2017年3月26日 (日)

ラカン『精神病』5章再読

 5章ですが、まずは冒頭から。

 先日症例検討会の際に、ある重篤な患者を取り上げましたね。
 それは決して故意に選んだ症例ではありません。この症例は無意識を蓋をせずに働かせていました。もっともそれを精神分析上のディスクールに移行させるのは困難でしたが。無意識を蓋をせずに働かせていた、と言いますのは、例外的な或る状況のために、他の患者なら抑圧されてしまっているはずのすべてのものが、この症例では他のランガージュによって、つまり限られた範囲でしか通用しない方言というランガージュによって、支えられていたからです。(岩波版邦訳97頁)

 この症例においてはもう一つのラング、つまりただ単に方言というだけでなく、その家族内だけのラングという領域において、そのことがより明らかな形で現れていたのです。(岩波版邦訳99頁)

 下線部は原文では同じ「a ciel ouvert」という表現が用いられています。辞書には「公然と」「おおっぴらに」とありますが、私としては、原文の比喩表現を活かして「白日の下に」としたいです。

 先日症例検討会の際に、ある重篤な患者を取り上げましたね。
 それは決して故意に選んだ症例ではありません。この症例は無意識をいわば白日の下に働かせていました。もっともそれを精神分析上のディスクールに移行させるのは困難でしたが。無意識を白日の下に働かせていた、と言いますのは、例外的な或る状況のために、他の患者なら抑圧されてしまっているはずのすべてのものが、この症例では他のランガージュによって、つまり限られた範囲でしか通用しない方言というランガージュによって、支えられていたからです。(代案)

 この症例においてはもう一つのラング、つまりただ単に方言というだけでなく、その家族内だけのラングという領域において、そのことが白日の下に現れていたのです。(代案)

 次です。

 このことは、全くの真実なので、あのアインシュタインほどの明晰な人物でさえ、あの象徴的次元のことを取り扱っている際に、神のことを頭に浮かべていたのです。彼は言っています。「神は意地が悪い。しかし、神は裏切らない」と。現実は、そこへと入り込むことがいかに困難であるとはいえ、私達を裏切ったり、故意に私達に一杯食わせたりすることはない、-もっとも、このことに気をとめる人は誰も居ませんが- という考えは科学の世界の構成にとって欠くことのできない考えです。(岩波版邦訳106頁)

 これを読むと、アインシュタインが論じている象徴的次元ってどんなものだろうかと考えてしまいますが、おそらくアインシュタインの物理理論を指します。

 このことは、全くの真実なので、あのアインシュタインほどの明晰な人物でさえ、彼自身の象徴秩序の取り扱いを語っている際に、神のことを頭に浮かべていたのです。彼は言っています。「神は意地が悪い。しかし、神は裏切らない」と。現実界は、そこへと入り込むことがいかに困難であるとはいえ、私達を裏切ったり、故意に私達に一杯食わせたりすることはない、-もっとも、このことに気をとめる人は誰も居ませんが- という考えは科学の世界の構成にとって欠くことのできない考えです。(代案)

 下線二つ目のように、ふつう現実界と訳されている語(le reel)が現実(realite)と訳されている箇所が、この章には結構多くあります。

 次です。症例シュレーバーが、汎神論的な神と、人格的な神の両者を体験していたという文脈で述べられた箇所です。

彼にとって世界を裏打ちしてくれる神 -この神は先ほどお話しした神、つまり神と延長とが等価値とされる考え方の神ではないとしても、それでもこの神は、延長は人を騙すものではないことの保証なのです- そしてもう一方は、極めて生々しい体験の中で、生きた有機体、つまり彼が言うように、生きている神として彼が関係を持った神、この二つの神は彼の経験上全く違うものです。(岩波版邦訳111頁)

 最後(3つめ)の下線部は構文にかかわる箇所で、この文だと、「生きた有機体」は「生きている神」と言い換えられているように読めます。はじめの2つの下線部は語釈のレベルですが改訳を提案してみます。

