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2008年7月28日 (月)

フロイト全集8から『機知』6

 白状すると、次の機知は私にはよくわかりません。

 あるガリツィア地方の駅で二人のユダヤ人が出会った。「どこへ行くのかね」と一人が尋ねた。「クラカウへ」と答えた。「おいおい、あんたはなんて嘘つきなんだ」と最初の男がいきり立って言う。「クラカウに行くと言って、あんたがレンベルクに行くとわしに思わせたいんだろう。だけどあんたは本当にクラカウに行くとわしは知っている。それなのになぜ嘘をつくんだ?」(岩波版137頁)

 これのおもしろさもわからないし、フロイトの解説もピンとこないのです。翻訳の問題なのかどうか原文と見比べてみることにしましょう。

 まず、読解にほとんど影響のない些細な点ですが、二人が出会ったのは正しくは「駅で」ではなく「駅の列車で」です。

 むしろ主たる疑問点は、「クラカウに行くと言って、あんたがレンベルクに行くとわしに思わせたいんだろう」の部分、原文では「Wenn du sagst, du fahrst Krakau, willst du doch, dass ich glauben soll, du fahrst nach Lemberg.」の部分です。

 岩波版の訳だと、「クラカウに行くと言うことによって、あんたはレンベルクに行くとわしに思わせようとしているんだろう」という意味に感じられますが、原文では単に、「あんたはクラカウに行くと言うが、一方で[内心で]あんたは、レンベルクに行くとわしに思わせたがっているんだろう」という意味にしか取れないように思えます。

 岩波の訳文のような意味に取れば、この小話は、現実の会話ではあり得ないほど非常にややこしい論理から成り立っていそうなものになりますが、その後に付されたフロイトの簡潔な解説とはあまりうまく合致していないように思います。

 私が読んだような意味だとすれば、この小話は、一般に渋々真実を語るような状況にいくらでも符合しうるありふれた事態ということになります。フロイトが付け加えた解説も、一般に「真実」(あるいは「嘘」)という語が、事実への忠実さを問題にしているか、本心への忠実さを問題にしているか、といった疑問を投げかけているにすぎないように感じられ、私の解釈に釣り合ったものという印象を受けます。

 ちなみにラカンのセミネール5巻でこの機知が紹介されている箇所、「Pourquoi me dis-tu que tu vas a Cracovie quand tu vas vraiment a Cracovie?」(原書p105、邦訳上巻153頁)は、私と同じ解釈のように読めます。おもしろいことに、ラカンのセミネールの内容をかなり忠実に要約・紹介しているM.サフアン著『Lacaniana』なる本では、セミネール5巻の当該箇所を引用する際に、「Pourquoi me dis-tu que tu vas a Cracovie pour que je croie que tu vas a Banberg, alors que tu vas vraiment a Cracovie?」とあえて訳し換えて、岩波版と同じ解釈になっています。

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03)

 ところでこの小話ですが、話題が鉄道旅行についてではなく、個人の欲望が直接ぶつかり合う場面、たとえばお見合いパーティーやグループ交際のような場面を想定してみると、岩波訳の構文解釈のままでも、ナンセンスとか深遠という印象はかなり薄らぐように感じます。例えば:

「どの娘にアプローチするのかい」と一人が尋ねた。「A子に」と答えた。「おいおい、あんたはなんて嘘つきなんだ」と最初の男がいきり立って言う。「A子にアプローチすると言って、あんたがB子にアプローチすると俺に思わせたいんだろう。だけどあんたは本当にA子にアプローチすると俺は知っている。それなのになぜ嘘をつくんだ?」

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コメント

こんにちは。今回ご指摘の部分は、私自身はあまり引っかからなかったので、freudienさんのような解釈があるのだなと興味深く拝見しました。ただ、ここに関しては、私は岩波の解釈でよいのではと思います。フロイトの解説も、「本当の真実とは、聞き手にそれがどう伝わるかということまで配慮してはじめて達成される」という意味に読みました。いつも嘘ばかりついている人がその時だけ事実としては正しいことを言っても、それは真実の効果を与えないと。似たような例としては、いつも建前ばかり言っている人物がいつもの調子で正真正銘の真実を語っても、そのようには伝わらない、というようなことがあるでしょうか。
この話自体には、本質とは少しずれたところで面白みを感じました。質問をした方の男は実は答えを知っていたわけで、相手をまるきり信用していないことをこうして自ら暴露してしまうところが、ユーモラスに思えました。
(この機知については、私のブログでもとりあげました。http://blog.zaq.ne.jp/sigmund/article/515/)

 コメントありがとうございます。
 私がここで疑問を感じたのは、まさに重元さんが着目したのと同じ部分、
「物事をありのままに記述してはいるが、聞き手の受けとめ方に無関心であるとき、それは真実なのだろうか」
という箇所です。
 というのも、この箇所によれば、『クラカウへ』という答えへの非難は、「聞き手の受けとめ方に無関心である」という点に向けられていることになるのですが、一方で、岩波版での小話の解釈は、『クラカウへ』という答えは相手を故意にレンベルグへ行くと信じ込ませようとする底意に満ちたものだということになっていて、とうてい「聞き手の受けとめ方に無関心」とは言えないものとしているからです。
 ところで岩波版を読むと、この小話を紹介した直後の段落(138頁)で展開される説明の邦訳には、小話の解釈にあわせた訳語、つまり話がわかりづらく複雑になるような訳語を故意に選択している箇所が何カ所かあるように思えて非常に不満です。いずれ当ブログで問題点を取り上げようと思います。

Lacan の専門家でも何でもないただの通りすがりですが、Le Séminaire sur « La lettre volée »においても、同じ話が上のどちらとも少し違う形で紹介されているので、なんとなくお伝えしておきます。すごい今更ですが。
すでにご存じでしたら流してください。

« Pourquoi me mens-tu, s'y exclame-t-on à bout de souffle, oui, pourquoi me mens-tu en me disant que tu vas à Cracovie pour que je croie que tu vas à Lemberg, alors qu'en réalité c'est à Cracovie que tu vas ? »

http://www.ecole-lacanienne.net/documents/1956-08-15.doc
このwordファイルで pp.13-14 あたりです。

 とおりすがり様、興味深い箇所を指摘いただきありがとうございます。
 エクリの書籍では20頁にありました。ここでラカンは、岩波版の訳と同じような複雑な論理としてこのエピソードを読んでいるようです。ただ、ラカンが「tu」と言うときには大文字の他者を指していることが多いので、ここでも、フロイトの小噺の解釈そのものから離れてより一般化されたパロールの条件を描いているといえるかもしれません。
 ともかくありがとうございました。

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