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2007年12月26日 (水)

もっと充足されるのを容認すべき欲動

 前回取り上げた『精神分析への抵抗』のなかに書かれていた、「もう幾分か充足されるのを容認すべき」欲動とはどんなものなのでしょう。(今回の話題については、前回の記事の時点ですでに予定しておりましたが、前回の記事にいただいたコメントの中にこの疑問点に触れておられるものがあり、やはり同じところに目を付けるものだなあ、と感じ入りました。)

 たとえば『文化への不満』には次のようにあります。

「・・・そのさい文化が性に対してとる態度は、他の部族なり階層なりをほしいままに搾取できる立場に立った部族あるいは階層がとる態度と同じだ。抑えつけられたものたちが反乱を起こすのではないかという不安から、厳重な予防措置が講ぜられる。現在のわれわれの西欧文化は、こういう発展の極致だ。西欧文化が幼児の性生活の表出を厳禁することから始まるのは、心理学的にはもっとも至極である。・・・けれども、どう考えても許しがたいのは、文化社会が極端に走って、幼児性欲という、簡単にその存在を証明できるどころか、誰の目にも明らかといっていいこの現象それ自体をも否定してしまったことである。また、性成熟期の個体の対象選択は異性だけに限られたし、性器を使わない満足の大部分は倒錯だとして禁止されてしまった。・・・ただし、性器を使った異性間の愛というこの放逐されていないものも、法律で承認された一夫一婦制のものであるという制約によってさらに限定される。・・・
 もちろんこれは行き過ぎである。・・・」(人文書院フロイト著作集第3巻『文化への不満』p463-4を少々改訳)

 他の部族を抑えつけるという比喩にも類似点がありますし、フロイトがこれらを「もう幾分か充足されるべき」と考えていることは間違いなさそうです。『精神分析への抵抗』に挙げられた「もう幾分か充足されるべき欲動」に対応すると考えて良いでしょう。

フロイト著作集 第3巻 文化・芸術論 (3)

フロイト (著), 高橋 義孝 (翻訳)

出版社: 人文書院 (1969/01)

 ところで、クリスマスシーズンも終わりましたが、私は今年ふと「山下達郎の『クリスマス・イブ』の間奏はいったいどの程度『パッフェルベルのカノン』と同じで、いったいどこがどう違うのか」という疑問が頭によぎり、巷で耳にするたびに注意して聞いていましたが、そう何度も聴く機会もなく、未解決に終わりました。来年の課題です。明日は最後の忘年会で、年末年始はさすがにフロイト全集の話題はお休みしてのんびりしようかと思っています。

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コメント

こんにちは。
今読んでいる「グラディーヴァ」では、「抑圧されたものが回帰するとき、抑圧するもの自体から姿を現す(全集9-38)」ことの例として、フェリシアン・ロペスの銅版画(「聖アントワーヌの誘惑」1878)をあげています。俗世の誘惑から逃れようとした禁欲僧の目の前で、十字架が全裸の女の像に変わるという絵です。
文化における性欲の抑圧において、西欧文明では大きな役割をはたしたキリスト教。そのキリスト教の最大の祝日であるクリスマスが、日本では恋人たちの祭典となり、性欲のあからさまな追求がなされるという。なんとも興味深い現象ですね。

 コメントありがとうございます。私は宗教にも西欧文化にも疎いのですが、そういえば処女懐胎というキリストの生まれからして性の抑圧があることに思い至りました。

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