神病理学原論』について翻訳の疑問点の続きを取り上げていきましょう。

こういう発作の非常に強度のものである癲癇ようの痙攣発作は、稀に感情激動の後、あるいは精神衰弱や精神病質にひとりでに、特発的に起こることがある。(みすず版邦訳165頁、下線は引用者)

こういう発作の非常に強度のものである癲癇ようの痙攣発作は、稀に情緒的激動の後、あるいは精神衰弱や精神病質に自発的に起こることがある。(代案、下線は変更箇所)

 ここで「自発的」としたのは「spontan」です。なお、これについては前回も取り上げましたので参照してください。

 次です。

ぼやぼやしている痴呆患者のいつもまったく空虚な無表情の顔(みすず版邦訳171頁、下線は引用者)

ぼやぼやしている早発性痴呆患者のいつもまったく空虚な無表情の顔(代案、下線は変更箇所)

 ここは「Demenz」ではなく「Verbloedet」なので、認知症の老人患者のことではなく統合失調症による解体患者のことですから、区別するには「痴性化患者」とでもするか、あるいは次に挙げる箇所にならって、「Verbloedung」「Verbloedet」を「早発性痴呆」「早発性痴呆者」と訳すことに決めてしまうのが良いと思います。

さらに早発性痴呆の特徴的な筆跡として、筆跡はきちんとしているのに同じ文句や文字の反覆があり、衒奇的情動的にひどく模様化して飾り立てるものがある。どの器質的痴呆状態でも筆跡はついに全く形のないなぐり書きとなって崩れてしまう。(みすず版邦訳171頁、下線は引用者)

さらに早発性痴呆過程の特徴的な筆跡として、筆跡はきちんとしているのに同じ文句や文字の反覆があり、衒奇的情動的にひどく模様化して飾り立てるものがある。どの器質的認知症状態でも筆跡はついに全く形のないなぐり書きとなって崩れてしまう。(代案、下線は変更箇所)

 私の代案では「Demenz」を「認知症」として違いを強調してみました。

 次の短い引用は、本文ではなく小見出しです。

五 行動と生活態度 (みすず版邦訳175頁)

 この小見出しは原文では「Benehmen, Handlungen, Lebensfuehrung」と三語になっています。みすず版でははじめの二つを「行動」という同じ語でまとめてしまっており、この後の本文でも区別していません。じつは本文の第二段落とその註で「行動」と訳されているのは「Benehmen」、それよりも後の訳文で「行動」と訳されているのはほとんどが「Handung」というふうに使い分けられています。それらを読む限り、意味的にも区別すべきといえそうで、前者の「Benehmen」の訳としては「立居振舞」とか「挙措」という感じがいいんじゃないかと思います。

五 立居振舞、行動と生活態度 (代案)

 このあと2段落目とその註の「行動」は「立居振舞」(または「挙措」)と読み替えてください。そのあとに出てくる「行動」という語のなかにも、読みかえるべき箇所はぽつぽつとありますが、きりがないので割愛します。

 次はまたしても「痴呆」という訳語についてですので、代案もまとめて紹介しましょう。

また痴呆患者は社会的に適応できず、浮浪者になる運命になり、鬱病患者は不安のため目的もなく徘徊し、遁走の状態では特にこういうことが著しい。
 自殺は不安とか、鬱病患者の厭世や絶望とか、痴呆に導く病的過程の突然の衝動などによる。(みすず版邦訳177頁、下線は引用者)

また早発性痴呆者は社会的に適応できず、浮浪者になる運命になり、メランコリー者は不安のため目的もなく徘徊し、遁走の状態では特にこういうことが著しい。
 自殺は不安とか、メランコリー者の厭世や絶望とか、早発性痴呆に導く病的過程の突然の衝動などによる。(代案、下線は変更箇所)

 今回は次が最後です。

いろいろ細かいこと全部の結果をみると、外面的にみれば、あらゆる精神的な病気の結果は現実からの遮断であり、適応不足であり、非社会的な社会的態度である。(みすず版邦訳178頁、下線は引用者)

いろいろ細かいこと全部の結果をみると、外面的にみれば、あらゆる精神的な病気の結果は現実からの遮断であり、適応不足であり、非社会的あるいは反社会的な態度である。(代案、下線は変更箇所)

