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2008年12月11日 (木)

こころやさし ラララ科学の子

 鉄腕アトムの歌には「心やさし」というフレーズが出てきます。しかしこのアトムの心とはいったいどんなものでしょうか。私は精神科医という特殊な仕事をしていますが、そうではない一般の方々は、アトムに心という語が用いられてもさほど違和感を感じないのでしょうか。最近まで私もこの歌詞を気に留めずにいたのですが、さきごろ一度気になり始めてからは、「心」という語を耳にする度にこの歌のフレーズが頭に浮かんでくる状態です。

 

 ちょうどラカンのセミネールの読書会で来週扱う箇所で、次のような部分に遭遇しました。雄のカマキリが雌に食われるという事実を念頭に置いた議論です。

 ここでカマキリに主体性を持ち込むのは、カマキリに性的享楽を想定しているからです。このことは決して行き過ぎではありません。確かに我々はカマキリの性的享楽について何も知りません。カマキリは恐らくデカルトなら迷わず言うように端的にひとつの機械です。つまり機械は機械のランガージュでうまくやっているという意味であって、全ての主体性というものの除外を前提としているという意味でもそうです。しかし我々としてはこの最少限の点にとどまっている必要はさらさらありません。我々はカマキリにも享楽があることを認めます。
 この享楽は これが次の一歩です- 享楽によって破壊されるような何ものかにとっての享楽でしょうか。なぜなら、ここから出発してはじめてこの享楽は我々に自然の意志を示唆することができるからです。
 本質的なことをただちに明確にするために、そしてこの享楽が、今議論していること、つまり我々の口唇的カニバリズム、我々の原初的エロティズムについて何等かのモデルたり得るために、我々は次のように想像してみなくてはならないでしょう。つまり、この享楽がパートナーの斬首に相関していること、しかも、享楽がある程度それを認識していると想定されているということです。(8巻15章)

 そういえばアトムも最後、地球を守るために自らの存在を犠牲にします。このときのアトムには、単なる苦痛を超えた享楽があると想定しうるように思えます。だとするとそこには主体も存在するということになるのかもしれません。それは「心」なのかというと難しいところがありますが。

 ところで、よく自閉症者は「心の理論課題」に正答を与えることができない、といわれますが、心の理論課題の内容ときたら、登場人物たちが「心」を持っていることを想定する必要など全くない、それこそ全てロボットであっても起こりうる状況の描写です。これが「心の理論課題」と普通に呼ばれているところをみると、専門家の間でも、「心」という語が指し示す内容にさほど思い入れを持たないのがむしろ普通なのかもしれません。

 私には、「うつ病は心の風邪」とか「心の医療センター」とかいう言い方にもいちいち違和感があります。例えば精神病患者について、『幻聴やテレパシー体験などの異常な知覚に対して、正常な心で反応している』と考えたくなる場合も多々ありますし、これについて私の同僚の一人は、精神病は心の病といってよいかどうか疑問だと言っていました。

 一方で、最近よく、一部のうつ病患者が周囲の出来事や状況によって気分が晴れたり落ち込んだりする(そのため、休職中なのに職場外で楽しく遊んでいたりする)という事実を挙げ、そういう軽いものは病気じゃないとか、そういう患者は世間に流布しているうつ病概念を悪用しているなどといった批判を展開している書物がありますが、そういった患者さんこそ「心」の問題、「心」の病気というべきであって、普段「心のナントカ」といったソフトなイメージを身に纏っている専門家が真っ先に扱うべき対象と思います。

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