2020年6月11日 (木)

フランスの記事から、封鎖による急性錯乱の増加について

 コロナによるフランスの精神病院への影響について時々ニュース記事を探していますが、今回は、自宅に閉じこもった人びとのなかに急性精神病の八章が増えているのではないかという記事を紹介します。5月1日という少し古い日付の記事です。いまは、むしろ封鎖解除の影響を論じるべき段階かもしれません。

https://www.lepoint.fr/societe/je-suis-le-covid-des-psychiatres-face-aux-pathologies-du-confinement-01-05-2020-2373711_23.php

 拙訳を今回のブログ記事末に掲載しました。

 「圧力鍋効果」という言葉がまた出てきました。これまでの記事を読む限り、狭いところに閉じ込められるという意味かと思っていたのですが、今回は、「閉じ込めている間に底を熱する」という具体的な喩えとして使われていました。その間に圧が上がって爆発が準備されるということでしょうか。

 コロナ関係の記事では、decompenserという表現も、毎度のように出てきます。多くの辞書には「代償不全になる」といった無味乾燥な訳語が載っていますが、プチロワイヤル仏和では「(大きな精神的ストレスの後で)奇矯な振る舞いをする」という口語的な意味が載っていました。特に今回紹介する記事の文脈にはぴったりです。

 精神医学用語の「bouffée délirante」はふつう「急性錯乱」と訳され、統合失調症とは異なる一過性精神病を指します。この「délirant」という形容詞は、日本の精神医学用語でいえば「妄想の」「せん妄の」「錯乱の」といった幅広い概念に対応します。「妄想」という言葉は、一定期間持続する誤った信念を指しますが、「せん妄」や「錯乱」という言葉は、意識不明瞭になって個々の信念も持続しがたいうつろいやすい病像を指します。bouffée déliranteは病像・状態を指す言葉なので「錯乱」と訳されるという事情もあるのかもしれませんが、今回紹介する記事をみるかぎり、どの症例についても明瞭な妄想が紹介されているので「急性妄想症」とでも訳す方が実情に即しているのではないかと思いました。ちなみに、このdélirantの名詞形délireは、ドゥルーズ・ガタリの「スキゾフレニー=統合失調症」と「パラノイア=妄想症」の比較論の訳でも「錯乱」とされていることが多く、「妄想」と訳さないと意味が通じないと思うことがありましたが、今回の一般向け記事から、やはりdélire/délirantは普通の語感では妄想を指すんだろうなあと改めて思いました。

 

 "Je suis le Covid" : des psychiatres face aux "pathologies du confinement"
「私はCovidだ」:「封鎖の病理」に直面する精神科医たち

「私はCovidだ」:封鎖以来、セーヌ・サン=ドニの精神科医たちは、既往歴のなかった若者たちが、ケア従事者たちが予想だにしなかったも病像の「劇症急性錯乱」に罹患して病院にやってくるという経験をしている。
「コロナウイルスの治療を見つけた」と訴える者たち、「すべて自分のせいだ」と思う者たち、「救世主妄想に入り込む」者たちがいる。そして、あからさまに「ウイルスだ」と主張する者たち。
「精神医学では、それは『青天の霹靂』と呼ばれています:非常によく機能していて、突然に代償不全に[=おかしく]なった人々のことです。彼らの近親者は、もはや彼らが誰だかわからないと言います」と、マリー=クリスティーヌ・ボークザンは説明する。彼女は、感染症の影響を最も受けている県の一つ、イル・ド・フランス[地方]のセーヌ・サン=ドニ県の80%をカバーするヴィル・エヴラール精神病院の18の部局のひとつで責任者を務めている。
 3月末、病院はウイルスの蔓延を避けるために全面的に再編成した。ボークザン博士が運営するオーベルヴィリエ部局は、患者たちが汚染されていないことを確認するための期間として5〜7日間収容される「緩衝」ユニットとなった。この期間中、彼らは外出の権利なく病室にいる。
ケア従事者たちにとってこれは、かくして創造された斬新な観察区域であり、それ特有の「驚き」をもたらした。
 パリの町の精神科医アントワーヌ・ズーバーは、チームに手を貸しに来て、当初は「非常に静かな期間」を過ごした。「封鎖は封じ込め効果を果たしました。しかし、その間、それは圧力鍋の底を熱しました」と、彼は語る。
「治療を中断した傷つきやすい患者たちの入院や、すでにフォロー中の患者たちの代償不全の波が予想されていました。驚きだったのは、緊急の状況で到着した若い患者たちに、多くの初回エピソードが突然に出現する様子がみられたことでした」と医師は説明する。

焼身
 これらの印象を確認するために、20年間在任しているマリー=クリスティーヌ・ボークザンは、表計算ソフトExcelを開き、現在のデータを2019年3月の対照週間のデータと比較した。
 昨年、入院の17%が精神医学的エピソードの初回症例に関連し、主に男性で、平均年齢は40歳であった。今年、オーベルヴィリエに入院した27%はかつて障害を呈したことがなかった。平均年齢は34歳にまで下がり、女性も男性と同程度に罹患している。
封鎖という理由で何週間も自宅に閉じ込められ、これらの患者は「大きな不安を」呈し、それが「その頂点で劇症急性錯乱として表れることがあります」。「こうした急性錯乱の根源には、抑うつと」、さらに薬物の摂取や突然の使用中止がありうる、とアントワーヌ・ズーバーは付け加える。
 これらのトラブルは、しばしば誇大妄想的であるが、時には「自分自身と周りの人々のための巨大な不安を反映する」迫害妄想の様相を呈する。かくしてケア提供者たちは、ある青年が彼の頭に契約があると確信して自ら部屋でバリケードにこもっていたために警察を呼ばねばならなくなった。
 精神科医たちも看護師たちも、こうした発作[クリーゼ]の劇症的で暴力的な性質を強調する。「ごく短期間に、私たちは焼身未遂、喉を掻き切ろうとした自殺未遂、周囲を取り巻く家族の前で窓から飛び降りる未遂に遭遇しました」と、ヴィル・エヴラールの保健当局者ザビエル・ファイは詳述します。
 精神医学の臨床像は「つねに現実を刻印されています」と、2015年のテロの際にすでにこの種の「急性錯乱」に向き合っていたボークザン博士は説明する。
 主に18~35歳の人びとに影響を及ぼすと思われるこの現象を科学的に解析するために、ヴィル・エヴラール病院は、ドミニク・ジャニュエル博士が率いる「封鎖の臨床評価」研究を開始した。
 「劇症急性錯乱の増加は、必ずしも驚くべきことではありません、精神医学では何でも起こりうるのです!しかし、なぜ若者のあいだで起こるのでしょう?」と医師は問いかける。良いニュースは、「それがかなり迅速に解決するようだということです」と彼女は言う。
 オーベルヴィリエでは、精神科医たちはすでに「第二の波の臨床」、封鎖と、来たるべき経済危機の臨床について考えている。いくつもの研究がこのパンデミックで不安やうつ病の増加を示しているなか、その影響を受けるすべての国のメンタルヘルス専門家たちによって、この懸念が共有されている。

2020年4月27日 (月)

