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2008年9月

2008年9月29日 (月)

フロイト全集8から『機知』(14)

 この長い論文を取り上げてきましたが、いよいよ今回で論文の最後まで到達しそうです。

 まずはじめは、訳文だけを読んでつながりがわかりにくかった二つの箇所です。

『・・・ならず者の無頓着な態度が、彼にかえって心的作業の多大な消費を要するものだったことに気づくと、われわれにもこの態度がいわば伝染してくるのである。』(岩波版277頁、下線は引用者)

 「気づくと・・・伝染してくる」というふうに、前提と帰結のように訳されていますけど、どうしてそのような帰結を生じるのか、理由がわからないと思い、原文に当たってみました。これは原文では「Die Gleichgueltigkeit des Spitzbuben, von der wir aber merken, dass sie ihn einen grossen Aufwand von psychischer Arbeit gekostet hat, steckt uns gleichsam an.」とあり、「気づくと」と訳されるようなニュアンスはなく、単なる関係詞節による付加説明です。その点だけを修正すれば、「ならず者の無頓着な態度は -我々はそれが彼にかえって心的作業の多大な消費を要するものだったことに気づいている- われわれにもいわば伝染してくるのである。」ぐらいになるでしょうか。

 ふたつ目です。

『・・・抑圧とは異なり、フモールは、苦の情動と結びついた表象内容を意識的注意から遠ざけたりはしない。これによってフモールは防衛の自動作用を克服する。』(岩波版282頁、下線は引用者)

 下線部「遠ざけたりはしない」を、「遠ざけることを拒む」にします。こうした方が、直後の「これ」とは「拒むこと」であることが明瞭になると思うからです。ただしここは、一度そのように理解してしまえば、もとの岩波版の訳も同じ意味に読めますので、あえて訳し変えるまでもなかったかもしれません。

 次は訳者による補足についてです。

『・・・一方の解釈方法は、機知に含まれている暗示を手がかりに、無意識を貫く想念の道を追求する。他方の解釈方法は、[機知の]表層にとどまり、前意識から意識化された他の通常の文言と同じように機知を表象する。』(岩波版284頁、下線は引用者)

 下線部はフロイトの原文には対応しない補足なんですが、ここにあえて補足を入れるとすれば「[心的装置の]」とすべきではないでしょうか。

 ここらへんの箇所で気づいた訳語の問題をいくつか最後に挙げましょう。

 岩波版262頁、285頁に「高揚感」とあるのは「Euphorie」の訳ですが、282頁に「大人の自我の高揚」とあるところの「高揚」は「Erhebung」の訳です。前者はふつう医学では「多幸感」と訳されていますし、後者と区別するためにも訳語「多幸感」がよいでしょう。

 岩波版272頁「たとえ許容された衝動であるとしても」の「衝動」の原語は「Regung」でして、他の箇所では「蠢き」と訳されています。

 「einstellen」「Einstellung」の訳がまったく統一されていないのも残念です。ざっと拾い出すだけでも、「集中させること」(岩波版235頁)、「備え」(同263頁)、「まっすぐ向けられている」(同263頁)、「照準を合わせて」(同270頁)、「態度」(同264頁)。

 「Disposition」も「性向」(同262頁)、「気質」(同264頁)と訳が変わっています。

 この論文についてはいろいろコメントをつけてきましたけれども、私が取り上げてきたような箇所が浮かび上がってくるのは、他の箇所についてかなり統一性を保った適切な訳がなされているからでして、この論文の翻訳が全体として良いものであるという私の感想は揺らぎません。

フロイト全集 (8)
フロイト(著), 新宮一成(編さん)
出版社: 岩波書店 (2008/03) 

2008年9月24日 (水)

フロイト全集8から『機知』(13)

 この論文の岩波版邦訳への疑問を取り上げるシリーズの続きです。今回は長い部分なのでこの一箇所だけを扱いたいと思います。

『・・・だが、滑稽の障害となる条件のなかでも最大のものは情動の発生であり、情動の発生のその意味ではそれを見誤る人はいない。それゆえ、滑稽感は、感情や関心がそれほど強く関与しないいくらか無関心な状況で最も現れやすいといわれるのである。ところが、ひときわ激しい心的消費の差分から放散の自動作用が惹き起こされるのは、ほかでもなく情動が迸出される場合なのである。ブトラー連隊長が、オクタヴィオの警告に「苦々しく笑いながら」、

「何がオーストリア王家からの感謝の気持ちだ」

と怒鳴って答えるとき、彼の苦々しい恨みの念は、彼がかつて味わったと思っている失望を想起してこみ上げてくる笑いを阻むものではない。また他方で、詩人がこの失望の大きさを描き出すのに、奔放な情動の嵐のただ中でも無理につくり笑いすることができると示す以上に、印象に残る描写はないだろう。』(岩波版264-5頁、下線は引用者)

