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2009年5月

2009年5月24日 (日)

フロイト全集4の『夢解釈Ⅰ』(3)

 岩波から出た『夢解釈』(『夢判断』)の新訳について扱う3回目です。

 岩波版の訳はわかりやすく、すらすらと読み進められますが、第5章のA、「夢における直近のものと些末なもの」の途中から、私にとっては話が錯綜してきて分かりづらく感じられました。ところが、何箇所か原文に当たって確かめてみたかぎりでは、訳文に誤りがあるとか原文から乖離しているというわけでもないようで、むしろ日本語の特性のせいで、あるいは私の読み方のせいで、理解に時間が掛かっただけであった箇所がいくつかありました。そういった箇所を以下に紹介してみます。

「・・・些末な日中印象と、無意識の中の本来の夢源泉とは、必ずしもあらかじめ何らかの関係があるというわけではない。むしろ、先ほど見てきたように、その関係は夢工作の間に、いわば夢工作の意図を汲んで上手く遷移が行われるように事後的に形成されるのである。そうであれば、些末なものではあっても直近の印象に向かって結びつきの道をつけてゆかなければならぬ何らかの強制的な事情が存在しているに違いない。そして、この目的にとって都合の良い特別な性質を、その些末な印象が備えているはずなのである。もしそうでなかったら、夢思考にとっては、自分の担っている重点を遷移させる先として、同じ表象圏の中の重要ではない構成要素を選ぶほうが容易であっただろう。」(岩波版236頁、下線は引用者)

 上記引用箇所で、下線部「もしそうでなかったら」は、直前の文を受けるのではなく、二つ前の文の内容を受けています。実は前の二つの文は原文でひとつながりの文であって、そのうち一つ目の文が主文だからです。さらに、「強制的な事情」という表現は、私には一読して外的な事情のように読めましたが、そうではなくて夢形成が従うべき法則のようなものを指しているようです。ですので以下のように改めてみました。

 「・・・些末な日中印象と、無意識の中の本来の夢源泉とは、必ずしもあらかじめ何らかの関係があるというわけではない。むしろ、先ほど見てきたように、その関係は夢工作の間に、いわば夢工作の意図を汲んで上手く遷移が行われるように事後的に形成されるのである。そうであれば、些末なものではあっても直近の印象に向かって結びつきの道をつけてゆかなければならぬ何らかの強制的な法則が存在していて、そのために都合の良い特別な性質を、その直近の印象が備えているはずなのである。もしそうでなかったら、夢思考にとっては、自分の担っている重点を遷移させる先として、同じ表象圏の中の重要ではない構成要素を選ぶほうが容易であっただろう。」(代案)

 次も同じような例です。

「夢源泉になりうるのは、
a 直近の心的に重要なある一つの体験。これが夢の中で直接的に代理される場合。
b 直近の重要ないくつかの体験。これらが夢によって一つの統一体にまとめられる場合。
c 一つないしそれ以上の直近の重要な体験。夢内容においては、些末な同時的体験への言及によってそれらが代理される場合。
d 内的かつ重要なある一つの体験(想起、思考系統)。それが夢の中では、直近の些末な印象への言及によって、いつも決まって代理されてしまう場合。
 お分かりのように、いずれの場合にも、夢解釈のためのある一つの条件が確保されている。それは、夢内容の一つの構成要素が、前日の直近の印象を反復しているということである。夢の中で何かを代理すべく定められたこの部分は、本来の夢の惹き起こし手の表象圏に属する ―その本質的な部分なのか軽微な部分なのかはともかくとして― か、または、何らかの些末な印象の領域から出ている。些末な印象は、多少の差はあれ豊富な結び付きを通して本来の夢の惹き起こし手の圏域に関係付けられている。こうした条件は、一見すると多様であるようだが、その多様性は遷移が起こらずに済んだか起こってしまったかということの選択肢によって現れてきたものに過ぎない。」(岩波版238頁、下線は引用者)

