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2008年10月11日 (土)

フロイト全集17から『集団心理学と自我分析』(2)

 この論文の岩波版邦訳を扱う2回目です。

 ひとつめは、マクドゥーガルの論が紹介されている部分からです。

『こういう共通点(《精神的同質性》)が強ければ強いほど、それだけ一層容易にその個々人から心理的な集団が形成され、それだけ一層人目を引く仕方で、「集団の心」が告知され発現してくることになる。』(岩波版148頁、下線は引用者)

 「告知され」がよくわからないので原文に当たってみると、「auessern sich die Kundgebungen einer Massenseele」とあります。「Kundgebung」はかなり訳しづらいですが、下線部はむしろ『「集団の心」の表明が表出される』ぐらいでしょうか。

 次の箇所に移ります。

『・・・こうして、われわれの関心は、いまや、集団内部の個人のこの心の変化に心理学的な説明を見つけるという課題に向かうことになる。
 例えば、先にも言及された個人の畏縮という合理的な契機、つまり、自己保存欲動に基づく行動によっては、考察されるべき現象全体を押さえることはとてもできそうにない。』(岩波版152頁、下線は引用者)

 この訳文では「個人の畏縮」が「自己保存欲動に基づく行動」だということになるのですが、その意味がやはりよくわかりません。後者は原文でdie Aktion seines Selbsterhaltungstriebesなのですが、直訳すれば「自己保存欲動の行動」となるはずです。ここをどう読めばいいのか、参考とするために自己保存について述べられている箇所を探してみましたが、ル・ボンの考え方を紹介した以下の箇所がおそらく参考になると思います。

『集団が従う衝動は、状況次第で高貴にも残虐にも、英雄的にも臆病にもなりうる。いずれにしても、その衝動はまったく有無を言わさぬもので、個人的な利害関心、自己保存への関心すら働かなくほどだ。』(岩波版138頁)

 ここを参考にすると、集団化すれば個人的な利害関心も、自己保存への関心も働かなくなるということでいいようです。だとすると、152頁の下線部は、「自己保存欲動の[畏縮という]挙動」ぐらいに解すのがよいのではないかと思います。

フロイト全集〈17〉1919‐1922―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学

須藤 訓任 (翻訳), 藤野 寛 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (2006/11)

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コメント

大変、お久しぶりです。

「この訳文では「個人の萎縮」が「自己保存欲動に基づく行動」だということになるのですが、その意味がやはりよくわかりません。」

「個人の萎縮」が「自己保存欲動に基づく行動」だということになります。

えと、数段落前にある、「付和雷同」です。

えと、たとえば、関東大震災が起きて、朝鮮人が井戸に毒を入れたというデマが流れ、群衆が、朝鮮人を虐殺しているときに、いやいや、んなこたーないでしょう、と、理性的に、言うと、なんだ、お前も朝鮮人だな、ないし、味方するのだなとなって、激昂した群衆に、自分が、えと、理性的でいると、そのことにより、自分のいのちにかかわる、ということがありえるよねという、そういう話。

で、フロイトは、そういうことだけでは説明し切れない、と、続きます。

フロイトの、その後の説明ですと、そうではなくて、えと、「自己保存欲動に基づく行動」として、「個人の萎縮」が起きるのではなくて、「個人の萎縮」が起きるのは、他者への愛から、人々は、個人の萎縮を起こすのだと、つながっています。

えと、自己保存から、自我を萎縮、というのは、表面的には、変に聞こえますし、ま、どっちかと言うと、現実原則な気はしますが、大きく、自己保存か、性か、であれば、ま、自己保存が理由じゃないだろうか?という説があるけれども、すなわち、群衆に付和雷同しておかないといのちにかかわることがありえるからじゃないのか?という説があるけれども、そんなものより、もっと強い理由がある、それは、他者への愛だ、と、言っています。

なーんですが、さらに、人は、誰でも自分を犠牲に捧げる用意があるのだ、むしろ人は自分を犠牲にしたくてたまらないというのが最も根源的な欲動なのだと、話がなっていくとするならば、その場合、フロイトが、そこで言っている、性欲動、エロース、というのは、ま、実は、死の欲動と別のことではないですね。性欲動とは死の欲動のことである。ふたつは別のことではない、と、なっていってもおかしくはないです。

