2021年11月 5日 (金)

ラカン『フロイト的もの』(エクリ407~408頁)

 ラカンの講義録『精神病』を読み進むなか、その途中で読み上げられたというこの論文を読んでいます。今回で最初の節が終わりますが、やはりラカンが書いたものは手ごわいという印象で、全体としての論旨はなかなか見えづらいのですが、訳し進めてみます。

 3点ほど前置きしておきます。まず、以下の最初の文に「règles」とありますが、これは前の段落で動詞「régler」が出てくるので、これを踏まえたものと思います。原語を残したほか、前段の文脈をふまえた内容を少し括弧で補っておきました。もうひとつは、最初の段落に、「où se réduit...」や「où confine ce new-look 」という表現がありますが、ラカンは「auquel」や「à laquelle」の代わりに「où」を使うことが多いのでここもそのように取ってみたという点です。最後に、否定辞neが単独使用されている(pasなどの語を伴わない)箇所が2箇所有り、下線を付けておきました。辞書にはneが単独使用される場合が列挙されているのですが、「主節が否定形または疑問形の場合、接続法に置かれた関係節あるいは従属節内で(単独使用される)」という説明が、下線二つ目のneには当てはまりそうです。下線一つ目のneは直説法とともに用いられているのでいっそう困るのですが、文頭が「d'ou」であることに着目して、「疑問詞を用いた反語的疑問文で(単独使用される)」という説明に該当すると考えるしかなさそうに思います。ただし、反語的疑問文だとすると訳が難しい気もしまし、この前後に列挙された疑問文もみな反語的に受け取らねばならなくなるようだといっそう難しいと思います。

 Cette position ne saurait être réfutée puisque les règles s’y justifient par leurs issues, lesquelles sont tenues pour probantes du bien-fondé des règles. Pourtant nos questions se reprennent à pulluler. Comment ce prodigieux hasard s’est-il produit ? D’où vient cette contradiction entre le mic-mac préœdipien où se réduit la relation analytique pour nos modernes, et le fait que Freud ne s’en trouvait satisfait qu’il ne l’eût ramenée à la position de l’Œdipe ? Comment la sorte d’osculation en serre chaude où confine ce new-look de l’expérience, peut-elle être le dernier terme d’un progrès qui paraissait au départ ouvrir des voies multipliées entre tous les champs de la création, – ou la même question posée à l’envers ? Si les objets décelés en cette fermentation élective ont été ainsi découverts par une autre voie que la psychologie expérimentale, celle-ci est-elle habilitée à les retrouver par ses procédés ?

 [精神分析の狂信者による]この立場/措定が反駁されることなどありえないでしょう。なにしろそこで[実践を制御する]諸規則règlesは、諸規則そのものの妥当性からして納得のいくものとみなされるその出口/結末によって正当化されているからです。しかしながら我われの問いは再び急増し始めます。[精神分析のしきたりが獲得されたという]この驚異的な偶然はいかにして産み出されたのか。我ら現代人たちにとっての分析関係は前エディプス的企みに還元されますが、こうした企みと、フロイトが分析関係をエディプスの立場に導かなかったことに満足を見いだせずにいたという事実との矛盾はいったいどこから来るのか[そんな矛盾はどこからも出て来ないだろう]。経験/実験のこのニュールック[=新流行]とすれすれにあるような種類の温室内接触は、いかにして、創造のあらゆる領野の間の多数の道を初めは開くようにみえた進歩の最終項になりうるのか ・・・あるいは裏返しで提起される同じ問いになります。この選択的醸成において気付かれる諸対象[前述の糞と尻っぺた]がこのように実験心理学とは別の道で発見されたとしたら、実験心理学には、それ自身の手続きによってそれらを再発見する資格があるだろうか。

 Les réponses que nous obtiendrons des intéressés ne laissent pas de doute. Le moteur de l’expérience, même motivé en leurs termes, ne saurait être seulement cette vérité de mirage qui se réduit au mirage de la vérité. Tout est parti d’une vérité particulière, d’un dévoilement qui a fait que la réalité n’est plus pour nous telle qu’elle était avant, et c’est là ce qui continue à accrocher au vif des choses humaines la cacophonie insensée de la théorie, comme à empêcher la pratique de se dégrader au niveau des malheureux qui n’arrivent pas à s’en sortir (entendez que j’emploie ce terme pour en exclure les cyniques).

