フロイト全集8から『機知』(6)
恥ずかしながら白状しますが、フロイトが紹介している中でもかなり有名な次の機知は私には意味も面白さもよくわかりません。
『あるガリツィア地方の駅で二人のユダヤ人が出会った。「どこへ行くのかね」と一人が尋ねた。「クラカウへ」と答えた。「おいおい、あんたはなんて嘘つきなんだ」と最初の男がいきり立って言う。「クラカウに行くと言って、あんたがレンベルクに行くとわしに思わせたいんだろう。だけどあんたは本当にクラカウに行くとわしは知っている。それなのになぜ嘘をつくんだ?」』(岩波版137頁)
これのおもしろさもわからないし、フロイトの解説もピンとこないのです。翻訳の問題なのかどうか原文と見比べてみることにしましょう。
まず、読解にほとんど影響のない些細な点ですが、二人が出会ったのは正しくは「駅で」ではなく「駅の列車で」です。
むしろ主たる疑問点は、「クラカウに行くと言って、あんたがレンベルクに行くとわしに思わせたいんだろう」の部分、原文では「Wenn du sagst, du fahrst Krakau, willst du doch, dass ich glauben soll, du fahrst nach Lemberg.」の部分です。
岩波版の訳だと、「あんたは、クラカウに行くと言うことによって、レンベルクに行くとわしに思わせようとしているんだろう」という意味に感じられますが、原文では単に、「あんたはクラカウに行くと言うが、一方で[内心で]あんたは、レンベルクに行くとわしに思わせたがっているんだろう」という意味にしか取れないように思えます。
岩波の訳文のような意味に取れば、この小話は、現実の会話ではあり得ないほど非常にややこしい論理から成り立っていそうなものになりますが、その後に付されたフロイトの簡潔な解説とはあまりうまく合致していないように思います。
私が読んだような意味だとすれば、この小話は、一般に渋々真実を語るような状況にいくらでも符合しうるありふれた事態ということになります。フロイトが付け加えた解説も、一般に「真実」(あるいは「嘘」)という語が、事実への忠実さを問題にしているか、本心への忠実さを問題にしているか、といった疑問を投げかけているにすぎないように感じられ、私の解釈に釣り合ったものという印象を受けます。
ちなみにラカンのセミネール5巻でこの機知が紹介されている箇所、「Pourquoi me dis-tu que tu vas a Cracovie quand tu vas vraiment a Cracovie?」(原書p105、邦訳上巻153頁)は、私と同じ解釈のように読めます。おもしろいことに、ラカンのセミネールの内容をかなり忠実に要約・紹介しているM.サフアン著『Lacaniana』なる本では、セミネール5巻の当該箇所を引用する際に、「Pourquoi me dis-tu que tu vas a Cracovie pour que je croie que tu vas a Banberg, alors que tu vas vraiment a Cracovie?」とあえて訳し換えて、岩波版と同じ解釈になっています。
フロイト(著), 新宮一成(編さん)
出版社: 岩波書店 (2008/03)
ところでこの小話ですが、話題が鉄道旅行についてではなく、個人の欲望が直接ぶつかり合う場面、たとえばお見合いパーティーやグループ交際のような場面を想定してみると、岩波訳の構文解釈のままでも、ナンセンスとか深遠という印象はかなり薄らぐように感じます。例えば:
「どの娘にアプローチするのかい」と一人が尋ねた。「A子に」と答えた。「おいおい、あんたはなんて嘘つきなんだ」と最初の男がいきり立って言う。「A子にアプローチすると言って、あんたがB子にアプローチすると俺に思わせたいんだろう。だけどあんたは本当にA子にアプローチすると俺は知っている。それなのになぜ嘘をつくんだ?」
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こんにちは。今回ご指摘の部分は、私自身はあまり引っかからなかったので、freudienさんのような解釈があるのだなと興味深く拝見しました。ただ、ここに関しては、私は岩波の解釈でよいのではと思います。フロイトの解説も、「本当の真実とは、聞き手にそれがどう伝わるかということまで配慮してはじめて達成される」という意味に読みました。いつも嘘ばかりついている人がその時だけ事実としては正しいことを言っても、それは真実の効果を与えないと。似たような例としては、いつも建前ばかり言っている人物がいつもの調子で正真正銘の真実を語っても、そのようには伝わらない、というようなことがあるでしょうか。
この話自体には、本質とは少しずれたところで面白みを感じました。質問をした方の男は実は答えを知っていたわけで、相手をまるきり信用していないことをこうして自ら暴露してしまうところが、ユーモラスに思えました。
(この機知については、私のブログでもとりあげました。http://blog.zaq.ne.jp/sigmund/article/515/)
投稿: 重元 | 2008年8月 4日 (月) 18時45分
コメントありがとうございます。
私がここで疑問を感じたのは、まさに重元さんが着目したのと同じ部分、
「物事をありのままに記述してはいるが、聞き手の受けとめ方に無関心であるとき、それは真実なのだろうか」
という箇所です。
というのも、この箇所によれば、『クラカウへ』という答えへの非難は、「聞き手の受けとめ方に無関心である」という点に向けられていることになるのですが、一方で、岩波版での小話の解釈は、『クラカウへ』という答えは相手を故意にレンベルグへ行くと信じ込ませようとする底意に満ちたものだということになっていて、とうてい「聞き手の受けとめ方に無関心」とは言えないものとしているからです。
