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2009年12月24日 (木)

フロイト全集12の『小箱選びのモティーフ』

 クリスマスシーズンということもあって、かわいらしいタイトルの論文、『小箱選びのモティーフ』を選んで読んでみました。実は私は随分昔にフロイト著作集の訳で読んだきりで内容を忘れていましたが、読んでみると全くクリスマス向けとはいえない内容でした。

 翻訳について、以下の箇所の意味が取りづらく感じました。姉妹の末娘は死の女神だという神話解釈が提示された直後の段落です。 

「さて、三人の姉妹から一人を選択するモティーフの解釈に戻るべき時である。深い不満を覚えながら述べるのだが、この選択に以上の解釈を当てはめると、考察された状況がいかに不可解となり、何という食い違いがこの状況の表面的内容に関して出来することか。三番目の姉妹は死の女神、死それ自身だというのであったが、パリスの審判にあっては、それは愛の女神であり、アプレイユスの童話では愛の女神にも比せられる美であり、『商人』では才色兼備の最高の女性、リア王では唯一忠実な娘であった。これ以上の食い違いは考えられるだろうか。ところが、このありそうもない食い違いの激化は、もしかしたらごく身近なものなのかもしれない。実際、われわれのモティーフにおいても、そのつど女性たちの一人を自由に選択するはずなのに、現実に選択されるのは誰も選ぶ者なぞいない死であって、[選択者は]宿命によって死の犠牲に供されるとなれば、食い違いは激化する。」(岩波版フロイト全集12巻301頁、下線は引用者)

 上記の段落は、とくに後半になって意味が取りづらくなります。

 原文を読んでもしばらくわかりませんでしたし、人文書院版の『フロイト著作集』はぜんぜん違う解釈で、参考になりませんでした。

 しばらく考えて出た結論ですが、まず、段落の前半では、死の女神あるいは死それ自身と、様々な物語に登場する美しい末娘像とには、大きなギャップがあるので、両者が一致するという解釈は一見して受け入れがたいと述べられているに過ぎず、いわばイメージ上のギャップだけが問題にされています。そこにさらに段落後半で、いくつかの物語の中では姉妹のなかから末娘が選択されているという事実が挙げられて、一方で死は誰も好きこのんで選ぶものではないし、そもそも運命的に決められるしかないものであるという考察が付け加えられて、選択という観点を入れればもう一つの矛盾点が加わることになりますよ、という趣旨が述べられているようです。

 私が岩波の訳文をさらっと読んだときにそのように読み取れなかった最大の理由は、上に引用した箇所で下線を付した部分の訳文に、早まって「選択」という語を入れてしまっているからのように思います。原文は代名詞「sie」で、訳者は「選択」を指していると解釈されたようですが、私はそこは「Situationen」を指していると思います。「選択」については、あくまで段落後半になってはじめて話題に加わるように訳さなければならないと思います。

 次のように訳し直してみます。

「さて、三人の姉妹から一人を選択するモティーフの解釈に戻るべき時である。深い不満を覚えながら述べるのだが、考察してきた状況に以上の解釈を当てはめると、状況がいかに不可解となり、何という食い違いがこの状況の表面的内容に関して出来することか。三番目の姉妹は死の女神、死それ自身だというのであったが、パリスの審判にあっては、それは愛の女神であり、アプレイユスの童話では愛の女神にも比せられる美であり、『商人』では才色兼備の最高の女性、リア王では唯一忠実な娘であった。これ以上の食い違いは考えられるだろうか。ところが、このありえそうもない[食い違いのいっそうの]増大は、もしかしたらごく近いところにあるのかもしれない。われわれのモティーフにおいては、そのつど女性たちの一人を自由に選択するはずなのに、選択されるのは誰も選ぶ者なぞいない死であって、[そもそも]ひとは[選択の余地無く]宿命によって死の犠牲に供されるのであるから、[食い違いの]増大は現に生じているのである。」(代案)

フロイト全集〈12〉1912‐1913年―トーテムとタブー

須藤 訓任 (翻訳), 門脇 健 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (2009/06) 

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コメント

 今朝、全く偶然にこのブログを拝見しました。―― 精神分析その他の専門家でも何でもないただの素人にすぎませんが、私なりの解釈を下に書かせていただきます。もちろん、揚げ足取りをしようというような気持で書いている訳では全くありません。もしたまたま一箇所でも御参考になるところがあれば、幸いです(ブログに残しておかず、すぐに抹消なさって、一向に構いませんので、念のため…)。

