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2008年4月

2008年4月29日 (火)

精神鑑定

 有名事件の精神鑑定に絡んだ判決のニュースがありました。このところ関連したニュースも続いています。

 それぞれの被告の犯行時の精神状態の詳細以前の問題として、心神喪失の定義を、鑑定医がしっかり認識していないのではないかと思えてなりません。つまり、責任能力を完全に喪失していてはじめて心神喪失の状態であって、責任能力が著しく減弱している状態は心神耗弱であり、かなりの程度の減弱があっても著しいとまで言えなければ完全責任能力が認められうるということです。この点についての認識が改まるだけでも、最近出されたいくつかの鑑定結果は違ったものになったでしょうし、ずいぶんと一般にもわかりやすい整合的なものになるのではないでしょうか。

 最近のニュースから、精神鑑定など考慮に値しないとか、心神喪失という評価に相当する者など存在しない、といった印象を一般にもたれてしまうと、今後の裁判員制度に向けて非常にまずいと思います。精神病状態では、たとえば幻聴に命令されると逆らうことができず、自らの意志に反して自殺を試みたり我が家に火を放ったり最愛の我が子を殺めたりといった、自らの利益に反した破滅的な行為を行ってしまうことがあります。そうしたレベルの精神状態の中で他人に攻撃が向かってしまうことがありうるということは一般に理解していただきたいところです。

 ところで、そもそも一般論として、ある程度高い地位に就いている精神科医は、主に大学病院(重い精神病患者の入院をお断りしていることが多く、措置入院はまず受け入れない)などでの臨床経験が多いでしょうから、本当に心神喪失に値するほどの重い精神病患者を主治医として継続的に担当した経験などなさそうに思います。ですからそうした医師が鑑定医を担当してしまうと、たとえ十分な机上の知識を持って真摯に鑑定に取り組んでいたとしても、中等度の精神病状態に対しても簡単に心神喪失と判断してしまうことになってしまいませんでしょうか。

フロイト全集9から『ヒステリー性空想、ならびに両性性に対するその関係』

 夢や白日夢、空想とヒステリー症状との関係についての論文です。この邦訳のなかで気になったところを挙げます。

「夜の夢では、ほかでもないこの種の白昼の空想が、複雑にされ、歪曲され、意識的な心的審級によってあえて曲解されたかたちで、夢形成の核をなしているからである。」(岩波版242頁)

 意識的審級が「あえて曲解する」というと、夢の二次加工を指すように思えてしまいますが、二次加工された顕在夢が夢の核であるというのはちょっと変です。原文でここに対応する表現は単に「missverstanden」なので、「誤解する」「思い違いをする」といった意味に捉えればよく、「あえて」というニュアンスはありません。語順もいじって次のように改めたいと思います。

「夜の夢では、ほかでもないこの種の白昼の空想が夢形成の核をなしているが、複雑にされ、歪曲され、意識的な心的審級からは誤解されているのである。」(代案)

 ところでこの論文では、パラノイアの空想についても触れられています。後年には、パラノイアについては同性愛的空想からの防衛であるとか、ナルシシズム的段階への回帰だとか言われるようになるのですが、この論文ではそうした理論にまだ到達していないためか、パラノイアについて「性欲動のサディズム=マゾヒズム的成分」との関係に言及されていますけれど、そこらへんがこの論文の今ひとつ私にはよくわからないところです。

フロイト全集 9 1906-09年 (9) 

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

2008年4月16日 (水)

フロイト全集9より『舞台上の精神病質的人物』(6)

 この論文について、かつて作成した拙訳を岩波訳と比較してきたシリーズの最終回です。 

「というのも、神経症の病者とは、われわれにとっては、その内部にいかなる葛藤が渦巻いているのか -それが動かしがたい域に達しているような場合には- まるで想像も付かないたぐいの人種だからである。」(岩波版p180)

「というのは、罹患中の神経症者の葛藤は、我々にとって、彼が葛藤を既存のものとして携えている場合には、全く見抜くことが出来ないからである。」(代案)

 ここで岩波版で「動かしがたい域に」と訳されている「fertig」という語は、岩波版176頁で「すでに仕上がっている」、180頁の後半では「完全に出来上がった」と訳されており、こここでのみ「動かしがたい」と訳し分けなくても良いのではないかと思います。拙訳が採用した「既存の」という語もさほどよいとは思いませんが。

 次です。

「とするなら、詩人の課題は、われわれを病者と同じ病気の状態に移し置くということになるわけで、これがもっともうまくいくのは、われわれがこの病者と同じ病的展開をたどっているときということになるだろう。」(岩波版p180)

「作者が、我々をしてこの疾患に身を置かせることを課題としていることもありうるが、これは我々がストーリーの展開に作者と一緒に参加する際に最も良く起こる。」(代案)

 原文の代名詞が指す人物を、岩波版は「病者」、拙訳では「作者」としています。私は、「作者」以外の名詞は前の文に出たきりなので遠く感じられ、「作者」としましたが、岩波版を見て考え直しますと、意味からしてやはり「病者」としたいと思います。

「バールの『もうひとりの女』には、どうやらこの手の失敗がのぞいているように思える。加えて、もう一つ問題ばらみの失敗にも気づかされる。すなわち、われわれは、この主人公の娘を充分に満足させるのにどうしてもこの一人の男でなければならないという点に、はっきり確信をもって共感できないということ、つまり彼女の事例が、われわれに共通のものになりえていないということである。」(岩波版p180-181)