海外ニュース記事から、封鎖中のマルセイユの精神病院の様子

 コロナウイルスによる都市閉鎖以降のフランスの精神病院事情について、ときどきニュース記事を調べていますが、またひとつ見つかりました。

https://www.nicematin.com/sante/dans-un-hopital-psychiatrique-de-marseille-la-crainte-de-l-effet-cocotte-minute-499621

 この記事は病院内の写真がいくつも載ってるのが面白いところで、写真からうかがえる仕草からの印象では、フランスの精神科看護師さんたちは、患者に接する際の仕草が日本の看護師さんたちとはだいぶ違うことがわかります。私の目には、たとえば婦人警官とか、運動部のコーチのような仕草にみえます(あくまで写真での印象ですが)。日本の精神科看護師さんたちはもっと患者との関係性が近いように思います。

 普段は患者がサッカーやボクシングをしているとかいうのも驚きです。日本なら事故予防の名目で許されないでしょう。

 以下、翻訳ソフトも参考に紹介します(ネットで自由に閲覧できる記事は、勝手に翻訳して勝手に紹介しても良いだろうと勝手に思っています)。以前に紹介した記事にも、「圧力鍋効果」というのが出てきました。狭い空間に押し込められることを言うのでしょうか。イケアのマスクを回収・再利用しているという箇所がありますが、その方法も知りたいところです。

 

Dans un hôpital psychiatrique de Marseille, la crainte de "l'effet cocotte-minute"

マルセイユの精神病院にて、「圧力鍋効果」への怖れ

 

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マルセイユのヴァルヴェール精神病院の庭にいる看護師たち(一人はマスクを着け座っている)と女性患者。

 

「治療法が病気よりも悪いものであってはなりません、圧力鍋効果を避けなければなりません」:マルセイユのヴァルヴェール精神病院で、コロナウイルスと戦うための封鎖によって、ケア提供者たちは、開放処遇という原則を、捨て去るのではなく自ら創りなおすよう迫られた。

 精神科医ステファニー・トイ=リオンは、花模様の自家製マスクのかげで、ジレンマをこう要約する:「たちまちのうちに、ケア提供者-ケア利用者の集団活動は危険なものになりました。私たちがいつも守ってきたことの裏返しです!」

 施設は通常、開放的な病院というコンセプトを誇りに思い交流を増やしているが、世界中で何万人もの死者を生んだこのコロナウイルスにより、外界は患者たちにとって潜在的な危険となった。

 

<写真>

マルセイユのヴァルヴェール精神病院の看護師たちと男性患者

 

 防護動作、社会的距離、患者の外出許可の終了、家族面会の禁止:ひと月以上前から、シナノキ棟で、ラベンダー棟で、ヒマラヤスギ棟で、そして松の木の間に散らばったおよそ十の病棟のなかで、すべてをコロナウイルスが覆した。これまで症例が検出されていないにもかかわらず。

 施設の公園への外出は、以前は完全に自由だったが、いまやケア提供者の同伴によって最大4名のグループでのみ可能である。

 かつてホールに最大35人を集めたダンスは終了。サッカー場の試合やボクシングも。カフェテリアの本、サッカーゲーム、ピンポンにも近づけない。

「しかし私たちは集団的な時間が存在し続けるよう全力を傾けました。ケアするということは、治療を提供するだけのことではありません」と、ステファニー・トイ=リオンは、スタッフや患者と距離を取って話すことを例外的に許されたAFPジャーナリストに強調した。

 作文の会は、「たとえ私たちが同じ部屋に5名以上居ることができなくても」維持されている、と彼女は続ける。

 

「空しさを癒やす」

<写真>

マルセイユのヴァルヴェール精神病院の庭にいる女性看護師と男性患者

 

「難しいのは空しさを癒やすことです」と30代前半のアミナは漏らす[訳注:ファーストネームのみで紹介される人物は患者であろうと思われる]。彼女は他の患者と一緒に芝生の中に座り、野外の「スピーチの会」の際に、「今後」に言及する。この会は対人療法看護師ジル・カーサンティによって開催され組織された集団活動の一つである。

 アリシアにとって「事態はどん詰まりに向かっているわ」。アンナはより楽観的だ:「私はただ息子にキスできることを夢見ているの」と彼女は説明する。「そういう単純なことこそが重要であることに、みんなが納得するよう」願っている。

「私たちは衛生上の制約に圧倒されてはなりません、倫理的な指針を保たなければなりません」と心理士のヴィクトリア・イザベル・フェルナンデスは主張する。「保護するということは、患者たちへ振りかざす権力を不当に得ることではありません」。

 ヴァルヴェールでは、封鎖があろうとなかろうと、1976年の施設設立以来ずっと、身体拘束の実施は廃絶されたままだ。

 

<写真>

マルセイユのヴァルヴェール精神病院の庭で患者たちと話し合う女性看護師

 

 しかし譲歩が:この白衣は現在必須である。「私たちの普段の目標は、さまざまな障壁をケア利用者と共に打破することです。いまここでは、私は変装させられたように少し感じます」とステファニー・トイ=リオンは嘆く。

 病院は嵐をやり過ごそうとしている。利用可能な147のベッドのうち、90床だけが埋まっており、何名かの患者はすでに家族に託された。

 自閉性障害の青少年のための専用病棟である『オアシス』では、現在、日中に2人しか受け入れていない。

 年間10,000人近くの患者を抱える主要な活動である外来診療は、自宅でのフォローや遠隔診察へと再編成されている、と施設長ロランス・ミリアは説明する。

 

「士気の喪失」

<写真>

マルセイユのヴァルヴェール精神病院における看護師たちと男性患者の話し合い

 

「しかし、状況が長く続けば、状況はより緊迫していきます。時にはワンルームに住む7人家族もいるのですから」と、青年ケアシステムのソーシャルワーカー、オーレリー・フーロンは説明する:「(封鎖の)第3週の峠は困難でした。彼らが今後どんな状態で見つかるのか私にも分かりません」。

 もちろん、「これらの家族には想像を絶する潜在力があります」とアンジェリック・ババアンは保証する:「しかし私たちは、2001年9月11日以降に高層ビルが崩壊する画像のループを繰り返し見た子供たちのような、一部の患者での心的外傷後ストレスのケースや親の消耗を怖れています」。

 この「壁の外の精神医学」は時おり驚きを提供する。ヴァルヴェールから出て、フランス全体が封鎖されていることに気付かずに、自分の家に引きこもったある婦人のように:「2週間後、彼女はなぜ毎晩20時に窓からいろんな物音がするのかと私に尋ねました」。遠隔診療で彼女をフォローする精神科医アンヌ・パロンバは微笑む。

 

<写真>

マルセイユのヴァルヴェール精神病院の庭で

 

 いまだCovid-19に襲われていない県内唯一の精神病院、ヴァルヴェールは息を潜め固唾をのんでいる:「感染症クラスターがここに現れた場合、食い止めることは困難でしょう」と、精神科医のマチュー・パリギは怖れている。

 潜在的な患者を収容するために「Covidユニット」が設置されたのは、リラ棟の彼の病棟だった。およそ10室が準備された。呼び鈴、食事用のテーブル、個人用のテレビ:患者が繭の中に縮こまるのを防ぐためにすべてが考えられているヴァルヴェールではかつてなかったものがたくさん備えられた。

