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2008年1月

2008年1月31日 (木)

フロイト全集18から『夢解釈の理論と実践についての見解』(2)

 岩波版全集の中では珍しく日本語の意味が取りづらい(=誤訳の存在が疑われる)箇所が多い、と前回書きましたが、今回はこの論文の問題点の続きです。

「患者の側に両価的な葛藤がある場合、その心中に生じる敵対的な思考は、情愛の蠢きの持続的克服、つまり葛藤の決着を意味しない。同様に、敵対的な内容の夢も、そうした意味を持たない。こうした両価的な葛藤があるあいだは、毎晩それぞれ異なる立場に与する二つの夢をみることも多い。そのようなときの治療の進展は、真っ向からむかいあっている蠢きを根本的に分離したうえで、そのおのおのの無意識を増強させて極端なところまで追求して、正体を究明することにある。」(岩波版180頁、下線は引用者)

 ひとつ目の下線部ですが、もとの訳の「心中に生じる」では無意識的な思考も含まれてしまいそうですけど、原文では「彼に浮かぶ」、つまり意識に浮かぶということです。

 さらに、ふたつ目の下線部、とくに「無意識を増強する」は意味がよく分かりません。原文では「mit Hilfe der unbewussten Verstaerkungen」ですが、この「Verstaerkungen」は辞書では「1(単数で)(verstaerkenすること、例えば)強化、補強」「2 増援部隊、援軍」とあります。ここは、複数形だからというだけではなく意味から言っても、後者の意味と取りたいです。といいますのは、訳文でこの下線部は、二種類の夢が登場した後の、治療の次の一手を説明しているように読めますけれど、そうではなく、二つの夢が形成されたという事態そのものの説明であるように思えるからです。時制が現在完了ですし、訳文の「治療の」という表現は原文にありません。

「患者の側に両価的な葛藤がある場合、彼[の意識]に浮かぶ敵対的な思考は、情愛の蠢きの持続的克服、つまり葛藤の決着を意味しない。同様に、敵対的な内容の夢も、そうした意味を持たない。こうした両価的な葛藤があるあいだは、毎晩それぞれ異なる立場に与する二つの夢をみることも多い。そのようなとき、以下の点で進展がある。すなわち、真っ向からむかいあっている蠢きの根本的な分離がすでに成功し、そのおのおのが、無意識的な助力を使ってその極端にまで追求され、理解されることができるという点である。」(代案)

 「無意識的な助力」とは、前意識的な潜在思考に加わって夢を形成させる力のことと思われます。

 この論文からはまだ何回か話題を拾えそうです。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2008年1月29日 (火)

フロイト全集18から『夢解釈の理論と実践についての見解』

 フロイト自らによるレジュメのような論文ですが、岩波版全集の中では珍しく日本語の意味が取りづらい(=誤訳の存在が疑われる)箇所が多いです。一般に、原文があまりにも簡潔だと、翻訳の際に文脈からヒントを探すことができないのでどうしても訳しづらくなるのはやむを得ないことですが、以下の箇所はもっと単純なミスのようです。

「彼らは、まだ分析の場で話さなければならない不快を、とにかく避けたいと思っているのだ。軍医による治療を受けてみて、前線での任務のほうが病気よりもましだと考えて、症状を受け入れてしまっている戦争神経症患者もまた同じ経済論的条件に服している」(岩波版179頁、下線は引用者)

 下線部は原書では『verzichten』(の過去形)ですから、本来『放棄した』『断念した』といった意味です。訳文では逆の意味になってしまっています。文脈から言っても『放棄した』『断念した』が自然に思われます。

 しかしこの箇所にあるような、戦地の任務より厳しい治療っていったいどんなやり方なんだろうかと気になってきますね。軍隊ですから、根性を叩き直すしごきでも行われていたのでしょうか。戦地より厳しい精神分析というのはちょっと想像がつきませんけど。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

 この論文の翻訳についてはまだ何回かにわけて問題箇所を拾いだしていかねばなりません。

2008年1月27日 (日)

社会とは

 私は普通に『社会』という言葉を使うとき、かなり多くの人間から構成されるものを想定しますし、学校の『社会科』で扱われる内容もやはり同様であろうと思います。そのため乳幼児の発達について、まず乳児は両親との関係を結んだのち、次第に人間関係の範囲が広がって、最終的には社会的な関係を持つに到る、というふうに考えがちです。もちろん、社会学などでは家族を社会の最小単位として扱うということはあるのでしょうが、それはあくまで学問的な文脈で、しかもより大きな社会単位と関係づけて論じられることでしょう。

