2008年8月19日 (火)

フロイト全集8から『機知』8

 些細と思われるかもしれませんが訳文を読んで気になる箇所を取り上げます。

 すなわち、この第一のグループと第三のグループ、つまり語の連想によるものの連合の代替と・・・(岩波版152頁)

 同じ語を「連想」と「連合」というふうに訳し分けている理由がわかりません。私はそもそも「連想」と訳されている語はつねに「連合」と訳すべきだと思っているので特に気になった箇所です。

 訳語について言えば、この2頁前など多くの箇所に「ひこばえ」という語が使われています。これは、原文での「Abkoemmling」の定訳として毎度使われているようですが、辞書を引いても、①「子孫」「後裔」、②化学用語の「誘導体」、が出てくるだけです。私の推測では、この「ひこばえ」とは、元の独単語「Abkoemmling」の仏訳が「rejeton 新芽、ひこばえ」であることに由来する訳語でして、仏訳からの重訳ならともかくフロイトから直に訳す際にこの訳語を選ぶ理由は見あたりません。

 つぎは訳文の表現についてです。

さて、われわれは、機知の技法として記述してきたもの -ある意味では続けてそう呼ばざるを得ないが- は、むしろ機知が快を取り出す源泉であることに気づいている。そして、同じ目的をもったの諸方式が同じ源泉から汲み出していることを、奇異には思わない。しかし、機知に独自の、機知にのみ属する技法は、快を廃棄しかねない批判からの異議に対して、快をもたらすこれらの手段の使用を確保する、その方式にある。(岩波版155頁)

 私には文意が取りづらかったので、下線部をちょっと訳し換えたいと思います。

さて、われわれは、機知の技法として記述してきたもの -ある意味でそう呼び続けざるを得ないが- は、むしろ機知が快を取り出す源泉であることに気づいている。そして、同じ目的をもったの諸方式が同じ源泉から汲み出していることを、奇異には思わない。しかし、機知に独自の、機知にのみ属する技法は、快を廃棄しかねない批判からの異議に抗して、快をもたらすこれらの手段の使用を確保する、その方式にある。(拙案)

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03)

2008年8月13日 (水)

フロイト全集8から『機知』7

 前の記事へのコメントで私は、「クラカウへ・・・」という機知(ご存じない方は前の記事を参照してください)の解説部分(岩波版138頁)について、「小話の解釈にあわせた訳語、つまり話がわかりづらく複雑になるような訳語を故意に選択している箇所が何カ所かある」と書きました。それらはどれも完全な間違いとはいえない微妙な感じなのですが、少し見ていきましょう。

 この貴重な小噺は並外れた小うるささSpitzfindigkeitの印象を与えるが、不条理の技法を用いていることは明らかである。二番目の男は、自分はクラカウに行くと告げ、実際にそれが目的地だからといって、嘘つき呼ばわりされたのである。この強力な技法的手段 -不条理- は、ここではしかし、「反対物による提示」という別の技法と結びついている。というのも、最初の男の黙認されたunwidersprochenen主張によれば、二番目の男は真実を言っているときに嘘をついていることになり、嘘によって真実を述べているからである。けれども、この機知のより真剣な内容は、真実の条件についての問いである。この機知はまたある問題を指し示し、真実という概念をわれわれはしょっちゅう使っているけれども、その内実が不確かだということをうまく利用している。物事をありのままに記述しているが、聞き手の受けとめ方に無関心であるとき、それは真実なのだろうか? それとも、それは屁理屈的jesuitischな真実に過ぎず、本当の真実性とはむしろ聞き手のことを慮り、自分が持っている知識の忠実な写しを伝えるところにあるのではないのか。(岩波版138頁:独単語はここに引用する際に付加した)