 患者が居ないので、この「Covid」ユニットは、14名単位で新入院者のための緩衝域として今のところ役立っている。遁走して戻るやいなやすぐに隔離されねばばならなかった2人の患者のように。

 

「握手したい」

<写真>

マルセイユのヴァルヴェール精神病院の看護師たちと患者たちの話し合いグループ

 

 ヴァルヴェールでは、封鎖は適応と歩調を揃えている。食堂では、12人のうち6人の料理人を奪われ、近くの高校の調理チームの3人のメンバーが毎日助けてくれる。

 柔軟な対応はまた資材面でも。マロングラッセのメーカーから寄贈された数百枚の保護衣や、ひとりの看護師が回収してきたイケアマスクの山。

 30,000ユーロ以上の購入資金と緊急作業が投入されても、まずは利用不能な在庫品と折り合わなければならなかった:「世界6位の強国がこれほど準備不十分で、FFP2マスクを8時間交換しないように求められるとは思わなかった」とパリギ博士は漏らす。

 その後、一部の納入業者で価格高騰し、たとえば白衣が単価60サンチームから10ユーロになった。「私たちはノーと言いました。理想としてはためらうことなく購入するのでしたが、しかし何でもよいというわけにはいきません」と、副施設長ドミニク・オルシニは説明する。

 5月11日の封鎖解除を待つのは「長い」と、シナノキ病棟の患者、リシャールは説明する。「みんな、外に出て、街をぶらつき、お店や人々を見たいと思っています。彼らに触れて、握手をしたい」。

2020年4月15日 (水)

海外ニュース記事から、コロナウイルス危機下での北フランス精神病院事情

 ヨーロッパの精神病院が今どうなってるか、検索してもあんまりニュース記事がないんですが、たまたま見つけたものを訳してみました。どの国でも、精神科は後回しなのと、以前から予算縮小を余儀なくされてきた中でのコロナウイルスの襲来で、大変なことになっているということのようです。ネットで無料で読めたものなので、まあ勝手に翻訳しても非営利なら許されるでしょう。

https://france3-regions.francetvinfo.fr/hauts-de-france/somme/amiens/hopitaux-psychiatriques-amiens-clermont-face-crise-du-coronavirus-on-tres-peur-nos-patients-1813674.html

 

Les hôpitaux psychiatriques d'Amiens et Clermont face à la crise du coronavirus : “On a très peur pour nos patients”
コロナウイルス危機に対峙するアミアンとクレルモンの精神科病院:「我われの患者が心配だ」。

3月6日、緊急医療計画plan blancが病院に対して宣言されるが、精神医学に向けた国の指令はない。3月22日、保健省が最初の勧告を発表する。アミアンのピネル医療センターなど多くの病院は、これらの措置を待たずして行動を起こした。

2020年4月10日 エリーズ・ラミレス、エミリー・モンチョ

 

 政府が総合病院に対して用意した措置にはるかに先だって、2月25日、フィリップ・ピネル医療センターは最初の危機対応室を開いた。経営陣は、病院での診察や集団的治療活動を延期すること、外来看護師の人員を維持して再発や緊急入院を避けること、患者と医療従事者を厳重に保護することを決定した。

 しかし、医療センターの局長であるヴァンサン・トマによれば、個人防護用具の支給とこの傷つきやすい患者たちの医学的援助は、公権力から過小評価された。「精神医学はけっして優先されません。はじめから私たちには十分なマスクがありませんでした。私たちは遅滞なく発注することができましたが、瞬く間に資材は欠乏しました。そしてもはや調達の手はずはなくなりました。国家が管理していたんです。私たちはとても恐くなりました、なぜなら私たちの患者の健康状態は他の住民よりも悪化しており、一部は常時のケアなしには生きていけないからです。そのうえ、病院で彼らは集団で生活しています。封鎖を尊重させるのは厄介なことです」。

 

忘れられた精神医学:怒りは勃発寸前

 厚生大臣に提訴した収容施設総監アドリーヌ・アザンによれば、「医学の忘れられた継子」であるメンタルヘルス部門には適用されない計画を非難するために、3月末、フランス精神医学の大御所たちが、精神医学の参考文献となるジャーナルであるL'Encephaleに論文を書いている。

「精神医学の専門家がみな声を上げたのは、病人の扱いに不平等があったからです。集中治療に対しては、患者のメンタルヘルスに応じて患者が選別されるリスクがあることは明らかでした。彼らは社会にとってあまり役に立たないと考えられています」とヴァンサン・トマは嘆く。

 精神医学に向けた省令は3月22日にようやく発表される。その中には、Covid-19に罹患した精神科患者に重篤な症状が現れた場合の救急医療援助のため、総合病院の専門家たちとの緊密な関係の確立が含まれる。その後、マスク、ゴーグル、手袋、保護衣、保護帽といった用具が施設に届けられている。週に3000マスク、次いで9000枚と、先週ピネル病院に10000枚。

 

最も傷つきやすい患者たち

 公衆衛生の専門家たちは、精神科入院患者が併存疾患につながる脆弱性を持っていることを観察してきた。統合失調症、双極性障害、抑うつ、不安障害または自閉症の人々は、高い感染症のリスクを示す。さらに彼らは、一般住民集団よりも高頻度に心血管疾患および肺疾患、糖尿病および肥満といった、Covid-19による重篤な感染症のリスク因子に冒されている。

 患者と介護者を保護するために、ピネル病院の病室が再編成された。「私たちは幸運なことに19世紀に疫病と闘うために構想された病院で働いています。ユニットは地理的に分離されています。患者を隔離するのは比較的容易です」と、ピネル病院の精神科医で一般精神医学系の責任者であるシリル・ギヨーモンは言う。

 病室に患者をよりうまく配分して混在を避けるための努力がなされた。「省の行動指針の絶え間ない変化に伴い、我われも絶え間なく適応しなければなりません。先週、私たちは施設の公園へと患者を外出させはじめることができました。これは、発作を起こしやすい高血圧患者にとって特に不可欠です。私たちは昔の精神医学に戻りました」。とシリル・ギヨーモンは締めくくる。

 

入院の制限、ケアの削減

 施設では、2人の患者が陽性と検査され隔離された。入院は減少した。「新たなケースごとに、ベネフィットとリスクの評価が行われます。なぜなら、これらの患者に対して衛生上の指令と距離を尊重させることは難しいからです。一部の患者は通常なら入院したでしょうが、もはやいつでもそれを許可できるだけの余裕がありません。彼らは今、院外でケアを受けています。外来でのケアを用いた代替案が設けられたのです」と病院の局長は説明する。

 3週間来、入院ユニットは60名の新入院と80名の退院を記録した。救急部では、受診が激減した。1日あたり20名の来院であったのが、3週間前から5名になっている。「通常、私たちは次々にタイトな流れで働いています。しかし今はもう動き回っていません。私たちは、代償不全に陥った双極性および統合失調症患者を何人か受け入れました。しかし救急部への来院がきわめて少なくなり、強制入院はいっそう多くなっています。これは臨床像の重症度を反映しています」とシリル・ギヨーモンは言います。

 