 非社会的と反社会的という区別は、たとえばみすず版邦訳の372頁にもあります。

精神病理学原論 

カール ヤスパース (著), Karl Jaspers (原著), 西丸 四方 (翻訳)

みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

Allgemeine Psychopathologie Ein Leitfaden Fur Studierende, Arzte Und Psychologen (1913) Karl Jaspers (ペーパーバック - 2009/11)

出版社: Kessinger Publishing (2009/11)

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医療観察法ムラ

 医療観察法病棟内で事件があったとのニュースがありました。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111104-00000031-mai-soci

 詳細は分からないものの、そもそも無理のある法律やガイドライン・病棟構造のなかで、治療を受ける患者や家族、その治療を行っている末端の担当者にしわ寄せが及んでいるという印象を受けます。

 原発事故以降、「原子力村」とか「御用学者」といった言い方がされることがありますが、医療観察法にも、「医療観察法村」があるように思えます。“非定型抗精神病薬の単剤使用と認知行動療法の組み合わせによって統合失調症は治りうる病気になった”、というフィクション(=治療可能神話)で官僚や政治家と結託して(あるいはだまして?)法律・ガイドラインを制定し、いくつかの国公立病院が、患者一人あたり一般の精神科医療の3倍もの診療報酬を受け取り、さらにその中心にいる医師をはじめとする病棟スタッフは、新しい制度のもとに集められた患者たちを論文や学会発表のネタにもしているわけです。医療観察法に適するかどうかの鑑定を引き受ける医師はかなりの個人収入も得られます(従来は起訴前鑑定だけで済んでいた患者が、もういちどこんどは医療観察法鑑定を受けるわけですから、一人の患者につき少なくとも二度の鑑定料が公金から医師たちに支払われるようになりました)。

 医療観察法で治療中の患者には、実際には結構な数の自殺とか、まれには他害行為の再発も起こっているらしいですが、ムラの中ではひそひそと語られているらしいものの、(私なぞは結構ムラの近くにいるのですが)詳細が全然明るみに出てきません。法律・ガイドラインでは、医療観察法の先進的な知見を今後広く一般医療に広めていくようなことが書かれていますけれど、かなりの隠蔽体質です。

 ガイドライン作りには医者のほか心理士などが参加しているようですが、(過去にここでもhttp://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_22d3.html書きましたが)よくできているとはいえませんし、精神病のことがわかっていると思えません。まるで患者は妄想をいつでもその気になれば捨てられるのに好きこのんで思い込んでいて、治療者と話し合えば主張を撤回するかのような書かれ方なのです。

 治るようになったという前提でできあがっていますから、医療観察法に基づく治療を行っても改善しなかった患者をどうするかという規定はありません。他の病院に転入院を引きうけてもらえなければ、医療観察法病棟にそのまま長期入院となっていくしかありませんので、末端のスタッフが、上層部からの圧力を受けて、各患者がもともとかかっていた病院に転入院を頼み込むなどして必死に病棟を回転させています。

 今回の場合、一度目の事件はすでに標準的な病院で入院治療を受けていたなかでの出来事だったのに、その患者に医療観察法病棟での治療が命令され、入院直後に二度目の殺人事件が起こったということになりますが、はたして医療観察法入院ではこれまでの治療に比べて治療効果の上乗せがどれだけ可能だというのでしょうか?。看護師として普通に看護学校や看護大学で教育されたスタッフが、そうした患者を隔離せずに安全に観察することが可能だという前提は現実的でしょうか?。そもそも医療観察法では鑑定を行った病院から治療病棟へと必ず転院させるシステムになっています(今回は千葉から神奈川への転院の2日後の出来事でした)が、見知らぬ土地とお互いに慣れないスタッフのもとへと転院させることで状態悪化の危険が増すというデメリットはどう考えられているのでしょうか?。そういえば、数年前に医療観察法病棟から外出中の患者がスタッフから離れて自殺した例がニュースになりましたが、それも遠隔地への入院患者でした。遠隔地へ入院させて家族や地域からひき離すといったデメリットを超えるほどの治療上のメリットがないことは、もうそろそろ見えてきているのではないでしょうか?。

 まあ医療観察法ムラの人たちはこの機会に、従来の治療と比べて別に治療成績なんか優れていないし、安全も守れていないのに多額の公金をつぎ込んでいることを、まずは広く情報開示するべきでしょう。

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ヤスパース『原論』の再読(第二章第一節)