 ありがとうございます。
 あ、岩波全集では、萎縮じゃなくて畏縮ですね。この機会に本文を直しておきます。

 さて、私は、「欲動」というのは、かなり基本要素的な蠢きであって、しかも精神のなかに迫りくるものというふうに思ってしまうので、ここに挙げられているような、集団を恐れて個人が縮みあがるという複合的な事態を「自己保存欲動の行動」と呼ぶのはどうにも腑に落ちませんけれど、まあフロイトがここでこの表現をざっくりと選んだと考えれば、TheOtherWindさんの解説のおかげもあって、いちおう合点は行くようになりました。

 TheOtherWindって、麻雀用語の「おたかぜ」を連想しましたが。

その昔、みんなの力でラカンを読ませて、に、参加してました

なんと、懐かしいやらお恥ずかしいやら。その節はありがとうございました。
開設しておきながらときどき長期ほったらかしてしまう失礼もお詫びしなくてはなりません。
今後またよろしくお願いいたします。

20ほど前でしょうか…。米国で、水アレルギーの赤ちゃんが生まれ、研究機関が引き取って、研究していたという話がありました。

この場合の水とは、H2Oです。

つまり、普通に考えると、妊娠初期であっという間に流産していたはずなのに、生まれてきた。長生きはできないでしょうが…。

さて、母、は、そうすると、私を育んでくれるもの(偶然に、わたしが生まれた場合)でもありますが、ま、スクリーニングして殺す存在でもあります。ま、妊娠初期にばんばん流産。妊娠中なら、戦いですね。お母さんもつわりありますが、赤ちゃんとしては、生死をかけたお母さんとの戦い。殺してくる母と戦って生まれることができる。

これは、2歳になって、世界は母の肉体である、世界に母の肉体があまねくひろがっている、だから、お母さんと離れて一人で遊ぶことができる、ひとりでいられるのは、ひとりではないからである、お母さんに抱かれている…となっても、基本的には潜在していると考えられます。

世界は私を育んでくれるものであり、世界は私を殺すものである。

したがって、フロイトが、外界からの影響、を、極めて大きなものとして重視している点は、外せないと思われます。

das Nirwanaprinzip drueckt die Tendenz des Todestriebes aus,
涅槃原理は死の欲動の傾向を表現する、

das Lustprinzip vertritt den Anspruch der Libido
快原理はリビードの要求を代表する、

und dessen Modifikation,
das Realitaetsprinzip,
den Einfluss der Aussenwelt.

そして、その変様、すなわち現実原理は外界の影響を代行する。
※ 「その変様」=「快原理の変様」

( a) すべての物質は安定(死)を目標に目指す。

( b) 一方、《外的な妨害力》の影響の下で、生命物質は、以前の無機的な状態を放棄せざるを得なくなり、生命物質は特定の迂回路を経なければ死へと到達することができない。生命物質もしくはその一部を反復させ、死を先送りしようとする生命という物質の特殊な状態に固有の傾向を持つようになる。生命物質にあっては、死の欲動は、つねに、その直接的な放出を妨げられる。

  ↓

( a) 個体のレヴェル、生命物質内部における対立として
i) 涅槃原理…死の欲動を表現し、ニルヴァーナ状態を目指す。
ii) 現実原理…外界の要求を代表し、緊張の一次的な延期と甘受を目指す。

( b) 類のレヴェル、ひととひととのあいだ、間主観的に…
快原理。死の欲動を表現する涅槃原理、および、外界の要求を代表する現実原理、の二者に対して、生の妥協をはかり、緊張をできるだけ低い水準に維持する快原理こそ、生命物質を支配する最も重要な原理。

 ↓

快原理は生の要求に従って、死の欲動の衝迫に質的修正を加える。快原理によって死の欲動はその直接的な放出を妨げられ、生の構成要素となって、様々な形で生に奉仕するようになる。

 ↓

うまく作動しているものなど、ない。ひとは、それぞれ、ケースバイケースで、発明して生きるしかない。これさえやっておけば大丈夫、正解というものが、ない。

ま、常識とは逆なことをフロイトが言っているので、うまくは説明はできませんが(^-^;

ひとが、往生際が悪く、こんなとこではまだ死ねないとなるのは、これぞおれの死に場所だというものを探しているからである、みたいなことにもなりますし(自爆テロや、お国のためという、陶酔―モーセという男と一神教―を除く)。えと、死にたいから死にたくないということにもなりますし…。

