フロイト全集17から『集団心理学と自我分析』4
この論文で気になる箇所も今回の二つでひとまず終わりです。
催眠術師が要求し主張することを自我が夢の中でのように体験しているという事態は、われわれに次のことを思い出させる。すなわち、われわれは言及することを怠ったのだが、自我理想の働きの中には現実吟味の実行も含まれる、ということである。だから、ふだんなら現実吟味という課題を任されているはずの心的審級が現実に肩入れしてしまうような場合には、自我がある知覚内容を現実だと見なすとしても、何ら驚くには当たらない。(岩波版185頁)
最後の一文の内容の言わんとするところがよくわかりません。原文に当たってみますと、どうも以下のような意味のようです。
催眠術師が要求し主張することを自我が夢の中でのように体験しているという事態は、われわれに次のことを思い出させる。すなわち、われわれは言及することを怠ったのだが、自我理想の働きの中には現実吟味の実行も含まれる、ということである。だから、自我がある知覚内容を現実だと見なすとしても、ふだん現実吟味という課題を任されている心的審級がこの[知覚された]現実に肩入れしている場合ならば、何ら驚くには当たらない。(私案)
つまり原文では下線部の「この現実」は、「知覚内容を現実だと見なす・・・」よりも後ろにきているので、いわゆる客観的現実を指しているわけではなさそうなのです。
最後の指摘箇所です。これもまず私案を掲げます。
しかし、性愛が自我にとって重要になればなるほど、それがより多くの恋着を育むことになればなるほど、それだけ一層強烈に、性愛は二人の人間に制限されるほど -一夫一婦- 求めるようになった。それは、性器という目標の自然本性によってあらかじめ定められていることだ。(岩波版219頁)
しかし、性愛が自我にとって重要になればなるほど、それがより多くの恋着を育むことになればなるほど、それだけ一層強烈に、性愛は二人の人間に制限されるほど -一夫一婦- 求めるようになった。それは、性器的目標の自然本性によってあらかじめ定められていることだ。(私案)
性器的目標というと男女の性器の合体を指すのが普通と思います。「性器という目標」ではちょっとわかりにくいと思います。
フロイト全集〈17〉1919‐1922―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学
出版社: 岩波書店 (2006/11)





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