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2007年11月

2007年11月27日 (火)

フロイト全集17から『快原理の彼岸』

 刊行中の岩波の全集の訳はさすがに良い出来で、原書に当たったりせずさらさら読めてしまいます。そうするとスピードが上がって内容にも集中できるせいか、あるいは今まで難所だったところに躓かなくなったせいか、これまで読み流してきた箇所が気になりだしています。

 『快原理の彼岸』ではとりあえず次の箇所です。

 「欲動の歴史的被制約性を確証するように思われる事例も動物の生活の中にすぐさま目につく。ある種の魚が産卵期に困難な渡りを企て、常日頃の居住地からはるか離れた河や湖で産卵をする場合、魚たちは、多くの生物学者の理解では、時の経過につれて換えられてきた祖先の生息地を訪れているに過ぎない。同じことは渡り鳥の飛翔にも当てはまるが、遺伝現象や胎生学の事実の中に有機体の反復強迫のりっぱな事例があることを知れば、さらなる事例を探す必要はなくなろう。おわかりのように、生きた動物の胚は、発達してゆくにつれて、その動物の由来のもととなっているあらゆる形質の構造を -短縮されてほんのつかの間のことであるにせよ- 繰り返さざるをえないのであり、最短距離で確定形態へと到ることはできない。動物のこうした振る舞いについて、機械的に説明できるのはほんの一部分のことにすぎず、歴史的な説明を抜きにすることはできない。そして、ある器官が失われたとしても、それとまったく同じような器官を新たに形成して補填するという再生能力は、かなり高等な動物にまで及んでいる。」(岩波版p90-91)

 ここに挙げられている例は:①魚の出産地への旅や、渡り鳥の飛行、②胎内や卵内で、個体発生が系統発生を繰り返すこと、③失われた器官が再生すること、例えばトカゲの尻尾が切れても再生したり、種によっては何度でも歯が生え替わること。

 これら三つの例って、それぞれかなり異質な現象だと思うんです。①は、個体そのものは全く変化せず、場所を変えるだけだという点で他の二つと違います。②の場合、発生中の各個体は、その個体としては初めて経験する発生過程を経ているわけで、この点で他の二つとは違います。③の現象は、(せいぜい数日~数ヶ月前の)完全な成体の状態に戻ることでしかなく、他の二つのように太古の状態に戻る過程ではありません。

 フロイトはいつも幾重にも関連しあった素晴らしい例を持ち出してくるのが常なので、ここでも、これら三つの例は歴史的被制約性という以外にも何か私の気づいていない共通点を持った現象なんじゃないかと気になって仕方がありません。歴史的被制約性について言うためなら、③はあまりにも馬鹿馬鹿しい例だと思うんですが、私はフロイトを買いかぶりすぎているんでしょうか?。さらに疑問として、これら三つには、反復強迫現象との類似の程度に差があるんでしょうか、そしてそれぞれはどの点で類似してるんでしょうか?。これが分かれば私の反復強迫への理解も一段進むと思うんですが。

 ところで、上に引用した岩波の訳文中、「その動物の由来のもととなっているあらゆる形質の構造」という箇所に私は違和感があって、特に「形質」という訳語は意味からして文脈にそぐわない気がします。原語を調べると「Form」ですが、ここは、「(より下等な生物の)諸形式」といった感じで、哺乳類からみた魚類とか両生類を指すでしょう。それらの「構造」を繰り返す、と取れば意味が通ります。ちなみに「形質」で和独を引くと、「Eigenschaft」とか「Charakteristikum」が出てきます。

フロイト全集〈17〉1919‐1922―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学

須藤 訓任 (翻訳), 藤野 寛 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (2006/11)

2007年11月26日 (月)

再びクワイエットルームについて

 今日、精神科隔離室の患者さんを訪ねたとき改めて気づいたんですが、映画「クワイエットルームにようこそ」でクワイエットルームと呼ばれていた隔離室には、廊下との間を隔てるタイプの鉄格子がなかったですね。

 隔離室と廊下の間に鉄格子を設置するか否かにはけっこう地域差があると聞いたことがあります。私の地域では設置されているのが普通ですが、みなさんの地域ではどうでしょうか。そんなの見たことないという地域の方がおられたら、教えてくれるとうれしいです。

 隔離室と廊下の間の鉄格子は、見栄えが殺伐としてしまうにもかかわらず、ある重要な役割のために、今後も全廃されることはないと思われます。どんな役割のためか、ご存知でしょうか?。

 患者が隔離室に閉じこめられることを嫌がってスタッフと一緒にドアから出ようとする場合を想像してください。患者が懸命にドアに駆け寄ってくる場合、患者の指を挟まずにドアを閉めることは至難の業です。患者を転ばせておいてスタッフが走って出たり、布団を被せるなどして抑え付けておいて素早く離れるなどの方法がとられますが、患者を手荒く扱わざるを得ませんし、敏捷な患者に対してはなかなか安全にドアを閉められません。そこで、ドアから離れたところに格子があれば、スタッフのうち一名が格子の外側に回って、格子越しに患者を抑えておいて、他のスタッフがドアから病室を出てドアを安全に閉めるという方法がとられます。これが格子を設置する最大のメリットです。ご存知でしたでしょうか?。

