2018年4月30日 (月)

ラカン『精神分析の倫理』10章再読

 9章はほとんど翻訳に手を入れるべき箇所はありませんでしたが、10章もざっとみたところ、手を入れたくなる箇所は少ない印象です。

 まず取り上げるのは次の箇所です。下線部冒頭を、私は分詞構文と取りました。 

科学のディスクールはこの「排除」によって定義されます。おそらくだからこそ、科学のディスクールが行き着くパースペクティヴでは、現実界へと再出現してくる象徴界から排除されたもの -私の定式では- は、物理学の用語で描かれる<もの>と同じくらい謎めいているのです。(邦訳上巻198頁)

科学のディスクールはこの「排除」によって定義されます。おそらくだからこそ、科学のディスクールが行き着くパースペクティヴでは、-象徴界から排除されたものは、私の定式では現実界へと再出現してきますから- 物理学の用語で浮かび上がるものは、<もの>と同じくらい謎めいているのです。(代案)

 次はreliefという一単語の語釈の問題です。

遠近法の消失線のために絵画自身がその輪郭を失うある角度から見ると、髑髏が現れるのが見えます。(邦訳上巻204頁)

遠近法の消失線のために絵画自身がその奥行きを失うある角度から見ると、髑髏が現れるのが見えます。(代案)

 最後は、ドイツ語の転記の際に複数形を単数形にしてしまった箇所です。本書でラカンは、快楽原則を、思考・表象のスムーズな連鎖の原則として捉える狭い解釈を試みており、そのために「表象Vorstellung」という語の単複を厳密に使い分けて対比させているようにみえますし、それを邦訳も忠実に転記しています。以下の箇所も、(単数の箇所との対比はありませんが)複数であるべきと思います。

つまり快楽原則は基本的に「備給Besetzung」の次元で、「通道Bahnung」の次元で遂行されます。(邦訳上巻207~8頁)

つまり快楽原則は基本的に「備給Besetzung」の次元で、「通道Bahnungen」の次元で遂行されます。(代案)

 この章は内容的に難解ではありますが、翻訳についてはこれぐらいしか気づけませんでした。何年か経ってもう一度読み返す機会があればまた違う感想を持つかもしれませんが。

精神分析の倫理 上
出版社: 岩波書店 (2002/6/26)
ジャック・ラカン   (著),‎ ジャック・アラン・ミレール (編集),‎ 小出 浩之 (翻訳)

2018年4月10日 (火)

ラカン『精神分析の倫理』9章再読

 今回はラカンのセミネール7巻『精神分析の倫理』の第9章、『「無からex nihilo」の創造について』の再読です。

 ざっと読んだところ、この章の翻訳には大きな問題が見つかりません。

 なんとか探して次の箇所だけを挙げておきますが、まあ文脈からして、もとのままでも理解に差し支えはないかもしれません。

ですから、対象は再発見されますが、対象がすでに失われていたということを我々はこの発見によってしか知りえないのです。(邦訳上巻178頁)

ですから、対象は再発見されますが、対象がすでに失われていたということを我々はこの再発見によってしか知りえないのです。(代案)

 この7巻あたりから、翻訳上のミスはかなり減ったと思います。 ※個人の見解です。

精神分析の倫理 上
出版社: 岩波書店 (2002/6/26)
ジャック・ラカン   (著),‎ ジャック・アラン・ミレール (編集),‎ 小出 浩之 (翻訳)

2018年3月23日 (金)

ラカン『精神分析の倫理』8章再読

 今回は8章『対象と<もの>』の翻訳の検討です。

 まずはフロイトの『草稿』の読解部分から、以下の箇所を。

心的組織化が、すなわち「Φ」という生命体の最初の下書きが出現するのは、この「快楽自我」においてです。後の進展を見ると、この「Φ」はすでに「表象代理Vorstellungsrepraesentanzen」の機能によって支配されていることが分かります。(邦訳上巻152頁)