忙殺されるケア提供者

 クレルモンのイサリアン病院でも新患の入院は制限されている。部門に新たな人々を入れること、つまり可能性としてウイルスを入れることを避けるために、彼らの状態に応じて選別されている。危機の初め、あちこちで起こったように、職員はマスクの欠如について不平を述べた。経営陣は主に外科用マスクを最終的に28,000枚受け取ったが、FFP2はほとんどなかった。

 彼らもコロナウイルスの流行の影響を受けている。先週末の時点で、18名の職員が感染し、患者のうち2名が確認され、21名が疑われている。1名の患者が病気で死亡し、1名のケア提供者が現在、蘇生[=人工呼吸]中である。

 この流行に直面して、病気の患者を受け入れるための2つの特別ユニットが設置されたが、スタッフの増員はない。施設は人員削減の下で運営されている。2700名の職員のうち約500名は公休で欠勤している。デイセンターや作業療法工房などいくつかのサービスは閉鎖された。

 クレルモン病院の状況を、「圧力鍋になぞらえることができます」と、CGT[=労働総同盟]が描写している。「経営陣は、他の場所と同様に、パンデミックの対処を講じませんでした」と、CGTスタッフの代表でありケア助手のファブリス・オガンソフはコメントしている。「声が届かないと感じています。最初はマスクを頼んだら、経営陣がマスクを持っておらず、ケア提供者が危険にさらされると感じました。今日、多くの人が家族のことを心配し、もはや子供たちにキスをする気になれない人もいます。それは彼らのための不安です」。彼は付け加える、「Covidは私たちが以前に抱えていた困難に加わりました。すでに病院はほぼ4年間で約400床を失ってきたのです」。

 

遠隔ケア

 フィリップ・ピネル病院は現在、最低限の人員で運営されている。患者の管理不能な大規模流入を避けるために、病院の専門家は外来ケアを強化した。アミアンの2つの医療心理センターからの看護師によって6000人が一年中フォローされている。電話インタビューが物理的な[=対面での]相談に取って代わり、自宅に封鎖された患者の薬局に処方箋が直接送られる。

 しかし、最も孤立し不安定な患者のために、看護師らは彼らの家に往診する。「患者が自立していない場合、患者と会って、身体衛生と食品衛生に気を配り、治療の継続性を確かめる必要があります。それに我々は、彼らが途方に暮れているので、安心させるためにも来ています。特に、第二次世界大戦の記憶を追体験する高齢者たち。不安は封鎖によって増しています」と、ピネル病院の2つの医療心理センターの1つで看護師をしているディアン・ペルスヴァルは語る。

 危機の始まりから残業時間が増えているこれらのケア提供者は、防護措置を遵守できない病人のために買い物もしています。「全体的に、外来患者は訓練されています。彼らには封鎖の前、定期的に医療心理センターへ私たちに会いに来る習慣がありました。それ以来、彼らはもう来ていません。それが最初は私たちを心配させたのです」と看護師は付け加えます。

 ソンムにある精神科患者の友人家族会の会長であり、病人の兄弟でもあるセバスチャン・ビルによると、状況は劇的である。ピネル病院のケア提供者や患者家族が、精神医学のより多くのリソースを得るために数ヶ月抗議した後、保健上の危機が起こって目に余る不足が暴かれている。「病人の支援は、この3週間、壊滅的でした。電話診察は精神疾患に寄り添うには不十分です。それに、みなが脆弱で、自立に適さないのです。彼らは通話の際、再入院することを恐れているので、不調だと言うことができません。みな、毎日の訪問の繰り返しを必要としています。ケア提供者はできることをしていますが、どうすることもできません」と、疲れ果てた家族たちと定期的に連絡を取り合っているセバスチャン・ビルは言う。

「私たちは親として、子供たち、兄弟姉妹の不安や危機など、全てを援助しなければなりません。私たちはこの状況に準備ができていません。これは地獄になっています。私の兄は完全に不安定です。彼は1日に何度も発作を起こしています。私は彼が自殺するのではないか、彼は路上に出て悪い動きをするのではないかと恐れています。私は全てが恐い」。こうした家族のための恐怖が、怒りに変わる。「最悪なのは、家族がいない人にとってです。彼らにとって、それは路上や牢獄です。私たちは忘れ去られた者です」とセバスチャン・ビルは叫ぶ。

 

危機の後に向けすでに用意されている

 患者とのつながりを維持することは、たとえそのための手段が不十分であっても、メンタルヘルスの専門家の優先事項の1つである。「私たちが避けたいのは、慢性疾患の病人がケアを中断することです。これは、私たちの患者だけでなく新患にとっても、将来の援助にとって壊滅的かもしれません」とシリル・ギヨーモンは予告する。しかも病院はこの波を予期しそれに備えている。

 そして彼らが危惧しているのは、現在病院の最前線にいるケア提供者の援助が発生しうることだ。「総合病院スタッフは日々の過活動のなか働いています。重圧が彼らを持ちこたえさせています。しかし彼らは限界にあります。彼らは毎日死と隣り合わせです。彼らは肉体的にも心理的にも疲れ果てており、いずれ感情面での弛緩状態、一部には心的外傷後ストレスが予想されます。私たちはそれに注意を払わなければなりません」と精神科医が注意喚起している。

 ケア提供者専用の心理学的聴取のための電話プラットフォームが、すでにアミアン大学病院とピネル病院に設置されている。危機を脱したさいには、心理士と精神科医は、この新たな患者層のための個別的な援助と緊張緩和措置を確かに用意しなくてはならなくなるだろう。

2020年4月 8日 (水)

フランスの記事から、コロナウイルスの襲来と精神科の人権配慮など


 たまたま見つけたフランスのブログ記事を訳してみました。コロナウイルスによって普段の精神科臨床ができなくなることを、反精神医学の襲来になぞらえているのが面白いし考えさせられるところが多いと思います。看護師さん目線なのでしょうか、フランスの精神病院の普段の病棟運営の様子もうかがえますし新自由主義嫌いなところも共感できます。
https://blogs.mediapart.fr/mathieu-bellahsen/blog/290320/psychiatrie-confinee-et-nouvelle-anti-psychiatrie-covidienne
 この筆者が嘆いている、covidのせいで患者さんとの握手がなくなり、食事の場の共有もなくなったという現状も、筆者がおそれている、精神科患者が心肺蘇生してもらえないというディストピア的状況も、日本ではコロナウイルス前からすでに普段通りの状況なんですが、筆者がそれを知ったらどう思うでしょう。
Psychiatrie confinée et nouvelle anti-psychiatrie covidienne
“封鎖された精神医学”と、covid由来の新たな反精神医学