えと、一回、ガチで、死んでしまうと、もう、ちっこい死を反復できなくなるから、死にたくない。えー、死にたくないのは死にたいから(小さな死を無限に反復したいから)ということにもなりますし…。

不快のゼロ水準、ガチで死ぬは、目標だが、真の目的ではなく、あらかじめ緊張の水準をあげておき、えと、ジェットコースターですね、あらかじめ、カンカンカンカン昇っておき、一気に、下る、放出するという、落差が、快原理の彼岸の、なんらか、もはや快とは呼べない、快/不快の排中律ではなくて、緊張の水準ではなくて、緊張の変化が、快/不快を超えた、別のスーパー快である。

で、集団心理学と自我分析、および、モーセという男と一神教、ですと、死の欲動(←純粋に思弁的、沈黙しており、それ自体、純然たる形式で減少することはない)が、エロースとして現象してますよね( ̄Д ̄;;


お国のために、死にたい! 自爆テロ! 非国民を抹殺せよ! ユダヤ人をアウシュビッツへ!

というのは、個体の水準からしますと、個体に内在しているべき、超自我が欠けている。だから、個体が分解している。なので、死の欲動と考えられます。

あ、えと、この場合の超自我は、フモールに描かれている、自分の中の子ども部分を、なかなかういやつじゃの、可愛いな、大丈夫だよ、たいしたことない、という、お父さんのあたたかいまなざし。苛烈な側面ではなくて、フモールに描かれる超自我。まあ、両親が、自分の子どもは完璧だ! この子どもは絶対に死なない! 完全である! という、そういう、太古のナルシシズムの再現(系統発生的、人類の歴史)。

なんですが、お国というでかいものに、個体が、合体して、超大型巨人となり、隣国人を駆逐してやる!という、でかいものに、とろけてなくなる、という、観点からしますと、原父となり、やりたいほうだいやってやる、隣国人皆殺しな、超大型巨人に合体という観点からは、合体しているので、エロース。


フロイトが言う死の欲動って、生体小胞にも単細胞生物にも認められるものである以上、脳神経系に局在するものではありませんし、普通の意味では心理にも含まれないものと思います。TheOtherWindさんが書かれている内容は、心理的じゃない考え方のように思え、フロイトに忠実な印象を受けます。僕にとっては、うかつに論じられない概念でして近づきがたい。ちなみにラカンのセミネール20巻「アンコール」の最初の章で、「愛は身体の死に関わります、身体を反復することによって。ここからアンコール(もう一度・もっとencore/身体へen-corps)ということが出てくるのです。生殖細胞と体細胞の区別は誤りです、といいますのも、生殖細胞は、[先行世代の?]痕跡を担っているではないですか。」といった論を展開するとき、やはり心理のレベルを超えた視点から論じているように思います。

こんにちは。

肉体がまずあって、しかるのちに、言語があるのではない、ってことかもしれませんね…。

そうではなくて、人間の身体は、言語である、えと、比喩、たとえばなし、に、なっていると。

こう、あまりに、苦痛な出来事があって、そのひとの母国語に「飲み込めない」、っていう、言い回しをそういうときにするときに、その場合に限り、身体的に、飲み込むのに困難という、心身症が出る。

ま、であるとすると、ま、人間が語るってのは、言語の外部に、ブツが、指示対象として、あるかのような、そういう語彙で語っていても、そら、比喩である、てなことなのかもしれません。

フロイトにおけるたとえば、「太古の快」(起源にあったものとして、想定される、近親相姦てきな、快というか、快/不快の彼岸)ですとか、「原光景」ですとか、「原抑圧」ですとか、というのは、「事後性」ということ抜きには考えられませんですね。

あるいは、幼児のときに誘惑されたとかですね。

歴史的事実のようなものが、こころの外部に、なんと申しましょうか、客観的事実として、あったわけではないけれども、フィクション、ま、幼児が性理論を持っているというような、そうした、フィクションが、どんなリアリティよりもリアルに、ひとを突き動かしている…。