 利害関係者たちから我われが得る答えは、疑いの余地を残しません。経験/実験の動力は、彼らの言い方で動機づけられていても、単に、幻影というこの真理が真理の幻影へと還元されたものだけではありえないでしょう。全ては、ひとつの特殊な真理から出発します。つまり、我われにとって現実とは以前そうであったようなものではないという事態を招いたひとつの暴露から出発するのです。そしてそこにこそ、理論のばかげた耳障りな繰り言を人間的諸物の核心に引っ掛け続けるもの、窮地を脱するに至らない不幸者たち(私がこの用語を採用するのは、ひねくれ[=シニックな]者たちをそこから除外するためであることを理解されたい)の水準へと実践が堕落することを妨げ続けるものがあるのです。

Une vérité, s’il faut le dire, n’est pas facile à reconnaître, après qu’elle a été une fois reçue. Non qu’il n’y ait des vérités établies, mais elles se confondent alors si facilement avec la réalité qui les entoure, que pour les en distinguer on n’a longtemps trouvé d’autre artifice que de les marquer du signe de l’esprit, et pour leur rendre hommage, de les tenir pour venues d’un autre monde. Ce n’est pas tout de mettre au compte d’une sorte d’aveuglement de l’homme, le fait que la vérité ne soit jamais pour lui si belle fille qu’au moment où la lumière élevée par son bras dans l’emblème proverbial, la surprend nue. Et il faut faire un peu la bête pour feindre de ne rien savoir de ce qu’il en advient après. Mais la stupidité demeure d’une franchise taurine à se demander où l’on pouvait bien la chercher avant, l’emblème n’y aidant guère à indiquer le puits, lieu malséant voire malodorant, plutôt que l’écrin où toute forme précieuse doit se conserver intacte.

 必要とあれば言いますが、真理は、ひとたび認識された後には、容易には認識されません。既成の真理など有りはしないということではありませんが、[既成の]真理は、それを取り囲む現実ときわめて容易に混同されてしまい、それらを区別するために真理をエスプリの記号で印づける意外の技巧は長きにわたって見出されませんでしたし、真理を称えるために、それは別世界からやって来たとみなす以外の技巧も見出されませんでした。人間にとって真理は、格言的な紋章のなかでその腕で持ち上げた光が彼女を裸のまま捉える時点ほどにも美しい娘ではけっしてないという事実を、人間のある種の盲目性の責に帰すだけでは十分ではありません。そして、その後に到来することについて何も知らないふりをするためには少々[動物のように]馬鹿なふりをしなくてはなりません。しかし、かつて真理をどこに探すことができただろうか、と自問するという、雄牛のような率直さによる愚かしさが続いています。紋章も、貴重な形の全体が無傷のまま保存される宝石箱よりもむしろ不適切でさらには悪臭を放つ場である井戸をそこに示唆することをほとんど助けてくれないからです。

 今回の最後の段落で真理や紋章、裸婦や井戸について語られていますが、紋章に用いられる図像において、「真理」は、鏡を持って井戸から出てくる裸身の女性像で表されるということのようです。

 最後の段落に、「動物bête」や「雄牛のようtaurin」といった言葉がありますが、次の節にもこれらを踏まえた表現が出て来ます。

Ecrits
フランス語版
Jacques Lacan

2021年10月15日 (金)

ラカン『フロイト的もの』(エクリ406~7頁)

 ラカンの論文『フロイト的もの』の読解を続けます。

 今回の最初の段落に出てくる「鳩の足」という表現は、ネットで見つかるStaferla というサイトによるとニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』の一節、「嵐をもたらすのは、もっとも静かな言葉。鳩の足で歩いてくる思想こそ、世界をみちびくもの。」(岩波文庫上巻256頁)を念頭に置いたものとのことです。この一節は、ニーチェ本人の後年の著作『この人を見よ』にも再掲されているところをみると、おそらく有名な箇所のようです。ラカンのこの論文では、前回も今回もニーチェの名が出てきますし、本論文全体が「反対者」などの小見出しで区切られているのも『ツァラトゥストラ・・・』を念頭に置いていそうな気はします。とはいえそれでもラカンの意図がスッキリわかるとはいかない気がしますが。

 4段落目には「決疑論casuistique」や「恋愛地図carte de Tendre」といった、ふだん見慣れない言葉が出て来ます。前者は、おもいきって「(宗教上の)実証実験」とでも訳してしまって良いかも知れません。 後者はラカンが好んでときどきセミネールでも持ち出す言葉ですが、この「恋愛地図」という訳語ではネットで調べても上位に出てきません。女流作家スキュデリーの作品『クレリー』に登場するらしく、スキュデリーの名で引くほうが探しやすいでしょう。Madeleine de Scudéry - Wikipedia(英語)でその地図もみることができます。

 Ici les gros sabots s’avancent pour chausser les pattes de colombe sur lesquelles, on le sait, la vérité se porte, et engloutir à l’occasion l’oiseau avec : notre critère, s’écrie-t-on, est simplement économique, idéologue que vous êtes. Tous les arrangements de la réalité ne sont pas également économiques. Mais au point où la vérité s’est déjà portée, l’oiseau s’échappe et sort indemne avec notre question : – Économiques pour qui ?
 よく知られているように真理がのしかかっているのは鳩の足であり、この足に履かせるための大きな木靴がここで登場し、その機があれば鳥を飲み込んでしまいます:彼らはこう叫びます、私どものクライテリアは単に経済論的なのです、あなたが観念論者であっても、と。現実のあらゆる配置がみな等しく経済論的なわけではありません。しかし、真理がすでにのしかっていた地点では、鳥は、「[現実の配置は]誰にとって経済的ということか?」という我われの問いと共に無傷のまま逃げ、脱出します。