ATHIEU BELLAHSEN
2020年3月29日

 ほぼ15日前から、精神医学チーム、患者とその家族は、住民の封鎖によって課された新しい状況に適応しなければならなかった。ウイルスの伝染の可能性から、ケアの場に厳格なルールが課され、それは通常精神的なケアを可能にすることに逆行している。
 2週間来、新型の反精神医学が、“封鎖された精神医学”のルールを命じている。このcovid由来の反精神医学は、精神科的ケアや心理的ケアを提供することさえ困難にしている。しかし、何が起こっているのか現場で読み取り、何らかの自主的活動を共有することこそ、この封鎖が新たな分断を招かないために必要である。
反精神医学の進展
 我々が他の場所で詳述したように、反精神医学の概念は社会の基調にあわせて変動する。
 60年代において、最初の反精神医学は、19世紀に構築されて20世紀初頭に発展した規律訓練的な病院精神医学への、ラディカルな批判をもたらした。この政治的批判は、社会の全面的解放の実践と関連したものである。これは、まだ精神医学から神経学を区別していなかった最初の神経精神医学の医療モデルに、疑問を投げかけた。
 1980年代には、この反精神医学の言説は、患者の均質的なグループを管理する新たな実践や、負担コストの合理化(したがって削減)に結びついた。この管理的な反精神医学は、以前の一連の議論から重要な言説を取り上げてはいるが、それはもはや最も重要なケア実践などではなく、むしろ上手な管理の実践であり、したがって、疎外の克服という口実でコストを削減することであった。
 2000年代以降、メンタルヘルスは、精神医学の分野を再編成する概念として幅をきかせている。アンチスティグマのさまざまな実践は、精神医学を解放することを、古典的な医学モデルと類似のものとみることになってしまった。精神疾患は「他の病気と同じような病気」になるべきである。その後、包含inclusionの概念が到来し、肯定的な用語として紹介されることで、排除exclusionのスティグマをひっくり返し、アンチスティグマ[という概念]に取って代わるだろう。包含というのは罠概念であり、新自由主義社会において「内からの排除」に力を貸すものである。
 2014年に、自閉症の分野を出発点として、ロリアン・ベラセンが、医療モデルに基づいた、より正確には脳に基づいた、新たな反精神医学を暴き出した。当時社会分野で流行中の「神経」科学を介して、「psy」は「neuro」に道を譲り、消去される。「神経発達」による障害という仮定が、政治的覇権に基づいたある種の実践を正当化する。この覇権を我々は、ピエール・ダルドー、クリスチャン・ラヴァル、フェラ・タイラン、ジャン・フランソワ・ビソネットと共に、神経政治neuropolitiqueと呼ぶことにしようと考えている。
 この仕事を続けるなかで、ピエール・ダルドーは現代の反精神医学を、「総合的かつ排他的な医学、排除主義的な医学」と特徴づけている。「しかもこれは、単なる振り子の揺り戻しだとか、精神科医たちの「反精神医学」の後に利用者たちの「反-反精神医学」が続いているといったことではない。この新たな反精神医学で我々は、科学的客観性への真の狂信に由来する、文字通り真の「精神科嫌悪psychophobie」に関わっている」。
 2020年3月上旬に出版された「精神医学の反乱」で我々は、ラシェル・クネーベルとロリアン・ベラセンと共にこの仕事をもう一度取り上げ、新たな反精神医学2.0は次に挙げるものの寄せ集めだという仮説を立てている。
- 以前からある、新自由主義社会に対応する管理的な反精神医学、
- 診断と選別の医療モデルを出発点に(つまり[かつての反精神医学のように]それらに対抗せず)、精神医学から解放される、精神科嫌悪的な反精神医学、
- 脳科学、大量データ(big data)、デジタル技術に由来する新たな神経精神医学。
 しかし、新たな反精神医学のこれらの諸層の内部にも、さまざまな程度にラディカルな実践と闘争が出現する可能性がある。神経多様性のなかにある多くの流れをみてもわかるだろう:神経多様性は、時には社会の制度全体に疑問を投げかけるために役立つこともあるが(CLE autisme)、時には「補償」を甘受して、大勢を占める社会規範に迎合してしまう。

“封鎖された精神医学”
 同じ時にも緊縮財政と保健システム破壊の政策は続いている。闘争は、ケアのすべての部門で広がっている:精神医学、EHPAD[=宿泊型老人福祉施設]、救急部、そして公立病院全体。
 3月の第2週、公権力はCOVID 19パンデミックに直面していくつかの措置をとり始めている。すでに公共政策によって仕組まれてきた不足状態が、緊縮運営によって強化されており、それを背景に、政治指導者たちの好戦的ないくつもの演説が、その場しのぎの約束と一体となっている。誤った犯罪的な政策によって何年ものあいだ破壊されてきたケアシステムにウイルスが拡散するという致命的なリスクに備えて、数日後、精神医学は封鎖される。
 “封鎖された精神医学”の日々の実践では、COVID手順のせいで、精神医学と反精神医学の埋もれた諸層が再活性化されてくる。なにしろ通常行われていることの反対を行うことになるからだ。コロナウイルス由来の一連の逆転は、緊急の状況のなかで行われている。それらの逆転は必要なことではあるが、現在とその後に向けて問いを提起している。
 かくして私は、私が実施している一般精神医学の部門で日常的に何が起こっているかを、当然ながら主観的なやり方で、報告したいと思う。

1 軽視から最初の措置へ
 封鎖の前の数週間、チームの大半も我々も、我々の病院から数キロ離れた、オアーズ近郊の部門で起こっている事態をまだ軽視している。15日前からひとりの妄想患者が、我々から感染させられたくないという理由でマスクを着用している。我々はそれを彼の妄想的な不安と関連づける・・・我々が間違っている。彼はただ我々に先んじているだけだ。
 その後、一部の同僚は、学校の休暇が終わっても戻ってこない。オアーズへ通学している彼らの子供たちは、この最初の封鎖から学校に戻らない。イタリアとオアーズからの劇的な証言が徐々に拡散し、[それまでの我々の]否認が明らかにされていく。共和国大統領が3月12日(木)に演説し、彼の同僚がそれに続く。
 3月16日(月)午前9時から、我々は初めての屋外チームミーティングを、防護的な[=接触を避けた?]仕草でもって行なっている。我々は部門全体、つまり外来ユニット(デイホスピタル、短時間治療受付センター、医療心理センター)と入院ユニットを再編成する。
 アニエールでは、必要な身体的チェック、予約なしの電話面接、定期的な家庭訪問と自主的活動を重視することに決め、不安や発作や入院リスクを未然に防ごうとする。生命線は、どんな形であってもつながりの連続性を維持することにある。毎朝、1時間、我々は前日に行われた全てのことを見直し、全ユニットの患者のために行うべき全てのことを確認する。オンライングループを含むケア集団(患者とケア提供者)の提案により、自主的活動が現れてきた。夕方と週末の定時電話連絡、EHPAD[=宿泊型介護老人施設]の同僚たちへの支援、避難所に封鎖された路上生活者への支援。入院ユニットと外来ユニットのケア提供者の間の1日数回の電話連絡ははるかに激しく、かつ気さくに行われている。身体的、精神的な生死に関わる課題がある以上、誰もその仕事を厭わない。
 入院ユニット側では、[普段なら]「ケア提供者-利用者」ミーティングの実践が集団生活のまとめ役となり、環境について話題にし対処するものだが、我々は、私たちの習慣とは根本的に異なる措置を講じることを患者に知らせる。1週間で、過去数年間のすべての成果が再検討され、covid由来の反精神医学のルールを尊重するために中止される:サービス部門の入り口のドアを閉鎖し(ユニットの入り口のドアは7年以上開放されていた)、集団の時間を中止し、施設内の治療活動を中止、施設の専門家と患者、看護学生の共通のカフェテリアを中止にする。つながりを作りケアの場の疎外感に対処することに貢献しているものの全てが中断される。我々は、ユニットの全面的な封鎖によって不可能になる前に、最小限の往来を保つために公園への同伴外出を編成する。
 多くの人と同様に、我々はウイルスの飛沫をすり抜けるだろうと思っている。そして最初のケースが我々のユニットに到着する。そして、その後まもなくさらに3症例が。入り口のドアを閉鎖するだけでなく、一人一人が自室に封鎖されていなくてはならない。病的なひきこもりの人々は、問題なくそれに順応できる(我々はいずれその精神的帰結に苦しむだろうと断言しておこう)。他の人々は、不安に圧倒されて、通常それには目をつむり、ケア提供者に気を配って、我々の調子はどうかと尋ねてくる。
 外出許可は中止され、近親者の訪問は延期される。精神科病院はひきこもる。幸いなことに、1901年の協会法はまだ私たちの施設に存在している。もはや誰も金銭を引き出し食料を購入するために施設を離れることができなくなると、治療クラブが毎日の購入の役を引き継ぐ。封鎖された連帯が組織される。Wi-Fiは無料アクセスになり、エヴァン法違反が公式化される:患者はケア提供者と同伴で室内で喫煙できる。ある患者はこうも言った、「この封鎖はいいね、ホテルのようだよ。私たちの部屋に朝食を運んでくるし、昼夕もそうさ。看護者はとてもいいし、部屋で喫煙もできる・・・同伴するだね!」。
 そしてある種の態度を取ることが、こうした選択に際して、我々の支えとなるだろう。自由剥奪のさまざまな場[=矯正施設など?]の総監察官の態度と同じことだ。この一連の出来事で、我々が持っているのは非常に少ない資材と多くの未知のことがら、少しの知識と多くの不安なのだ。

