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2007年11月20日 (火)

光文社文庫で『文化への不満』を

 岩波のフロイト全集をはじめ、このところちくま文庫など、フロイトの新訳がちらほらと出版されています。どれもかつて出版されたフロイト選集/著作集/新潮文庫に比べるとはるかに良い訳で、原書や辞書と付き合わせなくても大意は掴めるところがうれしいです。ちょっとした待ち時間などに取り出して数頁ずつ読むことが多いです。

 今は光文社古典新訳文庫の『幻想の未来/文化への不満』から『文化への不満』を読んでいます。『文化への不満』というタイトルが旧訳の誤りを踏襲していたり、アンビヴァレンツの訳語が両価性ではなく両義性になっているところなど、疑問に思う点はありますが、これらは自分の頭のなかで容易に変換可能なので、 不都合はありません。

 さてその中に、「人が何か罪を犯した後に、その罪のために罪悪感を持ったとすれば、それは罪悪感と言うよりもむしろ後悔の念と言うべきだろう・・・だから精神分析で、後悔によって生まれた罪悪感を考慮に入れないのは、適切なことである。これがどんなに頻繁に起ころうとも、その実際的な意味がどれほど大きくともである。」(p263-4)という箇所があり、私自身、重大事件を起こした患者を受け持ったりしているせいもあって、最近読んで非常に印象に残りました。そこへもってきて一昨日、阿闍世コンプレックスについての講演を聴く機会があり、古澤-小此木による理論がまさにこの「後悔によって生まれた罪悪感」を重視していることを知り、これは私にとってさらに印象深い一節になりました。

 しかし実はこのあたりに注目して少し真面目に付近を読んでいったところ、p272の

「また不安は、これらの全ての関係の根底にあって、以上のような批判的な審級に直面するものであり、みずからに罰を与えようとする自己処罰の欲求であり、サディスティックなまでに超自我の影響を受けて、マゾヒスティックになった自我の欲動の発現である」

という箇所に躓きました。不安が何かに直面する、という訳文は明らかにおかしい。結局原書を取り出したところやはり訳に問題があって、私なりに光文社版の文章をできるだけ生かして訳すと、

「また、これらの全ての関係の根底にあるのは、以上のような批判的な審級に対する不安すなわち自己処罰欲求であるが、これは、サディスティックな超自我の影響を受けてマゾヒスティックになった自我の欲動の発現である」

となります。さらにこの直前の文では、

「超自我の要求と、こうした要求を実行しようとする自我の努力のあいだの緊張」

云々と言う箇所がありますが、これは正しくは

「超自我の要求と、自我の志向とのあいだの緊張」

です(内容的にも当然ですが)。結局この新訳は、訳文が平易なのでつい騙されちゃいますが、ここらへんをみるだけでもかなり問題ありそうですねえ。段落や章を勝手に分けちゃっているのも気になります。そういえば同じ訳者のちくま文庫『自我論集』にある『抑圧』は非常に良かったのに『欲動とその運命』の訳はやはりどうにも意味の取れない代物だったことが思い出されます。

 上に引用したp263-4の箇所も調べ直しましたが、そこは大丈夫そうなことを確認して胸を撫で下ろしました。

幻想の未来,文化への不満 (光文社古典新訳文庫 Bフ 1-1)

フロイト (著), 中山 元 (翻訳)

出版社: 光文社 (2007/9/6)

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