 まず「Spitzfindig(keit)」ですが、小学館の大辞典では「1事細かに区別する、小事にこだわる、つまらないことにやかましい、むやみに細かい、屁理屈をこねる。2抜け目〈如才〉のない、利口な、明敏な」、博文社の(相良の)辞書では「1屁理屈をこねる、小うるさくとがめ立てする、揚げ足取りの、詭弁を弄する、狡猾な。2気の利いた、明敏な」とあります。岩波では「小うるさい」としていますが、「小うるさい」を国語辞典でも引いてみましたけれども、独和に挙げられている意味にぴったりきませんし、文脈にも合っていません。「細部拘泥」または「屁理屈」が良いのではないでしょうか。

 「unwidersprochenen」ですが、小学館では「反論〈反駁〉されていない」、相良では「反対〈否認〉されない」です。「黙認」という日本語は、過失とか誤謬を見逃すという意味が強いと思うのですが、この小噺とその解説では、最初の男の主張は決して誤謬とは見なされていません。辞書にある原義通り、「反論されていない」という訳が適当と思います。

 次の下線部は、邦訳で句点が打たれている箇所に原文では「:」が打たれています。ですので、句点の後に、「すなわち」とか「というのは」といった語を挟んでおくのがよいでしょう。

 そして最後の「jesuitisch」ですが、文字通りには「イエズス会の」「イエズス会士のような」といった意味ですが、その含意は、相良にはありませんが小学館では「陰険な」「ずるがしこい」「狡猾な」とあります。名詞形「Jesuitentum」「Jesuitismus」には、小学館では「(イエズス会士によく見られると言われる)目的のためには手段を選ばぬという考え方(ずるがしこさ)」、相良では「イエズス会の教義(目的は手段を神聖にすると説く);イエズス会的な陰険(狡猾)さ」としています。英和・仏和なども参照すると、「詭弁」「偽善」「陰険さ」「老獪」「猫かぶり」「表裏あること」などの意味が載っています。これをふまえてフロイトの文脈に戻ると、「jesuitisch」という語は、(『クラカウへ』という答えのように)物事をありのままに記述しているような真実について言われていましたから、これを「屁理屈的」としたのでは意味が取りづらいと思います。この文脈では「表裏ある」という意味が最も近いのではないでしょうか。

  この貴重な小噺は並外れた屁理屈の印象を与えるが、不条理の技法を用いていることは明らかである。二番目の男は、自分はクラカウに行くと告げ、実際にそれが目的地だからといって、嘘つき呼ばわりされりことに甘んじなければならない。この強力な技法的手段 -不条理- は、ここではしかし、反対物による提示という別の技法と結びついている。というのも、最初の男の主張 -これは反論されていない- によれば、二番目の男は真実を言っているときに嘘をついていることになり、嘘によって真実を述べているからである。けれども、この機知のより真剣な内容は、真実の条件についての問いである。というのは、この機知は[不条理、反対物による提示に加えて]さらにひとつ問題を指し示し、われわれがしょっちゅう使っているある概念の不確かさをうまく利用している。物事をありのままに記述しているが、聞き手の受けとめ方に無関心であるとき、それは真実なのだろうか? それとも、それは裏面を隠した真実に過ぎず、本当の真実性とはむしろ聞き手のことを慮り、自分が持っている知識の忠実な写しを伝えるところにしかないのではないのか。(拙訳)

 訳文としてはほとんど変わりないのですが、私にとってはかなりニュアンスが明瞭になり、「クラカウへ」という発言は相手の受けとめ方を考慮せずに述べられたものであること、裏に本心を隠していることがはっきりしたと思います。

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03)

 医療観察法の鑑定書をひとつ仕上げたのでワインで独り祝杯を上げながら書いています。今後は、この鑑定書を参考にして審判され、被鑑定者は入院または通院または不処遇を命じられるわけですが、入院または通院になった場合には、治療を担当する医療機関に鑑定書が送られることになります。

