2008年5月 8日 (木)

フロイト全集から『性格と肛門性愛』2

 以前の人文書院版のころから、この論文の長い原注の意味がよくわかりませんでしたが、今回ちょっとよくわかった気がします。

「いやはや、目の前のココアを見ていて、子供のころにいつも考えていたことを思い出しました。あのころ私はいつもこんな想像をしていました。私はココアメーカーのヴァン・ホーテン(彼はこの名前をヴァン・ハウテンと発音していました)でして、この美味しいココアをつくるためのすばらしい秘密を握っているのですが、世界中を幸せにするこの秘密を奪い取ろうと、皆がよってたかって躍起になっているため、私は細心の注意を旗ってこの秘密を守り通している、という想像です。」(岩波版283頁)

 ここで、『ココア』には訳注が付されていて、「ドイツ語では糞のことをKackeとも言い、そこから幼児語では糞はKakaと発音されることも多く、ココアは糞と言語音声上の連想でつながっている」と説明されています。勘の鈍い私には、これだけの補足説明では原注全体の意味がよくわからなかったので、必然的にこの訳注についてもどのぐらい信頼してよいか迷っていたのですが・・・。

 まず、私の電子辞書のクラウン独和で引いてみたところ、『ココア』にあたる独語『Kakao』の3番目の意味として『(話)糞便』が載っています(大辞典2冊にはいずれも載ってませんでしたが)。これでまず『ココア=糞便』という等値に納得がいきました。それを踏まえて、次の『ココアメーカー』ですが、原文で『Kakaofabrikant』なので、文字通り読むだけで『ココアメーカー=糞便製造者』という意味にとれます。私はこれに今回初めて気づくことができたことをきっかけに、原注全体に納得することができました。『私』は、たとえば手作業によってココアをつくるのではなく、自らの体そのものが『糞便製造者』だというイメージが掴めたからでした。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト (著), 新宮 一成 (編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11)

 それにしても、世界最高の現役サッカー選手の一人の名前がドイツ語では糞便そのものを表すんですねえ。

2008年5月 4日 (日)

フロイト全集から『性格と肛門性愛』

 肛門性愛というのは、フロイト理論のなかでも、かなり受け入れ難いテーマのひとつと言えると思います。そんな馬鹿なことが・・・とつい思ってしまいがちですが、このテーマは我々成人の意識的な思考のなかにそのまま入ってくるものではないということを忘れてはなりません。一方で、去勢恐怖とか、父への敵対心とかは、成人が思い浮かべてみてもある程度感情移入できてしまうのですが、これらについては逆に、意識的に思い浮かべてみるという事態と無意識で生じている事態とを安易に混同しないよう気をつけなければならないのです。

 翻訳については、気になるところが第一段落にありました。

 精神分析を駆使しての支援の試みがなされている人たちのなかには、次のようなタイプがかなりの頻度で見受けられる。すなわち、一方ではある特定の性格諸特性を顕著に併せもっていると同時に、幼年期のころにある身体機能ならびにその機能を果たしている諸機関の働き方に注目すべきところのあった人たちである。ここから、この性格とこうした器官の働き方には何らかの切り離せない関連があるはずだといった印象が私のなかで膨らんできたわけであるが、それが具体的にどのような誘引によったのかは、今日ではもう定かでなくなっている。ただ、こうした印象が出来あがるのに、理論面での予断といったものがいっさい関与していなかったことは確かである。(岩波版279頁)

 はじめの下線部、「切り離せない」は、原書では「organisch」です。この語はフロイトの他の箇所に出てくれば普通「器質的な」と訳されるでしょう。たとえば同じくフロイト全集9巻では310頁4行目にあります。ですから翻訳の際、あえて訳者はこの語を避けたのだと思いますけれども、私としては、意味的にもここを「器質的な」と取っておきたい気がします。

