« フロイト全集9から『性格と肛門性愛』2 | トップページ | フロイト全集9より『W.イェンゼン著「グラディーヴァ」における妄想と夢』 »

2008年5月13日 (火)

病識欠如について

 これは先月本当にあった話です。

 回診のとき、一人の統合失調症患者が、統合失調症についての解説書を病室内に持ち込んでおり、それを示しながらほぼ次のように話してくれました。「自分は自分の病気についてよくわかるようになった。この本に書いてあることはみんな自分に思い当たることばかりだ。なかでも、病識がもてないというところ、つまり自分で自分は病気だと思えないというところが、一番自分にぴったりと思った」。

 この患者には、病識(自分は病気であるという認識)があると考えても矛盾だし、病識がないと考えても矛盾になります。

 これについて論理学的にどう考えたらよいのだろうかと思っても私は混乱して疲れるばかりなんですが、どうにかすっきり整理できないものでしょうか。

心と体」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/501754/41200456

この記事へのトラックバック一覧です: 病識欠如について:

コメント

こんばんは。
私は、この患者さんの言葉があまり不思議に感じられなかったんですね。
「自分」というももが均一で、時間的にも一貫しているという前提にたてば矛盾になるでしょう。
でも、自分の中にも病的な部分を冷静に見る部分もあり、ある瞬間には妄想に完全に捉われていても、それを落ち着いて振り返られる時もある、ということもあり得るのではないかと思います。
それと、この発言の前の「病気」と後の「病気」は、少し意味合いが違うのではないでしょうか。
前の「病気」は、「状態」とも置き換えられる意味。
後の「病気だ」は、「変だ」や「異常だ」と置き換えられる意味。
全体としては、「妄想に捉われている時っていうのは、誰になんと言われたって周囲から迫害されているとしか考えられない状態なんだよなあ」みたいなことなのかなと想像するのですが。
いかがでしょうか。

 こんにちは。コメントありがとうございます。
 上の患者さんの言葉は、逐語的に記録していたわけではないので趣旨を紹介したんですけど、実際には、前半は非常に実感を込めて言っていましたし、全体を現時点のこととしておっしゃっているようなニュアンスだったと思います。なのでそこにいた回診医たちには、矛盾しているように感じられたのでした。うまくお伝えできなかったかもしれません。
 ところで、病識一般については、おっしゃるように、時間の中での運動として獲得がなされるものと思いますし、固まった知識ではないと思っていたところです。一度獲得されても、いつでもひっくり返りうるものでありますし。

はじめまして。
実に興味深いので思わずコメントしたくなりました。
こんなことが本当にあるんですね。
うそつき村と正直村のクイズを思い出しました。
「なかでも」と強調しているところが、なおさら矛盾点を深めますね。奥深いです。

コメントを書く

ブログ:ココログ