 Cette fois l’affaire va trop loin. L’adversaire ricane : « On voit ce que c’est. Monsieur donne dans la philosophie. Dans un moment, entrée de Platon et de Hegel. Ces signatures nous suffisent. Ce qu’elles avalisent est à mettre au panier, et quand même, comme vous l’avez dit, cela concernerait-il tout le monde, cela n’intéresse pas les spécialistes que nous sommes. Ça ne trouve même pas à se classer dans notre documentation. »
 このたび事態は行き過ぎています。敵対者はせせら笑うのです:「どういうことか分かっております。旦那様は哲学にのめり込んでおられるのです。もうじき、プラトンとヘーゲルのお出ましです。彼らの署名で私どもには十分です。その署名が保証するものなど、くずかごに捨てるべきです。それでも、あなたがおっしゃったように、そういうことはみなすべてのひとに関わるのかもしれませんが、私ども専門家は関与しません。そんなことが私どもの参考資料集に分類されることはありません」。

 Vous pensez que je raille en ce discours. Nullement, j’y souscris.
 みなさんは、私がこの講義でからかっていると思っています。とんでもない、私はこれに同意の署名をします。

 Si Freud n’a pas apporté autre chose à la connaissance de l’homme que cette vérité qu’il y a du véritable, il n’y a pas de découverte freudienne. Freud prend place alors dans la lignée des moralistes en qui s’incarne une tradition d’analyse humaniste, voie lactée au ciel de la culture européenne où Balthazar Gracián et La Rochefoucauld font figure d’étoiles de première grandeur et Nietzsche d’une nova aussi fulgurante que vite rentrée dans les ténèbres. Dernier venu d’entre eux et comme eux stimulé sans doute par un souci proprement chrétien de l’authenticité du mouvement de l’âme, Freud a su précipiter toute une casuistique en une carte de Tendre où l’on n’a que faire d’une orientation pour les offices auxquels on la destine. Son objectivité est en effet strictement liée à la sitution analytique, laquelle entre les quatre murs qui limitent son champ, se passe fort bien qu’on sache où est le nord puisqu’on l’y confond avec l’axe long du divan, tenu pour dirigé vers la personne de l’analyste. La psychanalyse est la science des mirages qui s’établissent dans ce champ. Expérience unique, au demeurant assez abjecte, mais qui ne saurait être trop recommandée à ceux qui veulent s’introduire au principe des folies de l’homme, car, pour se montrer parente de toute une gamme d’aliénations, elle les éclaire.
 真なるものが有るという真理の他にフロイトが人間の認知に何ももたらさなかったとすれば、フロイトの発見などというものは有りません。ところでフロイトは、ユマニスト的分析の伝統を体現するモラリストたちの系譜に位地を占めています。これ[=この伝統]はヨーロッパ文化の空に横たわる銀河であり、そこでバルタザール・グラシアンとラ・ロシュフーコーは一等星とされ、ニーチェは閃光とともに素早く暗闇へ帰る新星とされています。彼ら[モラリストたち]のなかに最後に到来したフロイトは、心の動きの真正性に関する本来キリスト教的な関心によっておそらく刺激された彼らと同様に、決疑論の全体を一種の恋愛地図に落とし込む術を知っていました。そうした恋愛地図では、決疑論が向けられる勤めoffices にとっての方向性など気にも留められません。その客観性は、実際、分析状況と厳密に結びついています。分析状況は、その領野を区切る四方の壁のなかで実にうまく経過しますから、北がどちらにあるか分かるほどです。なにしろそこでは北が、分析家の身柄に向いているとみなされる寝椅子の長軸と混同されるからです。精神分析は、この領野で打ち立てられる幻影についての科学です。これはユニークでありながらかなりおぞましい経験であって、人間の狂気の原理に入門したいと望む人びとにはどれほど勧めても勧めすぎるということのないものです。というのも、この経験は、自らが幅広い狂気と類縁であることを示すことで、疎外[=精神病]を解明するからです。

 Ce langage est modéré, ce n’est pas moi qui l’invente. On a pu entendre un zélote d’une psychanalyse prétendue classique définir celle-ci comme une expérience dont le privilège est strictement lié aux formes qui règlent sa pratique et qu’on ne saurait changer d’une ligne, parce qu’obtenues par un miracle du hasard, elles détiennent l’accès à une réalité transcendante aux aspects de l’histoire, et où le goût de l’ordre et l’amour du beau par exemple ont leur fondement permanent : à savoir les objets de la relation préœdipienne, merde et cornes au cul.
 この言葉遣いは穏当なものであり、これを創出したのは私ではありません。古典的と称されるようなある種の精神分析の狂信者がかつて精神分析を、その実践を制御する諸形式しきたりに厳密に結びついているような特権をもった経験として定義するのがきかれました。これら諸形式しきたりは、ひとつの路線から変更しようがないようなのです。なぜならそれら諸形式しきたりは偶然の奇跡によって獲得されておりいながら、歴史の諸相を超越したひとつの現実への通路を保持しているからです。そこ[=上記の諸形式しきたり]にこそ、たとえば秩序嗜好と美への愛が、それらの永続的な基礎を有しています:すなわち、前エディプス的関係の諸対象、糞と尻っぺたのことです。