 二つ目の下線部、「誘引」は、おそらく変換ミスまたは誤植でして、「誘因」が正しいです。

 最後の下線部は、原文ではもう少し弱いニュアンスなので、「確かといえる」ぐらいにしておきたいところですし、意味的にも通りが良くなると思います。

 精神分析を駆使しての支援の試みがなされている人たちのなかには、次のようなタイプがかなりの頻度で見受けられる。すなわち、一方ではある特定の性格諸特性を顕著に併せもっていると同時に、幼年期のころにある身体機能ならびにその機能を果たしている諸機関の働き方に注目すべきところのあった人たちである。ここから、この性格とこうした器官の働き方には何らかの器質的な関連があるはずだといった印象が私のなかで膨らんできたわけであるが、それが具体的にどのような誘因によったのかは、今日ではもう定かでなくなっている。ただ、こうした印象が出来あがるのに、理論面での予断といったものがいっさい関与していなかったことは確かといえる

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト (著), 新宮 一成 (編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11)

2008年4月29日 (火)

精神鑑定

 有名事件の精神鑑定に絡んだ判決のニュースがありました。このところ関連したニュースも続いています。

 それぞれの被告の犯行時の精神状態の詳細以前の問題として、心神喪失の定義を、鑑定医がしっかり認識していないのではないかと思えてなりません。つまり、責任能力を完全に喪失していてはじめて心神喪失の状態であって、責任能力が著しく減弱している状態は心神耗弱であり、かなりの程度の減弱があっても著しいとまで言えなければ完全責任能力が認められうるということです。この点についての認識が改まるだけでも、最近出されたいくつかの鑑定結果は違ったものになったでしょうし、ずいぶんと一般にもわかりやすい整合的なものになるのではないでしょうか。

 最近のニュースから、精神鑑定など考慮に値しないとか、心神喪失という評価に相当する者など存在しない、といった印象を一般にもたれてしまうと、今後の裁判員制度に向けて非常にまずいと思います。精神病状態では、たとえば幻聴に命令されると逆らうことができず、自らの意志に反して自殺を試みたり我が家に火を放ったり最愛の我が子を殺めたりといった、自らの利益に反した破滅的な行為を行ってしまうことがあります。そうしたレベルの精神状態の中で他人に攻撃が向かってしまうことがありうるということは一般に理解していただきたいところです。

 ところで、そもそも一般論として、ある程度高い地位に就いている精神科医は、主に大学病院(重い精神病患者の入院をお断りしていることが多く、措置入院はまず受け入れない)などでの臨床経験が多いでしょうから、本当に心神喪失に値するほどの重い精神病患者を主治医として継続的に担当した経験などなさそうに思います。ですからそうした医師が鑑定医を担当してしまうと、たとえ十分な机上の知識を持って真摯に鑑定に取り組んでいたとしても、中等度の精神病状態に対しても簡単に心神喪失と判断してしまうことになってしまいそうに思います。

フロイト全集から『ヒステリー性空想、ならびに両性性に対するその関係』

 夢や白日夢、空想とヒステリー症状との関係についての論文です。この邦訳のなかで気になったところを挙げます。

夜の夢では、ほかでもないこの種の白昼の空想が、複雑にされ、歪曲され、意識的な心的審級によってあえて曲解されたかたちで、夢形成の核をなしているからである。(岩波版242頁)

 意識的審級が「あえて曲解する」というと、夢の二次加工を指すように思えてしまいますが、二次加工された顕在夢が夢の核であるというのはちょっと変です。原文でここに対応する表現は単に「missverstanden」なので、「誤解する」「思い違いをする」といった意味に捉えればよく、「あえて」というニュアンスはありません。語順もいじって次のように改めたいと思います。

夜の夢では、ほかでもないこの種の白昼の空想が夢形成の核をなしているが、複雑にされ、歪曲され、意識的な心的審級からは誤解されているのである。

 ところでこの論文では、パラノイアの空想についても触れられています。後年には、パラノイアについては同性愛的空想からの防衛であるとか、ナルシシズム的段階への回帰だとか言われるようになるのですが、この論文ではそうした理論にまだ到達していないためか、パラノイアについて「性欲動のサディズム=マゾヒズム的成分」との関係に言及されていますけれど、そこらへんがこの論文の今ひとつ私にはよくわからないところです。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト (著), 新宮 一成 (編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

2008年4月16日 (水)

フロイト全集より『舞台上の精神病質的人物』6

 この論文について、かつて作成した拙訳を岩波訳と比較してきたシリーズの最終回です。 

というのも、神経症の病者とは、われわれにとっては、その内部にいかなる葛藤が渦巻いているのか -それが動かしがたい域に達しているような場合には- まるで想像も付かないたぐいの人種だからである。(岩波版p180)

