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2008年8月

2008年8月26日 (火)

フロイト全集8から『機知』(9)

 この論文の翻訳は全体的には素晴らしいのですが、後半になって備給の経済について論じられる箇所が現れてくると、間違いとまでは言いませんが、ちょっと危なっかしい箇所が多くなります。

『機知において表現されている思想により、聞き手のうちに興奮性の強い表象が呼び覚まされたとしよう。この場合、機知の傾向と聞き手を支配している一連の想念とが一致するか、それとも対立矛盾するかによって、機知の過程に注意が向けられるかいなかが決まる。けれどもさらに大きな理論的関心を惹くのは、機知の一連の補助的技法であって、これは聞き手の注意を機知の過程から完全に引き離し、その過程を自動的に進行させるという意図に役立っていることが明らかである。私が意図的に「自動的に」と言い、「無意識的に」と言わないわけは、「無意識的に」と言ったのでは語弊があるからである。ここで肝心なのはひとえに、機知を聞いたときの心的過程が注意の過剰備給に陥らないようにすることである。この補助的技法の有用性からして当然にも推測できることは、注意への備給が、自由になった備給エネルギーを監視したり新しい仕方で使用したりすることに大きく関与しているということである。』(岩波版180頁、下線は引用者)

 下線部を順に見ていきます。

 「興奮性の強い表象」の原文は「stark erregende Vorstellungen」ですが、「erregend」は「erregen興奮させる」の現在分詞である以上、「強く興奮を惹起する表象」です。岩波版の「興奮性の強い表象」だと、その表象自体が強く興奮させらているように(すなわち、過去分詞「erregt」のようなニュアンスに)読めてしまいそうですが、原文では、その表象は、強い興奮エネルギーのトリガーとなるもののようです。

 次に、「注意が向けられるかいなかで決まる」です。原文では、「die Aufmerksamkeit belassen oder entzogen wird」ですので、「注意を委ねるか剥奪するかが決まる」。こういうメタ心理学的な文脈では、「注意」は備給そのものからなっていて、向けるとか向けないというよりも、備給したり撤収したりされるものです。常識的な心理学や現象学では、「注意」というと常に方向性を持ったものとして論じられるでしょうけれども、無意識を含んだ文脈にそのような常識を持ち込んでしまうと、メタサイコロジーの中に、自らの心的現象を観察するこびとを持ち込むことになってしまいませんでしょうか。

 「機知を聞いたときの心的過程が注意の過剰備給に陥らないようにすることである」の原文は「die Mehrbesetzung der Aufmerksamkeit von dem psychischen Vorgang beim Anhoeren des Witzes fernzuhalten」です。まず、ふつう「過剰備給」と訳されるのは「Ueberbesetzung」ですがここはなぜか「Mehrbesetzung」となっていることを指摘しておきます。とりあえず、マルクスの言う「剰余価値」が「Mehrwert」なので訳は「剰余備給」としておきましょうか。さて、ここの表現では「fernhalten」という語が「遠ざけておく」という意味であることが私には引っかかります。といいますのは、フロイトのメタサイコロジーでは、様々な表象や思想の間の距離の遠近が想定されているので、こういう距離にまつわる語が出てきたときに単なる比喩ととらえてはならないと思います。なのでここは直訳して、「機知を聞いたときの心的過程から、注意の剰余備給を遠ざけておくことである」としておきます。

 そして最後の下線部、「注意への備給」ですが、「Aufmerksamkeitsbesetzung」ですので本来の訳は「注意備給」あるいは「注意の備給」です。

 今回取り上げたような視点から見ていけば、論文『機知』の岩波訳にはまだまだ取り上げるべき箇所がありそうです。私はフロイトのエネルギー論は真面目に受け取っていく価値があると思っていますので今後もお付き合いください。

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03) 

2008年8月19日 (火)

フロイト全集8から『機知』(8)

 今回は、些細と思われるかもしれませんが訳文を読んで気になる箇所をいくつか取り上げます。

『すなわち、この第一のグループと第三のグループ、つまり語の連想によるものの連合の代替と、不条理の使用とは・・・』(岩波版152頁)