心的組織化の、すなわち組織体「Ψ」の、最初の下書き出現するのは、この「快楽自我」においてです。後の進展を見ると、この「Ψ」はすでに「表象代理Vorstellungsrepraesentanzen」の機能によって支配されていることが分かります。(代案)

 邦訳は、「organisation組織化」と「organisme組織体」を訳し分けようとして後者を「生命体」とした結果、原文の「Ψ」を誤植と思ってしまったのでしょうか。
 なお、『草稿』を読むと、「Φ」とはいまだ精神の外部にある感覚神経のようなものと考えられます。心的組織化の下書きは「Ψ」からはじまるという、ラカンの解釈通りで間違いないと思います。

 次も『草稿』に関連した箇所です。

快楽や、組織化され統一化された性愛的傾向だけでは、生きた有機体や生の逼迫・欲求、すなわち心的発展の中心を作り出すことはできません。(邦訳上巻156頁)

快楽や、生の組織化し統一化するエロス的傾向だけでは、生きた組織体を、また生の様々な逼迫と欲求を、心的発展の中心とすることはできません。(代案)

 最初の下線部は、直訳に戻すとよく分かりますが、生の欲動のことでしょう。二つ目の下線部は、「faire ... de...」(…を…にする)という熟語と取ってみました。

 次はラカンが最終戦争の兵器について何段落かにわたって述べた直後の箇所です。

「操作的」という語からの連想でちょっと脱線しました。(邦訳157頁)

 「操作的」の原語「operationnel」には、「軍事行動に関する」という意味があることを指しているのでしょう。

 次は、シュテルバとクラインの昇華論を紹介し、いずれも不十分とした直後の箇所です。

これら二つの定式を見ると、口先だけの解決 -それは、意味が空っぽということですが- に満足しない人なら誰でも、何が倒錯において問題なのかもう少し詳しく問う気になるでしょう。(邦訳上巻166頁)

これら二つの定式を見ると、口先だけの解決 -それは、意味が空っぽということですが- に満足しない人なら誰でも、何が昇華において問題なのかもう少し詳しく問う気になるでしょう。(代案)

 最後は代名詞の指す内容に関してです。文法的には、岩波版邦訳のままで正しい可能性もなくはないのですが。

教養人のサロンで礼節の規則が練り上げられ、そのお陰で対象が特別な位置へと引き上げられたのです。この礼節の不条理な性質を詳細にお話ししたいのです。(邦訳上巻167頁)

教養人のサロンで礼節の規則が練り上げられ、そのお陰で対象が特別な位置へと引き上げられたのです。この引き上げの不条理な性質を詳細にお話ししたいのです。(代案)

 この章については以上です。

 倫理と宮廷愛が並行して論じられるところがなんともスリリングに感じられるのですが、みなさんにはいかがでしょうか。

精神分析の倫理 上
出版社: 岩波書店 (2002/6/26)
ジャック・ラカン   (著),‎ ジャック・アラン・ミレール (編集),‎ 小出 浩之 (翻訳)

2018年2月 2日 (金)

ラカン『精神分析の倫理』7章再読

 今回は7章、『諸欲動とルアー』の翻訳の検討です。細かいところばかりになります。細かい、というのは、ラカン理解がひっくり返るような箇所ではないということです。

 ひとつめ。ラカンの翻訳ではpulsionを欲動、instinctを本能と訳すのが普通で、この巻の邦訳でもほとんどがそのように訳されていますが、次の箇所の最初の下線部ではその原則が破られています。

要するに、「昇華Sublimierung」の問題を始めるにあたっては、まずは諸欲動の可塑性ということがとりあげられねばならず、さらに、このとき以来いまだに解明されていないいくつかの理由によって、個人においてはすべてを昇華することは不可能である、と言わなくてはならないということです。(邦訳上巻138頁)

要するに、「昇華Sublimierung」の問題を始めるにあたっては、まずは諸本能の可塑性ということがとりあげられねばならず、さらに、このとき以来いまだに解明されていないいくつかの理由によって、個人においては昇華はすべて不可能である、と言わなくてはならないということです。(代案)

