フロイト全集9より『W.イェンゼン著「グラディーヴァ」における妄想と夢』4
次は岩波版78頁から80頁にかけての長大な段落を取り上げます。私には一読して意味がとりづらく感じられたからです。それはもちろん、主人公の妄想の荒唐無稽さの原因を、作者に帰すべきかそれとも主人公の精神状態に帰すべきか、という論旨そのものがなかなか難しいからでもあります。
気になるところをひとつずつつぶしていきましょう。まず
・・・彼女が現代の履物を履いているのに気付いても。彼女がギリシア語やラテン語を知らず、当時存在しなかったドイツ語を自由にあやつっても、ぐらつくことのないこの幻想は、「ポンペイの空想小説」という詩人による命名をなるほど正当化はしても、臨床医学の実際に即して判断することなどとうてい許しはしないだろう。(岩波版78頁)
私が思うに、最後の「判断する」と「許しはしない」というふたつの動詞の主語と目的語がはっきりしないところがわかりにくさの原因ではないでしょうか。
・・・彼女が現代の履物を履いているのに気付いても。彼女がギリシア語やラテン語を知らず、当時存在しなかったドイツ語を自由にあやつっても、ぐらつくことのないこの幻想は、「ポンペイの空想小説」という詩人による命名をなるほど正当化はしても、臨床医学の実際との比較検討にはとうてい耐えられるものではないだろうと思われる。(私案)
次ですが、本当に細かいところで恐縮です。
もちろん責任の一端は詩人が我が身に引き受けており、ツォーエがすべての特徴において石造レリーフそっくりだとの物語の前提の中にも、この責任はつきまとっている。したがって、この前提のありえなさを、ハーノルトがその娘をよみがえったグラディーヴァと思うという、その必然的帰結へと遷移することは用心して避けなければならない。(岩波版78頁)
下線を引いた箇所の「も」を省きたいのです。もちろん原文にないからでもありますが、ここに「も」があると、詩人の責任は多数の箇所に散りばめられているように感じられてしまい、そうすると直後の文の内容につながらないからです。
次です。
しかし、説明し言い訳するすべての契機の中であいかわらず重要なのは、ついうっかりということで、われわれの思考能力は、激しく情動強調された蠢きが満足を見出すなら、うっかり不条理な内容を受け入れることを決定するのである。このような心理的状況の下では、知能に優れた人でさえ、どれほどやすやすと、またどれほど頻繁に、部分的にせよ精神薄弱の反応を示すかは驚くべきことであるが、たいていの場合、まともに評価されることが少なすぎる。(岩波版78-79頁)
最初の部分からして意味がとりづらいので、多少語句を補って、「しかし、[主人公の妄想の荒唐無稽さを]説明し弁護するすべての契機の中であいかわらず重要なのは」としておきます。「言い訳する」という訳語はここにぴったりこない気がします。
さらに、「ついうっかりということ」「うっかり」「やすやすと」はすべて同じ語です(名詞形であったりはしますが)。
また、引用した箇所の最後、「まともに評価されることが少なすぎる」の主語もわかりづらいので、以下のように提案しておきます。
しかし、[主人公の妄想の荒唐無稽さを]説明し弁護するすべての契機の中であいかわらず重要なのは、容易さということで、[主人公を含む]われわれ[人間一般]の思考能力は、激しく情動強調された蠢きが満足を見出すなら、容易に不条理な内容を受け入れることを決心するのである。このような心理的状況の下では、知能に優れた人でさえ、どれほど容易に、またどれほど頻繁に、部分的にせよ精神薄弱の反応を示すかは驚くべきことであるが、この事実はたいていの場合、まともに評価されることが少なすぎる。(私案)
上に述べた改善箇所に加え、私の好みで「決定」を「決心」にしました。
最後に次の箇所。
わたしも、自分で経験した驚くべき誤謬の事例や、事後的に(しかもきわめて非理性的やり方で)動機付ける無思慮な行動の事例をメモに取り始めております。(岩波版79頁)
ここも意味がとりづらい。というか、過去の行動を「事後的に動機付ける」なんてことがありえたらオカルトです。「事後的に動機がわかる」「事後的に理由付けできる」といった意味でしょう。
段落の最後の文(岩波版80頁)は、前とのつながりがわかりにくいですが、ほかにどう訳したらよいか私にも良い案が思いつきません。誤訳というわけでもありませんし。私としては、「実行される」を、「実行されている」にするぐらいの改変でも少しはわかりやすくなるような気はしますが。
フロイト(著), 新宮一成(編さん)
出版社: 岩波書店 (2007/11)





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