 同じ語を「連想」と「連合」というふうに訳し分けている理由がわかりません。私はそもそも「連想」と訳されている語はつねに「連合」と訳すべきだと思っているので特に気になった箇所です。

 訳語について言えば、この2頁前など多くの箇所に「ひこばえ」という語が使われています。これは、原文での「Abkoemmling」の定訳として毎度使われているようですが、辞書を引いても、①「子孫」「後裔」、②化学用語の「誘導体」、が出てくるだけです。私の推測では、この「ひこばえ」とは、元の独単語「Abkoemmling」の仏訳が「rejeton 新芽、ひこばえ」であることに由来する訳語でして、仏訳からの重訳ならともかくフロイトから直に訳す際にこの訳語を選ぶ理由は見あたりません。

 つぎは訳文の表現についてです。

『さて、われわれは、機知の技法として記述してきたもの -ある意味では続けてそう呼ばざるを得ないが- は、むしろ機知が快を取り出す源泉であることに気づいている。そして、同じ目的をもつ他の諸方式が同じ源泉から汲み出していることを、奇異には思わない。しかし、機知に独自の、機知にのみ属する技法は、快を廃棄しかねない批判からの異議に対して、快をもたらすこれらの手段の使用を確保する、その方式にある。』(岩波版155頁、下線は引用者)

 私には文意が取りづらかったので、下線部をちょっと訳し換えたいと思います。

『さて、われわれは、機知の技法として記述してきたもの -ある意味でそう呼び続けざるを得ないが- は、むしろ機知が快を取り出す源泉であることに気づいている。そして、同じ目的をもつ他の諸方式が同じ源泉から汲み出していることを、奇異には思わない。しかし、機知に独自の、機知にのみ属する技法は、快を廃棄しかねない批判からの異議に抗して、快をもたらすこれらの手段の使用を確保する、その方式にある。』(代案)

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03)

2008年8月13日 (水)

フロイト全集8から『機知』(7)

 前の記事へのコメントで私は、「クラカウへ・・・」という機知(ご存じない方は前の記事を参照してください)の解説部分(岩波版138頁)について、「小話の解釈にあわせた訳語、つまり話がわかりづらく複雑になるような訳語を故意に選択している箇所が何カ所かある」と書きました。それらはどれも完全な間違いとはいえない微妙な感じなのですが、少し見ていきましょう。

『この貴重な小噺は並外れた小うるささSpitzfindigkeitの印象を与えるが、不条理の技法を用いていることは明らかである。二番目の男は、自分はクラカウに行くと告げ、実際にそれが目的地だからといって、嘘つき呼ばわりされたのである。この強力な技法的手段 -不条理- は、ここではしかし、「反対物による提示」という別の技法と結びついている。というのも、最初の男の黙認されたunwidersprochenen主張によれば、二番目の男は真実を言っているときに嘘をついていることになり、嘘によって真実を述べているからである。けれども、この機知のより真剣な内容は、真実の条件についての問いである。この機知はまたある問題を指し示し、真実という概念をわれわれはしょっちゅう使っているけれども、その内実が不確かだということをうまく利用している。物事をありのままに記述しているが、聞き手の受けとめ方に無関心であるとき、それは真実なのだろうか? それとも、それは屁理屈的jesuitischな真実に過ぎず、本当の真実性とはむしろ聞き手のことを慮り、自分が持っている知識の忠実な写しを伝えるところにあるのではないのか。』(岩波版138頁:下線および独単語はここに引用する際に付加した)

 まず「Spitzfindig(keit)」ですが、小学館の大辞典では「1事細かに区別する、小事にこだわる、つまらないことにやかましい、むやみに細かい、屁理屈をこねる。2抜け目〈如才〉のない、利口な、明敏な」、博文社の(相良の)辞書では「1屁理屈をこねる、小うるさくとがめ立てする、揚げ足取りの、詭弁を弄する、狡猾な。2気の利いた、明敏な」とあります。岩波では「小うるさい」としていますが、「小うるさい」を国語辞典でも引いてみましたけれども、独和に挙げられている意味にぴったりきませんし、文脈にも合っていません。「細部拘泥」または「屁理屈」が良いのではないでしょうか。