 なお、この章には「欲動傾向」という表現が何度も出てきますが、原語は「tendance」なので、翻訳は単に「傾向」とすべきと思います(あるいは「性向」とか「傾性」でしょうか)。

 次も細かいところです。

フロイトの思索によって詳しく説明されるまでは人間という種に特有のものと考えることもできたこれらの性感帯は、選ばれたいくつかの点、開口点、身体の表層にあるいくつかの孔に限られるものであり、エロスの源が発する点なのです。(邦訳上巻140頁)

フロイトの思索によって詳しく説明されるまでは人間という種に特有のものと考えることもできたこれらの性感帯は、選ばれたいくつかの点、開口点、身体の表面にあるいくつかの孔に限られるものであり、それらは<エロス>が源泉を引き出さなくてはならないであろう点なのです。(代案)

 この本の邦訳では大文字で始まる語を山括弧で囲うことになっている(例えば大文字の他者を<他者>と表記する)ので、エロスを<>の括弧で囲いました。実際、邦訳上巻148頁には、原文の大文字に対応した<エロス>という表記が登場します。
 しかしセミネールは口述された講義の記録ですから、おそらく大文字にしたのは編者の判断でしょう。この語が大文字で表される場合は、おそらくギリシア語「エロース」を念頭に置いているのでしょうし、セミネール8巻『転移』ではそれが明らかですけれども、ただこの7巻では大文字で表記する必要はないようにも思いますが。

 次は、本論からやや外れた、しかもかなりややこしい箇所の、細かい訂正です。

例えばウォルト・ホイットマンに倣って、男性が自己身体から何を欲望しうるか創造してみて下さい。身体と世界 -それ自身開かれざわめく世界- との完璧な全的接触を夢見ることもできるでしょう。あるいはまた、接触を夢み、この詩人が方向と道を示しているようなライフ・スタイル[同性愛]を夢み、何らかの根源的な呪いを押し殺す感情や絶えず人の気を引く存在[女性]を消し去って、調和という啓示を望むこともできるでしょう。(邦訳上巻140頁)

例えばウォルト・ホイットマンに倣って、男性が自己身体から何を欲望しうるか創造してみて下さい。身体と世界 -それ自身開かれざわめく世界- との完璧で全的な表皮接触を夢見ることもできるでしょう。つまり、接触を夢み、その遥か先に、この詩人が方向と道を示しているようなライフ・スタイル[同性愛]を夢み、何らかの根源的な呪いの圧迫的な感情の絶えず人の気を引く存在感[をもつ現行の調和]を消し去ることによる、調和の露呈を望むこともできるでしょう。(代案)

 邦訳に、[女性]という補足がありますが、私は海賊版も見比べてみて、上のようにちょっと違う解釈に至りました。

 次は単なる誤植です。

子供の最も蒼古的な渇望はそもそもの出発点であると同時に、性器期性の何からの優位とか両性具有の人間 -いかに完全なものを想像しても- などという単純な「表象Vorstellung」によっては決して完璧には解決されない核でもあります。(邦訳上巻140頁)

子供の最も蒼古的な渇望はそもそもの出発点であると同時に、性器期性の何らかの優位とか両性具有の人間 -いかに完全なものを想像しても- などという単純な「表象Vorstellung」によっては決して完璧には解決されない核でもあります。(代案)

 なお、冒頭の「渇望」の原語はaspirationで、前章で「むさぼるな」という命令の箇所で用いられていたconvoiterとは別の語です。

 次です。

…その時点では、昇華は対象あるいはリビドーにおける一つの変化として特徴づけられ、その変化は、症状のように抑圧されたものの回帰によって間接的に起こるのではなく、直接的に、つまり直接に満足させるという仕方で起こるものとされていました。性的リビドーは様々な対象の中に満足を見いだすことになります。フロイトは昇華の対象と性的リビドーの対象をどのように区別したのでしょう。(邦訳上巻141頁)