 こうしたなか、フロイトを読んでいて以下のような箇所に突き当たると、多少の違和感を覚えます。

 だから悪とはもともとは、愛の喪失の脅威にさらされることである。愛を喪失することにたいする不安から、人は悪を行わないようにしなければならないのである。その場合には人がすでに悪を実行したのか、あるいはただ実行しようと考えたのは、それほど大きな違いをもたらさないのである。どちらにしても、権威をもつ人に発見されただけで、この危険に直面しなければならないのであり、権威をもつ人はどちらの場合にも同じように振る舞うはずなのだ。
 この状態は『良心の疚しさ』と呼ばれるが、ほんらいはこの名前はふさわしくないものである。この段階では罪の意識はまだ、愛の喪失に対する不安であり、『社会的』な不安だからである。幼児においてはつねにこれ[=良心の疚しさ]は社会的な不安として現れるが、大人の場合にも、父親や両親の位置を、大きな人間の共同体が占めているという違いがあるだけで、結局は同じであることが多いのである。(『文化への不満』光文社古典新訳文庫248頁)

 すなわち、この最後の部分では、幼児が両親から愛されなくなることをおそれるという状況を『社会的』と呼び、一方で、大人になってから大きな共同体を想定するようになっても『結局は同じ』という言い方がされています。この言い回しからは、前者を『社会的』と呼ぶことのほうが当たり前というニュアンスが感じられてきます。一方で、我々の日常的な『社会』という語のイメージからすると、むしろ大人と共同体との関係のほうを『社会的』と呼んで、幼児と両親との関係も『結局は同じ』と言うほうが腑に落ちやすいように思われます。

 振り返ってみると、ここで我々は、精神医学を学んで間もないころ、「『社会恐怖』とか『社会不安』といった語は『対人恐怖』のことを表している、この場合に『social』という語は、『社会』というより『社交』に近い意味と考えるべきである」、と教わったときに少々違和感を感じたのと同じことを再び経験しているように思います。というのは、われわれ精神科医ですら、この『社会的』という語が、精神医学においては主に生身の人間との関係を示しているということを、この『社会恐怖(不安)』という言葉を用いるときを除いてほとんど忘れてしまっているからです。たとえば『社会生活技能訓練』というとき、対人場面の練習だけでなく金銭管理や調理その他の技能訓練も含めることが多いこともその一例でしょう。

 これに対して、「ほかの論文でフロイトも両親との関係から社会関係へ、という論旨を展開している。その場合の『社会』という概念は、国家や世論など抽象化された大集団を念頭に置いている」といった印象を持っている方もあるかもしれません。しかしそれは、フロイトの邦訳本で『社会(的)』と訳されている語には『sozial』以外にも、『gemeinschaftlich』や『gesellschaftlich』があって、抽象的で大きな『社会』を示すときには後二者が用いられること、そしてたいていは片方を『共同体』、片方を『社会』と訳されることから、結局邦訳だけを読むと、『sozial』と訳される『社会』とは訳し分けられず混同されてしまうことからくる印象のように思います。

幻想の未来,文化への不満 (光文社古典新訳文庫 Bフ 1-1)

フロイト (著), 中山 元 (翻訳)

出版社: 光文社 (2007/9/6)

2008年1月21日 (月)

フロイト全集18から『「精神分析」と「リビード理論」』

 この論文でもっとも印象に残ったのは、「病苦の症状が解消するのは、特別な努力目標として目指されるのではない。規則通りに正しく分析を実行すると、いわば副収益として症状が解消されるのである。」というところです。私の分析治療観にぴったりきます。ラカンの『対象関係』や『精神分析の倫理』といったセミネールで批判されていた精神分析家たちなら、おそらく自分たちの技法を使えば積極的に治癒へと導くことができると考えそうですが、私はそれらへ批判したラカンの方に共感を覚えます。

 翻訳については、細かいところを一箇所改訳したいです。

「精神分析は、心に生じる出来事がすべて、基礎となる欲動の諸力の働きに由来することを、大本から解明しなければならない。」(岩波版p168)

「精神分析は、心に生じる出来事をすべて、基礎となる欲動の諸力の働きのうえに構築してみせねばならない。」(代案)