 「unwidersprochenen」ですが、小学館では「反論〈反駁〉されていない」、相良では「反対〈否認〉されない」です。「黙認」という日本語は、過失とか誤謬を見逃すという意味が強いと思うのですが、この小噺とその解説では、最初の男の主張は決して誤謬とは見なされていません。辞書にある原義通り、「反論されていない」という訳が適当と思います。

 次の下線部は、邦訳で句点が打たれている箇所に原文では「:」が打たれています。ですので、句点の後に、「すなわち」とか「というのは」といった語を挟んでおくのがよいでしょう。

 そして最後の「jesuitisch」ですが、文字通りには「イエズス会の」「イエズス会士のような」といった意味ですが、その含意は、相良にはありませんが小学館では「陰険な」「ずるがしこい」「狡猾な」とあります。名詞形「Jesuitentum」「Jesuitismus」には、小学館では「(イエズス会士によく見られると言われる)目的のためには手段を選ばぬという考え方(ずるがしこさ)」、相良では「イエズス会の教義(目的は手段を神聖にすると説く);イエズス会的な陰険(狡猾)さ」としています。英和・仏和なども参照すると、「詭弁」「偽善」「陰険さ」「老獪」「猫かぶり」「表裏あること」などの意味が載っています。これをふまえてフロイトの文脈に戻ると、「jesuitisch」という語は、(『クラカウへ』という答えのように)物事をありのままに記述しているような真実について言われていましたから、これを「屁理屈的」としたのでは意味が取りづらいと思います。この文脈では「表裏ある」という意味が最も近いのではないでしょうか。

『この貴重な小噺は並外れた屁理屈の印象を与えるが、不条理の技法を用いていることは明らかである。二番目の男は、自分はクラカウに行くと告げ、実際にそれが目的地だからといって、嘘つき呼ばわりされりことに甘んじなければならない。この強力な技法的手段 -不条理- は、ここではしかし、反対物による提示という別の技法と結びついている。というのも、最初の男の主張 -これは反論されていない- によれば、二番目の男は真実を言っているときに嘘をついていることになり、嘘によって真実を述べているからである。けれども、この機知のより真剣な内容は、真実の条件についての問いである。というのもこの機知は[不条理、反対物による提示に加えて]さらにひとつ問題を指し示し、われわれがしょっちゅう使っているある概念の不確かさをうまく利用している。物事をありのままに記述しているが、聞き手の受けとめ方に無関心であるとき、それは真実なのだろうか? それとも、それは裏面を隠した真実に過ぎず、本当の真実性とはむしろ聞き手のことを慮り、自分が持っている知識の忠実な写しを伝えるところにしかないのではないのか。』(代案)

 訳文としてはほとんど変わりないのですが、私にとってはかなりニュアンスが明瞭になり、「クラカウへ」という発言は相手の受けとめ方を考慮せずに述べられたものであること、裏に本心を隠していることがはっきりしたと思います。

フロイト全集 (8) 

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03)

 医療観察法の鑑定書をひとつ仕上げたのでワインで独り祝杯を上げながら書いています。今後は、この鑑定書を参考にして審判され、被鑑定者は入院または通院または不処遇を命じられるわけですが、入院または通院になった場合には、治療を担当する医療機関に鑑定書が送られることになります。

 私の手元には、警察での供述調書や被害者の写真、過去の医療機関での診療録の写しなどが鑑定のために送られてきているのですが、将来治療を担当する医療機関にはそれらの資料は送られず、私の書いた鑑定書だけが送付されることになります。なので、今後の治療に役立つと思われる事柄は、鑑定書のなかに転記しておいた方がいいだろうと私は思うので、ついつい鑑定書が長くなるのですが、そうすると審判に参加する方々にとっては、審判には不必要な情報がたくさん入った冗長なものとなってしまう、というジレンマに悩みます。

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