…その時点では、昇華は対象あるいはリビドーにおける一つの変化として特徴づけられ、その変化は、症状のように抑圧されたものの回帰によって間接的に起こるのではなく、直接的に、つまり直接に満足させるという仕方で起こるものとされていました。性的リビドーは様々な対象の中に満足を見いだすことになります。フロイトはそれらの対象をどのように区別したのでしょう。(代案)

 最後の「区別distinguer」は、分類したという意味ではなく、他と区別して取り出したという意味だと思います。

 次です。ほとんどニュアンスの問題ですけれど。原書には、「changer de batteries作戦を変える」とか「changer son fusil d'epaule鉄砲を担ぐ肩を変える/意見を変える/手段を新しくする」といった成句が含まれます。

集団が満足を見出すには個人の意志が抑えられなくてはならないが、昇華はまったくの個人的満足である、という問題をフロイトは十分に考えていないように見えます。(邦訳上巻142頁)

個人が作戦を変え手段を新しくしなくてはならないときに、集団は満足を見出しうるが、それでもこの場合、それ自体で成りたつ個人的満足がなくてはならない、という問題をフロイトは十分に考えていないように見えます。(代案)

 次は、あえて指摘しなくてもいいぐらいのことかもしれませんが、reserverは、「敬意を払う」ではなく「留保を置く」とか「慎重になる」です。

ルターは、このときまではエラスムスに対してなにか皮肉な感情を抱いていたとはいえ、その人物については敬意を払っていましたが、ここにいたって『奴隷的意志』を公刊し、人間が人間と結ぶ関係に根源的に見られる悪い性質を強調したのです。その悪い性質、つまり「Ding」、この「原因causa」は人間の運命の核心に属するものです。(邦訳上巻145頁)

ルターは、このときまではエラスムスに対して心密かになにか皮肉な感情を抱いていたとはいえ、その人物についてはきわめて慎重に判断を留保していましたが、ここにいたって『奴隷的意志』を公刊し、人間が人間と結ぶ関係に根源的に見られる悪い性質を強調したのです。その悪い性質、つまり「Ding」、この「原因causa」は人間の運命の核心に属するものです。(代役)

 最後です。ここも小さいところです。不要な箇所を棒線で消しておきます。

この水準において対象は、主体が自身のイマージュに抱く愛と絶えず交換される限りにおいて、導入されます。「自我リビドー」と「対象リビドー」が、それぞれ「理想自我Ideal-Ich」と「自我理想Ich-Ideal」との差異、つまり自我の幻影と理想形成との差異との関係において導入されているのです。(邦訳上巻146頁)

 邦訳だと、自我リビドーと対象リビドー、「理想自我Ideal-Ich」と「自我理想Ich-Ideal」、自我の幻影と理想形成、という三つの対の前者と後者が「それぞれ」対応しているかのようですが、少なくとも最初の対、自我リビドーと対象リビドーは、後ろの対と対応していないようです。ややこしいことに、「理想自我Ideal-Ich」と「自我理想Ich-Ideal」の順番が原書ではひっくり返っているんですけれど、意味からして「自我の幻影」は「理想自我」と対応するでしょうから、対応関係としては邦訳の方が正しそうなんです。邦訳はあえて訂正したということでしょう。これはラカンが講義で列挙するときに、必ずしも順番通りに繰り返さなかったということかもしれませんが。

 今回は以上です。

精神分析の倫理 上
出版社: 岩波書店 (2002/6/26)
ジャック・ラカン   (著),‎ ジャック・アラン・ミレール (編集),‎ 小出 浩之 (翻訳) 

2018年1月27日 (土)

ラカン『精神分析の倫理』6章再読

 今回はセミネール7巻6章、『道徳的法則について』の翻訳の検討です。

 この章も、翻訳の大きな問題点は少ないと思います。まず、悪い対象と良い対象というクラインの概念を扱っている箇所です、

主体は悪い対象への通路をいささかも持っていません。善に対してさえ主体はすでに距離を取っているではありませんか。(邦訳上巻110頁)

主体は悪い対象への通路をいささかも持っていません。良いもの[=良い対象]に対してさえ主体はすでに距離を取っているではありませんか。(代案)