 まず、対応箇所の原文を拾い出して見ました。

_______________________________________

Und nun ist es Zeit, zu dem der Deutung unterliegenden Motiv der Wahl zwischen drei Schwestern zurückzukehren. Mit tiefem Mißvergnügen werden wir bemerken, wie unverständlich die betrachteten Situationen werden, wenn wir in sie die gefundene Deutung einsetzen, und welche Widersprüche zum scheinbaren Inhalt derselben sich dann ergeben. Die dritte der Schwestern soll die Todesgöttin sein, der Tod selbst, und im Parisurteil ist es die Liebesgöttin, im Märchen des Apulejus eine dieser letzteren vergleichbare Schönheit, im Kaufmann die schönste und klügste Frau, im Lear die einzig treue Tochter. Kann ein Widerspruch vollkommener gedacht werden? Doch vielleicht ist diese unwahrscheinliche Steigerung ganz in der Nähe. Sie liegt wirklich vor, wenn in unserem Motiv jedesmal zwischen den Frauen frei gewählt wird und wenn die Wahl dabei auf den Tod fallen soll, den doch niemand wählt, dem man durch ein Verhängnis zum Opfer fällt.

さて〔そろそろ〕、〔上述のような〕解釈(解明)〔* Traumdeutungも、「夢の解釈」ないし「夢占い」という昔ながらの意味に、「夢の〔本質の〕解明」という新たな意味を重ね合わせたところがミソ〕を受けた〔=解釈(解明)の対象となった〕「三人姉妹の内の一人を選ぶ」というモティーフ〔そのもの〕に戻るべき時である。〔ところが、ようやく〕見出された解釈(解明)〔* die dritte der Schwestern = die Todesgöttinという「解」が得られたこと。例えば 2x - 3 = 5 という数式から、xという未知数の値が x = 4 という「解」として求められるようなことを念頭に置いている〕をこれまで考察してきたさまざまな状況に代入して(当て嵌めて)みると〔* einsetzenは、ある数式から得られた解を別の数式に「代入する」ことに相当〕、それらの状況が〔かえって〕何と不可解なものになってしまうか、またその場合、それらの〔状況の〕見掛けの内容に対して何たる〔大きな〕矛盾〔=辻褄の合わないこと〕がいくつも生ずるか〔* wie... および welche... という二つの〈間接感嘆文〉は、こういう直訳ではピンと来ないので、もっとこなれた日本語に変えてしまった方がいいかも知れません〕を眼(ま)の当りにして、我々はひどく不満を抱くことになるだろう。〔すなわち、上述の解釈(解明)に従うならば、〕三人姉妹の末娘〔の実体〕は死の女神、〔つまりは〕死そのものということになる〔* 多くの場合はやや懐疑的な口調で他者の意見・主張を伝える、この種のsollenについては、独和辞典等に多くの文例があると思います〕。ところがそれ〔=三人姉妹の末娘〕は、パリスの審判にあっては愛の女神〔=アプロディーテー〕、アプレユスの御伽噺(物語)〔* Märchenは、必ずしもKindermärchenではありません。ここでも実際は、神話・伝説に基づいた創作「物語」を指しています〕では愛の女神にも比すべき美女〔=プシューケー〕、〔ヴェニスの〕商人においては最も美しくしかも最も賢明な女性〔=ポーシャ〕、リア王では唯一人〔父たる王に〕誠を尽す娘〔=コーディリア〕なのだ。〔およそ〕矛盾というものがこれよりさらに完全な形で〔=これ以上に完全な矛盾などというものが〕考えられるだろうか ? だがひょっとすると、この〔とても〕ありそうもない〔ように思える〕比較級〔=「さらに完全な矛盾」、「一層ひどい矛盾」。* ここのSteigerungは、直接的にはvollkommenerというKomparativ (Steigerungsform, -grad, -stufe) を指す〕が、〔探し回るまでもなく〕ごく手近なところにあるやも知れぬ。〔いや、〕それは実際に存在しているのだ〔* 語勢からすれば、「存在しているではないか」とでも訳したくなります〕。何せ〔* 「だって…なのだから」という感じの dochで、この節の末尾までかかっていますが、余りうまく訳せません〕、我々の〔論じている〕モティーフにおいては、どの場合でも女性たちの中から一人を選ぶのは〔如何なる強制も指嗾もなく〕自由に〔=自由意志に基づいて〕行われているのに、しかも〔決って末娘、つまり上述の解釈(解明)に従うならば〕死が選ばれるということになるのだが、〔自由意志で(好きこのんで)〕死を選び取る者なぞ一人もいないのであって、人〔=我々〕は〔自分の意志では如何とも変え難い〕何らかの宿命によって死の犠牲となる〔にすぎない〕のだから〔* Freitod(自殺、普通はSelbstmord)はどうなのだ、とすぐ反論したくなりますが、Freudにいわせれば、自殺の決意は真の意味での自由意志ではなく、諸般の苦境、さらに究極的にはタナトス(死)の本能によって促されたもの、ということになるのでしょうか〕。

_______________________________________

 私の「解釈」が素人ならではの弱点だらけであることは承知していますが、「他人の眼」という一点だけに僅かな意味があるかも…と思って書き連ねました。非礼を深くお詫びします。

