2009年6月22日 (月)

フロイト全集4の『夢解釈Ⅰ』4

 『夢解釈』に紹介されている次の夢も、フロイトが付けた説明の意味がいまひとつよくわからないもののひとつです。

彼女の夫が聞く。もうそろそろピアノの調律をやってもらったらどうだろう。彼女は答える。無駄ですわ、なにしろ新しく革を張り替えなくちゃならないんですから。(岩波版244頁)

 これについては、ドイツ語の辞書で「ピアノKlavier」を引いてみて、「①ピアノ ②(話)大きな尻」とあるのをみて、一気にわかりやすくなりました。実際に岩波のフロイト全集を読んでフロイトの説明に触れていただければ納得していただけるかと思います。

フロイト全集〈4〉1900年―夢解釈1

新宮 一成 (翻訳)

岩波書店 (2007/03)

2009年6月 3日 (水)

心神喪失・責任能力

 こないだ出席した講義で、統合失調症患者の責任能力について話題になっていたんですが、そのさい、どうもその参加者の中では重鎮らしい先生が、統合失調症で妄想に支配された状態での他害行為を罪に問うべきではないと言うための例として、てんかん患者が発作中の突発的な動きで近くにいた人を突き飛ばして殺してしまう場合を挙げ、両者は同じようなものだと言っていました。これはいろんなところで用いられる例え話ですが、私にはどうしても合点がいきません。てんかん発作中の患者と統合失調症患者はまったく別の状態であって、池田小学校事件や幼女連続誘拐殺人の犯人たちと統合失調症患者がまったく違うのと同様に(いやむしろそれ以上に)似ても似つかぬ状態と思うからです。

 心神喪失とは、事物の是非善悪を弁別する能力またはその弁別に従って行動する能力が完全に失われた状態、心神耗弱とはそうした能力が完全に失われたとはいえないが著しく障害された状態、という定義の表現を素直に読んでみれば、私には統合失調症で心身喪失に至ることはほぼありえないと思えます。世間の相場では結構な割合で心神喪失とされてしまいますし、こないだの講義の参加者たちもまた世間の相場を構成しているわけですけれども。

2009年6月 2日 (火)

言外の意味

 ラカンは、ある男性が「君は僕の妻」と(プロポーズの場面で)語るとき、言外に「僕は君の夫である」という自己規定を示している、という場面を、『充ちたパロール』の例として挙げます。さらには、フロイトの論文『子どもが叩かれる』のなかに「自分の同胞が叩かれている」という空想場面が登場することを挙げて、これは「自分の方がかわいがられている」ことを言外に示している、とも説明していたはずです。

 これを踏まえて考えると、既婚女性芸能人(主に中年以上のお笑いの人)が、自分の夫について冗談めかして「うちの反町隆史が・・・」と語るとき、そこには、「夫が反町隆史であるならば、自分はさしずめ松嶋菜々子であろう」という言外の意味があって、この言い回しのおもしろさを一段高めていると思います。

 という話を私の身近な人に話してもあまりピンとこないようで、「あの人たちはいちいちそんなことを考えて喋っていないよ」と一蹴されてしまいます。それでも私はあえて、上に書いたことを踏まえて、これまでは「自分の職場にも松たか子のようなパートナーがいたらなあ」と言い続けていたのですが、最近はもちろん「綾瀬はるかのようなパートナーがいたらなあ」と口にしているのです。

2009年5月24日 (日)

フロイト全集4の『夢解釈Ⅰ』3

 岩波から出た『夢解釈』(『夢判断』)の新訳について扱う3回目です。

 岩波版の訳はわかりやすく、すらすらと読み進められますが、第5章のA、「夢における直近のものと些末なもの」の途中から、私にとっては話が錯綜してきて分かりづらく感じられました。ところが、何箇所か原文に当たって確かめてみたかぎりでは、訳文に誤りがあるとか原文から乖離しているというわけでもないようで、むしろ日本語の特性のせいで、あるいは私の読み方のせいで、理解に時間が掛かっただけであった箇所がいくつかありました。そういった箇所を以下に紹介してみます。