2 COVID到着:着替えたまえ!
 病院では、衣類の形や色に応じて、その人の身分上の地位の見当を付けることができる。精神医学では、規律訓練的な精神科権力への異議申し立てが、服装革命によっても行われてきた。ケア提供者の仕事着であろうと患者のパジャマであろうと、「上着が落ちる」のに何年もかかったことだろう。挫かれぼろぼろになった生身の人間たちとの遭遇に備えることを目的に、自己と他者との間に精神的によりうまく障壁を置くために、物理的に身につけることができる物質的障壁。これを脱ぎ捨てるために何年も。精神的感染への意識的または無意識的な恐怖。
 古き精神医学権力のこれらの形態(COVIDを待たずして、すでに少しずつ多くの場所に再来していた)が、我々がつい先ほど非難したもの全てを引き連れて再浮上する:人間的接触の拒否。これは握手、笑顔、感情表現の動作、食事どきの日常生活の共有、活動、非公式の時間、などの拒否として、いくつもの実践のなかに反映される。
 コロナウイルスは、白衣を、そして予防帽、マスク、予防衣を、復活させる。そして我々はそれらの数が不十分だと不平を言い始める。数日前には想像もつかない。
 社会的距離を取るという措置は、通常、患者との対峙を妨げるためにケア提供者が取る防衛的措置であるが、今や絶対に必要なこととなった。我々は、手持ちのわずかな資材でそれを綿密に尊重している。ほんの数ヶ月前、精神医学の春の総会で、フランス南部のチームは、彼らの同僚の数名が、衛生上の理由という彼らの軽蔑を隠すマスクでもって、患者との握手を拒否した経緯を報告した。そしていま、我々はアルコールジェルを求めている。数週間前には想像もつかない。
 我々は治療食の際に患者と同じ食器類で食べ、病院食があまり美味そうではなくても同じ大皿で同じ食事を共有している。今やコロナウイルス由来の逆転が、健康を維持するために真逆の措置を命じている。数ヶ月前には想像もつかない。
 しかもコロナウイルスの場合は、感染への恐怖もまた事態を一変させる。通常、ケア提供者たちは、精神疾患、狂気、重度の心的代償不全が[自らに]精神的に感染することを恐れることがある。彼らがこうしたことに接して働くことを選択したならば、それには一般にそれなりの理由があり、その一部の人々は障壁のこちら側にいることで自身を安心させる必要があるのかもしれない。ケア提供者たちは、彼らの生活歴と彼ら自身の防衛機制に応じて、こうした激しい不安にとらわれた人と対峙することを恐れるのかもしれない。そうした不安はケア提供者の心的装置に反映するので、チームと制度の心的装置に跳ね返ってくる。そしてこれが動揺をもたらし、さらにはそうした動揺からこそ、[ケアの]本当の仕事が生まれていくだろう。
 しかしこうしたことがあるのも、まだ心的装置があり、機械が精神科ケアを掌握しておらず、精神科嫌悪が科学技術礼賛と結びついてしまっていないからである。それはまた、機械装置だけでなく心的なものがあるからである。すなわち、考えるべき意味があり、了解すべき意味、すべての人にとって刻まれるべき意味があるからである。機械が感染を恐れることなどあるだろうか?

3 感染への恐怖が事態を一変するとき
 コロナウイルス由来のこの新規の逆転では、いまやケア提供者たちが、患者に感染させることを恐れている。患者の一部は体力低下し虚弱なのだ。感染はこの場合、身体的な、ウイルスの感染である。しかし、この感染は精神医学制度における精神的な仕事の基盤の一つを、身体面から、明るみに出す。すなわちケア提供者たちと施設が、彼らのグループ病理を患者に感染させることがありうるということだ。これはジャン・ウリが病理形成術pathoplastieと呼んだものである:ケア施設が、それ自身の病理を分泌する。
 精神医学において、「患者をケアするためにはケア提供者をケアしなければならない[=患者を看護するためには看護者を看護しなければならない]」という格言は、制度的精神療法の戒めの一つである。多くのケア提供者が、防護と検査の不足のせいでウイルスを広めてしまったこの時代には、耳の痛いフレーズである。
 そして、精神科ケアのサービス部門が本当に治療的であるためには、そして真に病人をケアするためには、精神医学で以下に挙げるいくつもの特殊なマスクを着けている院内病理に対処しなくてはならない:権力、疎外的階級制、主体性剥奪のプロセス、隔離、そして病人と同じ人間性を共有していることの否認といったマスクである。
 感染不安のこの逆転が、現時点で常にケア提供者を悩ませている。精神医学で、EHPAD[=宿泊型老人福祉施設]で、病院で。我々が知る限り、最も脆弱な人びと、併発症を持つ人々が、COVIDの重症型によってより強い影響を受けるのだ。
 精神科患者に対する我々の感染不安は二重である:個人的不安と社会的不安。個人的にというのは、多くの人が身体的に不健康だからである。精神的なカタストロフは身体との関係でも体験されるため、それを精神医学的ケアの日常において配慮することが重要なのである。
 次に[=社会的には]、アビー・ワールブルクが「生き残った形態」と呼ぶものが再浮上する怖れがある。我々の集団的歴史に刻まれ、しばしば我々の公的な歴史から削除されるこれらの形態:我々の社会の、多かれ少なかれ意識的な優生思想的衝動による、精神科の病人の新たな大殺戮への恐怖。
 精神病の人や妄想的な人、自殺志向をもつ人の生が、もっと価値が高いとみなされる生と競合関係に置かれる恐怖。何十年も前にヨーロッパですでに起こったことへの恐怖。同じく「成功した人生」なるものや「メンタル不調のコスト」についての現代の言説が産み出すかもしれないものへの恐怖。このコストとは、競争の激しい労働界への社会復帰という、功利主義的なリハビリテーションの究極目標を、達成できない者たちのコストのことである。アンチスティグマという罠が、スティグマを剥がされた者たちを荒々しく挟み付けるのではないかという不安:“精神疾患は、メンタルヘルスを至上とする精神医学教科書のなかでは他の病気と同じような慢性疾患なのではないか?ところで慢性疾患というなら併発症の同義語となってしまう・・・そして併発症は心肺蘇生[人工呼吸]から除外される一因となり得る”。これが根拠のない怖れの段階にとどまりつづけることを願おう。

