2009年10月17日 (土)

ヤスパース訳の「でき」

 ヤスパースの『精神病理学原論』(みすず書房)を、運転中の信号待ちの間に少しずつ読んできて、だいぶ読み進んできました。訳文がよくわからないところは、病院にある岩波の『精神病理学総論』(←同じ本を大幅に増補改訂した第5版の訳です)とその原書から対応箇所を探して理解に努めています(いずれはみすず書房『原論』の原書である第1版を手に入れたいと思ってはおりますが)。

 この本には、『でき』という訳語がけっこう出てきます。

「 本当の性格、すなわち欲動と感情のできの体系の質の異常な変異は、人格の性質にとっては構造の変異よりもずっと深い関係がある。異常な構造という点でみるとわれわれに性質の似た性格であるが、質の点でみるとできのちがう人々の間には感情と欲動のできに非常に隔絶した違いのあることがわかる。ある欲動のでき、たとえば性欲倒錯のある時に、全人格はその質が全然別であるとは限らない。けれどもある場合には異常な性的なできがあると、人格が妙に冷たく非性的で、時にはひどく敏感で感情が繊細であるが世界全体を別の照明の下に見ているような同性愛者となり、この場合その性質のできに隔絶した変異がはじまっている」(p299)

 この段落は、一文目は岩波版『総論』で中巻の208頁に、残りの文は下巻の113頁に、分割されてそれぞれ別の文脈に収められています。対応する箇所を原書で調べると、『でき』と訳されているのは、『Anlage』のようです。これは普通は『素質』と訳される語で、みすずの『精神病理学原論』でも、292-3頁では『素質』と訳されています。それがなぜ直後のこの箇所でこんなわかりにくい訳語になっているのか理解に苦しみます。

 上記の段落はけっこうわかりにくいので、下のように(もとの文を生かして)改訳してみます。

「 本来の性格の、すなわち欲動と感情素質との体系の質の、異常な変種(ヴァリエーション)は、人格の本性に対して、気質や意志の構造の変種よりもずっと深い関係にある。ここには、素質の違う人々の間に、他のどんな領域よりも究極的な隔絶が生じる。たとえば性欲倒錯的な欲動の方向性があっても、人格全体にも別の特徴がもたらされるとは限らない。けれども異常な性的な素質、つまり人格が妙に冷たく無性的であるとか、時にはひどく敏感で感情が繊細であるが世界全体を別の照明の下に見ているような同性愛者といった者には、その本性の素質形成には深達的な変動(ヴァリエーション)がはじまっている」

 病識に関する章などはみすずの訳が良いのですが、ここらへんは全くだめなのが惜しいところで、信号を待ちながら頭が混乱してしまいます。

精神病理学原論

カール ヤスパース、西丸 四方 

みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

2009年8月23日 (日)

漱石『こころ』の先生の被害妄想について

 ある統合失調症患者が診察時、自分は漱石の『こころ』を20回ぐらい読んだことがある、と言っていました。そこで私は、『こころ』に出てくる先生は父親の遺産を叔父に横取りされたと信じ込んでいるが、親戚たちの態度を変に感じてそのように推測しただけであって、叔父の使い込みの明らかな証拠があるわけではないことから、使い込みは先生の被害妄想だったのではないかという考え方があることを紹介し、それをどう思うかと聞いてみました。

 患者は、それはパラノイアということですね、父親が死んだショックでいろいろあってそうなっちゃったんですね、と答えてくれました。

 私の記憶では、物の本には、先生の被害妄想を根拠に先生は統合失調症であると書かれていたように思うのですが、その本の著者よりも私の患者の方が診断力が確かであったというところに驚かされました。

2009年8月20日 (木)

ヤスパース2

 精神医学の教科書や辞典では、妄想を説明するに当たって、ヤスパースの『精神病理学原論』をひいて、ヤスパースが妄想を三つの特徴で定義したとされていることが多いと思います。それは、原著から引用すれば

「1 非常な信念、何ものにも比べられない主観的な確信。2 経験上こうである筈だとか、こうだからこうなるという正しい論理に従わせることができない。3 内容がありえないこと。」(『精神病理学原論』みすず書房64頁)

の3つです。ところが、原著には、この直前に、

「妄想とはごく漠然と、誤った判断を皆そういうのであって、互いにはっきり区別がつくとは限らないがかなりの程度に次の三つの外面的な特徴を持つ。」

と書かれていて、どうもこの3特徴は、妄想を定義しているとは言えないように思うのです。とくに3つめを満たさない妄想はいくらでもあります(周囲から嫌われている、など)。2つめだって、経験にあわせて少しずつ変わっていく妄想はいくらでもあるので例外が存在します。

 それでも他に良い定義がないので引用されているんでしょうけれども。

精神病理学原論

カール ヤスパース、西丸 四方 

みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

2009年8月12日 (水)