 私の手元には、警察での供述調書や被害者の写真、過去の医療機関での診療録の写しなどが鑑定のために送られてきているのですが、将来治療を担当する医療機関にはそれらの資料は送られません。なので、今後の治療に役立つと思われる事柄は、鑑定書のなかに転記しておいた方がいいだろうと私は思うので、ついつい鑑定書が長くなるのですが、そうすると審判に参加する方々にとっては、審判には不必要な情報がたくさん入った冗長なものとなってしまう、というジレンマに悩みます。

2008年7月28日 (月)

フロイト全集8から『機知』6

 白状すると、次の機知は私にはよくわかりません。

 あるガリツィア地方の駅で二人のユダヤ人が出会った。「どこへ行くのかね」と一人が尋ねた。「クラカウへ」と答えた。「おいおい、あんたはなんて嘘つきなんだ」と最初の男がいきり立って言う。「クラカウに行くと言って、あんたがレンベルクに行くとわしに思わせたいんだろう。だけどあんたは本当にクラカウに行くとわしは知っている。それなのになぜ嘘をつくんだ?」

 これのおもしろさもわからないし、フロイトの解説もピンとこないのです。翻訳の問題なのかどうか原文と見比べてみることにしましょう。

 まず、読解にほとんど影響のない些細な点ですが、二人が出会ったのは正しくは「駅で」ではなく「駅の列車で」です。

 むしろ主たる疑問点は、「クラカウに行くと言って、あんたがレンベルクに行くとわしに思わせたいんだろう」の部分、原文では「Wenn du sagst, du fahrst Krakau, willst du doch, dass ich glauben soll, du fahrst nach Lemberg.」の部分です。

 岩波版の訳だと、「クラカウに行くと言うことによって、あんたはレンベルクに行くとわしに思わせたいんだろう」という意味に感じられますが、原文では単に、「あんたはクラカウに行くと言うが、一方で[内心で]あんたは、レンベルクに行くとわしに思わせたがっているんだろう」という意味にしか取れないように思えます。

 岩波の訳文のような意味に取れば、この小話は、現実にはあり得ないほど非常にまわりくどい論理から成り立っていそうなものになりますが、その後に付されたフロイトの簡潔な解説とはあまりうまく合致していないように思います。

 私が読んだような意味だとすれば、この小話は、一般に渋々真実を語るような状況にいくらでも符合しうるありふれた事態ということになります。フロイトが付け加えた解説も、一般に「真実」(あるいは「嘘」)という語が、事実への忠実さを問題にしているか、本心への忠実さを問題にしているか、といった疑問を投げかけているにすぎないように感じられ、この解釈に釣り合ったものという印象を受けます。

 ちなみにラカンのセミネール5巻「Pourquoi me dis-tu que tu vas a Cracovie quand tu vas vraiment a Cracovie?」(原書p105、邦訳上巻153頁)は後者の解釈のように読めます。おもしろいことに、ラカンのセミネールの内容をかなり忠実に要約・紹介しているM.サフアン著『Lacaniana』なる本では、セミネール5巻の当該箇所を引用する際に、「Pourquoi me dis-tu que tu vas a Cracovie pour que je croie que tu vas a Banberg, alors que tu vas vraiment a Cracovie?」とあえて訳し換えて、前者の解釈になっています。

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03)

 ところでこの小話ですが、話題が鉄道旅行についてではなく、個人の欲望が直接ぶつかり合う場面、たとえばお見合いパーティーやグループ交際のような場面を想定してみると、岩波訳の構文解釈のままでも、ナンセンスとか深遠という印象は多少薄らぐように感じます。例えば:

「どの娘に行くのかい」と一人が尋ねた。「A子に」と答えた。「おいおい、あんたはなんて嘘つきなんだ」と最初の男がいきり立って言う。「A子に行くと言って、あんたがB子に行くと俺に思わせたいんだろう。だけどあんたは本当にA子に行くと俺は知っている。それなのになぜ嘘をつくんだ?」

2008年7月22日 (火)

フロイト全集8から『機知』5

 岩波版92-93頁に挙げられている例は、「伯爵の同性愛という既に周知のテーマへのほのめかし」についてですが、次の箇所については、訳文では同性愛や肛門性愛へのほのめかしの所在がわかりにくい気がします。