 今回も、ヤスパース『精神病理学原論』の再読から翻訳などについて気づいた点を挙げていきましょう。第二章全体では多すぎるので今回はその第一節で区切ります。

感覚器による求心性の感覚的の伝導と、中央における過程と、遠心性の運動的な効果器という三つの分け方では、精神的なものは何もない反射弓というのが神経系の生理学の基本概念である。(みすず版邦訳123頁、下線は引用者)

感覚器による求心性の感覚的の伝導と、中央における過程と、遠心性の運動的な効果器という三つの分け方では、あらゆる精神的なもののずっと下方にあるこの反射弓が神経系の生理学の基本概念である。(代案、下線は変更箇所)

 下線は原文で「ganz unterhalb alles Seelischen」です。「unterhalb」ですから「下に」という意味ですし、それが「ganz」(=全く、すっかり)という副詞で強調されています。

 次です。反応試験についての文脈で、理解試験、連想試験、学習試験、供述試験、作業試験、と5つ列挙している箇所の最後の部分です。途中「こういう試験」とは、上記5種の試験すべてを指していると思われます。

五 加算や、測りうる運動を行う課題、この場合できた成績が測られ、それがいろいろの条件でどう変わるかをみる、作業試験 -こういう試験はどれも精神的な反射弓の各節全体をしらべるこのような成績が出てくるには非常に多くの機能が侵されないでいなければならない。(みすず版124頁、下線は引用者)

五 加算や、測りうる運動を行う課題、この場合できた成績が測られ、それがいろいろの条件でどう変わるかをみる、作業試験 -こういう試験はどれも精神的な反射弓全体の部分部分をしらべる成績が出てくるには非常に多くの機能が侵されないでいなければならない。(代案、下線は変更箇所)

 次です。

第一節 精神物理的装置の作業(作業心理学)(みすず版邦訳127頁)

 「精神物理的」という訳語はこの後何度も出てきますが、普通に考えて「精神生理的」でしょう。みすず版訳文でも、124頁では「精神生理学的」とされてもいます(ただしそこでの「学」の一文字は余計です)。

 次は単なる訳し落としと思われる箇所です。

狭義の理解というと、失認とはっきり区別はできないが、単に機能的な障害で、同時にあらゆる感覚領域に現れ、精神生活全体と関連しているものをいう。(みすず版邦訳129頁、下線は引用者)

狭義の理解の障害というと、失認とはっきり区別はできないが、単に機能的な障害で、同時にあらゆる感覚領域に現れ、精神生活全体と関連しているものをいう。(代案、下線は変更箇所)

 なお、ここらへんでは「Ausfassung」の訳語として「理解」が用いられていますけれど、みすず版の138頁あたりでは「把握」と訳されるように変わってしまいます。

 次です。

精神的なものは無数の要素に分たれて、あとからあとからと鎖のようにつながって意識の中を通って行くと考えられる。この要素は何らかの意識外の素地を残しておくので、これによってその要素はまた新たに意識されるようになる。精神的なものは皆外からの刺激が、このような素地を動かすことによって現れるのであり、こういう素地は一部は以前の刺激から得られたものである。(みすず版邦訳132頁、下線は引用者)

精神的なものは無数の要素に分たれて、あとからあとからと鎖のようにつながって意識の中を通って行くと考えられる。この要素は何らかの意識外の素地を残しておくので、これによってその要素はまた新たに意識されるようになる。精神的なものは皆外からの刺激か、またはこのような素地の現勢態化か、いずれかによって現れるのであり、こういう素地は一部は以前の刺激から得られたものである。(代案、下線は変更箇所)

 「現勢態化」とした箇所のもとの語は「Aktualisierung」ですが、ほかに良い訳は思いつきませんでした。

 また、「素地」と訳されているのは「Dispositionen」です。普通の訳では「素因」となりますが、この文脈では、フロイトの概念でいえば「痕跡」のようなものを指しているようで、たしかに「素因」ではぴったり来ないので「素地」もそれなりに良い訳語と思います。ただ、次のような箇所(みすず版140~141頁)にも同じ語がつかわれているのに統一されていないのが残念です。

・・・第二の場合には連合はできるようになっているが「分裂」があるのであって、このものはヒステリー機構によるものであるので、後で詳しく述べる。[→連合的な素地] 

このように、よくみられる普通の記憶障害でも、再生能力と、記憶の大きな貯蔵庫と、記銘力を分けることができる。[→記憶の素地]