「・・・些末な日中印象と、無意識の中の本来の夢源泉とは、必ずしもあらかじめ何らかの関係があるというわけではない。むしろ、先ほど見てきたように、その関係は夢工作の間に、いわば夢工作の意図を汲んで上手く遷移が行われるように事後的に形成されるのである。そうであれば、些末なものではあっても直近の印象に向かって結びつきの道をつけてゆかなければならぬ何らかの強制的な事情が存在しているに違いない。そして、この目的にとって都合の良い特別な性質を、その些末な印象が備えているはずなのである。もしそうでなかったら、夢思考にとっては、自分の担っている重点を遷移させる先として、同じ表象圏の中の重要ではない構成要素を選ぶほうが容易であっただろう。」(岩波版236頁)

 上記引用箇所で、下線部「もしそうでなかったら」は、直前の文を受けるのではなく、二つ前の文の内容を受けています。実は前の二つの文は原文でひとつながりの文であって、そのうち一つ目の文が主文だからです。さらに、「強制的な事情」という表現は、私には一読して外的な事情のように読めましたが、そうではなくて夢形成が従うべき法則のようなものを指しているようです。ですので以下のように改めてみました。

 「・・・些末な日中印象と、無意識の中の本来の夢源泉とは、必ずしもあらかじめ何らかの関係があるというわけではない。むしろ、先ほど見てきたように、その関係は夢工作の間に、いわば夢工作の意図を汲んで上手く遷移が行われるように事後的に形成されるのである。そうであれば、些末なものではあっても直近の印象に向かって結びつきの道をつけてゆかなければならぬ何らかの強制的な法則が存在していて、そのために都合の良い特別な性質を、その直近の印象が備えているはずなのである。もしそうでなかったら、夢思考にとっては、自分の担っている重点を遷移させる先として、同じ表象圏の中の重要ではない構成要素を選ぶほうが容易であっただろう。」(私案)

 次も同じような例です。

「夢源泉になりうるのは、
a 直近の心的に重要なある一つの体験。これが夢の中で直接的に代理される場合。
b 直近の重要ないくつかの体験。これらが夢によって一つの統一体にまとめられる場合。
c 一つないしそれ以上の直近の重要な体験。夢内容においては、些末な同時的体験への言及によってそれらが代理される場合。
d 内的かつ重要なある一つの体験(想起、思考系統)。それが夢の中では、直近の些末な印象への言及によって、いつも決まって代理されてしまう場合。
 お分かりのように、いずれの場合にも、夢解釈のためのある一つの条件が確保されている。それは、夢内容の一つの構成要素が、前日の直近の印象を反復しているということである。夢の中で何かを代理すべく定められたこの部分は、本来の夢の惹き起こし手の表象圏に属する ―その本質的な部分なのか軽微な部分なのかはともかくとして― か、または、何らかの些末な印象の領域から出ている。些末な印象は、多少の差はあれ豊富な結び付きを通して本来の夢の惹き起こし手の圏域に関係付けられている。こうした条件は、一見すると多様であるようだが、その多様性は遷移が起こらずに済んだか起こってしまったかということの選択肢によって現れてきたものに過ぎない。」(岩波版238頁)

 下線の「こうした条件」とは、直前の文を指すのではなく、その一つ前の文、「夢の中で何かを代理すべく定められたこの部分は、本来の夢の惹き起こし手の表象圏に属する(・・・)か、または、何らかの些末な印象の領域から出ている」を指しています。やはり直前の二つの文は原文では一つの文です。

 引用箇所の冒頭の分類abcdが、本文で示されたどの分析に相当するのか示しておきましょう。aは、218頁から221頁までの六例。bは、236頁から237頁にまたがる段落。cは、230頁から236頁(この「植物学研究書の夢」は、aとbの例でもあります)。dの「想起」には、例えば228頁の「かなり古い幼年期からの想起」が該当するでしょうし、「思考系統」とあるのは229頁の「夢から出てきた思考は次のようなものだった。妻と私の道楽のこと、コカインのこと、同僚同士で治療を受ける気まずさ、研究所で勉強することへの偏愛、植物学など一定の学問分野をおろそかにしてきたこと、これらのいずれから出発するにせよ、それらの思路は・・・」の箇所で「思考」「思路」と訳されているのと同じGedankengangという語ですので、対応関係にあると考えて良いでしょう。

フロイト全集〈4〉1900年―夢解釈1

新宮 一成 (翻訳)