「たとえ芸術の女神たちが彼を好まずとも、彼は言葉の守護神を手中にしています。というより力で言うことをきかせています。なぜならこの守護神の自ずからなる愛を得ることができず、この若者のこともしつこく追い回さなければならないからです。彼は外的形式しか捉えられず、それは見事に円熟しているとはいえ高貴な表現とは無縁なのです」。(岩波版93頁)

 まず、「言葉の守護神Genius der Sprache」ですが(辞書では「言霊」という意味も載っていますが)、これは男性形であって、「芸術の女神Muse」という女性形で示される神と対比されていることが目を引きます。

 次に、「力で言うことをきかせています」は「Gewalt antun」ですが、これには、「乱暴する」「(女性に)暴行する」といった意味が辞書に載っています。

 「しつこく追い回さなければならずnachlaufen」は、後ろから追いかけることですから「尻を追い回す」というニュアンスを隠しているでしょうし、「外的形式aeusseren Formen」はむしろ「外形」であって、「見事に円熟しているとはいえtroz ihrer schoenen Rundung」はお尻が「丸みを帯びているとはいえ」ということでしょう。

 これらが、伯爵の文芸に対する批評とも受け取れる表現のなかに散りばめられているように訳さなければなりませんので、うまく訳すことはかなり難しく思います。拙訳も成功しているとは思えませんが、以下のようになりました。

「たとえ芸術の女神たちが彼を好まずとも、彼は言葉の守護神を手中にしています。というより彼を[性的に]暴行しています。なぜならこの守護神の自ずからなる愛を得ることができず、この若者をもしつこく後ろから追い回さなければならないからです。彼には、表面的な形式[=外形]しか捉えられませんが、それは見事な円熟[=美しい丸み]を帯びているとはいえ、けっして高尚にあらわれることのないものです」。(拙案)

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03)

 この機知から私は、80年代英国の男性4人組ロックバンド「ザ・スミス」の名曲『ハンド・イン・グローブ』の歌い出しを思い出しました。女性ものの花柄シャツを着て身をくねらせながら甲高い声で歌うボーカリストと、ずば抜けた美形のギタリストが中心メンバーで、その歌詞の内容などから、メディアからは同性愛を疑われ続け、一方でメンバーはそのように疑うメディアの方をからかい続けていたらしいです。で、曲の歌い出しはこうです。

Hand in glove / The sun shines out of our behind
No, it's not like any other love / This one is different / Because it's us!

 「Hand in glove」は成句で、辞書によれば「親密な」という意味です。

 次の「The sun shines out of our behind」は、辞書には「the sun shines out of sb's ass」「think the sun shines out of sb's bum(behind, backside, bottom, ass, asshole)」などの形で載っており、「誰々をこの上ないものと思う」という意味の成句です。所有代名詞が「our」ですから、自分たちをこの上ないものと思う、ということになりますし、それに続く詞も二人の愛は特別なものであることを歌い上げています。ここでの「behind」とは、辞書で「ass」などの語と並んでいることからもわかるように肛門のことであり、直訳すれば「誰々を、その肛門から太陽が差してくるぐらいに素晴らしいものと思う」ということです。

 歌詞カードの訳詞では無難に男女恋愛についての曲として訳されていたように記憶していますが、この曲ではアーティストが自ら男性間の肛門性愛をほのめかした言語遊戯を楽しんでいるのだと私は考えています。

 こう考えてくると、はじめの「Hand in glove」という成句についても、元々の意味にかえって、「手袋と手のようにぴったり合っている」という意味に、すなわち、何かと何かが、鍵と鍵穴のような、凸と凹との密着した関係になっているという意味に考えたくなります。

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2008年7月19日 (土)