オリジナルなき、反復。オリジナルなき回帰。なかったものが回帰している。

それは堂々巡りになっておりますね。

非常にプラグマティック。

幼児の性理論のようなものを、大人も持っている。いわば、認知の歪みのようなものがある。で、そのフィクションAを、フィクションBに、すりかえる。話をすりかえる。で、ま、困った症状が消えれば、それでいいではないの、という。

哲学ではなくて、臨床。

あるいは、たとえば、『ヒステリー研究』所収の「ミス・ルーシー・R」症例の場合、雇い主が老人につらくあたったのを目撃して発症しているので、ま、誰がみても、問題は、死の問題。ま、老後の心配。

当時、家庭教師だったということは、お金持ちのお嬢さんだったから、成金の子女に、マナーとか教養とかを家庭教師できている。しかし、当時、お金もちのお嬢さんが、働いてお金を儲けているということはありえないので、家が没落して貧乏になり、客観的には、やむなく、お金のために、女性なのに、外で働いている。

しこうして、雇い主の家の、他の、女性のやとわれているひとたちとのあいだには、溝がある。

当時、ひどかったらしいですね、没落した家がおおくて、唯一、元お金持ちの家のお嬢さん方が、アイデンティティが壊れないで働けるのは、家庭教師だったらしいのですが、ミス・ルーシー・Rが言っているように、子どもたちへの愛のために、えと、こんな成金の家では、教養はつけられない、それは子どもが可哀想だから……という、理由に、意識の上ではみんなしているから、そうでないと、アイデンティティクライシスになってしまう、お金のために働いているという事実は受け容れられないという事情あったので、そこに雇い主がつけこんで、お給料の支払い遅延とか、お給料が安いとかひどかったらしい。

ま、そんな社会状況からして、ほんとの問題は、と、いいますか、なにが、ほんと、というのは、精神分析では難しいですが、ま、他人からみたら、ま、雇い主が老人につらくあたったという出来事から、発症しているので、ま、いわば、妄想があって、雇い主がすごく感謝して、自分に老後、生きていけるだけどかんとお金くれたりするといいなぁ~みたいなことがあったんでしょうね、それが、壊れた、というのが、クライシスだったというのは、客観的には明白。

ああ、若い女性しかできない仕事ですので、年齢があがると、どこも家庭教師には雇ってくれないわけですね。だから老後が心配な職業。客観的には。

しかし、カネのために働いているということは、アイデンティティの上から意識できない。

なので、誰の目から見ても、客観的には、死、の不安が、問題。

しかし、ミス・ルーシー・Rは、愛のために、愛のために、ま、ゆーたら、金持ちの雇い主の、のちぞえさんのポジションにつきたいのです、老後不安ですと、本人、意識していないですが、フロイトに思いっきり言いまくる。

なので、フロイトは、あなたが言っているのはこういうことですね、としか言っていない。

つまり、あなたは雇い主を愛しているのですね、と。

実にプラグマティック。

言っている通りを返している。

で、症状消失。

コントローラブル、自分で解決できる、自分でコントロールできる苦しみに、フィクションをすりかえてしまっている。すりかえなんだけど、治る。

そんでええやろ、という。

「原光景」、「太古の快」、「近親相姦」……は、歴史的事実としてなかったことが、回帰している。「原抑圧」と言ったら、歴史的事実としては、一度も、意識されなかったことが、いつでもつねにすでに抑圧されている。

ことばが話せなかった子ども時代に戻りたいなぁ~

つーても、ないわけですよね。あったことがない。わたし、ないんですから。子どもじだいは(それ事態としては)もう、ない。(いつでもつねにすでに喪失されている)。

対象喪失が、主体の創設に先行する。

あなたなしでのわたし、とは、なんなのか…。わたしは、あなたなしでは、わたしであることすら、できない! というのが、わたし。

起源に、傷ついていないわたし、まったきわたし、欠如なきわたし、は、ない。

しかし、人間、わたしはわたしの起源を知っている…ということがないものがいない。言い換えますと、単にまったくの偶然に、何の意味も価値も与えられず、産み捨てられた、で、平気に作動しているものはいない。無理筋。たとえば、原光景、つまり、他の誰でもない、弟でも妹でもなくて、このわたし、が、生まれる原因を、わたしは、見た、ってな、ファンタジーなしで、生きているものも、いない。