岩波書店 (2007/03)

2009年5月 7日 (木)

カリガリス著『妄想はなぜ必要か』

 だいぶ前に購入した本ですが、職場で話題になっていたので読み始めてみました。

 これはなかなかおもしろいです。おおざっぱに言えば、排除されていた父のシニフィアンが現実界に回帰すると、患者はこれに対して妄想的隠喩の構築で対応する、ということなんですが、これについていろいろな側面から説明してくれているわけです。(なお、私の語感では、父の機能が現実界に出現することこそ妄想的隠喩という呼び名にふさわしく、それを中心にして妄想を構築する作業は換喩的な作業のように思ったのですが、説明されている事態そのものには納得しています。ラカン本人の用語法をどこかで確認できないでしょうか。)

 冒頭には、状況によって「何にでもなってしまう」ような行動様式を示す患者が紹介され、これを精神病の発症前の特徴であるとしていますが、この人物の描写もおもしろく、興味深く読み始めることができます。

 私は精神病発症前の人物に出会ったことはありませんから、発症後に聞いた病前の様子から類推したり、患者とそっくりな人柄をもつ家族の特徴などから類推するよりほかないのですが、私の経験では、精神病に罹患する人物にはむしろ、学歴や地位などの世俗的な価値に強くこだわる人もかなり多いように思います。そうしたありかたについて著者はどう考えているのか、すこし説明して欲しい気がします。

 翻訳についてですが、おおむね読みやすくはあるものの、ところどころ意味の取りにくいところについて原書(前の院長が退職に際して病院に寄贈した本のなかにありましたので、買わずに済みました)と見比べると間違いが散見されますし、それ以上に、文や段落が丸ごと抜けている箇所が信じられないほど多いです。たいへんおもしろい本なので全く残念です。また訳語についても、「etat crepusculaire」の定訳は「もうろう状態」ですが、この本ではなぜか「世界没落体験(状態)」とされていたり、「filiation」が「系譜」とされていたり(この語は、日本語の「系譜」よりもずっと生身の血縁関係のニュアンスが強い気がします)といった点が気になります。

 とはいえ、妄想は患者にとって必要であるという私好みの考え方を、そのタイトルに戴いたこの本は、周囲にも薦めたい本であることに変わりありません。

 ところで、「妄想はなぜ必要か」というときの「妄想」とは、個々の妄想観念を指すと言うより、患者と父性機能との関係が、いくつもの妄想観念を発生させながら広範に改編される事態をさしているように思われます。「妄想」という語は、普通は「誤った強い信念」という意味に使うことが多いのですが、より広い意味を持った概念だということも改めて思い出されました。

コンタルド カリガリス (著), 小出 浩之 (翻訳), 西尾 彰泰 (翻訳)

岩波書店 (2008/03)

2009年4月16日 (木)

供述調書の漏洩について

 昨日の判決がニュースになってました。私としては、もし自分の家族が大きな犯罪を犯したら、と考えると・・・もしも今回の判決とは逆に、自分が供述した内容が全て公けに出版されることが許されてしまうとするならば、供述せず自分の胸にとっておこうと思う事柄が非常に多くなってしまうと思います。そうなると正確な鑑定や判決が導きづらくなりませんでしょうか。

 ところで、私は医療観察法の鑑定だけは時々やっているのですが、患者の付添人となった弁護士が、書き上がった鑑定書を入手して、患者の家族に見せたりコピーを渡すことがよくあります(コポーを渡された場合、当然ながら、患者自身もあとで家族から見せてもらうことができます)。付添人となる弁護士の人選は、患者の家族が行っている場合が多く、その場合、家族が依頼者ですので、見せたくなるのはわかるのですが・・・私としては

①鑑定書に、家族による患者への関わり方とか、病気についての家族の理解度などについて、ネガティブなことを書きづらいです。場合によっては、家族のなかに、病院には掛かっていないけれども精神疾患を罹患していそうな人がいる、なんてこともあったりするんですが、それもやはり書けない。患者の社会復帰環境に関わる大事な情報なんですが。

②患者が、家族に対して秘密にしておきたいことを言っているとき、あるいは家族についてネガティブな評価を下しているとき、それを書くことで家族関係が悪化しないか心配で書けません。