 他にも、廊下の窓を大きく開けて換気ができることや、患者が屈強・粗暴であっても格子を隔てて安全に話すことができることなどのメリットがあります。

 ただし、せっかく格子を設置しても設計にミスがあった話もよく聞きます。

 廊下の幅が狭すぎると、隔離中の患者を訪ねるときに、患者の手が届かない距離を取ることができないので、殴られたり、服を掴まれ破られたり、といったことが起こります。

 格子の幅が広すぎると、患者が出てしまいます。15センチぐらいあれば、摂食障害の患者なら出られてしまうようです。

 それと、格子の下端は床ギリギリの低いところになくてはなりません。格子の下端が床から何十センチも離れていると、そこに紐状の布を掛けて首を吊ることができるからです。

 ドアのすぐ隣に格子を設計したために、格子を隔てて患者を捕まえていても、患者が手足をドアの隙間に差し込むことができてドアを閉められない、という役立たずな造りの隔離室も見たことがあります。

追記:見栄え以外のデメリットとしては、同様の部屋が並んでいると、隣の部屋の患者が騒ぐ声が聞こえたり、排泄物などの臭いが流れてくることがあります。対策としては、廊下にドアを設置して各部屋を空間的に隔てれば良いのですが、そのような対策が取られている施設を私は一箇所しか知りません。

 ある病院で聞いた話ですが、隔離中の摂食障害の患者が、15センチぐらいの幅の窓(スタッフはそこから大人の出入りが可能とは誰も思っていなかった)から人知れず脱走して自宅に帰り、用事を済ませてから、同じ窓を通ってもとの隔離室内に戻ってきて室内で過ごしていた、ということがあったらしいです。

2007年11月24日 (土)

「心神」を含むニュース

 私はときどき、yahoo!のニュース検索で「心神」を含むニュースをまとめ読みします。

 主に「弁護側は心神喪失(または耗弱)の状態にあったと主張している」といった部分を含む記事が検索されますが、なかには、金品目的であったり性犯罪であったり、計画性があって犯行後もいったんは上手く逃げていたりといった、責任能力に問題なさそうな事件もかなり含まれています。当然のことながら、実際に判決でそのような主張が認められ減軽されることはまずありません。

 特に有名事件の場合には、裁判の各段階で何度も記事が出るうえ、判決の後も、控訴するかどうかといった記事が何度も出ます。しかし、歴史的な事件を起こすにはかなりの計画的実行力が必要であることからして当然ですが、有名事件に限って言えば、無罪や執行猶予になるケースはかなり少ないはずです。

 もうひとつ、(精神障害ではない)少年の事件の報道でも、弁護側が酌量を求める論理が、当時少年は正常な精神状態になかったと言わんばかりのことがあるので、一般の人には精神障害者の刑の減軽の問題と混同されて、精神障害者(および裁判中のみそれと主張する人々)の弁護がそのような身勝手な論理で行われることが普通にあると思われてしまうことがありそうな気がします。

 一般の方が上のような報道を折に触れて読んでいると、精神障害者でない者やごく軽症の者までが不当に刑を減じられているかのような印象を持ってしまうのではないでしょうか。刑法39条についての出版物の中に、池田小学校事件や幼児連続誘拐殺人事件、神戸の少年らについて言及されているのをみると、記事を書く側の人々にも同様の誤解が蔓延していそうです。

2007年11月20日 (火)

光文社文庫で『文化への不満』を

 岩波のフロイト全集をはじめ、このところちくま文庫など、フロイトの新訳がちらほらと出版されています。どれもかつて出版されたフロイト選集/著作集/新潮文庫に比べるとはるかに良い訳で、原書や辞書と付き合わせなくても大意は掴めるところがうれしいです。ちょっとした待ち時間などに取り出して数頁ずつ読むことが多いです。

 今は光文社古典新訳文庫の『幻想の未来/文化への不満』から『文化への不満』を読んでいます。『文化への不満』というタイトルが旧訳の誤りを踏襲していたり、アンビヴァレンツの訳語が両価性ではなく両義性になっているところなど、疑問に思う点はありますが、これらは自分の頭のなかで容易に変換可能なので、 不都合はありません。