地震から

 ある精神科入院患者が早朝の地震で目を覚まし、病棟のテレビで情報を得ようとしたところ、看護師に「まだテレビをつけて良い時刻になってない」と止められ、テレビを見られなかったそうです。

 精神科の患者は社会への関心が失われがちななか、健全な関心を育むためにも、今日に限ってはテレビを見せるのが正しい対応ではなかったかと思った次第です。

2009年8月 9日 (日)

「外傷ストレス後」ではなく「外傷後ストレス」

 PTSD(=外傷後ストレス障害)についての一般的イメージは、災害などの心的な外傷が、強いストレスになって後々まで障害を及ぼす状態、といったものではないかと推測します。ところが、この障害の名称は「外傷後ストレス」とありますので、外傷がストレスだという意味には読めません。

 『ストレス』という語を、手持ちの電子辞書に入っている明鏡国語辞典で調べると、「物理的、精神的な刺激(ストレッサー)によって引き起こされる生体機能のひずみ。また、それに対する生体の防衛反応。一般には、ストレッサーとなる精神的・肉体的な負担をいう」とのことです。

 PTSD(=外傷後ストレス障害)について、はじめに書いたように「外傷=ストレス」と考えてしまうのは、上の辞書にあったように、ストレスという語をストレッサーという意味で使うという一般的用法に引きずられてしまっているためのようです。PTSDについては、外傷の後に、生体機能がひずんだストレス状態に陥り続けている、と考えるのが正しいのでしょう。

 ところで、ストレスという語は、精神医学の中でもやはりストレッサーという意味と混同されやすいような気がします。たとえば、「ストレス(に対する)耐性」とか「ストレス(に対する)脆弱性」、「ライフイベントというストレス」などの表現は、さらっと読む限り、ストレスが外からやってくるもののように読めてしまいやすい気がします。

 最後に、私が持っている本には次のような記載がありましたので紹介します。

「一般に心身的な不快をもたらす要因をストレスと呼ぶが、それが非常に強い心的な衝撃を与える場合には、その体験が過ぎ去った後も体験が記憶の中に残り、精神的な影響を与え続けることがある。このようにしてもたらされた精神的な後遺症を特に心的なトラウマ(外傷)と呼んでいる」(『心的トラウマの理解とケア』厚生労働省 外傷ストレス関連障害の病態と治療ガイドラインに関する研究班)。

「ストレス」や「外傷」という語の意味がこの記載の通りだとすると、後遺症の呼び名としてはむしろ「ストレス後外傷症候群」がふさわしいということになってしまいます。この記載は正しいのでしょうか?。いったいどういう用語法が正しく、どのような使用は誤用なのか、どこかに簡明な説明があれば教えてもらいたいところです。

心的トラウマの理解とケア (単行本 - 2001/5)

厚生労働省精神神経疾患研究委託費外傷ストレス関連障害の病態と治療ガイドラインに関する研究班

出版社: じほう

2009年8月 2日 (日)

『翻訳語成立事情』岩波新書

 先頃、交通機関での移動中に柳父章著『翻訳語成立事情』(岩波新書)を読みました。

 幕末から明治期に翻訳語がいかにつくられ定着していったかを、10の基本語について解説しています。

 ひとつ目は「社会」ですが、「society」の訳語は幕末には非常に狭い範囲の人間関係を示す日本語に翻訳されていたこと、福沢諭吉が幕末には「人間交際」を用いたことなどが書かれており、明治に入ってから(諭吉も)「社会」という語を、「世間」という語が指す集団よりも広いものを指して用いるようになったことが紹介されています。

 私はかねがね、フロイトが「社会sozial」という語を使う場合、身近で顔の見える範囲の人間関係を指していると思ってきたので(父母との関係や、居酒屋に集まる仲間たちにこの語が用いられている)、社会という語が定訳とならなければよかったのにといまさらながら残念に思いました。ゲゼルシャフトと区別できる良い訳語がないことのほうが問題かもしれませんが。

 「恋愛」の項では、江戸までは「色」「恋」しかなく、「love」に対応する語が存在しなかったが、「恋愛」という語とともに、この「高尚な」事柄が新たに出現したのだという。ここらへんを読んで思ったのは、我々はすでに「愛」の崇高化が済んでしまっているせいで、ラカンの宮廷愛論がむしろわかりにくいのかもしれないということです。

 このほか、「美」や「彼、彼女」など、普段精神分析関係の原書を読みながら日常的に接しているいくつかの語について興味深い解説があって、なかなか深く楽しめる本でした。

柳父 章 (著)

2009年7月26日 (日)

ヤスパース

 ヤスパース『精神病理学原論』(みすず書房)を、運転中の信号待ちの時などに、少しずつ読んでいます。正直なところ、自分好みの考え方の本ではないので、こういう読み方でもないと続きません。いま半分ほど読み終えたところです。