 ここは、哲学的文脈で繰り返し用いられてきた「bien善」ではなく、「bon良い」が用いられています。

 次です。微妙ですが、二つ目の下線部のニュアンスは自分には大きなものに思えます。

 こうして現代科学の頂点では、カントの命令法は一新されて姿を現します、それは、エレクトロニクスやオートメーションの言葉を使えば、「汝の行為がプログラミングされているようにのみ行動すべし」と表現できましょう。(邦訳上巻116頁) 

 こうして現代科学の頂点では、カントの至上命令は一新されて姿を現します、それは、エレクトロニクスやオートメーションの言葉を使えば、「汝の行為がプログラミングされてありうるようにのみ行動すべし」と表現できましょう。(代案) 

 さいきんの若い医師・看護師たちには、「自らの行為がマニュアル化されてありうるように行動すべし」と考えていそうな人もいるのを見るにつけ、私にはラカンのこの指摘は臨床現場でアクチュアルなものと感じられます。医療観察法などを担当している職員はいっそうそうなっていきます。といいながら、自分も年々そういう傾向に染まっている気もします。

 次は、2つの箇所の関連を指摘したいところです。

「汝は隣人の家を欲してはならない。汝の隣人の妻、男女の奴隷や、牛、ロバ、さらには汝の隣人のものを一切欲してはならない」(邦訳上巻124頁)

たとえば、<法>が「むさぼるな」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、<もの>は機会あるごとに命令によってあらゆる種類のむさぼりを私の内にひきおこします。(邦訳上巻125頁)

 下線を付した箇所はすべて、動詞convoiterかその名詞形convoitiseなので、統一するなら「渇望(する)」でしょうか。

 上の2箇所を含む長い引用になりますが、細々とした訂正点が多い次の箇所を取り上げて代案をお示ししておきます。

…「汝は隣人の家を欲してはならない。汝の隣人の妻、男女の奴隷や、牛、ロバ、さらには汝の隣人のものを一切欲してはならない」。
 家とロバとの間に妻が置かれているので、多くの人が、ここではベドゥインやアラビアや北アフリカの原始社会の法が述べられていると考えました。私はそうは思いません。
 この法は、これを毎日破る男の心のなかに、少なくとも隣人の妻に関する部分を毎日破る男の心の中に、今でも生きています。この法は、ここでの我々の対象つまり「das Ding」との間に、何らかの関係があるに違いありません。
 というのは、この命令で言われていることは、善[財産]なら何でもというわけではないからです。交換の法をつくろうというのでもありませんし、人間の本能の運動や「激しさimpetus」を合法性や -こう言ってよければおかしな合法性や- 社会的「保証Sicherung」で覆い隠そうとするわけでもないのです。ここで言われているのは、「der Trug嘘」とか「das Ding」のような、人間存在がその中で休息することのできるものときわめて密接な関係を持つ限りでのみ価値があるもののことです。「das Ding」は、人間の善の相関物ではなくて、人間がそこで休息するものです。さらに言うなら、「das Ding」とはパロールの法の、最も原初的な相関物であり、それはつまり「最初に「das Ding」があった」という意味であり、「das Ding」とは主体が名づけ分節化し始めたものから分離されえた最初のものなのです。そして「欲してはならない」と言われているのは、私が欲望するものすべてにではなく、私の隣人の<もの>である限りでの事物へと向けてなのです。
 パロールそのものによって打ち立てられるものとしての<もの>とのこの距離を維持する限りにおいて、この命令はその意義を持つのです。
 しかしここで、我々はどこに辿りつくのでしょう。
 <法>は<もの>でしょうか。決してそうではありません。しかし<法>によらなければ、私は<もの>を知らなかったでしょう。たとえば、<法>が「むさぼるな」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、<もの>は機会あるごとに命令によってあらゆる種類のむさぼりを私の内にひきおこします。<法>がなければ<もの>は死んでいるのです。私はかつて<法>と関わりなく生きていました。しかし命令が登場したとき、<もの>は燃え上がり、生き返って、私は死にました。(邦訳124~125頁) 