③鑑定を始めるとき、患者に対して、「ここで話したことは裁判所に提出して審判で使われます」といった説明をしているのですが、けっこう高頻度で家族にそのまま伝わることがわかってきたので、患者にも「ここで話したことはそっくりそのまま家族が知る可能性があります」とはっきりと伝えるべきなようにも思いますし、それでは患者が包み隠さず話しづらくなりはしないかとも思うので迷います・・・

といった問題を感じます。裁判での鑑定ならば後々の家族関係などは気にしなくても良いかもしれませんが、医療観察法は、その後の社会復帰に資するという目的で行われる鑑定なので、どうしても気になるのです。

 場合によっては、患者が妄想的な理由で恨んでいる相手が、患者が起こした事件について証言し、その内容が供述調書や鑑定に引用されている場合があります。そういった証言を患者が知ってしまうと、患者の恨みがさらに燃え上がる可能性があります。しかし弁護士さんというのは、そういった書類が患者の目に入ることは証人にとって危険じゃないかという懸念は顧慮しないもののようです。「そんなことは、一般に裁判という公開の場で証言が行われるときに証人が将来お礼参りの危険を負うことと同じことだ」といわれるのですが、私としてはどうも釈然としません。

2009年4月11日 (土)

フロイト全集4の『夢解釈Ⅰ』2

 次の箇所は、翻訳には特に問題ないにもかかわらず、なかなか腑に落ちなかった箇所です。

 一見しただけでは欲望成就理論にとっての特別な困難となるだろうと思えるような夢を、ある医師(アウグスト・シュテルケ)が見て、それを解釈している。

 「左の人差し指の先端の指節に、梅毒の初期硬結[プリメール・アフェクト]ができていて、自分はそれを見ている。」

 この夢は、夢を見た人にとっては望ましくない内容だけれども、それ自体では明白でまとまっていると思われるから、別に分析する必要を感じさせないかもしれない。しかしながら、分析の労を厭わなければ、「初期硬結」は「≪初恋[プリマ・アフェクティオ]≫」と等置できるし、嫌な潰瘍は、シュテルケの言葉に従えば、「多大な情動[アフェクト]を帯びた欲望成就の代理」であることが判明する。(岩波版211-2頁)

 上記の説明だけでは、そこに「初恋」や「欲望成就」を代入したときに夢全体がどう解釈されるかわからないのです。普段なら、フロイトが夢や機知を説明するとき、その説明はいわば種明かしとなっていて、読者であるわれわれには、謎が解けて腑に落ちたという感覚を与えてくれるのですが、ここはなぜこのような中途半端な説明で終わっているのでしょうか。

 その理由のひとつとして、この夢の出典であるシュテルケの論文が文献として示されていることがあるのかもしれません。つまり、この論文にあたればすぐわかることなのでしょう。しかしさしあたり私にはこれを入手する術がない以上、なんとかフロイトの説明のみを手がかりに考えてみなければなりません。

 この夢は、1911年の論文からの引用ですから、『夢解釈』が刊行されたあと、フロイト自身によって加筆・挿入されているもののようです。他ならぬここに挿入されている以上、前後の文脈には、この夢の解釈のヒントが隠されているはずです。この前後には、一見すると欲望成就に見えない夢が集められているのですが、210頁に、別の夢に関して以下のような記載があります。

 結婚してほしいというこの娘の望みはあまりに活発だったので、結婚後に心配される辛さをも、彼女は甘んじて引き受け、さらにそれを自分の欲望にまで高めてしまったのである。(岩波版210頁)

 これを参考にすると、シュテルケの夢は、「[少年期における]初恋へのシュテルケの望みはあまりに活発だったので、その後に心配される[梅毒感染の]辛さをも、シュテルケは甘んじて引き受け、さらにそれを自分の欲望にまで高めてしまったのである」ということになります。私個人としては、こう解釈すれば、シュテルケの夢がだいぶ腑に落ちるように思います。