この理路は、堂々巡りになってますよね。

そういう言説。で、臨床上、プラグマティックにそれで、いい。

ということは、死の欲動、とかもですね、いわば、フロイトの言う、「幼児の性理論」のヴァリエーションなんですね。神話。なしではすまされない神話。症状。フロイトの症状。さすがに、幼児の、ごはんをお腹いっぱいたべて、お腹がふくれ、ほんで、うんち、が、赤ちゃん、という、起源神話よりは洗練はされている。だけど、そこで、どれほど、生物学的と言いますか、心理学的でない語彙が出てこようがなんだろうが、それは、手当たり次第に換骨奪胎、我田引水しているだけで、こころの外の話はしていないでしょうね。

地球上の生物は個体数では寿命が無限なものが多数派だけれども、人間は有性生殖=個体は死ぬ、で、男性の場合、文化としては、戦死して、先の戦争での英雄ですと、石碑に名簿が、刻まれている中の一個に、自分の名前が刻まれればそれでよし、ということには、なってはいる。文化はそうなっている。だけど、やっぱり、男も女も、愛する人の、息子を産みたい、系譜をつなげる、担い手になりたい。偶然に《あること》から、必然的に居場所に《いること》に、移行したい…ってことがあるんだろうなぁ~とか、たとえば、考えたとします。それは、物理的にそうなのかではなくて、フィクションですよね。たとえばなしです。

「愛は身体の死に関わります、身体を反復することによって。ここからアンコール(もう一度・もっとencore/身体へen-corps)ということが出てくるのです。生殖細胞と体細胞の区別は誤りです、といいますのも、生殖細胞は、[先行世代の?]痕跡を担っているではないですか。」

は、ホモサピエンスには、セックスする本能は、ない、と、言っていると思いますよ。

言語なくして、ホモサピエンスはセックスしない。文化なければ、ホモサピエンスは再生産しないから、種として滅ぶ、と、言っていると、思います。

たとえば、ごく最近、20歳代の女性が、男性とつきあうようになって、わかったってこと聞きました。

えと、そのひとは、2016年現在、20歳代の現代っ子なんだけども、自分で膣口をさわったことなかった、もっと、いえば、そこに手を持っていくと、吐き気がした。

で、男性とつきあって、ま、男性がなら、吐き気ないわけですよ、てか、逆で幸せ。

言語の外部がない。

身体は言語でできているってことですわね。

えと、言語の外部に、生物学的なもの、生理学的なもの、物理的なものが、あるわけでは、ない。

別に、自分でさわったら吐き気がする、生理学的な理由はなんにも、ない。吐き気がしていたことに、自然なものなど、なにひとつない。

で、その女性、えと、相手の男性が、ま、これね、その男性、間違いなく、気持ちを変える、ないし、もう、変わっている、生まれ変わっていると思いますけどね、ま、当初、その男性に、つきあってください!って言ったときに、何度も断られている。

アパートに押しかけて、泊まったりしてるけど、当初、手を出してくれなくて、断られている。

ま、男性がお寺の次男坊だか三男坊だかで、お寺の娘さんと結婚して、婿養子に入って、住職になりたいから、お寺の娘さんでないひと、男の子がいないお寺の娘さんとしか、つきあいませんと。

ま、若いですからね。夢物語。

童貞だったそうで。女性とつきあったことない、恋愛したことないから、子ども時代の夢物語ある。

で、それでもいいです、結婚してくれなくていいですって、ま、恋愛経験ない女性なのに、泊まってせまるってのは現代っ子。

ま、いま、その男性、わかりませんけどね、たぶん、結婚したいなぁとなってて葛藤してるとは思います。

そんな、現代っ子でも、いま、ああ、やっぱり結婚したいな、このひとの息子を産みたいと思っているそうなんですが、髪の毛ごっそり抜けたり、爪がべろべろになったり、良性発作性頭位眩暈症になったり、吐き気したりしてるんですな。身体的に。身体症状でている。

が、じゃ、そのお若い女性、それら、妊娠したらなるよね、っていう知識あるか? ないんです。明確にない。まったく知らない。

身体が知っている。

身体が知っていることを、わたしは知らない。わたしが知らないことを身体が知っている。

えと、妊娠したーい、と、饒舌に話している。

身体は言語のかたちをしている。

すると、たとえば、フロイトが、幼児は「膣口の存在を知らない」とか、幼児は「多形倒錯」とか、そういうテクスト、言い方、ディスクールは、実は、いかにも、なにやら、生理学的な語彙なんだけれども、そら、換喩ですね。