というのは、罹患中の神経症者の葛藤は、我々にとって、彼が葛藤を既存のものとして携えている場合には、全く見抜くことが出来ないからである。(拙訳)

 ここで岩波版で「動かしがたい域に」と訳されている「fertig」という語は、岩波版176頁で「すでに仕上がっている」、180頁の後半でjは「完全に出来上がった」と訳されており、こここでのみ「動かしがたい」と訳し分けなくても良いのではないかと思います。拙訳が採用した「既存の」という語もさほどよいとは思いませんが。

 次です。

とするなら、詩人の課題は、われわれを病者と同じ病気の状態に移し置くということになるわけで、これがもっともうまくいくのは、われわれがこの病者と同じ病的展開をたどっているときということになるだろう。(岩波版p180)

作者が、我々をしてこの疾患に身を置かせることを課題としていることもありうるが、これは我々がストーリーの展開に作者と一緒に参加する際に最も良く起こる。(拙訳)

 原文の代名詞が指す人物を、岩波版は「病者」、拙訳では「作者」としています。私は、「作者」以外の名詞は前の文に出たきりなので遠く感じられ、「作者」としましたが、岩波版を見て考え直しますと、意味からしてやはり「病者」としたいと思います。

バールの『もうひとりの女』には、どうやらこの手の失敗がのぞいているように思える。加えて、もう一つ問題ばらみの失敗にも気づかされる。すなわち、われわれは、この主人公の娘を充分に満足させるのにどうしてもこの一人の男でなければならないという点に、はっきり確信をもって共感できないということ、つまり彼女の事例が、われわれに共通のものになりえていないということである。(岩波版p180-181)

この〈前々段の条件1に関わる〉欠陥を、バールの『他の人々へDer Anderen*2』が提示している。それに加えて、問題となるもう一つの〈条件2に関わる〉欠陥がある。すなわち、ある男性が娘を十分に満足させるという特権性を持つということについて、その心情を感じ取って納得することなど我々にはできないということである。彼らの場合はそれゆえ我々には該当しない。(拙訳)

 作品タイトルの「Der Anderen」を、私は複数形ではないかと思ったのですが、岩波版では女性単数とされています。ただし拙訳のほうが正しいと言い切る自信はないです。

 それと、岩波で「彼女の事例」とされている「Ihr Fall」のIhrも、私は複数と思いました。すなわち、ある女性と、その女性にとって特権的男性の両者を指すと考えたのです。しかしこれも拙訳のほうが正しいと言い切る自信はないです。

 これまで6回に分けてみてきましたが、大変勉強になりました。本邦未訳論文はまだいくつかありますので、そのいくつかは、岩波から出る前に自分で訳してみたいと思うようになりました。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト (著), 新宮 一成 (編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

2008年4月 1日 (火)

フロイト全集より『舞台上の精神病質的人物』5

 この論文について、岩波版フロイト全集の訳を用いて、かつて私が作成した訳の間違いを探しています。

 なぜなら、抑圧された心の蠢きを公然と露出させ、これをある程度まで意識化して是認することが、もっぱら嫌悪をもたらすのではなく、むしろ快をもたらしてくれるといった可能性は、神経症者においてしか望めないからである。神経者でない場合には、そうした是認は、ひとえに嫌悪されるだけであり、あらためて抑圧の行いをくりかえそうという態勢を呼び起こすだけである。というのも、そうした人たちにあっては、すでにこの抑圧は成功している。つまり、抑圧された心の蠢きが、かつてなされたあの一度の抑圧消費によって、完膚なきまでに相殺されているからである。ところが神経症者の場合は、この抑圧は、今にも崩れそうなほど不安定になっており、つねに新たな消費をつぎこむことが必要である -この消費は、抑圧された心の蠢きが是認されたときはじめて不要となるものだからである。この種の闘いが劇の主題となりうるのは、もっぱら神経症者においてのみであるが、むろん、こうした神経症者の場合でも、詩人は、解放の悦びだけを産み出すのではなく、そうはさせじとする抵抗をも産み出すことになる。(岩波版178頁)