 最後の段落では、「et où」がどこを指すかが難しいと思ったので、備忘のため下線で強調しておきました。#公開後に変更した箇所は取り消し線で示しました。

 今回も1ページ強のここまでとします。たぶん次回この節の終わりまで進めると思います。

Ecrits
フランス語版
Jacques Lacan

 精神分析を受けるという経験は精神病の解明に役立つ、なんて主張は、現代の精神医学の主流からはぜったい受け容れられないだろうと思います。しかし精神病症状について客観的立場からの理解が可能だなんてほうがとんでもない考え方だと私は思いますけど。

2021年10月 4日 (月)

ラカン『フロイト的もの』(エクリ405~6頁)

 『フロイト的もの』の先に1頁強ほど進みます。今回は新たな節に入りますが、前節の最後にあった自問に対する自答から始まります。

 今回は(特に最後の段落が)これまで以上にややこしく、正直なところうまく意味を掴めていない気がします。フランス語を母語としないウィーンの聴衆の前でこんなことを話してどれだけ理解されたのかと疑問に思わずにはいられません。

L’ADVERSAIRE.
反対者

 Je suis sûr ici de ma réponse : – Absolument pas, si ce que je vais dire est bien comme il doit être. Le sens d’un retour à Freud, c’est un retour au sens de Freud. Et le sens de ce qu’a dit Freud, peut être communiqué à quiconque parce que, même adressé à tous, chacun y sera intéressé : un mot suffira pour le faire sentir, la découverte de Freud met en question la vérité, et il n’est personne qui ne soit personnellement concerné par la vérité.
 私はここで私の答えを確信しています:私が言おうとしていることが、然るべきものであれば、決してそんな[彼らを失望させる]ことはない、という答えです。フロイトへの回帰の意味とは、フロイトの意味への回帰です。そしてフロイトが語ったことの意味は、誰にでも伝達されうるのです。なぜなら[その意味は]、全員に差し宛てられてはいても、誰もが[個々に]それと関わるであろうからです:それに感づいてもらうためには一つの言葉で十分でしょう、フロイトの発見は真理を問いに付しており、しかも真理に個人的に関わらない者など誰も居ないのです。

 Avouez que voilà un propos bien étrange que de vous jeter à la tête ce mot qui passe presque pour mal famé, d’être proscrit des bonnes compagnies. Je demande pourtant s’il n’est pas inscrit au cœur même de la pratique analytique, puisque aussi bien celle-ci toujours refait la découverte du pouvoir de la vérité en nous et jusqu’en notre chair.
 みなさんに認めていただきたいのですが、ここにあるのは、好ましい仲間たちから追放され、むしろ評判の悪いものとして通用しているこの言葉[=真理]でみなさんの頬をひっぱたくような、きわめて異様な話題ですね。私はそれでも、この言葉は分析実践の核心そのものに記載されていないかと問います。なにしろ、いずれにせよ分析実践は、我われひいては我われの肉体のうちにある真理の力の発見をつねにやり直すものだからです。

 En quoi l’inconscient serait-il en effet plus digne d’être reconnu que les défenses qui s’y opposent dans le sujet avec un succès qui les fait apparaître non moins réelles ? Je ne relève pas ici le commerce de la pacotille nietzschéenne du mensonge de la vie, ni ne m’émerveille qu’on croie croire, ni n’accepte qu’il suffise qu’on le veuille bien pour vouloir. Mais je demande d’où provient cette paix qui s’établit à reconnaître la tendance inconsciente, si elle n’est pas plus vraie que ce qui la contraignait dans le conflit ? Aussi bien n’est-ce pas que cette paix depuis quelque temps ne s’avère vite être une paix manquée, puisque non contents d’avoir reconnu comme inconscientes les défenses à attribuer au moi, les psychanalystes en identifient de plus en plus les mécanismes – déplacement quant à l’objet, renversement contre le sujet, régression de la forme, – à la dynamique même que Freud avait analysée dans la tendance, laquelle ainsi semble s’y continuer à un changement de signe près. Le comble n’est-il pas atteint quand on admet que la pulsion elle-même puisse être amenée par la défense à la conscience pour éviter que le sujet s’y reconnaisse ?
 いかなる点で無意識は、実際、主体のなかでそれと対立しそれなりに成功している様々な防衛よりもいっそう認識に値するものなのでしょうか。そうした防衛もこの成功のおかげで劣らず現実的に見えるものですが。私は、人生の嘘についてのニーチェ的な安物商売をここで取り上げませんし、人びとは信じているつもりでいるということに驚きませんし、人びとは望む[意思する]ためにはまさにその嘘を望む[意思する]だけで十分であることを受け容れません。しかし私は、無意識的な傾向は葛藤においてそれを抑え付けていたものよりも真ではないとすれば、それを認識することで成り立つ安らぎがどこからやって来るのかと問います。いずれにせよ、しばらく前からこの安らぎは、取り逃がされた安らぎであることがすぐに判明するということではないでしょうか。なにしろ、自我に帰すべき防衛を無意識的だと認識したことに甘んずることなく、精神分析家たちは、少しずつその防衛機制を ―つまり対象に関する移動を、そして主体に対する逆転を―、フロイトが傾向の中に分析した力動そのものと、同一視するようになっていますから。この傾向は、記号の変更を除けばそこで続いているようにみえます。欲動そのものは、主体がそれによって認識されることを避けるために、防衛によって意識化されうる、などということが受け入れられていては、[フロイトの分析の]頂点には手が届きません。

