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2007年12月 1日 (土)

フロイト全集17から『快原理の彼岸』(2)

 岩波版フロイト全集『快原理の彼岸』を読んで、改めて気づいたことの続きです。

 第5章あたりで、たとえばp98「自我欲動と性欲動の間に鋭い対立関係が設けられ、前者の欲動は死に向かって突き進み・・・」のように自我欲動は死に向かおうとするものとされ、特にp110では「自我欲動=死の欲動」とはっきり書かれていたりしています。

 この、自我が死に向かおうとするというという考え方について、これまでどうも釈然としないまま読んできました。

 しかし今回一気に読み通してみて考えたのですが、ここで自我欲動というときの「自我」とは、心理学的な意味での自我と言うより、単に「個体の」「私的な」といったニュアンスに近い意味なのではないでしょうか。一方、この論文での性欲動は、「他の個体を巻き込む」「種を維持する」ような欲動を指しており、個体が(性的)快楽を追求する活動という意味では(さしあたり)ないようです。そのように読むと、上のような箇所も、周囲の文脈とも相まって、決して奇矯な論ではないと再認識しました。

 そもそもフロイトは生体小胞にも自我欲動と性欲動を仮定しているわけで、「自我欲動は生命のない物質に生命が与えられたことに由来し、生命なき事態を再興しようとするものだ」などと述べています。この点からも、「自我欲動」というときの「自我」を普通に心理学的意味で受け取ってはならないことは明らかです。

 死の欲動は、反復強迫の存在から推論されてくる概念ですが、その反復強迫も、発生中の卵にも働いていると言うからには、やはり精神や脳に局在するものではないのでしょう。

フロイト全集〈17〉1919‐1922―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学

須藤 訓任 (翻訳), 藤野 寛 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (2006/11)

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コメント

( a) すべての物質は安定(死)を目標に目指す。

( b) 一方、《外的な妨害力》の影響の下で、生命物質は、以前の無機的な状態を放棄せざるを得なくなり、生命物質は特定の迂回路を経なければ死へと到達することができない。生命物質もしくはその一部を反復させ、死を先送りしようとする生命という物質の特殊な状態に固有の傾向。死の欲動は、つねに、その直接的な放出を妨げられる。

( a) 個体のレヴェル、生命物質内部における対立
i) 涅槃原理…死の欲動を表現し、ニルヴァーナ状態を目指す。
ii) 現実原理…外界の要求を代表し、緊張の一次的な延期と甘受を目指す。

( b) 類のレヴェル、ひととひととのあいだ、間主観的
快原理。死の欲動を表現する涅槃原理、および、外界の要求を代表する現実原理、と、生の妥協をはかり、緊張をできるだけ低い水準に維持する快原理こそ、生命物質を支配する最も重要な原理。

快原理は生の要求に従って、死の欲動の衝迫に質的修正を加える。快原理によって死の欲動はその直接的な放出を妨げられ、生の構成要素となって、様々な形で生に奉仕するようになる。

……というように、考えた場合、性欲動、類の次元と、二元論で、対立するもの、それはなんだろう???と、考えて、この時代、それは、「わたし」だ、ま、言ってみれば、他の人々と、話し合いたくない、自閉していたい、そういうものを考えたからではないでしょうか。

ですから、この場合、Ichは、意識ですとか、自己意識ですとか、反省的意識、理性、のようなものではなくて、個、ま、自閉症、自体愛、のようなものかと思います。

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