ところで岩波版を読むと、この小話を紹介した直後の段落(138頁)で展開される説明の邦訳には、小話の解釈にあわせた訳語、つまり話がわかりづらく複雑になるような訳語を故意に選択している箇所が何カ所かあるように思えて非常に不満です。いずれ当ブログで問題点を取り上げようと思います。
投稿: freudien | 2008年8月 6日 (水) 22時46分
Lacan の専門家でも何でもないただの通りすがりですが、Le Séminaire sur « La lettre volée »においても、同じ話が上のどちらとも少し違う形で紹介されているので、なんとなくお伝えしておきます。すごい今更ですが。
すでにご存じでしたら流してください。
« Pourquoi me mens-tu, s'y exclame-t-on à bout de souffle, oui, pourquoi me mens-tu en me disant que tu vas à Cracovie pour que je croie que tu vas à Lemberg, alors qu'en réalité c'est à Cracovie que tu vas ? »
http://www.ecole-lacanienne.net/documents/1956-08-15.doc
このwordファイルで pp.13-14 あたりです。
投稿: とおりすがり | 2009年10月25日 (日) 14時41分
とおりすがり様、興味深い箇所を指摘いただきありがとうございます。
エクリの書籍では20頁にありました。ここでラカンは、岩波版の訳と同じような複雑な論理としてこのエピソードを読んでいるようです。ただ、ラカンが「tu」と言うときには大文字の他者を指していることが多いので、ここでも、フロイトの小噺の解釈そのものから離れてより一般化されたパロールの条件を描いているといえるかもしれません。
ともかくありがとうございました。
投稿: 管理人 | 2009年10月26日 (月) 23時51分
こんにちは。
嘘を一生涯ついていて、誰にもばれなかったら、嘘なのか?えと、たとえば、一生涯、いいひとのフリをしてたら、いいひと、ですよね。このユダヤジョークは、冤罪なんで、不条理ですが。ま、冤罪というものの深淵、自分だけが無実と知っているが、地球人、全員が、犯罪者と信じてるときに、真理とは何か? そして、あなたは、意識的にはいいひとだが、無意識には、猥雑な欲望あってつみびとです、と、みんなに言われたら、反論は、原理的に不可能。無意識とは、客観的な主観。間主観的。
投稿: 筆硯独語 | 2015年10月17日 (土) 12時40分
ありがとうございます。
何年か期間をおいて改めてよく考えてみると、私のおおもとの記事の解釈だと、「嘘」である理由がよくわからないので、自信がなくなってきました。
さて、最近私の当直中に、ある外来患者が調子を崩したため、家族が私の勤務先病院Aに電話相談したうえで一緒に受診したのですが、家を出る際に患者は、家族から、病院Aへ連れて行く、と告げられタクシーに乗せようとされた際に、「そんなことを言っているが、本当は、昔入院させられたことのある別の病院Bに連れていくつもりだろう」と疑って、わざわざ自ら救急車を呼んで、病院Aに連れて行くよう依頼し、救急車で来院しました。そんな疑いをもつほどにも家族に対する猜疑心・被害念慮が強まっていたからです。
この話を聞いて私は上のユダヤジョークを思い出したんですが、でもこのジョークはもう一段ひねりが効いてます。上の患者に当てはめて言うならば、「家族は病院Aに連れて行くと言っているが、そう言うことで、別の病院Bに連れていくつもりだと私に思わせて苦しめようとしているんだろう。しかし本当に病院Aに連れて行くことを私は知っている」といった論理になるでしょう。
投稿: 管理人freudien | 2016年4月25日 (月) 21時56分
精神神経症者=こころの理論が前提になっているひと
現勢神経症者=こころの理論が前提になっていないひと
ってときの「こころ」とは、
他人や自分のことは「わからない」ってのが「こころ」。
精神神経症者というのは、他人や自分のこころはわからないってのが大前提。ま、そういう構造。これは、言っていることとは、別の、言っていることとは、違う、言っていることではない、言わんとすること(欲望)というものが、目に見えない、すがたかたちはない、現れない、ま、現実にはどこにも存在しない、不可視、んで、言語化できない、言語化され尽くせないもの、不可称・不可説なものが、ないけどあるよねっていう構造。まあ、絶対に言語化されきれない、言語化し尽くされないところの、こころ、なるもの、なんせ、絶対に現れないので、現実にはどこにも存在しないのだが、ま、あることになっているという、まあ、ですから、設定だな。設定。そゆのが精神神経症者。ま、こころが、どこでもないところ、別の場所に、ある、ことになっているっていう。
すると、言っていることとはいつでもつねに別のことが、言わんとすることだ、ということで、絶対に合致してないってことなので、未来永劫、断じて、ほんの一回でも、一度も、合致することはない、ということなので、ま、精神神経症者は、その意味では、いつでもつねに、嘘しか言っていないものと言える。
ほんとのことを言っているときでも、嘘をついているということである。
事実の叙述としては、ほんとのことを言っている場合であっても、意図は別でなければならないのだから、ほんとのことを言っている場合でも、嘘をついているのでなければならない。
投稿: 筆硯独語 | 2018年10月28日 (日) 13時43分