 というのは、ただ神経症者にとってのみ、抑圧された動きの露呈やそのある程度の意識的再認が、単なる嫌悪に代わる快楽を準備しうるからである。すなわち非神経症者においては、そのような動きは単なる嫌悪に遭遇し、抑圧行為を反復しようという心構えを単に招くだけであろう。というのも、非神経症者ではこの抑圧は成功してきたのであり、抑圧された動きは、一回限りの抑圧労力で完全な平衡状態に保たれてきたからである。神経症者の場合、抑圧は失敗しつつあって、不安定で、確実に新たな労力を要する。ただしこの労力は、再認によって省くことができるだろう。神経症者においてのみ、劇の題材になりうる闘争が存続し、作者は神経症者に単なる開放の享楽ではなく、抵抗をも引き起こす。(拙訳)

 ひとつ目の下線部は、原文の代名詞が示すものが何かという点で岩波版と拙訳が異なっています。文法的にはどちらも可能ですが、ここでは非神経症者が劇を観ているときのことを言っていると考えれば、岩波版の方が良さそうです。

 ふたつ目の下線部は、原文では単なる関係詞節ですが、岩波版では前文の理由を示す節として訳されています。ここでは、抑圧された動きを認めることによって不要になった消費のエネルギーが、快楽をもたらすことを言いたいのであって、むしろこの節は次の文で示される事態の理由になっています。よってここは拙訳を取りたいです。

 次の箇所に移ります。

これによって抵抗がいくぶんかでも抑えられることは確かなところである。それは、分析作業においても見られるところであり、抑圧されたものは、通例意識への進入を拒まれているにもかかわらず、抵抗が小さくなると、そのひこばえが意識へとのぼってくるのである。(岩波版179頁)

その結果抵抗の一部が省かれることは確かであり、それは分析中にみられる次のような場合と同様である。すなわち、抑圧されたものの派生物は、抑圧された当のものを拒んでいる抵抗が減少する結果として意識へ到来するのである。(拙訳)

 ひとつ目の下線部は、前の引用箇所では岩波版で「不要になる」と訳されていた語が用いられているので、揃えた方がいいでしょう。労力が不要になって、あまったエネルギーが快に変わるという事態が大切です。

 ふたつ目の下線部ですが、「抑圧されたもののひこばえを拒んでいる」という関係詞節の先行詞が、岩波版では「意識」であり、拙訳では「抵抗」です(die Abkoemmlinge des Verdraengten infolge des geringeren Widerstandes zum Bewusstsein kommen, das sich dem Verdraengten selbst versagt.)。この箇所はやはり岩波版が正しいと思います。しかし、岩波版のように「抵抗が小さくなると、そのひこばえが意識へとのぼってくる」のではなく、「そのひこばえたちは、それらへの抵抗が小さいので、意識へとのぼってくる」のだと思います(論文「抑圧」参照)。ただし拙訳でもそのようには読みがたいので、次のように改めたいです。

その結果抵抗の一部が省かれることは確かであり、それは分析中にみられる次のような場合と同様である。すなわち、抑圧された当のものは意識へ到達できないが、抑圧されたものの派生物たちは、それらへの抵抗が小さいので、意識へ到来するのである。(拙訳)

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト (著), 新宮 一成 (編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

 こうして比較してみると実に勉強になります。

2008年3月25日 (火)

フロイト全集より『舞台上の精神病質的人物』4

 この論文の岩波版での翻訳について、拙訳(HPにて公開)との比較の続きです。

 それは、葛藤という 筋立てでなければならず、そこには、意志の努力とそれに対する抵抗がはらまれていなければならない。(岩波版p176)

 すなわちそれは葛藤からくるストーリーでなくてはならず、意思と抵抗との苦闘を含まねばならない。(拙訳)

 意志と抵抗うんぬんの部分ですが、岩波版は「努力」と「抵抗」が同格と捉えているのに対して、拙訳では「意思」と「抵抗」とを同格としています。原書では「Anstrengung des Willens und Widerstand」となっています。「Willens」が2格である一方で、「Widerstand」は2格ではなさそうですから、拙訳は間違いでして岩波の訳が正しいです。拙訳の訳語をそのまま用いるなら、「意思の苦闘と[それへの]抵抗」となります。

 この性格悲劇は、アゴーンに付き物のあらゆる興奮を利用するもので、人間的諸規則の縛りを捨て去った際立った登場人物たちによって演じられると成果があがるゆえ、本来は一人以上の主人公をもたねばならない。(岩波版p177)

