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2007年12月14日 (金)

フロイト全集18から『マゾヒズムの経済論的問題』(2)

 この論文は全般的にはすらすらと読めるすばらしい訳文なのですが、そのため従来読み流していた箇所につまずいたりします。以下の箇所、特に二つ目の文は、意味を考えてみると分かるようで分からないので、かなり苦労しました。

 「幼少年期の発達の経過をたどるなかで、[子供は]両親から次第に離れていき、超自我のもつ両親の人格としての意義も背後に退いていく。両親から残された像(イマーゴ)に、今度は、教師や権威のあるもの、自ら選んだ模範者、社会で認められた英雄などの影響が結びつき、抵抗力を身に着けた自我は、もはやこれらの人物を取り入れる必要はなくなる。」(岩波版p297)

 ここで、「・・・の影響が結びつき、抵抗力を身に着けた自我は」の箇所が、「・・・の影響が結びつくことで抵抗力を身に着けた自我は」という意味に読めてしまうので、私にはなかなか意味が取れませんでした。原文に当たってもなかなか理解できなかったのですが、しばらく考えた結果、ここは「結びつき、」のところでいったん切って考えるべきと気がつきました。

 「幼少年期の発達の経過をたどるなかで、[子供は]両親から次第に離れていき、超自我のもつ両親の人格としての意義も背後に退いていく。両親から残された像(イマーゴ)それぞれに、今度は、教師や権威のあるもの、自ら選んだ模範者、社会で認められた英雄などの影響が結びつくのだが、すでに抵抗力を身に着けた自我は、もはやこれらの人物を取り入れる必要はない。」(代案)

 上記のような、両親に続く理想の系列は、「自我理想」に相当するのでしょうが、それらとの関係について、ここでは「自我は・・・取り入れる必要は無い」とされています。それらは、内的に監視する審級になっていくわけですから、普通の意味で言えば精神の中に「取り入れられる」わけですが、それは「自我」のなかに取り入れられるわけではなく、自我を外から監視しつづけていく、ということなのでしょう。この関係については、『集団心理学と自我分析』8章に挙げられたシェーマが思い出されます。

 なお、上の引用箇所に登場する「Imagines」なる語が、「像(イマーゴ)」と正しく訳されているあたり、さすが人文書院版著作集とは違うな、と感じました。著作集では、訳者がこの語を「Imago」の複数形と認識していないケースが多々みられたからです。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

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コメント

いつもながら精神科医様の真面目で厳密な読みに感嘆されます。
私自身、7、8年前までは、人文書院のフロイドを赤線引き引き読んでいたのでしたが、最近さっぱり熱意を無くしてしまい、非定型がどうたらこうたらでお茶をにごす毎日なのです。フロイドは、書棚で分厚く埃をかぶっています。
が、超自我の問題は、臨床をしていて良くぶつかる問題だと思います。
野蛮と言うか,サデイスティックで「のさばる超自我」の、患者さんを打ちのめす力というのは実に強力であり、また自我よりもエスに近いという点も、よく実感します。
では、その厄介な超自我をどうすれば良いのかは、謎でござります。
昔、精神分析教会主催のセミナーで、あるどえらい先生の
超自我を矯正するべし、なるお言葉には驚嘆したことがあったのですが。

私も懲罰欲求の現われとしか考えられない現象を時々目にします。数週間前に話題にした「クワイエットルームにようこそ」の登場人物にも想定できそうです。
ところで、私はフロイトの言うような、自我理想に近い意味での超自我なら持ち合わせていますが、ラカンが言うような、自分に対して「お前は・・・」と二人称で命じてくるような超自我は持ち合わせていません。二人称の言葉が頭に浮かぶとき、私は、自身に向けて語りかける側にいます。私の精神構造ではそれ以外ありえないという感じですけど、二人称で表現される言語表象の受け手側に立つ人なんて本当にいるんでしょうか。

私はラカンのことはわかりませんが、超自我が自我を圧迫しているのは無意識的なところだから、語りかけられるとは感じられなくてもいいんじゃないでしょうか。
ただ、本人は自分の意思で行動しているように思っても、はたから見ると超自我に気を使っているとわかります。

内的言語に主体性を感じるというのも、自我の機能なのでしょう。実際には外界にもエスにも超自我にも気を使っているのに、われこそは主体と思うところが自我です。
この機能が失調して、「二人称で表現される言語表象の受け手側に立つ」となると、これは統合失調症の幻声ということになるのでは。

 自分に語りかける声の例は、漱石の『こころ』下の先生の遺書、55にあります。
「そうしてその力が私にお前は何をする資格もない男だと押さえ付けるように言って聞かせます。・・・私は歯を食いしばって、なんで他の邪魔をするのかとどなりつけます、不可思議な力は冷ややかな声で笑います、自分でよく知っているくせにと言います。」
 先生はこの声の送り手を外部に想定していないので、私はこれを精神病的と思いません。ただ、これを精神病的とか統合失調的と言っている高名な精神分析家もおられますが。

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