フロイト全集8から『機知』4

 今回取り上げる箇所は、これまでに取り上げてきたものよりはかなり小さな翻訳上の問題です。

リップスにおいては、「機知的な列挙」(「配列」)の例の中に、ハイネの「学生、教授、俗物、家畜」に最も近いものとして、次の詩句が見いだされる。
「フォークを使い、骨も折って、母は彼をスープからつまみ出した」。リップスはこれを解説して、まるで骨折りがフォークと同じく道具であるかのようだ、と付け加えている。(岩波版81頁)

 原文では、「Mit einer Gabel und mit Mueh' zog ihn die Mutter aus der Brueh'.」となっており、「フォーク」と「骨折り」の前に置かれる前置詞「Mit」が二つ並置されています。それに対して、訳文では「フォークを使い、骨も折って」とされているので、フロイトが述べる「機知的な列挙」という 印象を与えません。なかなか難しいですが、次のような訳を提案してみます。

「フォークを使い、手間も使って、母は彼をスープからつまみ出した」。(拙案)

 「手間を使う」の箇所には、「色目を使う」「声色を使う」のように慣用句的な言い回しを持ってくることができれば、日本語でも機知として通用する訳文になるかもしれませんが、私には思いつけませんでした。

 なお、ここで「彼をスープからつまみ出す」という表現の意味がはっきりしません。リップスの詩句の前後の文脈がわかりませんが、ある男性がスープに浸かっているという状況はちょっとあり得ないのではないかという気がします。辞書で「Bruehe」には「スープ」以外にも「汚水」「苦境」などの意味がありますので、たとえば「泥沼から引き上げた」ぐらいの意味かもしれませんが、それでは「フォークを使い」の部分の意味が不明になります。なんとか元の文脈がわかると良いのですが。

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03)

2008年7月14日 (月)

フロイト全集8から『機知』3

 この論文の第二節第6段では、ハイネにまつわる次の機知が紹介されています。

ある夜、彼はパリのサロンで詩人スーリエと同席し、語り合っていた。そのうちに登場したのは、パリの大富豪で、お金の点でもその他の点でも神話のミダス王になぞらえられる人物であった。彼はやがて大勢に取り囲まれ、この上なく丁重な扱いを受けた。スーリエはハイネに言った。「まあ御覧なさい。あそこで十九世紀の黄金の子牛が崇拝されていますよ」。尊崇の対象をちらりと見て、ハイネは訂正するように答えた。「いやあ、あれはもっと歳を食ってますな」。(岩波版53頁)

 このあと同種の機知がいくつか例示されたのち、この「黄金の子牛」に繰り返し触れながら次のように解明されていきます。

かつて砂漠におけるユダヤの民がそうであったように、十九世紀の社会は「黄金の子牛」を崇拝していると、スーリエはハイネの注意を促した。それに対する適切なハイネの返答といえば、「そう、それが人間の性というもので、何千年経っても変わらないんですな」など、何か同意を表すものであろう。ところがハイネは、提起された発想には応答せず、そこから方向を逸らした。彼は「黄金の子牛」という句に含まれる二重意味を利用してわき道に入り、「子牛」という句の構成要素を捉えて、スーリエの発言の力点はそこにあったかのように、「いやあ、あれはもう子牛ではありませんな」云々と答えたのである。(岩波版57頁)

ハイネの「黄金の子牛」の機知における二重意味も、これときわめて似た役割を果たしている。その二重意味によって、返答では、きっかけとなった思考過程から方向を逸らすことが可能となった(岩波版60頁)

 ここで疑問に思われるのは、57頁では、「提起された発想」、すなわちスーリエの発言に対する「適切な返答」「何か同意を表すもの」から逸らすことについて述べられていたにもかかわらず、60頁では「きっかけとなった思考過程」から逸らすことについて書かれているという点です。

 実は原文では、57頁の「提起された発想」は「angeregten Gedanken」、60頁の「きっかけとなった思考過程」は「angeregten Gedankengang」ですので、同じ過去分詞で形容されています。それが邦訳では提起される方と提起する方という正反対のものを指すことになってしまっているのです。よって60頁は次のように改めるべきと思います。

