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2008年6月

2008年6月25日 (水)

フロイト全集9より『W.イェンゼン著「グラディーヴァ」における妄想と夢』(4)

 次は岩波版78頁から80頁にかけての長大な段落を取り上げます。私には一読して意味がとりづらく感じられたからです。それはもちろん、主人公の妄想の荒唐無稽さの原因を、作者に帰すべきかそれとも主人公の精神状態に帰すべきか、という論旨そのものがなかなか難しいからでもあります。

 気になるところをひとつずつつぶしていきましょう。まず

「・・・彼女が現代の履物を履いているのに気付いても。彼女がギリシア語やラテン語を知らず、当時存在しなかったドイツ語を自由にあやつっても、ぐらつくことのないこの幻想は、「ポンペイの空想小説」という詩人による命名をなるほど正当化はしても、臨床医学の実際に即して判断することなどとうてい許しはしないだろう。」(岩波版78頁)

 私が思うに、最後の「判断する」と「許しはしない」というふたつの動詞の主語と目的語がはっきりしないところがわかりにくさの原因ではないでしょうか。

「・・・彼女が現代の履物を履いているのに気付いても。彼女がギリシア語やラテン語を知らず、当時存在しなかったドイツ語を自由にあやつっても、ぐらつくことのないこの幻想は、「ポンペイの空想小説」という詩人による命名をなるほど正当化はしても、臨床医学の実際との比較検討にはとうてい耐えられるものではないだろうと思われる。」(代案)

 次ですが、本当に細かいところで恐縮です。

「もちろん責任の一端は詩人が我が身に引き受けており、ツォーエがすべての特徴において石造レリーフそっくりだとの物語の前提の中にも、この責任はつきまとっている。したがって、この前提のありえなさを、ハーノルトがその娘をよみがえったグラディーヴァと思うという、その必然的帰結へと遷移することは用心して避けなければならない。」(岩波版78頁、下線は引用者)

 下線を引いた箇所の「も」を省きたいのです。もちろん原文にないからでもありますが、ここに「も」があると、詩人の責任は多数の箇所に散りばめられているように感じられてしまい、そうすると直後の文の内容につながらないからです。

 次です。

「しかし、説明し言い訳するすべての契機の中であいかわらず重要なのは、ついうっかりということで、われわれの思考能力は、激しく情動強調された蠢きが満足を見出すなら、うっかり不条理な内容を受け入れることを決定するのである。このような心理的状況の下では、知能に優れた人でさえ、どれほどやすやすと、またどれほど頻繁に、部分的にせよ精神薄弱の反応を示すかは驚くべきことであるが、たいていの場合、まともに評価されることが少なすぎる。」(岩波版78-79頁、下線は引用者)

 最初の部分からして意味がとりづらいので、多少語句を補って、「しかし、[主人公の妄想の荒唐無稽さを]説明し弁護するすべての契機の中であいかわらず重要なのは」としておきます。「言い訳する」という訳語はここにぴったりこない気がします。

 さらに、「ついうっかりということ」「うっかり」「やすやすと」はすべて同じ語です(名詞形であったりはしますが)。

 また、引用した箇所の最後、「まともに評価されることが少なすぎる」の主語もわかりづらいので、以下のように提案しておきます。

「しかし、[主人公の妄想の荒唐無稽さを]説明し弁護するすべての契機の中であいかわらず重要なのは、容易さということで、[主人公を含む]われわれ[人間一般]の思考能力は、激しく情動強調された蠢きが満足を見出すなら、容易に不条理な内容を受け入れることを決心するのである。このような心理的状況の下では、知能に優れた人でさえ、どれほど容易に、またどれほど頻繁に、部分的にせよ精神薄弱の反応を示すかは驚くべきことであるが、この事実はたいていの場合、まともに評価されることが少なすぎる。」(代案)

 上に述べた改善箇所に加え、私の好みで「決定」を「決心」にしました。

 最後に次の箇所。

「わたしも、自分で経験した驚くべき誤謬の事例や、事後的に(しかもきわめて非理性的やり方で)動機付ける無思慮な行動の事例をメモに取り始めております。」(岩波版79頁)