彼にとって世界の裏打ちである神 -この神は先ほどお話しした神、つまり神と延長とが等価値とされる考え方の神ではないとしても、それでもこの神は、延長は幻影ではないことの保証なのです- そしてもう一方は、極めて生々しい体験の中で、生きた有機体と関係するのと同じように関係を持った神、つまり彼が言うように、生きている神、この二つの神は彼の経験上全く違うものです。(代案)

 今回の最後は次の箇所です。

この妄想においては神は患者の誇大妄想の対極をなす項となっているとも言えますが、それは、神自身が策略に巻きこまれている限りでのことです。(岩波版邦訳114頁)

 下線部、「対極をなす項」の原文は「terme polaire」なので、単に「極をなす項」であって、「対極」というよりむしろ「中心」に近い意味じゃないでしょうか。

精神病〈上〉 
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

 この章ではスピノザの名が何度も出てきます。さいきん献本をいただいた書物でラカンとスピノザの関係を勉強したところなのでタイムリーでした。

主体の論理・概念の倫理 二〇世紀フランスのエピステモロジーとスピノザ主義
上野 修
米虫 正巳
出版社: 以文社 (2017/2/27)

2017年3月 5日 (日)

ラカン『精神病』4章再読

 4章の邦訳の問題に進みます。

 まず、代名詞が指している名詞の解釈によって原文の意味がひっくり返ってしまっている重大箇所があります。

さて発達のあらゆる段階において、この象徴化の起源の点である「是認(Bejahung)」に対立する何かが生じ得るのです。ここでいう「是認」とは、いわば何らかの原初的な「否定(Verneinung)」とも言うべきものであり、臨床的な「否定」はそれに従って起こる結果です。いわゆる「否定」と「是認」という二つのメカニズムの区別は極めて重要です。(岩波版上巻75頁)

さて発達のあらゆる段階において、この象徴化の起源の点である「是認(Bejahung)」に対立する何かが生じ得るのです。ここでいう対立する何かとは、いわば何らかの原初的な「否定(Verneinung)」とも言うべきものであり、臨床的な「否定」はそれに従って起こる結果です。いわゆる「否定」と「是認」という二つのメカニズムの区別は極めて重要です。(代案、下線部を変更)

 岩波版では、是認とは否定であるという、非常にややこしい論理になっています(しかも別の巻でラカンは、命名は物の殺害である、という主張をしているので、是認とは否定であるといえないこともないと思います)が、ここはシンプルに考えて良いと思います。

 続いて2節に入ると、女性患者の妄想が取り上げられます。患者は、隣家に住む女に対して被害妄想を抱いています。そして、その女のところに通ってくる男からすれ違いざまにひどいことを言われたという妄想的な体験を語ります。ラカンの問診の際に、患者は、そのとき自分が「私、豚肉屋から来たの」(原文:Je viens de chez le charcutier. )と言ったから、その男から「雌豚!」と罵られることになった、と語ります。この二つの台詞(「私、豚肉屋から来たの」「雌豚!」)はいずれも患者の幻聴・妄想によるものであって、実際には何の台詞も交わされていません。

 さて、章タイトルにもあるこの「私、豚肉屋から来たの」という短い台詞の翻訳がなかなか難しいと思います。
 まず、意味として、「豚肉屋から来た」のではなく、「豚肉屋さんの家から来た」が正しいです。ただこれだと日本語としてちょっと冗長になってしまいますが。

 もうひとつは、この和訳だと女性が発した台詞でしかありえなくなってしまいますが、原文では男性が発しても女性が発してもおかしくない台詞です。このいわば中性性が、本文でラカンの説明するメカニズムに絡んできます。

 ですから、これは(やや冗長ですが)「私は豚肉屋さんの家から来ました」とでもしておきましょう。

 ラカンの問診の際に、患者は、自分が「私は豚肉屋さんの家から来ました」という「暗示」を語ってしまったから、その男から「雌豚!」と罵られることになった、と語ります。ここで「暗示」と訳されている語、allusionですが、これは「あてこすり」という感じだと思います。患者は、「私」と言いながら自分のことではなく、男と隣家について揶揄したからです。それに対して男がその台詞を「あてこすり」としてではなくあえて真に受けて「雌豚!」と罵った、と患者は語っているわけです。この「暗示」という語がこの章に何度も出てきますが、それらはみなこの「あてこすり=自分ではなく男に該当する台詞」という意味にとるべきと思います。