4 来たるべきカタストロフに備える
 来たるべき波に立ち向かうために、病院では、我々の部門のユニットを、病理の程度、つまり身体的な病理(COVID疑い、COVID確定・・・)の程度によるユニットでもって再編成する。選別が再来する。そこから想像されるものも?
 具体的には、医療設備もなく隔絶された我々の田舎精神病院に、最初のCOVIDユニットが緊急に設置された。そして、そこへ収容されてきた人々の死を看取るという脳裏に浮かぶイメージが、我々の互いの目から目へと、資材の不足のため、十分に高度な非精神科医療スキルの欠如のため、跋扈し始めている。早くも、我々の患者四名がこのユニットに居て、そのうちの一人の体調はすぐれない。彼の検査値のいくつかが不良だが、救急隊は彼を総合病院に移すことを拒否する。もはや近隣の総合病院のCOVIDユニットに[空き]ベッドはほとんどなく、心肺蘇生[人工呼吸]の余地はもはやない。結局、彼は好転する。しかし我々の患者の一人に心肺蘇生[人工呼吸]が必要になったとしたら?
 現下の、そして来たるべきこのカタストロフの状況に直面して、我々と「共通の経営母体」にある総合病院の施設長とケア提供者たちが、精神科患者のためのこのCOVIDユニットを、そこから40キロ離れた他県にある彼らの総合病院内に移送することに直ちに同意する。この具体的な連帯は、優生思想が復活するという恐怖を緩和してくれる。そして、この時点でこれは重大なことである。絶対に必須のことでもある。
 しかし、全てのサービス部門で来たるべき飽和状態が論じられており、生きるであろう者たちと死ぬであろう者たちの選別が、少しずつ差し迫っている。
 このような不可能な選択は、ケア提供者としての我々の選択ではないことに念を押しておこう。たとえ終局においてはケア提供者こそがその選択を負うのだとしても。社会の究極のオーガナイザーは競争と金銭、金融であるという理念がますます受け入れられつつあるこのとき、我々は市民として、この選択枠に対する集団的な責任を負わねばならない。
 [COVID以前から]この種の最終選択(誰が生き、誰を死に委ねるか)を支配してきたのは、あらゆる改革とともに何年も前から熟してきた新自由主義的な枠組みである。平等、普遍性、健康を促進するこれらの改革のポジティブな言葉遣い、コミュニケーション、物言いの諸要素がもつ本当の現実がまさにこれ[=生死の選択]なのだ。これらの言葉[=平等、普遍性、健康]の本当の現実は、管理的な新言語で着飾ったこれらの選択の帰結としての死者たちである。社会の新自由主義的進展と、贅沢と軽蔑の服を身に着けた者たち以外に、こうした不可能な、有害な、残酷な選択に対して誰が責任を負うべきというのだろうか?

5 いくつかの教訓
 この危機から我々が引き出す一般的な教訓(空間と時間、労働、金銭などとの関係や社会制度を統合的に再考する必要性)とは別に、すでにいくつかの実践への道筋が開かれている。そうした道筋の出現を集団として支援していくことが我々に任されている。
 ケアの均質化が、集団的公衆衛生と個人の健康を保護するために復権するとしても、さまざまな実践の不均質性の維持と、そうした実践を基礎づけるさまざまな環境の不均質性の維持が、いつも[課題として]ありつづける。

1)仮想は現実的な支えなしには実在しない
 「コロナウイルス由来の」逆転のなかで、我々がまさしくもはや何も生きて体験しない(あるいはすぐ目の前の肉体と魂からほとんど何も生きて体験しない)とき、我々は自己と他者たちとの別の様態でのつながりを、駄目にならないために、見出さなくてはならない。
 精神医学では、デジタル通信技術と電子医学の時代にこの[COVIDの]試練を生きることが教訓を与えてくれる:科学技術は、身体的な本当の人間的つながりが前もって実在しない場合にはたいして役に立たない。我々はこれを、我々が創り出してきた無線での仮想的な社会的つながりの新たないくつもの空間全てに見ることができる。
 デジタル通信技術による「脱物質化」が想定されているが、それはデータセンターの巨大な倉庫に隠された過剰な物質化なしには実在しない。データと全く同様に、人間的つながりという目に見えないものも、どこかに物質化する。
2)物理的な封鎖の義務と想像力の移動の自由
 2週間来、我々の集団会合の時間はほとんど同じだが、もはや同じ物理的な空間を共有して行われてはいない。我々の精神医学部門では、radio sans nomがつながり、我々の頭の中で分断されていた場を開け放つ。封鎖の時代に、この開け放ちは、織り上げられてきた以前の社会的つながりの全て、友愛、共有と交換のつながりの全てを背景として行われている。これはつながりの脱物質化ではなくて、むしろつながりの新規の物質性、変更された物質性である。

暫定的な結論:covid由来の反精神医学は、襲来した反精神医学である
 他のタイプの反精神医学とは異なり、この反精神医学は選択されたものではない。これは老若男女に襲来した。社会的距離と封鎖のルールが我々に課される。covid由来の反精神医学は、我々が精神医学において治療的でありうるとみなすもの全てを、後戻りして見直すことを強いている。
 この反精神医学は、我々全員がカタストロフを共有するこの時点でさまざまな逆転を生んでいる。そしておそらくこの共有と、出現してくる新しい連帯から、我々は今後、大混乱のただなかに、新しいつながりを創出することができるだろう。精神医学はさまざまなカタストロフに対して敏感である。そこでは最悪と最良が隣り合っている。[マクロン政権の?]2期目に向けて軸足を変えることが、集団として我々に任されている。

2020年3月 1日 (日)

ラカン『精神病』11章再読

 外出の頻度も減ったこの機会に、ラカンのセミネール『精神病』の読み直しの続きをはじめてみます。

 10章まで手を着けてあったので、今回は11章『原初的シニフィアンの拒絶』です。

また他方、精神分析の本質は軽率にも「エゴ」の補強と呼ばれているものを患者に獲得させるために、或る思考を意識化させることでも、「エゴ」の防衛の逆説から解放することでもありません。(邦訳上巻240頁)

 下線部は原文では「rendre (...) moins paradoxales les defenses d'un ego」ですが、「防衛」が複数であること、paradoxalを辞書で引くと「互いに矛盾する」「相反する」といった意味があるので、そちらを採用します。

また他方、精神分析の本質は軽率にも「エゴ」の補強と呼ばれているものを患者に獲得させるために、或る思考を意識化させることでも、「エゴ」の複数の防衛が互いに矛盾しないようにすることでもありません。(代案)