…「汝は隣人の家を渇望してはならない。汝の隣人の妻、男女の召使いや、牛、ロバ、さらには汝の隣人に属するものを一切渇望してはならない」。
 家とロバとの間に妻が置かれているので、多くの人が、ここではベドゥインやアラビアや北アフリカの原始社会の要請が述べられていると考えました。私はそうは思いません。
 この法は、これを毎日破る男の心のなかに、少なくとも隣人の妻に関する部分を毎日破る男の心の中に、今でも生きています。この法は、ここでの我々の対象つまり「das Ding」との間に、何らかの関係があるに違いありません。
 というのは、[この法で]言われていることは、善[財産]なら何でもというわけではないからです。[言われているのは]交換の法をなすものでもありませんし、人間の本能の運動や「激しさimpetus」を -こう言ってよければ心地よい- 合法性や社会的「保証Sicherung」でカバーするものでもないのです。ここで言われているのは、これら諸対象のいずれもが、「der Trug欺瞞」とか「das Ding」のような、人間存在がその中で休息することのできるものときわめて密接な関係を持たずにいないという限りでのみ価値がある何かです。「das Ding」は、人間のの相関物ではなくて、人間がそこで休息するような善です。さらに言うなら、「das Ding」とはパロールの法の、最も原始的な起源における相関物であり、それはつまり「最初に「das Ding」があった」という意味であり、「das Ding」とは主体が名づけ分節化し始めたものから分離されえた最初のものなのです。そして[この命令で]言われているのは、私が欲望するものすべてにではなく、私の隣人の<もの>である限りでのものへと向けての渇望なのです。
 パロールそのものによって打ち立てられるものとしての<もの>とのこの距離を維持する限りにおいて、この命令はその価値を持つのです。
 しかしここで、我々はどこに辿りつくのでしょう。
 <法>は<もの>でしょうか。決してそうではありません。しかし<法>によらなければ、私は<もの>を知らなかったでしょう。たとえば、<法>が「渇望するな」と言わなかったら、私は渇望の概念を持たなかったでしょう。ところが、<もの>は機会あるごとに命令によってあらゆる種類の渇望を私の内にひきおこします。なぜなら<法>がなければ<もの>は死んでいるのです。私はかつて<法>と関わりなく生きていました。しかし命令が登場したとき、<もの>は燃え上がり、生き返って、私は死を見出しました。(代案)

 細かいところばかりになりました。もとの和訳と大きな違いはないかもしれません。

  今回は次が最後です。聖パウロの『ローマ人への手紙』に言及された直後の箇所です。

ある筋の人々がどう考えていようと、偉大な神学者たちは良い読み手ではないと考えるのは間違いです。私自身彼らの著書に没頭してみて損をしたことはありません。わけてもこの著者[ルター]を、みなさんのヴァカンスの宿題として示しておきたいのですが、彼はヴァカンスの友として悪くないでしょう。(邦訳上巻125頁)

ある筋の人々がどう考えていようと、聖なる[=聖書を構成する]著作群は良い読み物ではないと考えるのは間違いです。私自身それらに没頭してみて損をしたことはありません。わけてもこれを、みなさんのヴァカンスの宿題として示しておきたいのですが、これはヴァカンスの友として悪くないでしょう。(代案)

 最初の部分、「les auteurs sacres」の「auteur」は、「著者」ではなく、「著者の作品」という意味に取るべきと思います。そうすると、ここで言及されているのは、邦訳で角括弧内に補足されているルター(次章で大きく取り上げられます)ではなく、直前に言及されている聖パウロとその著作を指すでしょう。

 なお、この「auteur」という語について、邦訳上巻145頁では「les auteurs religieux」が「宗教上の著作」と訳されたあと、訳文内で「書き手」とも言い換えられてうまく処理されています。

 今回はここまでにします。

精神分析の倫理 上
出版社: 岩波書店 (2002/6/26)
ジャック・ラカン   (著),‎ ジャック・アラン・ミレール (編集),‎ 小出 浩之 (翻訳) 

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