 さて、ラカンがこのセミネールでも他の箇所でも何度も説明に使った正常な例として、「君は僕の妻」という台詞があります。一般に、ひとがこの台詞を、結婚のプロポーズの場面で言うとき、この台詞は、「私は君の夫である」と言外に語っています。こういう事態をラカンは『充溢したパロール』と呼び、その場合主体はそのメッセージson messageをひっくり返った形で受け取る、と説明します。
 これとは対照的に、先の「雌豚!」という幻聴では、自分自身のメッセージがそのまま聞こえてきます。この相違をラカンは次のように言います。引用文には原文の表現を適宜挿入しました。

「雌豚」、これは何でしょうか。それは実際は彼女のメッセージson messageですが、むしろ彼女自身についてのメッセージson propre messageと言えないでしょうか。(岩波版上巻80頁)

そう考えればそれだけでも、ひっくり返った形で受け取られるメッセージが問題ではなくて、患者自身についてのメッセージpropre message du sujetが問題であるということが解ります。(岩波版82頁)

 邦訳では「(son) propre message」を「son message」と区別して、「〇〇自身についてのメッセージ」という表現に統一して訳出されていますが、先に挙げた正常な例も、自分自身についてのメッセージ(「僕は君の夫」)を受け取っているという点では同じです。ここで「son propre message」は、「自分自身が発したままのメッセージ」という意味ではないでしょうか。次の箇所にも出てきます。

小文字のaが患者に「雌豚」と言います。だから私達に語る人物、つまり妄想者として語った人物、すなわちa’は、おそらく何らかの仕方で自分自身についてのメッセージson propre messageをひっくり返った形で、小文字の他者から受け取っています。(岩波版85頁)

 ここも、「自分自身が発したままのメッセージ」と解した方がぴったりくると思います。

 最後に、ちょっとした構文のとり違いの箇所を。

皆さんが他者(A)を設立するのは再認の中でであり、それは、皆さんがその中で自らを再認させるパロールの価値それ自体が依存している主体としての実存の単なる一要素とか、チェスの駒、マリオネットとしてではなくて、その実存の還元不能な絶対者として設立されるのです。(岩波版上巻83頁)

皆さんが他者(A)を設立するのは再認の中でであり、それは、現実の単なる一要素とか、チェスの駒、マリオネットとしてではなくて、皆さんがその中で自らを再認させるパロールの価値それ自体が主体として依存しているその実存の還元不能な絶対者として設立されるのです。(代案)

 この章については章全体の内容に関わる大きな変更点があったので長くなりました。細かな点はまだまだあるのですがこの辺にしておきましょう。

精神病〈上〉 
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

 ところで、原文では、「私はcharcutierの家から来ました」と言ったら「Truie!」と罵られたわけで、二人の台詞に共通の語はありません。しかし日本語訳だと、「豚肉屋さんの家から来ました」と言ったら「雌豚!」と罵られたという、当たり前な(フランスの成句『de La Palice氏は死ぬ寸前まで生きていた』にも似た?)やり取りになってしまいます。邦訳では、ラカンが、患者に対して「porc豚肉」と言ってみた、とか、なぜ「cochon雄豚」ではなかったのか、などと論じている箇所全体が、「豚」という漢字を含む言葉で訳されてしまいますから、どうにも間抜けな印象になってしまいます。「charcutier」は、辞書には「豚肉屋」とも載っていますが、むしろハム・ソーセージなどを扱う店ですから「加工肉店」に近いかもしれませんし、「豚」を含まない言葉で平易に訳すなら単に「肉屋さん」「ハム屋さん」、がよいでしょうか。最近は食品関係のフランス語はそのまま日本でも使われることが多くなってきましたから、そのまま「シャルキュティエ」でも良いかもしれません。次のようなサイトがありました。http://charcuterie.jp/definition.html 