「この〈前々段の条件1に関わる〉欠陥を、バールの『他の人々へDer Anderen*2』が提示している。それに加えて、問題となるもう一つの〈条件2に関わる〉欠陥がある。すなわち、ある男性が娘を十分に満足させるという特権性を持つということについて、その心情を感じ取って納得することなど我々にはできないということである。彼らの場合はそれゆえ我々には該当しない。」(代案)

 作品タイトルの「Der Anderen」を、私は複数形ではないかと思ったのですが、岩波版では女性単数とされています。ただし拙訳のほうが正しいと言い切る自信はないです。

 それと、岩波で「彼女の事例」とされている「Ihr Fall」のIhrも、私は複数と思いました。すなわち、ある女性と、その女性にとって特権的男性の両者を指すと考えたのです。しかしこれも拙訳のほうが正しいと言い切る自信はないです。

 これまで6回に分けてみてきましたが、大変勉強になりました。本邦未訳論文はまだいくつかありますので、そのいくつかは、岩波から出る前に自分で訳してみたいと思うようになりました。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

2008年4月 1日 (火)

フロイト全集9より『舞台上の精神病質的人物』(5)

 この論文について、岩波版フロイト全集の訳を用いて、かつて私が作成した訳の間違いを探すシリーズの5回目です。

 なぜなら、抑圧された心の蠢きを公然と露出させ、これをある程度まで意識化して是認することが、もっぱら嫌悪をもたらすのではなく、むしろ快をもたらしてくれるといった可能性は、神経症者においてしか望めないからである。神経者でない場合には、そうした是認は、ひとえに嫌悪されるだけであり、あらためて抑圧の行いをくりかえそうという態勢を呼び起こすだけである。というのも、そうした人たちにあっては、すでにこの抑圧は成功している。つまり、抑圧された心の蠢きが、かつてなされたあの一度の抑圧消費によって、完膚なきまでに相殺されているからである。ところが神経症者の場合は、この抑圧は、今にも崩れそうなほど不安定になっており、つねに新たな消費をつぎこむことが必要である -この消費は、抑圧された心の蠢きが是認されたときはじめて不要となるものだからである。この種の闘いが劇の主題となりうるのは、もっぱら神経症者においてのみであるが、むろん、こうした神経症者の場合でも、詩人は、解放の悦びだけを産み出すのではなく、そうはさせじとする抵抗をも産み出すことになる。(岩波版178頁、下線は引用者)

 というのは、ただ神経症者にとってのみ、抑圧された動きの露呈やそのある程度の意識的再認が、単なる嫌悪に代わる快楽を準備しうるからである。すなわち非神経症者においては、そのような動きは単なる嫌悪に遭遇し、抑圧行為を反復しようという心構えを単に招くだけであろう。というのも、非神経症者ではこの抑圧は成功してきたのであり、抑圧された動きは、一回限りの抑圧労力で完全な平衡状態に保たれてきたからである。神経症者の場合、抑圧は失敗しつつあって、不安定で、確実に新たな労力を要する。ただしこの労力は、再認によって省くことができるだろう。神経症者においてのみ、劇の題材になりうる闘争が存続し、作者は神経症者に単なる開放の享楽ではなく、抵抗をも引き起こす。(拙訳)

 ひとつ目の下線部は、原文の代名詞が示すものが何かという点で岩波版と拙訳が異なっています。文法的にはどちらも可能ですが、ここでは非神経症者が劇を観ているときのことを言っていると考えれば、岩波版の方が良さそうです。

 ふたつ目の下線部は、原文では単なる関係詞節ですが、岩波版では前文の理由を示す節として訳されています。ここは、抑圧された動きを認めることによって不要になった消費のエネルギーが、快楽をもたらすことを言いたいのであって、むしろこの節は次の文で示される事態の理由になっています。よってここは拙訳を取りたいです。

 次の箇所に移ります。

これによって抵抗がいくぶんかでも抑えられることは確かなところである。それは、分析作業においても見られるところであり、抑圧されたものは、通例意識への進入を拒まれているにもかかわらず、抵抗が小さくなると、そのひこばえが意識へとのぼってくるのである。(岩波版179頁、下線は引用者)

その結果抵抗の一部が省かれることは確かであり、それは分析中にみられる次のような場合と同様である。すなわち、抑圧されたものの派生物は、抑圧された当のものを拒んでいる抵抗が減少する結果として意識へ到来するのである。(拙訳)

 ひとつ目の下線部は、前の引用箇所では岩波版で「不要になる」と訳されていた語が用いられているので、揃えた方がいいでしょう。労力が不要になって、あまったエネルギーが快に変わるという事態が大切です。

 ふたつ目の下線部ですが、「抑圧されたもののひこばえを拒んでいる」という関係詞節の先行詞が、岩波版では「意識」であり、拙訳では「抵抗」です(die Abkoemmlinge des Verdraengten infolge des geringeren Widerstandes zum Bewusstsein kommen, das sich dem Verdraengten selbst versagt.)。この箇所はやはり岩波版が正しいと思います。しかし、岩波版のように「抵抗が小さくなると、そのひこばえが意識へとのぼってくる」のではなく、「そのひこばえたちは、それらへの抵抗が小さいので、意識へとのぼってくる」のだと思います(論文「抑圧」参照)。ただし拙訳でもそのようには読みがたいので、次のように改めたいです。

その結果抵抗の一部が省かれることは確かであり、それは分析中にみられる次のような場合と同様である。すなわち、抑圧された当のものは意識へ到達できないが、抑圧されたものの派生物たちは、それらへの抵抗が小さいので、意識へ到来するのである。(代案)

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11) 

 こうして比較してみると実に勉強になります。

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