 ただしここで『aufbauen』という語に『構築する』という訳を当てましたが、岩波版全集の他の箇所ではたぶんこの訳語は『konstruieren』に当てられていると思われますので、注意が必要です。ところで、後者を独和で引くと、『構築する』という訳語そのものは載っておらず、『建造する』の他は、『作図する』『でっち上げる』といった意味みたいです。フロイトが『Konstruktion構築』をテーマにした論文は、岩波版全集では21巻で刊行されるでしょうから、21巻発売までこの辞書的意味を覚えておこうと思います。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2008年1月19日 (土)

フロイト全集18より『17世紀のある悪魔神経症』(2)

 この論文の翻訳について、前回に引き続いて契約書の事実関係にまつわる訂正点です。

「数日後マリアツェルに到着すると、画家は一転して、二通目の血による証文を取り返すことだけを考えることになる。契約期限が切れるのはまだまだ先のこと(一六六九年から一六七七年[期日はあと一年先である])であり、最初の契約書の期限は切れて、二通目の契約書を返してもらうことになる。」(岩波版218頁、下線は引用者)

 これはおそらくまったく誤りではないのですが、私には意味が取り難く感じられました。「最初の契約書の期限は切れて」の部分が、この時点より未来のこととして読むことができなかったからです。以下のように微妙に改めたいと思います。

「数日後マリアツェルに到着すると、画家は一転して、二通目の血による証文を取り返すことだけを考えることになる。これの契約期限はまだ迫っていない(一六六九年から一六七七年)。最初の契約書のほうは放置され、そのまま期限が切れてしまうことになる。」(代案)

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2008年1月12日 (土)

フロイト全集18より『17世紀のある悪魔神経症』

 この論文でフロイトは、病歴に関する患者の記憶のねつ造について扱い、さらには暗示が病を引き起こすことがありうるとも述べています。一般に、精神分析中に想起された幼児期記憶は、事実無根のでっちあげであることがあって、とくに被分析者が虐待体験を語る場合には諸外国では訴訟に発展したりといった問題も起こりうるわけですが、こうした事態について、その責をフロイトに帰せられることもあるように思います。しかしこの論文を読めば、そうした非難こそ事実無根であって、フロイトに関する先入見・ねつ造に由来するものだとさえいえそうです。

 翻訳に関しては、次の箇所を問題としたいです。

「ポッテンブルンの司祭の紹介状では、単純かつ明確な事実だけが書き記されていた。ここでは、ハイツマンが九年前に血でしたためた契約書について言及されているだけである。この契約の日付[一六七七年]九月二十四日から、画家が契約書を書き渡したのは[九年前の]一六六八年九月二四日のことになるが、この逆算から確実に導き出される契約の年は、紹介状の中では明記されていない」(岩波版p216、下線は引用者)

 下線部の「契約の日付」という箇所は不正確で、一読した際にはここの事実関係がすぐに飲み込めません。ここは原文通り、「数日後に迫った約束期限の日付」としておけばさらりと読むことができます。なお、ここはp210に述べられている事実関係をもう一度述べている箇所ですので、そちらも参照すればよりはっきりするでしょう。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2008年1月 7日 (月)

フロイト全集17から『女性同性愛の一事例の心的成因について』

 この論文で紹介されている症例は、ラカンがあちこちで引用し、自らの論を説明するための例として使用しています。しかしこの論文そのものの症例記載はかなり簡潔であって、フロイトの論旨にとって必要な概略のみが語られています。なので、この論文からフロイトが述べた以上の帰結を引き出すというのは、かなり無理があるんじゃないだろうかというのが正直な感想です。

 この論文もやはり読みやすく良い訳と思いましたが、次の点を挙げておきます。

「・・・それ以前、彼女のリビードは母性に向けられていたのだが、これ以後、彼女は自分より成熟した女性に恋着する同性愛者になり、以来そのままであり続けている。」(岩波版p249、下線は引用者)

 「リビードは母性に向けられていた」という部分は、母性を性的志向の対象としていた、という意味に読めてしまいます。ここは原文では「auf Muetterlichkeit eingestellt gewesen sein」ですが、この「auf...eingestellt sein」を辞書で引くと、「・・・に対する(心の)準備ができている」という意味のようです。すなわち上の引用箇所はむしろ以下のように読むべきでしょう。

「・・・それ以前、彼女のリビードは母性という態度をとる準備ができていたのだが、これ以後、彼女は自分より成熟した女性に恋着する同性愛者になり、以来そのままであり続けている。」(代案)

 これはすぐ前の段落、「当時彼女は、自らも母になりたい、子供を持ちたいという強い欲望にとらわれていたのだ」という部分と突き合わせてみても整合的に思えます。彼女は、16歳頃に母親が妊娠するまでは、むしろ自ら母になるべき準備状態にあったのでした。