 これは競争[Agon,葛藤]のあらゆる興奮を伴い、人間制度の諸々の制限から自由な傑出した人物たちの間で、利得の獲得を目指して演じられるものであって、本来、二名以上の主人公がいなければならない。(拙訳)

 「効果が上がる」「利得の獲得を目指して」という全く違った訳のもととなったのは、原文では単に「mit Gewinn」という副詞句です。これも辞書をひいて考え直してみると、やはり岩波版が正しいように思われます。

 同じ引用箇所でもうひとつ、「mehr als einen Helden」は「一人より多い主人公」ですから、日本語では「二人以上」が正しいと思ったのですが、ここは拙訳のほうが良さそうです。

 今回は私の間違いが目立ちました。岩波版を読むと「ああそうか」って感じですぐに拙訳の間違いに気づくんですけども、一人でミスなく翻訳することは難しいですねえ。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト (著), 新宮 一成 (編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

 最近変な事件や変な鑑定結果のニュースが多いですねえ。しかし報道内容と事実がだいぶ違うことが多いこともあるんで、何ともわからないというのが正直なところ。

2008年3月19日 (水)

フロイト全集より『舞台上の精神病質的人物』3

 岩波から初訳が公刊されたこの論文について、拙訳(HPで公開中)との比較の続きです。構文の取り方に違いがなければ細部をいちいち取り上げずに進んでいるのですが、文章表現の上手さでは拙訳はかなり見劣りがしますので、そうした細かな相違点ではほとんど岩波版に軍配が上がりそうです。

 さて気になる箇所ですが、ややこしいので独文も提示してみます。

しかし、問題となるこの苦しみは、やがて心の苦しみにのみ限定されてくる。というのも、身体的な苦しみを欲する者など誰一人いないからだし、いかなる心の悦びも、身体的苦しみを見せつけられることによって変容した身体感覚によって、すぐに終わってしまうことは、誰しもよく知っているからである。病気を患っている者が抱く欲望は、唯一、健康になりたい、この病の状態をおしまいにしたいということである。(岩波版p175-6)

さらにこの苦悩は、ほとんど精神的苦悩に限定される。というのも、身体的苦悩の際に変化する身体的感情があらゆる精神的享楽を直ちに終結させてしまうということを知っている者は、誰も身体的に苦悩しようとはしないのである。患っている者は、健康になりたい、病態から脱したいという願望だけを持っており・・・(拙訳)

Doch schraenkt sich dieses Leiden bald auf seeliches Leiden ein, denn koerperlich leiden will niemand, der weiss, wie bald das dabei veraenderte Koerpergefuehl allem seelichen Geniessen en Ende macht.

 相違点はまず、「niemand, der weiss...」のところを、拙訳では限定的用法の関係代名詞と取って「・・・である者は誰も・・・ない」としている一方で、岩波版では何の限定もなく「誰も・・・ない」としたあとに付加説明としていることです。私が持っている辞書3種では、「Niemand」(英語のno oneに相当)が関係詞の先行詞になる例文が載っていませんが、限定的用法がないわけはないと思います(英語の「nothing」に相当する「Nichts」についてなら、「Ich glaube Nichts, was ich nicht mit eigenem Augen gesehen habe.私は自分の目で見たものでなければ[何も]信じない」が載ってますし)。引用箇所を意味から考えてみても、少なくともフロイトの精神分析の立場からは、「身体的な苦しみを欲する者など誰一人いない」というのは自明ではないと思いますので、やはり限定が必要ではないかと思います。

 次に、「dabei」という副詞を、岩波版は「身体的苦しみを見せつけられることによって」、拙訳は単に「身体的苦悩の際に」としている点です。もちろん岩波版は直訳ではなく言葉を補った結果なのですが、ここでは「見せつけられる」立場にたった観客について述べているとの解釈のようです。しかし、その直後の文での補足説明は、観客ではなく病人一般について述べられています。引用した箇所よりも二つ後ろの文ではじめて観客の苦悩について述べられていますが、岩波訳ではその内容を先取りしてしまっているという印象を受けます。

 今回はいつもよりさらに細かい内容になってしまいました。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト (著), 新宮 一成 (編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