 この次の段落はものすごく厄介なのでいったん切って、あらかじめいくつか断っておきます。
 次段落2文目の「il s’en faille de si peu que...」は、「il s’en faut de 数量表現 que (ne) 接続法 ~であるには・・・(数量表現)だけ足りない」という構文で、数量表現のところに「peu」が入ると「もう少しのところで~である」「~も同然である」ということです。これが「il s'en faille...」という接続法になっている理由がはじめなかなか分からなかったのですが、「ce n’est pas que...que je déplore, c'est que...私が残念に思うのは~ということではなく~ということだ」という強調構文だと考えれば、ここは「je déploreが主観的な感情・判断を示しておりそこに続く名詞節だから接続法だということで解決します。
 なお、ここに出てくる「peu」は、普通なら「些細な、ほとんど無いもの」といった意味ですから、「すんでのところで~だ」「~も同然」といった訳を当てられ、この「わずかな差」が訳文から消えてしまうこともありますが、ここでラカンは、段落の4文目で「ce peu」として取り上げ直していますので、訳文でも省くわけにはいきません。
 そのすぐあとに出てくる「ボンディの森」とは、辞書によれば「パリ北東にあった大きな森で、かつて盗賊の巣窟とされた」ということですが、地名「Bondy」は「bandits盗賊」とほぼ同音で、ラカンはこれを念頭に置いていたかも知れません。それと、「木を見て森を見ず」は、フランス語では「木が森を隠す」という言い方で表現されることも付け加えておきます。
 以上の前おきは、おおむね以下の原文引用の1~3行目ぐらいの内容に関わりますが、そこから先はますます難しくなっていきます。

 Encore me sers-je pour traduire l’exposé de ces mystères en un discours cohérent, de mots qui malgré moi y rétablissent la dualité qui les soutient. Mais ce n’est pas que les arbres du cheminement technique cachent la forêt de la théorie que je déplore, c’est qu’il s’en faille de si peu qu’on ne se croie dans la forêt de Bondy, exactement de ceci qui s’esquive derrière chaque arbre, qu’il doit y avoir des arbres plus vrais que les autres, ou, si vous voulez, que tous les arbres ne sont pas des bandits. Faute de quoi l’on demanderait où sont les bandits qui ne sont pas des arbres. Ce peu donc dont il va de tout en l’occasion, peut-être mérite-t-il qu’on s’en explique ? Cette vérité sans quoi il n’y a plus moyen de discerner le visage du masque, et hors laquelle il apparaît n’y avoir pas d’autre monstre que le labyrinthe lui-même, quelle est-elle ? Autrement dit, en quoi se distinguent-ils entre eux en vérité, s’ils sont tous d’une égale réalité ?
 それでも私は、これらの神秘[=防衛]の報告を、一貫したディスクールへと翻訳するために、それらを支える二元性を私の意に反してそこに回復する言葉を役立てます。しかし、私が残念に思うのは、技法的な歩みという木々が、技法という森を隠す、ということではなく、むしろ、人びとは自分がボンディの森[=盗賊の巣窟]のなかに居ると、つまりまさしく木々それぞれの陰に逃げてしまうものの森のなかに居ると、信じているもほぼ同然であって、そこまではあともうほんの少しだということです。ですから、他の木々よりもいっそう真なる木々が有るはずだとか、あるいは、みなさんにはこういったほうが良ければ、木々がすべて盗賊であるわけではないということになります。さもなくば[=ボンディの森に居ると信じたら]、人びとは木ではない盗賊はどこにいるかと疑問を持つことでしょう。ゆえに、場合によってはあらゆるものがそこから進んでくるこのほんの少しについて、ひょっとすると人びとが自らの考えを説明するに値するでしょうか。この真理なくしては、もはや顔を仮面から識別する手段は有りませんし、この真理の外では、迷宮そのもののほかには怪物はなさそうに見えますが、この真理とはどんなものでしょうか。言い換えると、それらがみな同じ現実性をもつものであるならば、どのような点でそれらのなかで実のところ[=真理において]際立って区別されるのでしょうか。