 外国語には、動物の名前が、雄と雌とでまったく異なるものがしばしばありますが、日本語にはあんまりないですね。これにはどんな背景があるのでしょうか。

2017年2月 9日 (木)

ラカン『精神病』3章再読

 前回は「要素現象」の概念を取り上げましたが、辞書を引き直すと、「elementar」にはドイツ語では「荒々しい、抑えられない、激烈な」という意味もあるようで、しかもこの意味での使用頻度が高いのか、小学館の大独和ではこの語義が最初に挙げられています。フランス語のelementaireにはこの意味はないようだし、意味的にもラカンの訳には「要素(現象)」でよさそうですが、ヤスパースを訳す際には、この意味を含み持つような訳を考えるべきかもしれません。ヤスパースでは、その後の精神病プロセスの起爆剤的な現象を指すともいえそうですから。

 さて、3章の翻訳からは次の箇所を取り上げましょう。

 医療上関わり合った男性達が次々と登場したこと、つまりそれらの人たちが次々と名前を挙げられ、シュレーバー議長のとてつもない迫害妄想の中心に相次いで出現したことは、たしかにこれらの男性達の重要性を示しています。(邦訳上巻47~48頁)

 下線部の原文を直訳すると「とてつもなくパラノイド的な迫害」です。精神医学用語でパラノイドとは、パラノイアに似て非なる妄想型統合失調症を指しますから、翻訳はわかりやすく「とてつもなく妄想型統合失調症的な迫害」としてもよいでしょう。こういう箇所を見ると、ラカンはシュレーバーを、(妄想形成メカニズムを論じるときにはパラノイアという言葉を使っていますが)診断的には妄想型統合失調症とみていたことが分かります。当たり前ですけど。

 次に、私にとっては58頁のほぼ真ん中にある段落が、今回読み直しても非常に理解困難に感じます。

 まず第一の形、それは「信頼」、つまり捧げられたパロールです。たとえば「君は僕の妻だTu es ma femme.」とか「あなたは私の師Tu es mom maitre.」がそれです。これらのパロールが意味しているのは、「君はなお私のパロールの中にあるものだ。そして、私がそう言えるのは君という場で、このパロールを捉えているからこそなのだ。それは、君から生じて、私が任すことの確かさを君に見出すのだ。このパロールは君の任に置くパロールなのだ、君の」ということです。(邦訳上巻58頁)

 「君という場で、パロールを捉えている」は原文では「prendre la parole a ta place」なのですが、このprendre la paroleはふつう成句として「発言する」という意味になるのです。上に引用した邦訳なら、パロールを受け取っているという意味、成句と取ればパロールを発しているという意味になりますが、ここは文脈上どちらと取るべきかがまず迷う点です。
 「君という場」はラカン理論では大文字の他者を指すという点も考えなければなりません。
 それと、「任す」「任に置く」と訳されたengagerですが、辞書を見るとかなり多義的だし、ものを補語とするときと人を補語とするときとで意味が違うので困ります。他の箇所での訳との整合性も考えなければなりません(前の段落には「任されたパロールparole engagee」という箇所もありますが、engager la paroleは「言質を与える」という意味もあるようでなおややこしい)。それと、途中の「君に(見出す)」ですが、原文は「y」ですので「君の場に(見出す)」ではないでしょうか。というわけで、かなり暫定的に次のような代案を考えてみました。

 まず第一の形、それは「fides信頼」、つまり捧げられたパロールです。たとえば「君は僕の妻だTu es ma femme.」とか「あなたは私の師Tu es mom maitre.」がそれです。これらのパロールが意味しているのは、「君はなお私のパロールの中にあるものだ。そして、私がそう言えるのは君の場で、このパロールを発しているからこそなのだ。それは、君から生じて、私が任ずることの確かさを君の場に見出すのだ。このパロールは君を任ずるパロールなのだ、君を」ということです。(仮の代案)