記憶の貯蔵は時のたつにつれて消失し、われわれは忘れるのである。[→記憶の素地]

 次です。

精神病者の非常に多数の、奇妙な運動現象は二つの側からしらべられる。患者の異常な精神生活と意志意識の正常な結果が妙な運動として現れることもある。こういう関連がわかれば、その運動は「行為」や「表情運動」であって、それをわれわれは了解するのであり、たとえば喜びのわき出る躁病患者の運動欲や、不安な人のじっとしていられない状態のごときである。(みすず版邦訳143頁、下線は引用者)

 144頁の「運動性興奮の状態は運動心迫というが・・・」と訳語を統一して、下線部は「運動心迫」の一語に変更するのが良いでしょう。

 次です。

特発性に談話が出てきて、自我はそれに対して傍観者の態度をとるものは、現象学の章の欲動と意志の項の最後に、ある一人の患者の唸りの状態のところで述べた。(みすず版邦訳152頁、下線は引用者)

 はじめの「特発性」は原語で「spontan」で、みすず版146頁などに合わせて「自発性」が良いでしょう。二つ目の下線部は、原書では、「72ページに」と、頁番号(もちろん原書の)を明示しています。みすず版は、おそらく訳文作成の段階では書籍化されるときの頁番号が未定だからゆえの表現でしょう。これに対応する箇所は、みすず版邦訳では96~97頁にある、シュレーバー回想録からの引用部分です。これは「欲動と意志の項」のなかでは最後の引用文ではなく最後から二番目の引用文ですから、上のみすず版邦訳は不正確でもあります。訂正すると以下のようになります。

自発性に談話が出てきて、自我はそれに対して傍観者の態度をとるものは、96~97頁の、ある一人の患者の唸りの状態のところで述べた。(代案、下線は変更箇所)

 ちなみにシュレーバー(現代の診断基準でも日本の精神病理学者の診断でも、ふつう統合失調症とされます)の回想録はこの本で何度も引用されていますが、ヤスパースは彼を「パラノイア者」としています。

 次は上の関連箇所です。

カンディンスキーのいうところによると、時に患者は語誦をしようという気が強迫的に起こることを強く感じることもある(これは上に述べたドリニンの唸りの状態や特発性の談話と同様のものである)。(みすず版邦訳153頁、下線は引用者)

カンディンスキーのいうところによると、時に患者は語誦衝動が強迫的に起こることを強く感じることもある(これは上に述べたドリニンの唸りの状態や自発性の談話と同様のものである)。(代案、下線は変更箇所)

 なお、この「語誦」は巻末索引では「語唱」という表記になっていますし、173頁などでは本文でも後者の表記が使われています。

 ついでにいえば、この前後には「談話欲」という表現もよく出てきますが、他の箇所と統一性を図るなら「談話心迫」とすべきです。

 では次です。

 疲労性、回復性、練習能力、練習根気、転導性、習慣性、気乗りなどという素因は精神物理的機構の基本性質で、クレペリンは人格という。(みすず版邦訳158頁)

 疲労性、回復性、練習能力、練習根気、転導性、習慣性、気乗りなどという素質は、精神生理的機制の基本性質(クレペリンは人格という)として理解すべきである。(代案)

 「素因」とか「精神生理」についてはすでに述べました。もうひとつ、「機構」は、ほとんどの箇所で「Mechanismus」の訳語なので「機制」が良いと思います。精神医学上の慣用として、たとえば「ヒステリー機制」のほうがしっくりきます。

 全体を通しての問題としては、Konstitution、Disposition、Anlage、Veranlagungといった語が、「素因」「素質」「素地」「体質」「でき」「たち」「もちまえ」などの訳語に、ほとんど規則性なしに対応させられているので、文脈的なつながりが見えづらい箇所が多々あると感じました。私の語感としては上の四つにはそれぞれ順に「体質」「素因」「素質」「資質」とあてておくとだいたいの箇所で意味が通ると思います。

精神病理学原論 

カール ヤスパース (著), Karl Jaspers (原著), 西丸 四方 (翻訳)

みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

Allgemeine Psychopathologie Ein Leitfaden Fur Studierende, Arzte Und Psychologen (1913) Karl Jaspers (ペーパーバック - 2009/11)

出版社: Kessinger Publishing (2009/11)

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