 ここも意味がとりづらい。というか、過去の行動を「事後的に動機付ける」なんてことがありえたらオカルトです。「事後的に動機がわかる」「事後的に理由付けできる」といった意味でしょう。

 段落の最後の文(岩波版80頁)は、前とのつながりがわかりにくいですが、ほかにどう訳したらよいか私にも良い案が思いつきません。誤訳というわけでもありませんし。私としては、「実行される」を、「実行されている」にするぐらいの改変でも少しはわかりやすくなるような気はしますが。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11)

2008年6月16日 (月)

フロイト全集9より『W.イェンゼン著「グラディーヴァ」における妄想と夢』(3)

 この論文で気になる点を扱う3回目です。

「しかし他方では、ハーノルトはみずからの性愛に対するこの勝利をよろこんではいない。抑え込まれた心の蠢きはまだ十分強力で、不快感を示したり、それを制止することで、抑え込もうという動きに仕返しをしている。」(岩波版76頁、下線は引用者)

 下線部の「それ」は何を指すのでしょうか。訳文を読む限りでは、「抑え込もうという動き」を先取りしているとでも考えるしかなさそうですが、原文を読むと、ここは単に「Hemmung」という名詞があるだけで、「それを」に当たる語はありません。次のように改めてみます。

「しかし他方では、ハーノルトはみずからの性愛に対するこの勝利をよろこんではいない。抑え込まれた心の蠢きはまだ十分強力で、不快感や制止症状[をハーノルトにもたらすこと]で、抑え込もうという動きに仕返しをしている。」(代案)

 抑圧の帰結として、不快や制止といった症状が現れた、ということでしょう。上では「制止症状」としてみましたが、「症状」は私なりの補足です。

 なお、「抑え込もうという動き」の「動き」は、「蠢き」と訳されているのと同じ語なので統一性に欠けます。私は「動き」で統一したほうがいいと思うんですけど。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11)

2008年6月10日 (火)

フロイト全集9より『W.イェンゼン著「グラディーヴァ」における妄想と夢』(2)

 この論文について二回目ですが、訳語について少し触れましょう。

「表象が抑圧されるのは、起こってはならない感情迸出とその表象が結びついているからという理由の場合のみである。抑圧が関係するのは感情である、と言えばより正確だろう。ただわれわれが感情をとらえることができるのは、まさに感情が表象に拘束されている場合のみなのであって、それとは違うやり方で感情をとらえることはできないのである。」(岩波版54頁、下線は引用者)

 「迸出」と訳されているのは「Entbindung」で、その二つ後の文に出てくる「拘束される」の原語「Bindung」と明らかに関連しているんですけれど、訳文からはこの関連が読み取れません。私はかねがね、この「Entbindung」なる語の訳は「脱拘束」とするのが良いだろうと思っています。「感情迸出」は「感情の脱拘束」となります。

 なお、上の引用のうち「感情が表象に拘束されている場合のみ」のところは、「感情を表象に拘束することによってのみ」が正しいと思います

 次です。

「したがってこれが、顕在的夢内容が実現する着想なのであり、その着想は、夢見る人が体感する現在であるかのごとくに描かれるのである。
 夢がたったひとつの夢思考の上演であることはほとんどなく、たいていの場合は、一連の思考、思考の織物が演出される。ハーノルトの夢からも、夢内容のさらに別の構成要素を浮かび上がらせることができる。その要素の歪曲は容易に取り除くことができるので、それによって代表されている潜在的夢着想が何なのかがわかる。」(岩波版66-67頁、下線は引用者)

 「着想」というとふつう意識的な思いつきのことを指すと思っていた私は、この部分での「着想」なる語の使い方を見て戸惑いました。原書を見ると、ここで「着想」と訳されているのは「Idee」なので、「観念」か「想念」ぐらいがいいんじゃないでしょうか。

フロイト全集 9 1906-09年 (9)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/11)

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