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2009年12月

2009年12月31日 (木)

フロイト全集11より『心的生起の二原理に関する定式』

 先ごろフロイト全集11が発刊されましたが、これには、その昔私が初めて原書で読んだフロイト論文、『心的生起の二原理に関する定式』(人文書院版では『精神現象の二原則に関する定式』だったかな)が収められています。

 人文書院版フロイト著作集に収められたこの論文の訳はかなり間違いが多いので、私の本は書き込みが多くなりすぎて読みづらくて仕様がないのですが、今回の岩波版の訳はすらすらと読むことができますし、字も大きいので、ある程度のスピードを保って読むことができ、新たな発見がありました。

 人間は、はじめ自体愛やナルシシズムで満足が得られているならば、その後なぜ対象愛へと向かうのであろうか、という時々取り上げられる難問に対しても、この論文が答えていると考えてよさそうです。

 訳語として、従来「現実検討」とか「現実吟味」とか訳されていた語「Realitaetspruefung」に「現実性の検証」を当てている点も素晴らしい。これは外的情報(あるいはその記憶)と照合する作用だからです。

 翻訳で気になったところを挙げます。ひとつめ。

「諸々の宗教は、ひたすらこの手本に追随しながら、来世の生で補償が得られるという約束を盾に、実生活では快を絶対的に断念させることを押しとおしえたのであった。こうしたやり方で、宗教は、快原理の克服を達成しなかった。最初にこの克服に成功したのは科学であるが、この科学もまた、それに従事するあいだは知的な快を与え、最終的に実際的な利得を約束する」(岩波版264-5頁、下線は引用者)

 下線を付した文は本来現在形で、「成功した」は「成功する」が正しいところです。なので冒頭の「最初にam ehesten」も「最も手近に」とした方が良いと思います。「最初に」というと歴史的な一回の時点を指しているかのようですが、科学は、いつの時代にも、未完成なものでありつづけつつ、人間を、現実を変革する方向へと向かわせ続けるからです。

 なお、上に引用した文の終わり近く、「最終的にendlich」も微妙な気がします。この語は「終わりある分析」という時に使われるのと同じ語で、「終わりある、有限な」が第一の意味であり、他には、たとえばクラウン独和では「②うつろいやすい、無常の」「③(長く待ったり躊躇したりしたあげく)ついに実現した(=待ちに待った)」があって、このほか大きい辞書には「最終的な」もありますが、そもそも科学って、どこまでいっても謎が残るので最終到達点を想定できないもののように思いますし、それ以前のあらゆる段階で、実用化され利得をもたらし続けているもののように思います。上の辞書では③の意味がよろしいのではないでしょうか。

 つぎ。

「七 自我が快-自我から現実-自我への転換を遂げているあいだに、性欲動は当初の自体性愛から様々の中間的局面を経由して、生殖機能に役立つ対象愛にまで至る一連の変容を経験する。これら両方の発達過程の各段階が、後の神経症発症の素因の所在となりうるというのが正しいなら、後にどの型で発症するのかの決定(神経症の選択)は、素因となる発達の制止が、自我の発達とリビードの発達のそれぞれどの時期に起こったかに懸かっていると見て差し支えあるまい。こうして、今もって研究のない双方の発達の時間的性格に加え、双方が互いに擦り合わせることから来る時間的な遷移の可能性が、思いがけない意味をもってくる。」(岩波版206頁、下線は引用者)

 下線を付した部分はもっと単純に、「一方が他方に遅れる可能性」で良いと思います。岩波版全集では、「Verschiebung」を「遷移」と訳すことで統一しているようですが、この語には「遅延」といった意味もあって、ここはそちらを採るべきでしょう。

 などいくつかの点は気になりましたが、岩波版は人文書院版に比べはるかに良い訳で、理解を深めてくれたことを改めて付け加えておきます。この論文は初めて原書で読んだものなので私の思い入れはかなり強いのですが、それでも満足できる訳だったと僭越ながらいわせていただきます。

フロイト全集〈11〉1910‐11年―ダ・ヴィンチの想い出 症例「シュレーバー」

高田 珠樹 (翻訳), 甲田 純生 (翻訳), 新宮 一成 (翻訳), 渡辺 哲夫 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (2009/12)

 ことしも最後になりました。フロイトやラカンを読む時間は年々短くなっているのですが、来年は学生の頃のように日課として読むようにしていきたいと思います。

2009年12月29日 (火)

「病的体験」(2)

 約1年前にこのブログに書いたのですが、「病的体験」という用語は臨床上かなり頻繁に用いられるにもかかわらず、精神医学辞典や教科書の類で探しても語釈がみつかりません。

 当時唯一見つけたのがメジカルフレンド社『精神科看護用語辞典 新版第2版』の記載です。

病的体験 pathological perceptions

幻覚や妄想など、精神病的現実によって生じ、患者が主観的に体験していること。患者は自己本位の立場を変えることができなくなる状態になる。したがって、患者は自己の精神病的変化を病的とは思えなくなる。