 さらに、シュテルケの夢の挿入箇所の直前には、フロイトの夢理論を知っている患者が見た夢を例に挙げて、「フロイトの夢理論が間違っていてくれればよいが」という欲望に触れられています。よって、シュテルケの夢の形成にはこの欲望も一役買っていると考えてよいのかもしれません。というのは、「多大な情動[アフェクト]を帯びた欲望成就の代理」の箇所で「欲望成就」はなぜか複数形ですので、初恋の成就のみを指しているとは考えがたく、むしろ欲望成就一般を指しているように思えるのです。シュテルケが夢理論一般に対して抱いたネガティブな考えが、初恋にまつわる夢思想に折り重なって夢を形成していると思われます。

 このように考えてきましたが、もしもシュテルケの原論文ではまったく異なる説明がなされていたりしたら、私としては恥ずかしい限りです。

 なお、「潰瘍」と訳されている語は、私の辞書では「膿瘍」としか載っていませんけど、辞書によって違うのかもしれません。

フロイト全集〈4〉1900年―夢解釈1

新宮 一成 (翻訳)

岩波書店 (2007/03)

 ≪初恋≫といえば、水曜日の夜にテレビをつけたらNHKで久々に渡邊あゆみアナウンサーの美しいお姿を拝見できました。私が中学生の頃から、いつ見ても本当にお綺麗な方です。フリートークでおっしゃる冗談がちょっとキツめなのもまた魅力なんですよね。いずれはラジオ「古典講読」で古文を朗読するお声も拝聴してみたい。

2009年4月 1日 (水)

フロイト全集4の『夢解釈Ⅰ』1

 これまでタイトルが『夢判断』と訳されることの多かったこの論文の岩波版新訳を読みました。新訳はさすがにわかりやすく、従来の訳ではやたら冗長でつまらない印象があった第1章『夢問題の学問的文献』も興味深く読むことができます。

 これまで『願望充足』と訳されてきた語が、『欲望成就』とされているなど、見慣れない訳語はいくつかありますが、頭の中で置き換えながら読めば良いだけのことですので、大きな問題にはなりません。ただ、「Erinnerung」が常に「想起」とされている点(従来は「記憶」とされてきた)や、「Gedanken」が「思考」とされている点(従来は「思想」とされてきた)が気になります。それらが未だ無意識に貯蔵されている状態を論じる場合には、たとえば「記憶痕跡」とか「夢の潜在思想」という言い方がしっくりくるように感じるからです。しかしこれらも訳語の統一を優先すればやむを得ないのかもしれませんし、「想起」「思考」といった訳語は、無意識を認めない現象学者には好まれそうな気もします。

 翻訳について以下の箇所を指摘しておきます。

 そこでわれわれは、夢の形態の起草者として、個々人の中に二つの心的な力(流れ、系)があると仮定してみよう。その一方は、夢によって表現にもたらされる欲望を形成し、もう一方は、この夢欲望に対して検閲を加え、検閲によってその表現に歪曲を押しつける。ただ、検閲を行使することを可能にする第二の審級の権能が、どこに存しているのかは疑問である。潜在的な夢思考は分析以前には意識されていないが、その潜在思考から出てくる顕在的夢内容の方は意識されたものとして想起されるということを想い出してみれば、第二の審級の特権は、意識への入場許可にあると仮定してみるのは的はずれではなかろう。前もって第二の審級を通過していなかったものは、第一の系から出て意識に到達することはできないのではないか。また、第二の審級は、自分の権利を行使してからでなければ、つまり、意識に入りたがっているものに自分に都合の良い変更を施してからでなければ、何も通過させないのではないか。(岩波版191頁)

 下線部は、第二の系の方を先に通過するかのように読めてしまいそうなので、以下のように私なりの変更を提案します。

第一の系から出たもののうち、前もって第二の審級を通過しなかったものは、意識に到達することはできないのではないか。

 もとの訳文も同じことが言いたかったのかもしれませんが。

フロイト全集〈4〉1900年―夢解釈1

新宮 一成 (翻訳)

岩波書店 (2007/03)

2009年3月16日 (月)

昨夜の夢

 昨夜、珍しく場面転換のある長い夢をみたので、忘れないように書き留めておきます。現時点ではほとんど解釈できませんが。

 舞台はおそらくアフリカで、戦争が終わったばかりです。3人の女性が登場します。;痩せた、薄っぺらい胸をして、上半身裸かそれに近い格好です。うち一人は他の二人よりも肌の色が薄いので、同じ民族に属するかどうか疑われ、兵隊に銃口を向けられます。しかし、他の二人の後ろを歩きながら同じ民族の者であることを必死にアピールすることによって、撃たれずに済みます。

