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2008年12月

2008年12月31日 (水)

妄想の核となる体験

 今年一年、ありがとうございました。

 前々回、ある種の断片的体験を核として妄想が形成されるという機制について書きました。私はそうした体験を病的体験と呼んでいたのですが、この病的体験という言葉は、妄想の結果として生じるまとまった世界認識を指すこともあるようですので、必ずしもこの用語を用いることで私の精神病観を聞き手に伝えられるわけではなさそうです。

 では、そのような体験を、精神医学用語で明示的に呼ぶためにはどうしたらよいのかと考えてみました。すると、これはラカンが『精神病』のセミネールでクレランボーの概念「基礎的現象」「精神自動症」を用いて説明していた事態であったことを思いだし、これらの用語の辞書的意味を、精神医学用語辞典で探してみました。

 「基礎的現象」の方は、講談社の精神医学辞典にはありませんが、弘文堂のほうで探せました。しかしこの項目の筆者は、ラカンの訳者である小出浩之氏です。なので、この語がラカン派以外の一般の精神科医によってどのような意味で用いられているか知りたいという私の目的にはかえって不適当なのが残念です。とりあえず以下に引用します。

基礎的現象

 フランスの精神医学者クレランボーの概念で、「基礎的」とは「非観念因的」、つまり観念の流れの結果起こってくるのではない、という意味である。臨床的には、影響体験、幻聴、妄想知覚などを指し、精神自動症と重なるが、より広い概念であり、またそこから出発して多様な精神病症状が形成される理念的な概念である。(以下略)(小出浩之/弘文堂)

 一方で、精神自動症についての記述はいずれの辞書にもみつかります。

精神自動症

 (略)クレランボーの精神自動症の学説は、フランス精神症状論独特の詳細かつ入念な臨床的観察および病者の主観的体験の記述、ならびに大胆な器質論によって特徴づけられる。まず精神自動症の症状論について述べると、①意識や意志の統制を離れた精神現象ないし行動であること、②加えて病者がこれらを、きわめて異質なもの、自分の人格活動とはほど遠いものとして受け取ること、そのうえ外界に起因するものと感じることにある。(以下略)(荻野恒一・阿部隆明/弘文堂)

 フランスの精神医学者クレランボーが精神分裂病の症状、ことに幻覚や作為思考などの根底にあると考えた現象。
 これらの症状は自己の人格とは無関係で異質な現象を基礎として成立しており、最初は中世で無意味な原発的体験であるが、二次的に病者がそれに妄想的な加工を加えて意味のある幻聴その他になると考え、かつこの現象は大脳の器質的・局在的病変によって起こるとした。(以下略)(村上仁/講談社)

 こうしてみてみると、この概念は、妄想を持つ以前に否応なく到来する体験の存在を言い表すという私の目的のために適当なもののように思えます。ただ、この日本語の語感から語義が容易に類推できるわけではないのが残念で、日常のスタッフ同士の検討に持ち込みづらい気がします。しかも、いずれの辞書でも、現在ではそうした器質・局在的な考え方は廃れたと書かれていますし(私には、局在と結びつけずに純粋に精神病理学的に使う限り今でも有効と思えますが)。なんとかよい概念はないでしょうか。

 なお、上に引用した「精神自動症」の語釈のうち後者では、これが精神分裂病の症状論の文脈で考えられていると書かれていますが、私の理解では、フランスでは陽性症状はパラノイアの症状論で論じられるもののように思います。気になってきたので、来年はクレランボーの『精神自動症』でも読み返して確認することにします。

クレランボー精神自動症 クレランボー

クレランボー (著), 針間 博彦 

出版社: 星和書店

2008年12月11日 (木)

こころやさし ラララ科学の子

 鉄腕アトムの歌には「心やさし」というフレーズが出てきます。しかしこのアトムの心とはいったいどんなものでしょうか。私は精神科医という特殊な仕事をしていますが、そうではない一般の方々は、アトムに心という語が用いられてもさほど違和感を感じないのでしょうか。最近まで私もこの歌詞を気に留めずにいたのですが、さきごろ一度気になり始めてからは、「心」という語を耳にする度にこの歌のフレーズが頭に浮かんでくる状態です。

 

 ちょうどラカンのセミネールの読書会で来週扱う箇所で、次のような部分に遭遇しました。雄のカマキリが雌に食われるという事実を念頭に置いた議論です。

 ここでカマキリに主体性を持ち込むのは、カマキリに性的享楽を想定しているからです。このことは決して行き過ぎではありません。確かに我々はカマキリの性的享楽について何も知りません。カマキリは恐らくデカルトなら迷わず言うように端的にひとつの機械です。つまり機械は機械のランガージュでうまくやっているという意味であって、全ての主体性というものの除外を前提としているという意味でもそうです。しかし我々としてはこの最少限の点にとどまっている必要はさらさらありません。我々はカマキリにも享楽があることを認めます。
 この享楽は これが次の一歩です- 享楽によって破壊されるような何ものかにとっての享楽でしょうか。なぜなら、ここから出発してはじめてこの享楽は我々に自然の意志を示唆することができるからです。
 本質的なことをただちに明確にするために、そしてこの享楽が、今議論していること、つまり我々の口唇的カニバリズム、我々の原初的エロティズムについて何等かのモデルたり得るために、我々は次のように想像してみなくてはならないでしょう。つまり、この享楽がパートナーの斬首に相関していること、しかも、享楽がある程度それを認識していると想定されているということです。(8巻15章)

 そういえばアトムも最後、地球を守るために自らの存在を犠牲にします。このときのアトムには、単なる苦痛を超えた享楽があると想定しうるように思えます。だとするとそこには主体も存在するということになるのかもしれません。それは「心」なのかというと難しいところがありますが。

 ところで、よく自閉症者は「心の理論課題」に正答を与えることができない、といわれますが、心の理論課題の内容ときたら、登場人物たちが「心」を持っていることを想定する必要など全くない、それこそ全てロボットであっても起こりうる状況の描写です。これが「心の理論課題」と普通に呼ばれているところをみると、専門家の間でも、「心」という語が指し示す内容にさほど思い入れを持たないのがむしろ普通なのかもしれません。

 私には、「うつ病は心の風邪」とか「心の医療センター」とかいう言い方にもいちいち違和感があります。例えば精神病患者について、『幻聴やテレパシー体験などの異常な知覚に対して、正常な心で反応している』と考えたくなる場合も多々ありますし、これについて私の同僚の一人は、精神病は心の病といってよいかどうか疑問だと言っていました。

 一方で、最近よく、一部のうつ病患者が周囲の出来事や状況によって気分が晴れたり落ち込んだりする(そのため、休職中なのに職場外で楽しく遊んでいたりする)という事実を挙げ、そういう軽いものは病気じゃないとか、そういう患者は世間に流布しているうつ病概念を悪用しているなどといった批判を展開している書物がありますが、そういった患者さんこそ「心」の問題、「心」の病気というべきであって、普段「心のナントカ」といったソフトなイメージを身に纏っている専門家が真っ先に扱うべき対象と思います。

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