 次は間違いとはいえないのですが、pouseeという語の訳語選択の問題で私のなじみの語にしてみます。

精神病においては、「エゴ」が危険なものと感じるようなある圧力が現われる、という古めかしい考え方がそこには見出されます。(邦訳上巻241頁)

精神病においては、「エゴ」が危険なものと感じるようなある衝迫が現われる、という古めかしい考え方がそこには見出されます。(代案)

 次も間違いとかではないのですが私にとって読みやすい語順に変えてみます。

自我は、常にディスクールであるこの双生児という写しによって二重になっているからです。(邦訳上巻242頁)

自我は、ディスクールであるこの双生児という写しによって常に二重になっているからです。(代案)

 次です。

問題は、人間が人間の現実へと原初的に接近するとはどういうことかという問題です。もっともそれは、人間にとって相関的であるような現実というものが存在すると仮定してのことですが。私達は、この仮定はいずれどこかで放棄しなくてはならないだろうと思いますが、この仮定は、自体愛というテーマに初めから含まれている仮定です。(邦訳上巻247頁)

 下線部は原文には「この」としかありませんが、邦訳では前段落で話題になっていた自体愛という語が補われています。しかしここは「人間の現実への接近」を指すように思われます。

 次も細かいところですがvocalという語の翻訳です。

昼は現象ではないという限りでの昼、昼は象徴的共示、つまり現前と不在を共示している言葉の根本的交替、を含んでいるという限りでの昼、こういうことへ、フロイトは快楽原則の彼岸という概念を集約しているのです。(邦訳上巻249頁)

昼は現象ではないという限りでの昼、昼は象徴的共示、つまり現前と不在を共示している発声の根本的交替、を含んでいるという限りでの昼、こういうことへ、フロイトは快楽原則の彼岸という概念を集約しているのです。(代案)

 次は細かくいくつか手を入れますが、中でも最後に下線を入れた箇所(原語はmeme)が重要と思います。

 この原初的な身体の内部でこそ、シニフィアンによって既に句読点をうたれ構造化された現実世界が構成されるとフロイトは考えています。フロイトが余すところなく記載していることは、すでに構成されているこれらの対象と表象の結びつきです。主体による、現実の最初の理解は実在という判断であり、その本質は「これは私の夢や幻覚や表象ではなくて、対象なのだ」ということです。
 それは、内部のものを外部のものによって試すこと、ーこれは私ではなくて、フロイトの言葉ですー 言い換えると、対象の再発見の中で主体が現実を再構成するということです。対象は捜索の中で再発見されるのですが、対象そのものが再び見出されるのではありません。(邦訳上巻252頁)

 この原初的な身体の内部でこそ、シニフィアンによって既に区切られ構造化された現実世界が構成されるとフロイトは考えています。フロイトが余すところなく記載しているはたらきは、すでに構成されているこれらの対象と表象の比較です。主体による、現実の最初の覚知は実在判断であり、その本質は「これは私の夢や幻覚や表象ではなくて、対象なのだ」ということです。
 それは、内部のものを外部のものによって試すこと、ーこれは私ではなくて、フロイトの言葉ですー 言い換えると、対象の再発見の中で主体が現実を構成するということです。対象は捜索の中で再発見されるのですが、同じ対象が再び見出されるのではありません。(代案)

 次は、すぐ後ろの箇所です。

これがフロイトが『否定』というテキストにおいて説明している、実在の判断に対する配分の判断の先行ということに前提とされている点です。フロイトの論述には、良いものと悪いものとの原初的な二分がみられますが、この悪いものは、原初的シニフィアンの拒絶として説明する以外に理解のしようはありません(邦訳上巻252頁)

これがフロイトが『否定』というテキストにおいて説明している、実在の判断に対する属性の判断の先行という奇妙なことに前提とされている点です。フロイトの論述には、良いものと悪いものとの最初の二分がみられますが、それは、原初的シニフィアンの拒絶として説明する以外に理解のしようはありません(代案)

 上の最後の下線は原文では代名詞で、訳者が内容を補足した箇所ですが、「それ」という代名詞が「悪いもの」を指すのか「最初の二分」を指すのか構文的には決めがたく、「それ」に戻しました。134頁も参考になるかもしれません。

 次は、訳者がおそらくフロイトのテキストを参照してあえて変更している箇所です。

現われるや否や消えてしまう本質的に束の間の「知覚(Wahrnehmung)」と、意識のシステムの構成との間には、「記載(Niederschrift」があり、それも三つあるということです。(邦訳上巻257頁)

現われるや否や消えてしまう本質的に束の間の「否定(Verneinung)」と、意識のシステムの構成との間には、「記載(Niederschrift」があり、それも三つあるということです。(代案)

 フロイトの書簡には「否定」という用語はありませんから、たしかにラカンの言い間違いか速記録の間違いではないかと思いたくなるのですが、このセミネールの正規出版以降に制作され誤りを訂正しようとしているいくつかの非正規版をみてもみなVerneinungと表記されています。ここは、ラカンがあえてフロイトの否定概念を自分なりに使用している箇所だということでしょう。フロイトのテキストに戻ると、「知覚」と「知覚記号」の間に「否定」があるというふうにラカンが考えているのであろうと思われます。これは261頁でもう一度出てきます。

 次はabandonner la partieという成句の訳です。

それはさらに、我々が大抵の場合シニフィエの一部を放棄している理由でもあります。(邦訳上巻259頁)

それはさらに、我々が大抵の場合、勝負を投げる理由でもあります。(代案)

 次です。二箇所ありますが、二つ目はaccuser le coupという成句の訳です。

一見単一なディスクールと見えるものが、実はある力動を含んでおり、しかもその力動は私達の手を逃れた秘密のものだということです。「否定」とは、ある患者が彼の夢に関して「それは私の父ではない」と言って強調している点にのみ認められると考えるのは誤りです。誰もがそれはどういうことか知っています。患者は解釈の一撃を不当だと責めるのですが、結局はそれは自分の父だと言うことになります。(邦訳上巻260頁)

一見ディスクールの簡略化と見えるものが、実はある力動を含んでおり、しかもその力動は私達の手を逃れた秘密のものだということです。「否定」とは、ある患者が彼の夢に関して「それは私の父ではない」と言って強調している点にのみ認められると考えるのは誤りです。誰もがそれはどういうことか知っています。患者は受けたショックをあらわにし、結局はそれは自分の父だと言うことになります。(代案)

 次の箇所で、「知覚」や「知覚記号」と「否定」との関係をラカンがどう考えているかがはっきりするように思います。

彼は書簡五二で、原初的「否定」は、すでに最初の記号化、つまり「知覚記号(Wahrnehmungszeichen)」から成り立っているということをはっきりと認めています。(邦訳上巻261頁)

彼は書簡五二で、原初的「否定」は、すでに最初の記号化、つまり「知覚記号(Wahrnehmungszeichen)」から成り立っているということをはっきりと認めています。(代案)

 最後に。この章の翻訳上、細かいことを追加しますと、一節の最後の段落のうち、終わりの二文は原書では別の段落です。それと、258頁で何度か「喜び」という語が出てきますが、これは他の箇所でふつう「快」とか「快感」「快楽」と訳されてきた語です。

 今回はのんびり細かく読み直してみました。

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