で、あるならば、フロイトは「幼児は膣口の存在を知らない」と書いていますけれども、実は、

ひとは、膣口の存在を知らない

というのが、真理の領域。科学的とか物理的ではないですね。いまどき、男子中学生でも、こっそり、海外のサイトで、えっちな無修正の動画を見るかもしれません。

しかし、そのような、知識は、関係ががない。

根源的に

ひとは、膣口の存在を知らない

そういう言い方なのですが、文学的に言い換えれば、横にすりかえれば、ひとは、どこからきて、どこに帰るのかを、言うことができない。


 提供いただいた話題の全てに反応できる才は持ち合わせていないので二点ほど語らせてください。
 一つ目。人間は本来持っているはずの動物的な性本能を壊してしまった、という認識も、事後的にしかありえないものであって、われわれが考える本来の生命世界はもはや言語的分節の効果を被っているというのもまた忘れてはならないところですよね。ラカンの欲望のグラフで、欲動が、最後に生成する最上位に置かれるのはそういう事情を表しています。
 二つ目。フロイトが言う反復とは、人間が同じ行動を繰り返すことではなく、人間がいつのまにか以前と同じ状況に置かれていることを指します。渡り鳥の渡りも、トカゲの尻尾の再生も、鮭が故郷の川で産卵することも、反復の例とされます。といった関係から、フロイトの欲動概念は、生の欲動であれ死の欲動であれ、個体に内在すると言うよりも、個体を含む状況というか系が持つ傾向性のことと思っております。しかしセミネール11巻を読む限り、ラカンはむしろ常識的で、欲動は個体内に局在するものと思っているようです(個体を超えた次元は、象徴界の構造として獲得されるとは考えていそうですが)。

こんにちは。

超自我が超自我に遺伝する、とか、系統発生的、とか、ということがありますよね。

いきなり、はなから、最初っから、原対象喪失のようなもの、ほとんど出産外傷のようなものあって、存在、まったきもの、欠如なきもの、ありのまま、生まれたまんまの肉で、全世界から無条件に愛されているという確信、一個の正解であるところの自己同一性、このわたしのこの性、固有性……ま、無意識の主体、は、神経症者にあっては、全面的に原抑圧されている。

対象喪失が主体の創設に先行する。あなたなしのわたしって何?あなたなしではわたしはわたしの輪郭を保つことさえできない!という対象喪失あって、はじめてわたしって何?という問題が前景化する。

子ども時代はもう、ない…というときの、その子ども時代、母子融合でしょうか、主客未分化というのは、事後的にしかありえないということが、一つ目。

一方で、では、その幻想のようなもの、どっから来たの??というと、親が自分の子どもを見たときに、まったきものだ、欠如なきものだ、という、ナルシスティックエクステンションとして、子どもを見る。いわば、病気して熱を出しても、この子は絶対に死なないという幻想。絶対にあきらめない。そんなイメージに赤ちゃんが同一化して、そして、全能感を持っている、ま、すると、赤ちゃんは精神病的ってことになるんでしょう。妄想ですものね。実際にはよるべなきものなんだけれども、お母さんがおっぱいを飲んで欲しいのだから飲んであげる、おむつをかえたがっているからかえさせてあげる、つまり、

世界の救済者

という、自尊心を持っている、陶酔してることになりますから。

んで、ま、欲動、旧守性、つまり、変化したくない、成熟したくない、まあ、ねずみ男症例であれば、お金持ちの家付き娘との縁談が非現実的に空から降ってきて、ただ寝っ転がっているだけで、おっぱいもらえて、おむつかえてもらえたらいいなーーー、というファンタジー、実際につきあっている恋人はいるんだけれども、まあ、つきあうってことでは大人の性、デートしていないときには、リセットして、赤ちゃんに返る…、このリセットを、反復し続ければ、不老不死、永遠の思春期…。そういう、変化したくない、リセットを反復し続けたい。

やっぱりボクはキミと結婚《は》できない。ボクはキミを愛しているのか自身がない…てな、ことを、千回デートして、千回、言う、みたいな。

それが、実は、無生物からして、デフォルト値というcoldsweats01

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