 場面が変わります。終戦後、国を二分割して、中国と日本がそれぞれを援助することになります。国民を集めた集会の場で、壇上に太った中国の役人が全身赤い服を着て立っていて、演説します。曰く、これからもこの国と中国とは、困難や苦しみはあろうとも、産みの苦しみとして堪えながら、友好と発展のために協力していこうではないか、といった内容です。その演説とともに映像が流されています。それはなぜか馬の交尾の映像です。雌馬は苦しそうな鳴き声を上げています。私はその映像に驚きながら、演説を、こんな甘い言葉にだまされてはいけない、と思いながら聞いています。そのあと日本の役人がスーツ姿で登場し、真面目で実務的な演説を行ったらしいです。私はそれを聞いてはいないのですが、こうした地味な演説が現地の人々に好印象を与えることができればよいのだが・・・といった心配をしながら観ています。

以上で終わりです。

 最初の場面で、銃を向けられることがすでに性的な意味があることは明瞭です。しかし全体的に、夢の各部分についての連想がなかなか出てこず、前日のどういった出来事から材料が採られているのかいまのところよくわかりません。前日アフリカについて考えたことと言えば、間寛平のテレビを観て、太古の昔、太平洋の真ん中のハワイにどこかから住民が漂着したのだとすればそれは大変な行程であったことだろう、といったことを考えたのち、人類遺伝学上、現生人類の祖先とされる一女性がかつてアフリカにいたとされていることをちょっと思い出したことぐらいです。

 中国については、数日前にダライ・ラマが英語でなにやら話しているニュースを観た覚えがありますが、内容については忘れました。衣服の色はダライ・ラマが着ている服に似ていますが、上着とズボンですし、中国人の風貌は、太っていて唇も厚く、黒烏龍茶のコマーシャルに出てきそうな人物です。

2009年3月 8日 (日)

フロイト全集17から『集団心理学と自我分析』4

 この論文で気になる箇所も今回の二つでひとまず終わりです。

 催眠術師が要求し主張することを自我が夢の中でのように体験しているという事態は、われわれに次のことを思い出させる。すなわち、われわれは言及することを怠ったのだが、自我理想の働きの中には現実吟味の実行も含まれる、ということである。だから、ふだんなら現実吟味という課題を任されているはずの心的審級が現実に肩入れしてしまうような場合には、自我がある知覚内容を現実だと見なすとしても、何ら驚くには当たらない。(岩波版185頁)

 最後の一文の内容の言わんとするところがよくわかりません。原文に当たってみますと、どうも以下のような意味のようです。

 催眠術師が要求し主張することを自我が夢の中でのように体験しているという事態は、われわれに次のことを思い出させる。すなわち、われわれは言及することを怠ったのだが、自我理想の働きの中には現実吟味の実行も含まれる、ということである。だから、自我がある知覚内容を現実だと見なすとしても、ふだん現実吟味という課題を任されている心的審級がこの[知覚された]現実に肩入れしている場合ならば、何ら驚くには当たらない。(私案)

 つまり原文では下線部の「この現実」は、「知覚内容を現実だと見なす・・・」よりも後ろにきているので、いわゆる客観的現実を指しているわけではなさそうなのです。

 最後の指摘箇所です。これもまず私案を掲げます。

 しかし、性愛が自我にとって重要になればなるほど、それがより多くの恋着を育むことになればなるほど、それだけ一層強烈に、性愛は二人の人間に制限されるほど -一夫一婦- 求めるようになった。それは、性器という目標の自然本性によってあらかじめ定められていることだ。(岩波版219頁)

 しかし、性愛が自我にとって重要になればなるほど、それがより多くの恋着を育むことになればなるほど、それだけ一層強烈に、性愛は二人の人間に制限されるほど -一夫一婦- 求めるようになった。それは、性器的目標の自然本性によってあらかじめ定められていることだ。(私案)

 性器的目標というと男女の性器の合体を指すのが普通と思います。「性器という目標」ではちょっとわかりにくいと思います。

フロイト全集〈17〉1919‐1922―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学

須藤 訓任 (翻訳), 藤野 寛 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (2006/11)

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