フロイト全集9から『性格と肛門性愛』
肛門性愛というのは、フロイト理論のなかでも、かなり受け入れ難いテーマのひとつと言えると思います。そんな馬鹿なことが・・・とつい思ってしまいがちですが、このテーマは我々成人の意識的な思考のなかにそのまま入ってくるものではないということを忘れてはなりません。一方で、去勢恐怖とか、父への敵対心とかは、成人が思い浮かべてみてもある程度感情移入できてしまうのですが、これらについては逆に、意識的に思い浮かべてみるという事態と無意識で生じている事態とを安易に混同しないよう気をつけなければならないのです。
翻訳については、気になるところが第一段落にありました。
精神分析を駆使しての支援の試みがなされている人たちのなかには、次のようなタイプがかなりの頻度で見受けられる。すなわち、一方ではある特定の性格諸特性を顕著に併せもっていると同時に、幼年期のころにある身体機能ならびにその機能を果たしている諸機関の働き方に注目すべきところのあった人たちである。ここから、この性格とこうした器官の働き方には何らかの切り離せない関連があるはずだといった印象が私のなかで膨らんできたわけであるが、それが具体的にどのような誘引によったのかは、今日ではもう定かでなくなっている。ただ、こうした印象が出来あがるのに、理論面での予断といったものがいっさい関与していなかったことは確かである。(岩波版279頁)
はじめの下線部、「切り離せない」は、原書では「organisch」です。この語はフロイトの他の箇所に出てくれば普通「器質的な」と訳されるでしょう。たとえば同じくフロイト全集9巻では310頁4行目にあります。ですから翻訳の際、あえて訳者はこの語を避けたのだと思いますけれども、私としては、意味的にもここを「器質的な」と取っておきたい気がします。
二つ目の下線部、「誘引」は、おそらく変換ミスまたは誤植でして、「誘因」が正しいです。
最後の下線部は、原文ではもう少し弱いニュアンスなので、「確かといえる」ぐらいにしておきたいところですし、意味的にも通りが良くなると思います。
精神分析を駆使しての支援の試みがなされている人たちのなかには、次のようなタイプがかなりの頻度で見受けられる。すなわち、一方ではある特定の性格諸特性を顕著に併せもっていると同時に、幼年期のころにある身体機能ならびにその機能を果たしている諸機関の働き方に注目すべきところのあった人たちである。ここから、この性格とこうした器官の働き方には何らかの器質的な関連があるはずだといった印象が私のなかで膨らんできたわけであるが、それが具体的にどのような誘因によったのかは、今日ではもう定かでなくなっている。ただ、こうした印象が出来あがるのに、理論面での予断といったものがいっさい関与していなかったことは確かといえる。
フロイト(著), 新宮一成(編さん)
出版社: 岩波書店 (2007/11)






こんばんは。いつも重要なご指摘をなさっておられるので、大変に参考になります。
フロイトは一般に思われているよりも、実は生物学指向であると思うのですが、あるいは一般にフロイトを心理学的な意味に捉えようとする傾向があるという気がするのですが。
今回ご指摘の部分は、まさにそういう翻訳者の傾向が、もしかしたらあらわれたところなのかも知れませんね。
投稿 重元 | 2008年5月 4日 (日) 21時54分
コメントありがとうございます。おっしゃるように、フロイトは客観的・生物学的に妥当しうる理論を常に模索していたと思います。上の「organisch」という部分については、非常に早い時期(心理・環境的な因果関係を想定しえない時期)からの性向について述べているので、やはり「器質的」がよいと思っています。
投稿 freudien | 2008年5月 7日 (水) 21時48分