 最後に些細な箇所です。

 つまり嫉妬妄想では、何よりも、性化の記号が逆転された[ルビ:アンベルティ]他者との同一化が見出されるのです(邦訳上巻68頁)

 ここのルビは正しくは「アンテルベルティ」です。フランス語にはアンテルベルティもアンベルティも実在して、意味もよく似ているのですが。

 翻訳の問題から離れて、この章で印象的なのは、精神分析家ならば患者に対して、「相手は普通の人々が理解しているよりももっと深い仕方で、無意識という体系のメカニズムそのものに通暁した人だという感じをお持ちになるでしょう」という箇所です。このように、ラカンにとって、精神病患者は、人間の精神の普遍的な問題に気づくことがある人々だというわけです。一方でこれと対照的に、現象学的な精神医学者は、たとえばブランケンブルク『自明性の喪失』で詳論されている患者、アンネ・ラウを、極めて高い内省能力でもって症状を語っていると評価しているにもかかわらず、アンネは(人間一般の精神構造ではなく)単に統合失調症の基本障害に気づいている、としているのです。
 しかし上のような対比を踏まえて私がアンネ自身の言葉を読み返してみると、アンネは、人間の精神構造一般の問題についての鋭い洞察を随所で語っているように感じますけれど、皆さんはいかがでしょうか。

精神病〈上〉 
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

2017年1月20日 (金)

ラカン『精神病』2章再読

 今回は、2章に進みます。ラカンがその師クレランボーから借りた概念と述べる(しかし実はヤスパースから借りた概念である)「基礎的現象」について述べている箇所です。この概念については過去にもこのブログで少し触れました。

http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-d5b6.html
http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-53e8.html

 なお、この「基礎的」の原語はelementar(独)であって、ヤスパースの本では「元素的」とか「要素的」と訳されたりしています。

 今回気になったのは次の箇所です。

 …私が確信を持って強調してきたことは、「基礎的現象」という時の基礎的とは、妄想の構成全体の下に隠れているという意味ではないということです。「基礎的現象」とは、植物にたとえて言えば、一枚の葉をよく見れば、そこに葉脈が入り組み、繋がり合う、その仕方によって、その葉の詳細が明らかになるのと同じように、基礎的だということです。つまり、その植物全体に共通する何かがあるということです。そしてそれが、その植物全体を作り上げている或る特定の形態の下で再生産されるのです。同様に、妄想の構成や動機や主題化という次元にはこれと類似の構造が存在していますし、さらに、「基礎的現象」の次元にもこれと類似の構造が認められるのです。言い換えれば、妄想において働いているもの、それは、妄想をその部分で考えようと、全体で考えようと、いわば常に同じ構造化する力であるということです。
 …妄想は、何かから演繹されるようなものではありません。妄想は妄想を構成する力自体を再生産するのです。妄想それ自体もまた、「基礎的現象」なのです。つまり、この場合基礎という概念は、構造という概念、すなわち差異化され、それ自身以外のものへは還元不可能な構造という概念としてしか理解されません。(邦訳上巻29~30頁)

 2箇所に下線を付しましたが、どちらにも「meme同じ」というまさに同じ表現が用いられています。「meme」には、「同じ」と「…自体」という二つの意味がありますが、この二箇所で別の意味で用いられているとは考えがたく、後者は、「妄想を構成する力自体を」ではなく、「構成する同じ力を」と訳すべきでしょう。

 ここで言われているのは、「何かおかしいぞ」といった微小な気づきであれ、一定の広がりを持った妄想観念であれ、どちらも同じ構造を持っており、しかも、同じように拡大して妄想体系を広げていく、という考え方です。ですから、一定の広がりを持ち複合的になった妄想も、その後の妄想発展にとっての「基礎的現象」と呼んでよいということになります。

 これをふまえると、次の部分のやや強引な翻訳は不要になって、原文を活かしてあっさり直訳できると思います。

 私が申し上げたいこと、それは、パラノイア問題に取り組む困難さは、パラノイアがまさしくこの了解という平面に位置しているという事実に起因しているということです。
 「基礎的現象」、還元不能な現象こそがパラノイアにおいて解釈すべきものなのです。(邦訳上巻32頁)