 「de ceci qui s’esquive derrière chaque arbre, que...」という箇所は、ここの構文だけをみれば、「ceci=以下に述べること」と言っておいて「que」以下でその内容を述べ、それが「木の後ろに逃げてしまう」のだと考えたくなるのですが、そうすると意味的に、「木々のすべてが盗賊ではないという事態」が「木の後ろに逃げてしまう」という、まったく理解困難な文になってしまいます。
 では「de ceci」を「de Bondy」と同格と扱って、「ceci」は直前の「Bondy(地名であり、盗賊banditsとほぼ同音)」を指すと解釈できないかということになるでしょう(「de si peu」と同格ということはないでしょう)、と思いました。「盗賊」が「それぞれの木の陰に逃げてしまう」というのですから、その点では意味も通ります(いったい何の寓意なのかは分かりにくいですが)。
 ですが「que」以下の節(直説法)がどこからつながっているのかはっきりしない。直説法なので、そこで言われていることは疑わしくはないということはいえるでしょう。結局、訳文では、「si peu非常にわずかなこと」の内容を指すような感じで置いてみました。このあともしばらく「ce peu」が話題になり続けていますから、おおむねこんな感じじゃないでしょうか。

Ecrits
フランス語版
Jacques Lacan

 それでもすっきりしない今回、banditにちなんで最後に、ホイットニー・ヒューストンのさわやかな名曲をclean banditがサンプリング使用した(というのかな)この最新シングルを紹介して気分を直しておきましょう。無駄なイントロも省かれ、デビューアルバムのホイットニーの声が新鮮に蘇ります。

‎ホイットニー・ヒューストン & Clean Banditの「How Will I Know - Single」をApple Musicで

2021年9月23日 (木)

ラカン『フロイト的もの』(エクリ404~5頁)

 ラカンの『精神病』のセミネールからの行きがかりで読み始めたウィーンでの講演録『フロイト的もの』ですが、まだ前置きのあいさつ的な箇所が続きます。今回はなんとか1頁ちょっと進んで、前置き部分を終わらせようと思います。

 ところがdiscipline(仏語では英語よりも意味が狭いようです)やexerciceといった語にどういう訳語がふさわしいかさえまだ自信がなく、訳文の中に残しておきました。もっと後ろを読んでから立ち戻って訳語を変えるかもしれません。

 以下の2段落目に出てくる3人の人名(+敬称)のうち、一人目のHoff教授とは、ネットで検索するとすぐに出てくるHans Hoffのことでしょうか。2人目の「Dr Dozent Arnold」は、「Dozent」にはドイツ語で講師や教官という意味があるので、ファーストネームではないだろうとみなしました。ネットで探した範囲で該当しそうなのは、Hans Hoff教授の部下であったとも書かれているOttokar Arnoldでしょうか。最後に挙げられた人名Igor Carusoはフルネームなのでネットで検索すると一発で出てきますが、けっこう有名な心理学者のようです。

 その段落は畑や開墾をほのめかしていそうな言葉が並ぶ部分があったりしたあと、最後の文がさらにとてもわかりにくいのですが、「devoir à qc de inf. ~に~の恩恵を受けている、~は~のおかげである/~を~から得ている、~は~から由来する」という言い回しが、3回繰り返されているものと取り(原文に下線を引いておきました)、その1回めのなかの「de vous faire」の目的語が「la causerie 」だと考えました。

 というわけで、次のように訳を考えてみました。

 Textes qui se montrent comparables à ceux-là même que la vénération humaine a revêtu en d’autres temps des plus hauts attributs, en ce qu’ils supportent l’épreuve de cette discipline du commentaire, dont on retrouve la vertu à s’en servir selon la tradition non pas seulement pour replacer une parole dans le contexte de son temps, mais pour mesurer si la réponse qu’elle apporte aux questions qu’elle pose, est ou non dépassée par la réponse qu’on y trouve aux questions de l’actuel.

 これらのテキストは、注釈による検討に耐えるという点で、かつて人間の崇拝がきわめて高い属性で包んできた諸テキストに比肩するものです。この注釈という学業訓練disciplineの利点が再発見されるのは、伝統に従って、ただパロール[=神の啓示の言葉の意あり]をその時代の文脈のなかに置き直すためだけに役立つことによることではありません。むしろ、そのパロールが提起するいくつもの問いにそのパロール自らがもたらす答えが、当面の問いに人びとがそこで見出している答えによって凌駕されているか否かを測るために、役立つことによるのです。