 下線の「こうした条件」とは、直前の文を指すのではなく、その一つ前の文、「夢の中で何かを代理すべく定められたこの部分は、本来の夢の惹き起こし手の表象圏に属する(・・・)か、または、何らかの些末な印象の領域から出ている」を指しています。やはり直前の二つの文は原文では一つの文だからです。

 引用箇所の冒頭の分類abcdが、本文で示されたどの分析に相当するのか示しておきましょう。aは、218頁から221頁までの六例。bは、236頁から237頁にまたがる段落。cは、230頁から236頁(この「植物学研究書の夢」は、aとbの例でもあります)。dの「想起」には、例えば228頁の「かなり古い幼年期からの想起」が該当するでしょうし、「思考系統」とあるのは229頁の「夢から出てきた思考は次のようなものだった。妻と私の道楽のこと、コカインのこと、同僚同士で治療を受ける気まずさ、研究所で勉強することへの偏愛、植物学など一定の学問分野をおろそかにしてきたこと、これらのいずれから出発するにせよ、それらの思路は・・・」の箇所で「思考」「思路」と訳されているのと同じGedankengangという語ですので、対応関係にあると考えて良いでしょう。

フロイト全集〈4〉1900年―夢解釈1

新宮 一成 (翻訳)

岩波書店 (2007/03)

2009年5月 7日 (木)

カリガリス著『妄想はなぜ必要か』

 だいぶ前に購入した本ですが、職場で話題になっていたので読み始めてみました。

 これはなかなかおもしろいです。おおざっぱに言えば、排除されていた父のシニフィアンが現実界に回帰すると、患者はこれに対して妄想的隠喩の構築で対応する、ということなんですが、これについていろいろな側面から説明してくれているわけです。(なお、私の語感では、父の機能が現実界に出現することこそ妄想的隠喩という呼び名にふさわしく、それを中心にして妄想を構築する作業は換喩的な作業のように思ったのですが、説明されている事態そのものには納得しています。ラカン本人の用語法をどこかで確認できないでしょうか。)

 冒頭には、状況によって「何にでもなってしまう」ような行動様式を示す患者が紹介され、これを精神病の発症前の特徴であるとしていますが、この人物の描写もおもしろく、興味深く読み始めることができます。

 私は精神病発症前の人物に出会ったことはありませんから、発症後に聞いた病前の様子から類推したり、患者とそっくりな人柄をもつ家族の特徴などから類推するよりほかないのですが、私の経験では、精神病に罹患する人物にはむしろ、学歴や地位などの世俗的な価値に強くこだわる人もかなり多いように思います。そうしたありかたについて著者はどう考えているのか、すこし説明して欲しい気がします。

 翻訳についてですが、おおむね読みやすくはあるものの、ところどころ意味の取りにくいところについて原書と見比べると間違いが散見されますし、それ以上に、文や段落が丸ごと抜けている箇所が信じられないほど多いです。たいへんおもしろい本なので全く残念です。また訳語についても、「etat crepusculaire」の定訳は「もうろう状態」ですが、この本ではなぜか「世界没落体験(状態)」とされていたり、「filiation」が「系譜」とされていたり(この語は、日本語の「系譜」よりもずっと生身の血縁関係のニュアンスが強い気がします)といった点が気になります。

 とはいえ、妄想は患者にとって必要であるという私好みの考え方を、そのタイトルに戴いたこの本は、周囲にも薦めたい本であることに変わりありません。

 ところで、「妄想はなぜ必要か」というときの「妄想」とは、個々の妄想観念を指すと言うより、患者と父性機能との関係が、いくつもの妄想観念を発生させながら広範に改編される事態をさしているように思われます。「妄想」という語は、普通は「誤った強い信念」という意味に使うことが多いのですが、より広い意味を持った概念だということも改めて思い出されました。

コンタルド カリガリス (著), 小出 浩之 (翻訳), 西尾 彰泰 (翻訳)

岩波書店 (2008/03)

 この本の原書はありがたいことに前院長が退職に際して病院に寄贈した蔵書にありましたので、買わずにすぐ手にできました。私はこのブログで何回か前に、精神に関する仕事をしていて蔵書を寄付する人の気がしれないと書きましたが、少なくとも後輩の役に立つことは確かです。

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