ハイネの「黄金の子牛」の機知における二重意味も、これときわめて似た役割を果たしている。その二重意味によって、返答では、提起された思考過程から方向を逸らすことが可能となった(岩波版60頁に対する拙案)

 なお、57頁の下線部はじつは原文と少し違っています。

かつて砂漠におけるユダヤの民がそうであったように、十九世紀の社会は「黄金の子牛」を崇拝していると、スーリエはハイネの注意を促した。それに対する適切なハイネの返答といえば、「そう、それが人間の性というもので、何千年経っても変わらないんですな」など、何か同意を表すものであろう。ところがハイネは答える際、提起された発想から方向を逸らした。彼は「黄金の子牛」という句に含まれる二重意味を利用してわき道に入り、「子牛」という句の構成要素を捉えて、スーリエの発言の力点はそこにあったかのように、「いやあ、あれはもう子牛ではありませんな」云々と答えたのである。(岩波版57頁に対する拙案)

 ついでに訳語の好みについて言えば、ここで「思考過程」と訳されている「Gedankengang」には「思路」を当てたいです。岩波版のこの論文では、他の箇所で「Denkvorgang」も「思考過程」と訳されていますが、両者を区別しておきたいという狙いもあります。

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03)

2008年7月12日 (土)

否定疑問文への答え方

 防虫剤「虫コナーズ」のCMですが

http://www.kincho.co.jp/cm/html/2008/mushikoners_kaette/index.html

 CMでは、いかにも外国人っぽい発音の日本語で、虫が来るか来ないかといった話題がひとしきり続いたあと、

A(日本人):「虫、入ってコナーズ」

B(外国人女性):「虫コナーズ?」(虫は来ないのか?の意)

A:「イエス、イエス、虫コナーズ」

と会話するくだりがあります。

 そこへくると私は反射的に、『そこは「ノー、虫コナーズ」が正しいんじゃないか』、と思ってしまい、CMの「イエス」が聞き苦しく感じて仕方有りません。もちろん、「虫コナーズ」を商品名ととらえれば問題ないわけなんですけれども。

2008年7月 7日 (月)

フロイト全集8から『機知』2

 岩波版55頁に次のような機知の例が挙げられています。

公衆浴場の近くで二人のユダヤ人が出会った。一人が尋ねた。「あんた、ひと風呂浴びた[取った]かね?」すると、「なぜ?」ともう一人は答えた。「ひと風呂足りないのかね?」

 返答のほうは、原文で「fehlt eins?」(ひとつ足りないのかね?)とされていて、「風呂」という語を含んでいません。これを受けてフロイトは次のように言っています。

また、われわれの印象では、二人目のユダヤ人の答えで、「浴びる[取る]」という後が誤解されたということより、風呂という言葉が見落とされたことのほうが重要である。(岩波版55頁)

 ところがもともとの機知の邦訳では「ひと風呂足りないのかね?」とされてしまったので、上のフロイトの説明が理解困難になってしまっています。

 さらに、上に引用した二箇所では、それぞれ「ひと風呂浴びた[取った]」「浴びる[取る]」と括弧書きでふたつの訳が併記されています(原語はnehmen)。しかし私としては、「風呂を貰う」という日本語の慣用表現を用いれば日本語でも両義性が成立し、括弧は不要になると思います。そこで、次のような訳を提案します。

公衆浴場の近くで二人のユダヤ人が出会った。一人が尋ねた。「あんた、ひと風呂貰ったかね?」すると、「なぜ?」ともう一人は答えた。「ひとつ足りないのかね?」(拙案)

 なお、日本語の「貰う」という語は、驚くべきことに、同じく「nehmen」という語の多義性を扱った岩波版59頁の原注にもぴったりです。

「取るnehmen」という語は多様に使うことができるため、語呂合わせを言うにはとても適している。そういった多様な使い方のうち、上述の遷移の機知とは反対の典型である例を紹介してみよう。有名な相場師で銀行の頭取でもある人が友人とリング通りを散歩した。コーヒーハウスの前で、彼は友人にこう提案した。「入って何か取り[飲み]ましょう」。友人は彼を押しとどめて言った。「いや宮廷顧問官どの、中には人がいますから」。(岩波版59頁)