 しかしおもしろく感じられるところが結構あります。例えば、患者の芸術作品について、著者はどうも積極的な価値を見出していないように思われ、患者にとっての治療的な意味や芸術的価値について触れない冷淡な表現で語られていることなど、私には著者の考え方が、「こんな考え方もあるんだ」とむしろ興味深く思います。例えば:

 精神分裂病的過程の群のある程度才能のある患者では、その原始性、明瞭な表現方法、不気味な意味がものすごく人にせまる力のために、健康者にも強い印象を与えることは否定できない。(175頁)

 ところで次の箇所は、ごく当たり前のことが書かれているだけですが、自分が引きこもり論について普段感じている違和感にまさしく該当する内容であって、印象に残るものでした。

 周囲の人々が観察する時には昔から患者のすることの内容がもっとも目につくものであったし、精神医学の学問もはじめはこういう見方から出発した。そして内容の点で特徴的な行為の仕方に名をつけて病気として分類し、有名なモノマニー、単一狂の説を作った。これは実りのないもので外面的なことしか言っていないものであるとされて、まもなく棄てられた。この説による名前はことに専門家以外にまだよく用いられている。窃盗狂、放火狂、飲酒狂、色情狂、殺人狂など。(176頁)

 ひきこもりもまた、単なる行動の特徴にすぎませんから、ひとまとめにして論じても「実りないもので外面的なことしか言っていない」ことは自明なように思えます。

精神病理学原論

カール ヤスパース、西丸 四方 

みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

2009年6月22日 (月)

フロイト全集4の『夢解釈Ⅰ』4

 『夢解釈』に紹介されている次の夢も、フロイトが付けた説明の意味がいまひとつよくわからないもののひとつです。

彼女の夫が聞く。もうそろそろピアノの調律をやってもらったらどうだろう。彼女は答える。無駄ですわ、なにしろ新しく革を張り替えなくちゃならないんですから。(岩波版244頁)

 これについては、ドイツ語の辞書で「ピアノKlavier」を引いてみて、「①ピアノ ②(話)大きな尻」とあるのをみて、一気にわかりやすくなりました。このブログを読んだ皆さんも実際にフロイト全集を開いてフロイトの説明に触れていただければ納得していただけるかと思います。

フロイト全集〈4〉1900年―夢解釈1

新宮 一成 (翻訳)

岩波書店 (2007/03)

2009年6月 3日 (水)

心神喪失・責任能力

 こないだ出席した講義で、統合失調症患者の責任能力について話題になっていたんですが、そのさい、どうもその参加者の中では重鎮らしい先生が、統合失調症で妄想に支配された状態での他害行為を罪に問うべきではないと言うための例として、てんかん患者が発作中の突発的な動きで近くにいた人を突き飛ばして殺してしまう場合を挙げ、両者は同じようなものだと言っていました。これはいろんなところで用いられる例え話ですが、私にはどうしても合点がいきません。てんかん発作中の患者と統合失調症患者はまったく別の状態であって、池田小学校事件や幼女連続誘拐殺人の犯人たちと統合失調症患者がまったく違うのと同様に(いやむしろそれ以上に)似ても似つかぬ状態と思うからです。

 心神喪失とは、事物の是非善悪を弁別する能力またはその弁別に従って行動する能力が完全に失われた状態、心神耗弱とはそうした能力が完全に失われたとはいえないが著しく障害された状態、という定義の表現を素直に読んでみれば、私には統合失調症で心身喪失に至ることはほぼありえないと思えます。世間の相場では結構な割合で心神喪失とされてしまいますし、こないだの講義の参加者たちもまた世間の相場を構成しているわけですけれども。

2009年6月 2日 (火)

言外の意味

 ラカンは、ある男性が「君は僕の妻」と(プロポーズの場面で)語るとき、言外に「僕は君の夫である」という自己規定を示している、という場面を、『充ちたパロール』の例として挙げます。さらには、フロイトの論文『子どもが叩かれる』のなかに「自分の同胞が叩かれている」という空想場面が登場することを挙げて、これは「自分の方がかわいがられている」ことを言外に示している、とも説明していたはずです。

 これを踏まえて考えると、既婚女性芸能人(主に中年以上のお笑いの人)が、自分の夫について冗談めかして「うちの反町隆史が・・・」と語るとき、そこには、「夫が反町隆史であるならば、自分はさしずめ松嶋菜々子であろう」という言外の意味があって、この言い回しのおもしろさを一段高めていると思います。

 という話を私の身近な人に話してもあまりピンとこないようで、「あの人たちはいちいちそんなことを考えて喋っていないよ」と一蹴されてしまいます。それでも私はあえて、上に書いたことを踏まえて、これまでは「自分の職場にも松たか子のようなパートナーがいたらなあ」と言い続けていたのですが、最近はもちろん「綾瀬はるかのようなパートナーがいたらなあ」と口にしているのです。

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