 さてその中に、「人が何か罪を犯した後に、その罪のために罪悪感を持ったとすれば、それは罪悪感と言うよりもむしろ後悔の念と言うべきだろう・・・だから精神分析で、後悔によって生まれた罪悪感を考慮に入れないのは、適切なことである。これがどんなに頻繁に起ころうとも、その実際的な意味がどれほど大きくともである。」(p263-4)という箇所があり、私自身、重大事件を起こした患者を受け持ったりしているせいもあって、最近読んで非常に印象に残りました。そこへもってきて一昨日、阿闍世コンプレックスについての講演を聴く機会があり、古澤-小此木による理論がまさにこの「後悔によって生まれた罪悪感」を重視していることを知り、これは私にとってさらに印象深い一節になりました。

 しかし実はこのあたりに注目して少し真面目に付近を読んでいったところ、p272の

「また不安は、これらの全ての関係の根底にあって、以上のような批判的な審級に直面するものであり、みずからに罰を与えようとする自己処罰の欲求であり、サディスティックなまでに超自我の影響を受けて、マゾヒスティックになった自我の欲動の発現である」

という箇所に躓きました。不安が何かに直面する、という訳文は明らかにおかしい。結局原書を取り出したところやはり訳に問題があって、私なりに光文社版の文章をできるだけ生かして訳すと、

「また、これらの全ての関係の根底にあるのは、以上のような批判的な審級に対する不安すなわち自己処罰欲求であるが、これは、サディスティックな超自我の影響を受けてマゾヒスティックになった自我の欲動の発現である」

となります。さらにこの直前の文では、

「超自我の要求と、こうした要求を実行しようとする自我の努力のあいだの緊張」

云々と言う箇所がありますが、これは正しくは

「超自我の要求と、自我の志向とのあいだの緊張」

です(内容的にも当然ですが)。結局この新訳は、訳文が平易なのでつい騙されちゃいますが、ここらへんをみるだけでもかなり問題ありそうですねえ。段落や章を勝手に分けちゃっているのも気になります。そういえば同じ訳者のちくま文庫『自我論集』にある『抑圧』は非常に良かったのに『欲動とその運命』の訳はやはりどうにも意味の取れない代物だったことが思い出されます。

 上に引用したp263-4の箇所も調べ直しましたが、そこは大丈夫そうなことを確認して胸を撫で下ろしました。

幻想の未来,文化への不満 (光文社古典新訳文庫 Bフ 1-1)

フロイト (著), 中山 元 (翻訳)

出版社: 光文社 (2007/9/6)

2007年11月17日 (土)

はじめました

 ブログをはじめます。タイトルはフロイトの論文から取りました。一応精神科医が運営するので、それと関係した話題が中心になります。

 公開中の映画「クワイエットルームにようこそ」を先々週、先週と、二度観てきました。内田有紀演じる主人公が精神科閉鎖病棟に入院して退院するまでの2週間を描いたものです。病棟内の人物、特に大竹しのぶと蒼井優の演技は、まさに病棟から連れてきた患者のようで、気味が悪いほど上手い。平岩紙が演じる看護婦の暖かさも、実際にどの病棟にも何人か居るタイプの看護婦さんをよく再現してました。その他院内の日常が非常によく描かれて「こういうことはよくあるなあ」とあちこちで思えるうえ、全体には単純に笑って楽しめテンポ良く流れるストーリーでした。ちなみに私が同じ映画を映画館で二度観たのはこれが初めてのことです。

 病院スタッフや病棟ルールは患者からこう見えているんだ、と思うと気を付けないかんなあとも思いました。医師がみな変人で頼りない姿にも自戒させられますし、病棟の物品管理が杓子定規であったり、トイレを入れた部屋で食事を取らせることなんかも、ありそうですからねえ。

 ただ病棟のハード面には精神科ではあり得ない箇所も散見されました。隔離室に、身体拘束用に処置台が据え付けられているのが最も目に付く点でしょう(あの部屋で、拘束しないで隔離すると、台に上ったり転んだりする危険が高すぎます)。隔離室内のトイレ周囲をカーテンで囲ってありましたが、実際にああいう造りにした病院から聞いた話によると、隔離中の患者は不満と退屈から便器内にカーテンの裾を突っ込んで濡らすことで病院を困らせようとするとのことで、使えないらしいです。ほか、病棟の共同トイレの個室ドアの上に桟が渡してありましたが、ふつうああいう首を吊りやすい構造物は作りません。でもまあこれらのことはストーリーの流れとは関係ないですが。

 あの病院が実在したら、働いてもいいですねえ。普通にやっていれば、他の医師より熱心と評価されそうだし。同僚医師は私に干渉せず放って置いてくれそうだし。

 ストーリーの詳細は観てのお楽しみですが、私は、患者たちはみな当分の間ほとんど変わらないまま同じようなことを繰り返していくと予想することに慣れすぎているせいもあって、主人公も結局変わらないんだろうなあ、と予想してしまいます。

 劇中で印象的に使われた「恋のフーガ」をつい口ずさむようになってしまいましたが、この歌が劇中で選ばれたのも、詩が映画の場面と関連しているからじゃないかと思いましたが、どうでしょう。

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