 下線部を「貰いましょう」と訳し変えれば日本語でも両義性が成立し、括弧書きは不要となります。

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03)

2008年7月 6日 (日)

フロイト全集8から『機知』

 この論文ではじめに取り上げられる機知の例は、有名な「ファミリオネール」というものです。これは身分の卑しい人物が、ある高名な大金持ちから「家族の一員のように(ファミリエールに)」扱われたと言おうとした箇所に用いられた造語であって、「ファミリエール」という語と「ミリオネール(百万長者)」という語が合成されています。すなわち金持ちにありがちな、慇懃ではあってもどこか尊大で見下した態度についてうまく表現してみせている例になっています。

 今回の翻訳ではこの「ファミリオネール」に、「家族の一員のように」と「百万長者」の合成で「百万家族の一員のように」という訳を当てています。これは語の意味から訳せば全く正しいのですが、この場合、合成される二つの語に音の類似性がないことと、この合成表現から元の二語(とくに「百万長者」)を類推することが困難であることから、あまり良い訳とは思いません。もちろん、岩波版でもルビや括弧書きによって音の類似性が示されてはいますが、この「ファミリエール」「ミリオネール」はいずれもドイツ語になじみのない読者にとっても分かりやすい単語でもありますし、訳さずにカタカナ表記だけにした方がよかったのではないでしょうか。

 それにしても、「ファミリオネール」の日本語訳を考えるというのはなかなか魅力的な課題でして、この記事を書きながらもつい、どうにかうまく訳せないか、と考え始めてしまいます。そこでファミリエールを「家族的に」、ミリオネールを「俗物的に」としておいて、ファミリオネールを「家俗物的に」というのを考えたりしましたが、結局私にはカタカナ表記より良い訳は思いつきません。

 岩波版19頁の「記念碑下のところ」、20頁以下の「赤い退屈糸」という機知についても同様で、結局カタカナで原語を残すだけのほうが分かりやすそうに思います。

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03)

2008年7月 1日 (火)

フロイト全集9から『精神分析について』

 この論文というか講演録は、非専門家向けに書かれたものという体裁をとっています。しかし私には、5節はかなり駆け足でわかりにくいものに感じられます。この印象は今回の新訳(非常に良い訳と思いました)でも変わりません。これはどうも、フロイトが、「欲望Wunsch」という語を、「欲望に結びついたエネルギー」を指すために用いている(ように読めます)ことが一因かもしれません。

 訳については、以下の一箇所だけを取り上げましょう。

しかし、私たちの機械では、消費された熱エネルギーの一定割合以上が機械のための有益な作業に使用されているのであって、その点を忘れがちになればなるほど、私たちは、性欲動をそのエネルギー量のすべてにわたって本来の目的から逸らせようと努めることも控えるべきでしょう。(岩波版168頁)

 この文で、「使用する」と訳されているのは「verwandeln」ですが、これは「変化させる」「変身させる」といった意味の語でして(カフカの小説のタイトル『変身』はこれの名詞形です)、おそらく岩波の全集は、「verwenden」と見誤ったものと思われます。しかしこの箇所のわかりにくさは、この語の訳しかたよりもむしろ、ここでフロイトが持ち出したエネルギー一般についての比喩をどう理解するかにかかっているように思います。私としては、次のように解釈しました。

私たちはしかし、私たちの様々な機械で、消費される熱エネルギーの一定割合以上を有益な機械的作業に変えようなどとは見込まなくなっているのですから、それにあわせて、性欲動をそのエネルギー量のすべてにわたって本来の目的から逸らせ[て文化的に有益に用い]ようと努めることも控えてしかるべきでしょう。(拙訳)

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

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