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2009年3月

2009年3月16日 (月)

昨夜の夢

 昨夜、珍しく場面転換のある長い夢をみたので、忘れないように書き留めておきます。現時点ではほとんど解釈できませんが。

 舞台はおそらくアフリカで、戦争が終わったばかりです。3人の女性が登場します。;痩せた、薄っぺらい胸をして、上半身裸かそれに近い格好です。うち一人は他の二人よりも肌の色が薄いので、同じ民族に属するかどうか疑われ、兵隊に銃口を向けられます。しかし、他の二人の後ろを歩きながら同じ民族の者であることを必死にアピールすることによって、撃たれずに済みます。

 場面が変わります。終戦後、国を二分割して、中国と日本がそれぞれを援助することになります。国民を集めた集会の場で、壇上に太った中国の役人が全身赤い服を着て立っていて、演説します。曰く、これからもこの国と中国とは、困難や苦しみはあろうとも、産みの苦しみとして堪えながら、友好と発展のために協力していこうではないか、といった内容です。その演説とともに映像が流されています。それはなぜか馬の交尾の映像です。雌馬は苦しそうな鳴き声を上げています。私はその映像に驚きながら、演説を、こんな甘い言葉にだまされてはいけない、と思いながら聞いています。そのあと日本の役人がスーツ姿で登場し、真面目で実務的な演説を行ったらしいです。私はそれを聞いてはいないのですが、こうした地味な演説が現地の人々に好印象を与えることができればよいのだが・・・といった心配をしながら観ています。

以上で終わりです。

 最初の場面で、銃を向けられることがすでに性的な意味があることは明瞭です。しかし全体的に、夢の各部分についての連想がなかなか出てこず、前日のどういった出来事から材料が採られているのかいまのところよくわかりません。前日アフリカについて考えたことと言えば、間寛平のテレビを観て、太古の昔、太平洋の真ん中のハワイにどこかから住民が漂着したのだとすればそれは大変な行程であったことだろう、といったことを考えたのち、人類遺伝学上、現生人類の祖先とされる一女性がかつてアフリカにいたとされていることをちょっと思い出したことぐらいです。

 中国については、数日前にダライ・ラマが英語でなにやら話しているニュースを観た覚えがありますが、内容については忘れました。衣服の色はダライ・ラマが着ている服に似ていますが、上着とズボンですし、中国人の風貌は、太っていて唇も厚く、黒烏龍茶のコマーシャルに出てきそうな人物です。

2009年3月 8日 (日)

フロイト全集17から『集団心理学と自我分析』(4)

 この論文で気になる箇所も今回の二つでひとまず終わりです。

『催眠術師が要求し主張することを自我が夢の中でのように体験しているという事態は、われわれに次のことを思い出させる。すなわち、われわれは言及することを怠ったのだが、自我理想の働きの中には現実吟味の実行も含まれる、ということである。だから、ふだんなら現実吟味という課題を任されているはずの心的審級が現実に肩入れしてしまうような場合には、自我がある知覚内容を現実だと見なすとしても、何ら驚くには当たらない。』(岩波版185頁)

 最後の一文の内容の言わんとするところがよくわかりません。原文に当たってみますと、どうも以下のような意味のようです。

『催眠術師が要求し主張することを自我が夢の中でのように体験しているという事態は、われわれに次のことを思い出させる。すなわち、われわれは言及することを怠ったのだが、自我理想の働きの中には現実吟味の実行も含まれる、ということである。だから、自我がある知覚内容を現実だと見なすとしても、ふだん現実吟味という課題を任されている心的審級がこの[知覚内容の]現実に肩入れしている場合ならば、何ら驚くには当たらない。』(代案)

 つまり原文では下線部の「この現実」は、「知覚内容を現実だと見なす・・・」よりも後ろにきているので、いわゆる客観的現実を指しているわけではなさそうなのです。

 最後の指摘箇所です。これもまず代案と比べてみていただきましょう。

『しかし、性愛が自我にとって重要になればなるほど、それがより多くの恋着を育むことになればなるほど、それだけ一層強烈に、性愛は二人の人間に制限されるほど -一夫一婦- 求めるようになった。それは、性器という目標の自然本性によってあらかじめ定められていることだ。』(岩波版219頁)

『しかし、性愛が自我にとって重要になればなるほど、それがより多くの恋着を育むことになればなるほど、それだけ一層強烈に、性愛は二人の人間に制限されるほど -一夫一婦- 求めるようになった。それは、性器的目標の自然本性によってあらかじめ定められていることだ。』(代案)

 性器的目標というと男女の性器の合体を指すのが普通と思います。「性器という目標」ではちょっとわかりにくいと思います。

フロイト全集〈17〉1919‐1922―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学

須藤 訓任 (翻訳), 藤野 寛 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (2006/11)

2009年3月 1日 (日)

フロイト全集17から『集団心理学と自我分析』(3)

 集団心理の論文の翻訳については、やりかけのまま10月からずっと放ってあったのですが続きを取り上げます。

『対象のそのような取り込みについて、もう一つ別の例をわれわれに示しているのが、メランコリーの分析である。この情感は、愛する対象を実際に、あるいは情動の上で失うことをもっとも顕著なきっかけの一つとする。』(岩波版178頁)

 下線部『情感』ですが、原文で『Affektion』です。文脈からしても『病気』『疾患』が正しいと思われます。まあ、訳者はあえてメランコリーは病気ではないと考えたのかもしれませんが。

 つぎ。

『一連の様々な事例からすると、恋着とは、性欲動が直接の性的充足を目的として対象備給することに他ならず、この目的が達成されれば消え失せる。これは、ありふれた感性的な愛と呼ばれているものである。』(岩波版180頁、下線は引用者)

 このあとも『感性的』という訳語はたくさん出てきますが、『sinnlich』には『感性的』ともうひとつ『官能的』という意味があって、この論文では『官能的』という意味に用いられていると思います。

フロイト全集〈17〉1919‐1922―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学

須藤 訓任 (翻訳), 藤野 寛 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (2006/11)

 映画『おくりびと』が話題になっていて、ニュースなどでは死生観を扱ってどうこうと言われていますけど、私にとっては、主人公が納棺師という職業を周囲から反対されていた様子が、私も精神科医になることを周囲から反対された体験と重なって、むしろ職業選択についての映画という印象が強いです。私の実家も東北なのでかなり感情移入して観ることができ、仕事というものは心を込め誇りを持って行わなければならないと改めて思わせてくれた映画でした。

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