 これは英語表現との対応も疑問ですし、内容も精神病的現実が先にあって結果として病的体験があるかのようで、どうも我々の日常の用法と違うという不満がありました。

 ところが先日、古い病棟でたまたま同じ本の古い版を広げてみたら、次のようなまったく異なる説明が見つかりました。

病的体験 [D] pathologisches Erlebnis

周囲から客観的にわかる症状に対して、患者自身が主観的に経験している、周囲の者には了解しがたい体験をまとめていう。したがって、この中には幻覚、思考障害、自我障害等がある。ただいずれも本人が体験している(いた)ことがはっきり認められるものである。またふつうは精神分裂病についていうことが主である。そこで「病的体験」があるかないか、表情、態度、行動から確かに推定できることもあるが、一般には、患者が体験している最中か、経験したあとで、自分から言葉で語り、初めてわかることが多い。

 この説明ならば筋が通っていますし、病的体験を核にして妄想を組み立てるという、我々が慣れ親しんだ考え方とも齟齬を生じません。これは平成5年発売の「第5版」でして、どうしてこれを改訂して初めに引用した方の語釈に変えちゃったのか、実にもったいないことです。ただ、私としては、一次妄想も病的体験の例に加えるべきと思っていますが。

精神科看護用語辞典

日本精神科看護技術協会「精神科看護用語辞典」編集委員会 

メヂカルフレンド社; 新訂版 (2000/01)

2009年12月24日 (木)

フロイト全集12の『小箱選びのモティーフ』

 クリスマスシーズンということもあって、かわいらしいタイトルの論文、『小箱選びのモティーフ』を選んで読んでみました。実は私は随分昔にフロイト著作集の訳で読んだきりで内容を忘れていましたが、読んでみると全くクリスマス向けとはいえない内容でした。

 翻訳について、以下の箇所の意味が取りづらく感じました。姉妹の末娘は死の女神だという神話解釈が提示された直後の段落です。 

「さて、三人の姉妹から一人を選択するモティーフの解釈に戻るべき時である。深い不満を覚えながら述べるのだが、この選択に以上の解釈を当てはめると、考察された状況がいかに不可解となり、何という食い違いがこの状況の表面的内容に関して出来することか。三番目の姉妹は死の女神、死それ自身だというのであったが、パリスの審判にあっては、それは愛の女神であり、アプレイユスの童話では愛の女神にも比せられる美であり、『商人』では才色兼備の最高の女性、リア王では唯一忠実な娘であった。これ以上の食い違いは考えられるだろうか。ところが、このありそうもない食い違いの激化は、もしかしたらごく身近なものなのかもしれない。実際、われわれのモティーフにおいても、そのつど女性たちの一人を自由に選択するはずなのに、現実に選択されるのは誰も選ぶ者なぞいない死であって、[選択者は]宿命によって死の犠牲に供されるとなれば、食い違いは激化する。」(岩波版フロイト全集12巻301頁、下線は引用者)

 上記の段落は、とくに後半になって意味が取りづらくなります。

 原文を読んでもしばらくわかりませんでしたし、人文書院版の『フロイト著作集』はぜんぜん違う解釈で、参考になりませんでした。

 しばらく考えて出た結論ですが、まず、段落の前半では、死の女神あるいは死それ自身と、様々な物語に登場する美しい末娘像とには、大きなギャップがあるので、両者が一致するという解釈は一見して受け入れがたいと述べられているに過ぎず、いわばイメージ上のギャップだけが問題にされています。そこにさらに段落後半で、いくつかの物語の中では姉妹のなかから末娘が選択されているという事実が挙げられて、一方で死は誰も好きこのんで選ぶものではないし、そもそも運命的に決められるしかないものであるという考察が付け加えられて、選択という観点を入れればもう一つの矛盾点が加わることになりますよ、という趣旨が述べられているようです。

 私が岩波の訳文をさらっと読んだときにそのように読み取れなかった最大の理由は、上に引用した箇所で下線を付した部分の訳文に、早まって「選択」という語を入れてしまっているからのように思います。原文は代名詞「sie」で、訳者は「選択」を指していると解釈されたようですが、私はそこは「Situationen」を指していると思います。「選択」については、あくまで段落後半になってはじめて話題に加わるように訳さなければならないと思います。

 次のように訳し直してみます。

「さて、三人の姉妹から一人を選択するモティーフの解釈に戻るべき時である。深い不満を覚えながら述べるのだが、考察してきた状況に以上の解釈を当てはめると、状況がいかに不可解となり、何という食い違いがこの状況の表面的内容に関して出来することか。三番目の姉妹は死の女神、死それ自身だというのであったが、パリスの審判にあっては、それは愛の女神であり、アプレイユスの童話では愛の女神にも比せられる美であり、『商人』では才色兼備の最高の女性、リア王では唯一忠実な娘であった。これ以上の食い違いは考えられるだろうか。ところが、このありえそうもない[食い違いのいっそうの]増大は、もしかしたらごく近いところにあるのかもしれない。われわれのモティーフにおいては、そのつど女性たちの一人を自由に選択するはずなのに、選択されるのは誰も選ぶ者なぞいない死であって、[そもそも]ひとは[選択の余地無く]宿命によって死の犠牲に供されるのであるから、[食い違いの]増大は現に生じているのである。」(代案)

フロイト全集〈12〉1912‐1913年―トーテムとタブー

須藤 訓任 (翻訳), 門脇 健 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (2009/06) 

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