 Vous apprendrai-je quelque chose, à vous dire que ces textes auxquels je consacre depuis quatre ans un séminaire de deux heures tous les mercredis de novembre à juillet, sans en avoir encore mis en œuvre plus du quart, si tant est que mon commentaire suppose leur ensemble, – nous ont donné à moi comme à ceux qui m’y suivent, la surprise de véritables découvertes ? Elles vont de concepts restés inexploités à des détails cliniques laissés à la trouvaille de notre exploration et qui témoignent de combien le champ dont Freud a fait l’expérience, dépassait les avenues qu’il s’est chargé de nous y ménager, et à quel point son observation qui donne parfois l’impression d’être exhaustive, était peu asservie à ce qu’il avait à démontrer. Qui n’a pas été ému parmi les techniciens de disciplines étrangères à l’analyse que j’ai conduit à lire ces textes, de cette recherche en action : que ce soit celle qu’il nous fait suivre dans la Traumdeutung, dans l’observation de l’Homme aux loups ou dans l’Au-delà du principe du plaisir ? Quel exercice à former des esprits, et quel message à y prêter sa voix ! Quel contrôle aussi de la valeur méthodique de cette formation et de l’effet de vérité de ce message, quand les élèves à qui vous les transmettez, vous apportent le témoignage d’une transformation survenue parfois du jour au lendemain de leur pratique, devenue plus simple et plus efficace avant même qu’elle leur devienne plus transparente. Je ne saurais vous rendre un compte extensif de ce travail dans la causerie que je dois à l’amabilité de M. le Professeur Hoff de vous faire en ce lieu de haute mémoire, à l’accord de mes vues avec celle du Dr Dozent Arnold d’avoir eu l’idée de la produire maintenant devant vous, à mes relations excellentes et déjà datées avec M. Igor Caruso de savoir quel accueil elle rencontrerait à Vienne.

 私が4年前から11月から6月までの毎水曜日、2時間のセミネールを費やしてきたこれらのテキストのうち、私の注釈がその全体を前提にしているとすればまだその四分の一しか利用されていないにもかかわらず ・・・我われに、つまり私と私についてくる者たちとに、これらのテキストが本当の発見の驚きをもたらした、と私がみなさんに言うとしたら、それで私はみなさんに何かを教えることになるでしょうか[そんなことはみなさんにも当たり前のことでしょう]。そうした発見は、我われの探索による掘り出しに委ねられたさまざまな臨床的細部のなかに、利用[=開墾]されないまま残っている諸概念に由来します。フロイトが経験した領野[=畑]は、フロイトが我われのためにそこに用意することを引き受けた通り道よりもいかにはるか上を行っていたか、また、時には網羅的であるとの印象も与える彼の観察記録は、彼が論証すべきであったものに、いかなる点でほとんど縛られていなかったか、それらの概念が証言しています。分析とは無縁の学業訓練disciplineを受けた技法家たちの中で、私がこれらのテキストを読むように導いた者のうち、いったい誰が、まさに活動中のこの研究に心を動かされなかったというのでしょうか。『夢解釈』においても『狼男』の観察記録においても、はたまた『快原理の彼岸』においても、フロイトが我われを付き従わせる研究のことです。なんという務めexerciceが人びとを養成することでしょうか、なんというメッセージが彼の代わりに声を挙げていることでしょうか。なんという制御が、この養成の方法的な価値と、このメッセージの真理としての効果に及んでいることでしょうか。みなさんによってそれら[=この養成の方法的価値とこのメッセージの真理効果]を伝達される弟子たちは、時として一夜にして現われた変容についてみなさんに証言をもたらします。彼らの実践はいっそう透明明白になるのですがその前にすでにいっそう単純かつ有効になるのです。私はこの仕事について、この懇談においてはみなさんに幅広い報告ができそうもありません。なおこの古き思い出を残した場でみなさんにこの懇話を行うことについてはホッフ教授氏の好意のおかげですし、いまみなさんの前でこの懇話を産み出そうと思いついたのはアルノルト講師のもくろみと私のもくろみとの一致のおかげであり、さらにこの懇話がウィーンでどんな歓迎に出会うかを知り得たのはイーゴル・カルーソー氏と私とのすでに古くからの卓越した関係のおかげでもあります。

 Mais je ne puis oublier aussi les auditeurs que je dois à la complaisance de M. Susini, directeur de notre Institut français à Vienne. Et c’est pourquoi au moment d’en venir au sens de ce retour à Freud dont je fais profession ici, il me faut me demander si, pour moins préparés qu’ils soient que les spécialistes à m’entendre, je ne risque pas de les décevoir.

 しかも私は、フランスの我われの研究所のウィーン局長であるスシーニ氏のはからいのおかげで集まりいただいている聴衆のみなさんを忘れるわけにはいきません。そしてだからこそ私は、ここで私が標榜しているこのフロイトへの回帰の意味に着手するとき、私から聞くことに対して聴衆のみなさんが専門家たちよりもいかに準備不足であろうとも、私が彼らを失望させるおそれがあるのではないかと自問しないわけにはいかないのです。

 最後の自問には、次の節の冒頭で、決して失望させるおそれはないでしょう、と強く否定されます。

 訳文だけ読むとどうしてもちんぷんかんぷんですが、原文と併記することで、なんとか話の筋を追える形になっていると良いのですが。

Ecrits
フランス語版
Jacques Lacan

2021年9月15日 (水)