フロイト全集〈17〉1919‐1922―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学

須藤 訓任 (翻訳), 藤野 寛 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (2006/11)

2008年1月 4日 (金)

フロイト全集18から『神経症と精神病』

 これ以外の論文、たとえば『精神分析入門』では、精神病とメランコリーはいずれも自己愛神経症としてまとめられていましたが、この論文では後者のみがナルシス的精神神経症と呼ばれるようになっているところが目を引きます。そして前者は自我と外界の、後者は自我と超自我との葛藤に由来するとされています。この論文で精神病の例としては幻覚性錯乱(ほぼ非定形精神病に相当するでしょう)と統合失調症が挙げられています。

 『ナルシシズム入門』では、パラノイアの注察妄想・追跡妄想において外部から監視する審級について、自我理想に由来するものだと説明されていました。まさかこの『神経症と精神病』を書いた時点でのフロイトが、パラノイアを精神病から除外してナルシス的精神神経症の方に分類しているなんてことはなさそうに思いますけど(パラノイアではこの審級が外部へ投影されますし)、でもこの論文でちょっとパラノイアについても触れてほしかった気がしました。

 この論文での翻訳上の問題として次の一文を挙げておきたいと思います。

「・・・つまり自我は、エスの要求分に対して抑圧を行使する力、抵抗への対抗備給によって確固なものとなる力である。」(岩波版p240)

 ここで「抵抗への対抗備給」とあるのは、独語では単に「die Gegenbesetzung des Widerstandes」でして、素直に「抵抗の対抗備給」または「抵抗という対抗備給」と訳すのが正しいでしょう。

 エスの無意識的なものが意識に浮上しようとするのに対して、それを抑えつけようという「抵抗」として役立つのが「対抗備給」です。たとえば『制止・症状・不安』の11章『補足 A(a)』には、まさに『抵抗と対抗備給』と題してこのあたりの事情が説明されている箇所があります。人文書院版フロイト著作集6巻では「対抗備給」ではなく「反対充当」と訳されているあたりを少々改変して下に引用しておきます。

「・・・そこで欲動の持続性のために、自我も消費をつづけて、その防衛行動を確かにせざるをえなくなる。抑圧をまもろうとするこの行動は、われわれが治療につとめるときに抵抗として感ずるものである。抵抗は、私が対抗備給とよんだものをその前提とする。・・・
 われわれが分析にあたって克服せねばならぬ抵抗が、対抗備給を固執する自我から起こっていることを以前に明らかにした。・・・」(人文書院版フロイト著作集6巻p366-7)

 なお対抗備給については、おなじく人文書院版著作集6巻の『無意識について』第4章、『抑圧の局所性と力動性』にも詳しく説明されています。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

 書店・文具店・雑貨屋に行くと手帳・ダイアリーが山ほど売れ残っていて、売れた数より多いんじゃないかと思うほどですが、あれで商売が成りたつということになると原価はいったいどれほど安いんでしょう。

2008年1月 1日 (火)

今年もよろしくお願い致します

 明けましておめでとうございます。

 昨年の途中までしばらくホームページの更新が滞りがちでした。これは、私が年齢を重ねる毎に時間が取れなくなってきたため、人文書院版フロイト著作集を原語と付き合わせて読み進める作業は続けていても、その正誤表を原稿にする暇がなくなってきたからです。そこへもってきて、数年前より、岩波書店からフロイト全集の刊行が予定されていることを知り、独文系を中心にした充実した訳者陣が担当することもわかって、人文書院版フロイト著作集はおそらく過去の遺物になっていくことが確実に思われたため、モチベーションも下がる一方でした。

 実際に刊行が始まった岩波版フロイト全集については、従来と訳語が違うところは多いものの、訳の正しさを気にしなければならないところはほとんどありません。特に、始めに読んだ『精神分析概説』についてはほぼコメントの必要を感じませんでした。その後しばらく経ってからそれ以外の各論文も読みはじめましたが、それらについては必ずしも満点とは思われず、私のような者がコメントを付けていく作業にもそれなりの価値がありそうに思えました。ただし著作集とは違い、各論文について数カ所程度しか気になる点はなく、よってブログという枠で公開していくのに好適なボリュームに思われました。

 というわけで始めたブログですが、ことし一年、なんとかブランクを置かずに書き継いでいきたいと思います。ちなみに本業の方では、治療上正しいと思うことは看護師さんに総スカンを食っても主張していこうと決意しています。

 今年一年、よろしくお願い致します。

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