 下線の部分は、直訳なら以下のようになるでしょう。

「基礎的現象」、還元不能な現象が、ここで解釈の水準にあるのです。

 これは、「(妄想的)解釈」という、患者が意識的に行った判断もまた、ここでは「基礎的現象」として扱わなければならない、という意味ではないでしょうか。 

 ここには、すこし後ろにある次の箇所も対応していると思われます。邦訳者は、「基礎的現象」を、「それ以上分解不能な、妄想の端緒となる現象」といった意味に解しているので、ここで「着想」という訳語に置き換えるなど、内容を改変せざるを得なくなっているように思われます。

基礎的な現象としての着想を取り上げてみましょう。(邦訳上巻35頁)

基礎的な解釈を取り上げてみましょう。(改訳試案)

 妄想的解釈もまた基礎的現象である、という考え方がここにもうかがえます。

精神病〈上〉 
ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (1987/03)

 なお、今回取り上げた「基礎的現象」の概念については松本卓也先生が「要素現象」の訳語で詳細に取り上げておられ、単行本としてもすでに出版があります。

人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-
松本卓也

出版社: 青土社(2015/4/24)

2017年1月15日 (日)

ラカン『精神病』1章再読

 さいきん臨床ではいろんな種類の妄想に出会うことができたので、自分なりにもう一度整理しなおしたいと思い、まず初心に戻って、ラカンの『精神病』を読み返してみることにしました。年初というのも良いタイミングではないかと思います。

 で、例によって翻訳で気になったところなどは章ごとにここで報告してみようと思います。私自身は要約とかするのは苦手なので、代わりにこういう作業を、自分が今回読んで考えたことのメモとしていくやり方を取っています。

 まずは1章から次のちょっとした箇所を。

 ウィーンで私がちょっとしたことをお話しした時ある好青年が、「精神病は、器質的なものと思われますか」と質問しました。その際、私は次のように答えました。「その質問はまったく無効なんです。ずっと前から私は心理学と生理学を区別していません。実際、<なろうと思っても、狂人にはなれない>でしょ」と。この言葉を、私はもう太古的と言っていいほどの昔、私の当直室の壁に貼っていました。(邦訳上巻22頁)

 下線を付した部分は、「無効」で間違いではありませんが(原語はperimeです)、「有効期限切れ」「時代遅れ」といったニュアンスを訳さないと、そのあとの文との繋がりがはっきりしないと思います。

 ところでこの質問は、下巻の次の箇所に関係しているように思われます。

 ストラスブールでもウィーンと同じような質問を受けました。私の言うことがかなり分かっていると思われる人々が、最後に私にこう言うのです。「ところで精神病においては、どのように操作するのですか」と。この人のように基本のわかっていない人々の前で、技法のイロハを強調することはもうたくさんです。(邦訳下巻7頁。なお、邦訳では「ウィーンと同じ」ではなく「ウィーンでも同じ」とされている。)

 ここはウィーンで受けた質問を聴衆にとって既知のものと想定しているような言い方です。上巻の箇所は1955年11月16日、下巻の箇所は1956年3月14日の講義ですが、この間もことある毎に仲間内で話題にしたりしていたのでしょうか。(引用の最後の文はかなりの意訳で、だいぶニュアンスは違いますが)いずれにせよ、ちょっと底意地の悪さを感じてしまう箇所です。

 あとは翻訳で気になったのは、上巻14頁に何カ所か出て来る「理解」という語です。原語は、そこまでのヤスパース関連の文脈で「了解」と訳されていたのと同じ語ですし、内容的にもここはヤスパース流の「了解」を話題にしている箇所と思います。

 といった感じで、章ごとに進んでいきたいと思います。

 この年、ラカンは54~55歳ですが、研修医時代を「太古的と言っていいほどの昔」と言っています。私もだんだん当時のラカンの年齢に近づいていますが、なかなか感慨深い表現です。

精神病〈上〉 

ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (1987/03)

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