ラカン『フロイト的もの』(エクリ403頁)

 ラカンの『精神病』のセミネールからの行きがかりで読み始めた『フロイト的もの』の続きです。

 『エクリ』403頁は次のような感じかなと思います。

 C’est ainsi que le mot de Freud à Jung de la bouche de qui je le tiens, quand invités tous deux de la Clark University, ils arrivèrent en vue du port de New York et de la célèbre statue éclairant l’univers : « Ils ne savent pas que nous leur apportons la peste », lui est renvoyé pour sanction d’une hybris dont l’antiphrase et sa noirceur n’éteignent pas le trouble éclat. La Némésis n’a eu, pour prendre au piège son auteur, qu’à le prendre au mot de son mot. Nous pourrions craindre qu’elle n’y ait joint un billet de retour de première classe.

 クラーク大学からフロイトとユングが招かれ、ニューヨークの港と、世界を照らす有名な像とが見えるところへ到着したときに、フロイトからユングに向けられた言葉:「彼らは、我われがペストを運んできたことを知らない」、私がユングから聞いたこの言葉は、かくして、ヒュブリス[=傲慢さ]の報いとしてフロイトに送り返されます。反語法とその腹黒さも、このヒュブリスの怪しげな輝きを消してはいません。その作者を罠に捉えるために、ネメシスは、この言葉を言葉通りに捉えるだけでよかったのです。我われは、ネメシスがそこに復路の一等切符を貼り付けたのではないかと懸念してもよいでしょう。

#「ネメシスはギリシア神話に登場する女神である。人間が神に働く無礼[ヒュブリス]に対する、神の憤りと罰の擬人化である。(以下略)」ウィキペディアより

 À la vérité, s’il s’est passé quelque chose de tel, nous n’avons à nous en prendre qu’à nous. Car l’Europe paraît plutôt s’être effacée du souci comme du style, sinon de la mémoire de ceux qui en sont sortis, avec le refoulement de leurs mauvais souvenirs.

 実のところ、そのようなことが起こったとしても、我われは我われ自身だけを責めたらよいのです。というのも、ヨーロッパはむしろ、そこから脱出した者たち、彼らの悪しき思い出の抑圧と共に脱出した者たちの記憶から消し去られたわけではないにせよ、彼らの気遣いや彼らのスタイルから消し去られたように思われるから[彼らを責めても無駄]です。

 Nous ne nous plaindrons pas de cet oubli, s’il nous laisse plus libre de vous présenter le dessein d’un retour à Freud, tel que certains se le proposent dans l’enseignement de la Société française de psychanalyse. Ce n’est pas d’un retour du refoulé qu’il s’agit pour nous, mais de prendre appui dans l’antithèse que constitue la phase parcourue depuis la mort de Freud dans le mouvement psychanalytique, pour démontrer ce que la psychanalyse n’est pas, et de chercher avec vous le moyen de remettre en vigueur ce qui n’a cessé de la soutenir dans sa déviation même, à savoir le sens premier que Freud y préservait par sa seule présence et qu’il s’agit ici d’expliciter.

 この忘却が、精神分析フランス協会[註:1953-64、国際学会からの破門までラカンも所属]の教育で幾人かが目論んでいるようなフロイトへの回帰の計画をみなさんにいっそう自由に提示させてくれるのなら、我われはこの忘却を嘆くことはないでしょう。我われにとっては、抑圧されたものの回帰が問題ではなく、むしろ、フロイトの死以来精神分析運動において、精神分析ならざるものを論証するために辿られた局面が構成するアンチテーゼにおいて足場を得なければならないのですし、逸脱しつつあるなかでさえ精神分析を支え続けるものすなわち[フロイトの]最初の意味を、再び有効にする手段をみなさんと共に探し求めねばならないのです。この最初の意味をフロイトはそこでその唯一の威光でもって保存していたのであり、これをいまここで明らかにしなければなりません。

 Comment ce sens pourrait-il nous manquer quand il nous est attesté dans l’œuvre la plus claire et la plus organique qui soit ? Et comment pourrait-il nous laisser hésitants quand l’étude de cette œuvre nous montre que ses étapes et ses virages sont commandés par le souci, inflexiblement efficace chez Freud, de le maintenir dans sa rigueur première ?

 この[フロイトの最初の]意味が、ありうる最も明晰で最も有機的な著作において我われに証言されているにもかかわらず、我われのもとに欠けているということがどうしてありうるでしょうか。また、その意味を最初の厳密さの中に維持しようという、フロイトにおいて断固として有効であった気遣いによって、そのいくつかの段階と方向転換とが命じられていることを、この著作の研究が我われに示しているにもかかわらず、この[フロイトの最初の]意味がどうして我われを躊躇わせたままにしていられるでしょうか。

 訳が不正確なところもあるかも知れませんが、こういうややこしいものは、やる気になった時にどんどん進んでおかないといつまでも読み進められないだろうと思います。

Ecrits
フランス語版
Jacques Lacan

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