 カシオの電子辞書に、小学館ロベール大仏和を収録したものや、小学館独和大辞典を収録したものが登場していたことを知り、前者をさっそく注文しました。とくにロベールは書籍の場合かなりかさばりますから電子辞書の登場は大助かりです。喫茶店や出張先でラカンを読むにはクラウン仏和では(エクリはもちろんセミネールにも)力不足でしたが今後は大幅にはかどるのではないでしょうか。ワインの選び方事典も収録されているらしく、これも読書会中にちょっと飽きたときなどに開いてみる楽しみのひとつになりそうです。

 これまで使っていたのはクラウン仏和の他にリーダーズ/リーダーズプラス英和が入っていたので、リーダーズプラスで英米のヒット曲の解説を読むのもけっこう楽しいものでした。たとえば「Maneater」の項を引くと、「マンイーター(Hall & Oatesの1982年のヒット曲;この曲のベースギターによる前奏は‘You Can't Hurry Love’の前奏をそのまま使いMotownサウンド風になっている)」。

2008年3月 7日 (金)

フロイト全集より『舞台上の精神病質的人物』2

 岩波から初訳が出たこの論文について、かねてからHPに公開している拙訳との相違点の検討を続けます。

「観客は、世界の賑わいの中心に確たる我として立ちたいという功名心の炎も、すでにとっくの昔に鎮火させ、いやむしろ、どこか他のものへと置き換えざるをえなかったのであり、そのため自ら感じ、活動し、すべてを自分の思うがままに切り盛りしたいと望んでいる。つまり主人公[英雄]になりたいと望んでいるのである。」(岩波版173-4頁)

「観客は・・・世界の激動の中心にわれとして立ちたいという野望をずっと前から抑え、あるいはせいぜい延期せねばならなかった。彼は、すべてが思い通りに作られていると感じたい、そのように力を振るいたいのであり、つまりは主人公でありたいのである。」(拙訳)

 ひとつ目の下線部は原語では「verschieben」であり、これは「移動する、置き換える」といった意味のほか「延期する」という意味もあります。原文には、「・・・を・・・と置き換える」という訳の「・・・と」にあたる部分がありませんし、「延期する」で良かったのではないかと今も考えています。

 次の下線部は、拙訳は完全に間違っています。「er will fuehlen, wirken, alles so gestalten, wie er moechte, kurz Held sein,」ですが、「gestalten」は「fuehlen, wirken」とともに助動詞「will」の支配下にあります。いま読むとどうして間違ったかわからないほど明瞭なミスです。「彼は、感じとり、作用を及ぼし、すべてを思い通りに作りたいのであり」としておきます。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト (著), 新宮 一成 (編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

 フロイト全集8巻の『機知』も届きました。この論文で扱われるドイツ語の機知とくに言葉遊びについて、人文書院の著作集の訳ではほとんどおもしろみが伝わってきませんでしたので、かつて私は(ドイツ語は全く話せない程度の力しかもちあわせないながらも)辞書と見比べながらなんとか面白さを見出そうと努力し、著作集の訳の誤りを発見した場合にはHP上に公開していましたが、今回の岩波版の訳には自分が考えたのと同様の解釈が幾つもあって、大変うれしく思います。

2008年3月 4日 (火)

医療観察法の共通評価項目

 このブログが滞りがちなのが気になってはいるのですが、このところ普段の仕事に加えて医療観察法関係の仕事が舞い込んできて私に心理的・時間的余裕がなくなっているのが滞る主な理由です。

 医療観察法とは、簡単に言えば、重大事件を起こした精神障害者に強制治療を行うための制度を定めた法律ですが、そこでは、裁判官など精神医学の非専門家にもわかりやすい尺度として、「共通評価項目」なる項目を設定してあり、これに従って鑑定時から入院、通院の期間中まで定期的に点数をつけていくことになっています。今回、そのいちばんはじめの項目が非常に奇妙に感じられるようになり、気になって仕方がありません。