 はじめの下線部で、「それを見誤る」の「それ」が何を指すのかわかりにくいんで、ここは原文「Die Affektentwicklung...wird in dieser Bedeutung von keiner Seite verkannt.」の訳として、「情動の発生のこの意味は、どこから見ても明白である」を提案したいです。

 ふたつ目の下線部もわかりにくいのですが、それは原文の「Doch kann man...sehen」というニュアンスが抜けてしまっているからなので、「情動が迸出される場合にはまさに、ひときわ激しい心的消費の差分から放散の自動作用が惹き起こされるさまを見ることができる。」 と変更しておきます。

 みっつ目ですが、「失望Enttaeuschungを想起してこみ上げてくる笑い」というのは私にとっては変な感じなんで、「失望」のところを「幻滅」としたいのと、原文の時制が現在完了であることを考慮して以下のようにします。「彼の苦々しい恨みの念は、彼がかつて味わったと思っている幻滅の想起に対応した笑いを、阻まなかったのである」。ここで「苦々しい恨みの念」と訳されているのは「Erbitterung」ですが、なぜ辞書的意味を離れてそのように訳されているのか一瞬不審に思いましたけど、数行前の「苦々しく笑いながらbitter lachend」の「bitter」と対応させているようですね。

 これらを踏まえて次のように提案します。

『・・・だが、滑稽の障害となる条件のなかでも最大のものは情動の発生であり、情動の発生のこの意味は、どこから見ても明白である。それゆえ、滑稽感は、感情や関心がそれほど強く関与しないいくらか無関心な状況で最も現れやすいといわれるのである。ところが、情動が迸出される場合にはまさに、ひときわ激しい心的消費の差分から放散の自動作用が惹き起こされるさまを見ることができる。。ブトラー連隊長が、オクタヴィオの警告に「苦々しく笑いながらbitter lachend」、

「何がオーストリア王家からの感謝の気持ちだ」

と怒鳴って答えるとき、彼の苦々しさErbitterungは、彼がかつて味わったと思っている幻滅の想起に対応した笑いを、阻まなかったのである。また他方で、詩人がこの幻滅の大きさを描き出すのに、奔放な情動の嵐のただ中でも無理につくり笑いすることができると示す以上に、印象に残る描写はないだろう。』(代案)

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03) 

2008年9月17日 (水)

フロイト全集8から『機知』(12)

 この論文の岩波版翻訳の訂正を続けていますが、今回は訳語の訂正など、些細な点ばかりで恐縮です。

『夢は幻覚という退行的な回り道をとって、欲求を充たそうとし、夜間に唯一蠢いている欲求 -眠りの欲求- のおかげで容認される。』(岩波版212頁、下線は引用者)

 下線部の「充たそう」は「erfuellen」です。この論文をはじめ岩波版全集で「Wunscherfuellung」はいつも「欲望成就」(従来の人文書院や新潮文庫の『夢判断』では『願望充足』)と訳されているので、訳語を揃えて下線部を「成就しようとし」に改めたいです。

 ふたつめ。

『三歳半の女の子が自分の弟を戒める。「こんなものあまり食べちゃいけないのよ。でないと、病気になっちゃうわよ。男薬[ブービツィン]を呑まなくちゃいけないんだから」。「男薬ですって。いったい何のことよ」と母親が訊ねる。するとその子は釈明する。「だって、あたしも病気になったら女薬[メディツィン]呑まなくちゃいけなかったでしょ」。この子の意見によれば、医師の処方する薬剤が薬[メディツィン]と呼ばれるのは、女の子[メディ]向けだからこそなので、そこから推論して、男の子[ブービ]が服用する薬であれば男薬[ブービツィン]と呼ばれるだろうというわけである。こうした論理は、音あわせでつくられる語機知と同じような発想でなされている。実際、本当に機知として語られていた可能性さえあり、その場合には、われわれはなかば不本意ながらも、この逸話に微笑みを禁じ得なかっただろう。』(岩波版216頁、下線は引用者)

 下線部の原文は「ein Laecheln geschenkt haetten」なので、「過去分詞+haben」で完了時称を表しているはずなんですけど、これが「禁じ得なかった」と訳されているところから推測するに、「zu不定詞句+haben」(・・・しなければならない)と見誤られたのではないでしょうか。下線部を、「この機知に、お義理で微笑んであげたことだろう」と変更することを提案しておきます。

 最後に単なる訳語の問題をふたつ。

『ほとんど観察するまでもなくすぐに観察できることは、崇高なものについて語る場合、私は、私の声に通常とは異なる神経刺激を行きわたらせ、通常とは異なった表情を浮かべ、前進の姿勢をいわば私が表象しているものの威厳に一致させようとするということである。』(岩波版237-8頁、下線は引用者)

下線部は、他の箇所では「神経支配」と訳されている語であるにも関わらず、ここでのみ「神経刺激」となっています。「神経支配」に統一すべきでしょう。私見では、ここをはじめとする全ての箇所で「神経配備」と訳した方が意味の通りがいいと考えておりますけれども。

『[相手の家に飾られた豪華な品々がもしかしたら裕福な家と見せかけるために借りてこられたものではないか、という男の]抗弁に言い返そうとして、「まさかそんなこと。いったい誰がこんな一家に何か貸したりするものですか」と大声を張り上げてしまうことで、結局、結婚仲介人が真実を認めることになるという小噺は、正体の暴露の滑稽な事例ではあるが、あくまでそれは機知にとっての外見にすぎないのである。とはいえ、この事例では機知の特性ははるかに歴然としている。というのも、仲介人の発言は、同時に逆説による呈示にもなっているからである。』(岩波版241頁、下線は引用者)

 下線部は、例えば85頁など多くの箇所で「反対物による呈示」と訳されている表現ですし、意味からいってもこの「反対物による呈示」が適当と思います。

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03) 

2008年9月 8日 (月)

フロイト全集8から『機知』(11)

 この論文の翻訳について気になる点の続きです。

『第三に、これはもう機知過程の条件というより促進要因であるが、放散に至る量の増大をむねとし、かくして機知の効果を高める技法上の補助手段をあげる。こういった補助手段がたいてい機知に向けられた注意をも高めるのは確かだが、同時に注意をつなぎ止め、その活発さを制止することで、注意の影響を再び中和する。』(岩波版184頁、下線は引用者)

 「活発さ」と訳されているのは、「Beweglichkeit」ですが、これは辞書的意味からして「可動性」です。直前に、「注意をつなぎ止める」、と述べていますから、こちらの意味の方がつながりもわかりやすいでしょう。次に岩波版の「中和する」は、原文で「unschaedlich machen」でして、辞書によれば「(害を及ぼさないよう)封じ込める」です。ここらへんは、注意を一箇所から動かなくすることを一貫して述べていることになります。「中和」されるわけではありません。

 つぎは二箇所並べて考えてみます。

『これに対して、私が示したのは、それほど奇妙で異質な「顕在的」夢内容であっても、つねに、ある正確な心的形象化を切り刻み、改訂した結果できた書き換えとして理解できるということであった。その心的形象化は、「潜在的夢思考」と呼ぶのがふさわしい。』(岩波版189頁、下線は引用者)

『・・・それを私は夢工作の「退行」と名づけた。それは思想から知覚像への道程であり、まだ未知の -解剖学的に理解されるべきでない- 心の装置の局所論に関係づけて語ろうとするならば、思考形成の部位から感覚的知覚の部位への道程である。この道程は、心の複雑化という発達方向に反しているが、それを歩むことで夢思考は具象性を獲得し、最終的には、顕在的な「夢の像」の確信として、ある可塑的な状況が現出する。そのような感覚的な呈示可能性を達成するまでには、夢思考は、その表現の決定的な形態変容をこうむらざるをえないのである。』(岩波版192頁、下線は引用者)

 ひとつ目の引用箇所(189頁)で「心的形象化」と訳されているのは「psychische Bildungen」、ふたつ目の引用箇所(192頁)で「思考形成」と訳されているのは「Denkbildungen」ですけれども、これらの「Bildungen」は、いずれの箇所でも複数形ですし、「形成物」という訳で統一したほうがよいと思います。つまり前者は「心的形成物」、後者は「思考形成物」としておきます。

 ふたつ目の引用箇所では、次に「可塑的な」とありますけれど、原語「plastisch」を辞書で引くと、「具体的な」「具象的な」「ありありとした」といった意味が真っ先に出てきますし、意味的にもこの文脈には適切と思います。さらに、次の「呈示可能性」は原語で単に「Darstellung」でして、「可能性」に当たる語はありません。先の「可塑性」に引っ張られた訳かもしれません。

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03) 

2008年9月 2日 (火)

フロイト全集8から『機知』(10)

 前回の記事を書いた後、もうすこし前から見直そうと思い、少し戻って読んでみました。そうすると、私の理解があやしい箇所がありましたので紹介させていただきます。

『言葉を使って遊ぶことは、右にあげた認識などの諸要因のために明らかな快をもたらし、したがって抑え込まれるとしてもわずかな程度にすぎない。』(岩波版166頁注、下線は引用者)

 これは原注の途中にある一文ですので、「右にあげた認識」っていうのは原注の冒頭かせいぜい直前の本文内を踏まえた表現かと思って該当箇所を探したんですが、なかなかわかりません。原文では「der oben aufgezaehlten Momente des Erkennens usw.」です。横書きの原文で「oben上に」とされているので、縦書きの訳文で「右に」としたのでしょうが、この語には「前述の」といった訳語が辞書に載っていますし、けっこう離れたところまで探さないといけないのかもしれません。

 私が探した範囲では、岩波版144頁から146頁まで「認識行為」「認識すること」「認識」といった語に訳されている「Erkennen」を指すと考えるとすっきりしそうです。

フロイト全集 (8)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2008/03) 

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