「精神病症状 1) 通常でない思考内容:普通でない、怪奇な、あるいは奇妙な考えを表明する。重要でないことに強度にこだわる。明らかに異質なものを、同質とみなす。これはおろかさや悪ふざけによるものを含まない。(BPRS15.思考内容の異常に準ずる:通常では見られない、奇妙、奇怪な思考内容、すなわち思考狭窄、風変わりな確信や理論、妄想性の曲解、すべての妄想。この項では内容の非通常性についてのみ評価し、思考過程の解体の程度は評価しない。本面接中の非指示的部分および指示的部分で得られた通常では見られないような思考内容は、たとえ他の項(例、心気的訴え、罪責感、誇大性、疑惑等)ですでに評価されていてもここで再び評価する。またここでは病的嫉妬、妊娠妄想、性的妄想、空想的妄想、破局妄想、影響妄想、思考吹入等の内容も評価する。特定の対象への被害感、暴力的空想は特に他害行為に関連の強いものとして重要視される。1=ごく軽度。思考狭窄もしくは通常では見られない信念。稀な強迫観念。2=患者にとって相当に重大な意味を持つ奇怪な理論や確信。)」

 ここでいう『通常でない思考内容』とは、ひとまずは直後の4つの文で示されるものを指している(括弧内はそれらに対する付加的な説明)と思われます。それらのうち、妄想について述べられているのは、はじめの一文のみと思われます。すなわち、この項では、『普通でない、怪奇な、あるいは奇妙な考え』に該当する妄想のみを評価しなければいけないように読めます。(二つ目の文は主に強迫を指すでしょう。三つ目の文が言わんとしていることは難しいですが、「人形を子供だと言って抱いている」「がらくたを宝物として飾る」「1000円と書いたメモ用紙を、小遣いと言って周囲に配る」みたいな症状のことでしょうか。いずれにせよ、妄想について記載されているのはやはり主に第一文でしょう)

 一方で、ふつう妄想と呼ばれるものには、かなり奇異で不可能な内容のもの(例えば「自分の思考は神に伝わったのち天体の運行に影響を与えている」のようなもの)から、「隣近所で自分のことが噂されている」「自分は特定の人々から嫌われている、笑われている」「(存命中の知人について)誰々は死んでいる」といった、場合によってはその通りの事態も起こりうるような内容のものまで、さまざまなものがあります。後者のような思考内容の場合、正常者でも一瞬そのような疑念を持ち表明することもあり得ますから、内容的にはむしろ普通であるともいえ、これらが妄想であると言えるのは、事実と合致しないことや、その信念の持続や強さによってでしかありません。

 共通評価項目の説明には、『普通でない思考内容』、『この項では内容の非通常性についてのみ評価し、思考過程の解体の程度は評価しない』といった表現が含まれ、これらに従うなら、奇異な内容の妄想のみを評価せよ、と私には読めます(すなわち統合失調症の妄想のみを評価し、パラノイアの妄想は評価しないことになります。ちなみにパラノイア的な妄想には別項も用意されています)。点数についての説明でも、『1=ごく軽度。思考狭窄もしくは通常では見られない信念。稀な強迫観念。2=患者にとって相当に重大な意味を持つ奇怪な理論や確信』と、やはり奇異な妄想のみに注目して採点するよう指示しています。

 ところが括弧の中に『すべての妄想』という表現も含まれているので、私としてはどうしても困惑せざるをえないのです。さらに、その後ろには、『またここでは病的嫉妬、妊娠妄想、性的妄想、空想的妄想、破局妄想、影響妄想、思考吹入等の内容も評価する』と付け足されていますが、これらのうちいくつかは『すべての妄想』に含まれるもののように思われ、どうしてわざわざ付言されたのか、やはりよく分からないのです。

 上に引用した箇所から私は、フーコーの『言葉と物』に紹介されていた、『中国の事典』による動物の分類を思い出しました。「A.皇帝に属するもの B.芳香を放つもの C.飼い馴らされたもの D.乳呑み豚 E.人魚 F.お話にでてくるもの G.放し飼いの犬 H.この分類自体に含まれるもの I.気違いのように騒ぐもの J.数え切れぬもの K.らくだの毛の極細の筆で描かれたもの L.その他 M.今しがた壺を壊したもの N.遠くから蠅のように見えるもの」だそうです。

 いずれにせよ、共通評価項目の採点の際には、『思考内容の非通常性』に着目する採点者と、『すべての妄想』に着目する採点者とでは、おのずと点数が異なってきます。精神障害者・被害者の人生を左右する審判に用いられる評価項目が、これほどの内的矛盾を抱えたものであってはいけないと思えてなりません。

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