 ところで、色々お気付きになったことはブログに発表されるだけではなく、岩波書店の編集部に文書で知らせておやりになれば、将来の訂正・改訳等に役立って、喜ばれるかも知れませんね。

 はじめまして、有難うございます。

 私の『代案』は、岩波の訳をどうしても訳し変えたい箇所のみ変更して下線で示したものでしたが、段落全体に対して丁寧なご指摘をいただき有難うございます。はじめの「der Deutung unterliegenden」を直後の「motiv」にかけて訳すべきであるとか、「sollen」の用法とか、文法・構文的にもご指摘はもっともな箇所ばかりです(たしか前者は私も気づいたはずですが、手間を惜しんで放置してしまっていました)。

 私が手を入れた箇所のひとつ目、代名詞「sie」が指す内容については、等々力さんも「Situationen」と考えておられるようで、意を強くしました。

 今回等々力さんのご指摘の要はおそらく、私が手を入れた二箇所目で、「Steigerung」を「比較級」と訳すという点だと思います。これは私には全く思いつきませんでした。いま見直すと、「増大」が「ある」とか「すぐ近くにある」というのはいま思うと語感としても変です。
 さて、辞書でこの「Steigerung」を引くと、主に「高めること」といった意味のほか、「(形容詞・副詞の)比較変化」、「競り」「(修辞)漸層法」といった(これまで私が考慮に入れてこなかった)語釈が並んでいます。ついでに、「Steigerungsgrad」や「Steigerungsstufe」といった合成語は「比較の等級(比較級・最上級)」といった意味があるということも知りました。
 ご指摘には『比較級〔=「さらに完全な矛盾」、「一層ひどい矛盾」』とありますが、つまりここを「比較級付きの矛盾」と訳すことも可能と考えてよろしいでしょうか?。といいますのは、段落のはじめの方に「welche Widerspruece...何たる〔大きな〕矛盾〔=辻褄の合わないこと〕がいくつも生ずるかを眼(ま)の当りにして、我々はひどく不満を抱くことになるだろう。」と複数形で「矛盾」が提示されていて、そのなかには、見かけのかわいらしさによる矛盾にとどまらない「一層ひどい矛盾もある」、という流れになることから、「矛盾」(岩波版では「食い違い」)という語は残しておくべきかなあと思うからです。もちろん、段落前半の岩波訳「食い違い」も複数形と分かる表現に改めなければなりませんね。

 これ以降の部分は、私の代案は日本語がへたくそでしたがだいたい同じように解釈していたように思いましたけれど、なにか見落としていたらまた指摘いただけたら幸いです。

 このブログは自分がフロイトを読む励みのためにやっているだけで十分でして、時々反応を戴いて改めて読み直しを楽しんでいます。

 つたないコメントに応答していただき、どうもありがとうございました。

 まず、私なりの「解釈」の内、最後の方の一部分を次のように訂正させていただきます。

 〔いや、〕それは実際に存在しているのだ〔* 語勢からすれば、「存在しているではないか」とでも訳したくなります〕。何せ〔* 「だって…なのだから」という感じの dochで、この節の末尾までかかっていますが、余りうまく訳せません〕、我々の…
 
 ↓
 
 〔いや、〕それは実際に存在しているではないか〔* 語勢を生かすために、「…存在している」よりも敢えて強い表現に変えてしまいました。ここのふたつのwennは一般的な「仮定」ではなく、いわゆる「事実の wenn」なので、wenn 以下の部分を先に立てて「もし…だとすれば」等と訳したのでは、全く気が抜けて様になりません〕。何せ〔* 原文にはこれに当る一語はありませんが、文脈全体に潜在している「だって…なのだから」という感じ(後出のdoch はそれ自体としては単に「しかし」の意ですが、やはりこの感じを強めるのに役立っています)を表現したくて、敢えてこう訳しました〕、我々の…

______________

 ところで、welche Widersprüche が複数形になっているのは、下記のような二つの(二段階で捉えた)矛盾を指しているからではなく、単に、「三姉妹の末娘=死〔の女神〕」という解釈(解明)をアプロディーテー、プシューケー、ポーシャ、コーディリアといった個別の女性たちに当て嵌めた場合に生ずる矛盾の、様相が多様なためです。彼女たちの共通点は「三姉妹の末娘=〔男性にとって何らかの意味で〕理想的な女性 (die ideale Frau) 」だというところにありますが(ただし「理想的な女性」という語は、Freud 自身がこの小論で用いているものではなく、単なる日常語です)、外見や性格には相当な差異があり、みんながみんな可愛らしい訳でも才長けている訳でもありません(コーディリアの場合にはとくにそれがはっきりしていて、彼女の美点は突き詰めれば Treue だけです)。
 しかし、そういった個別の様相の差を捨象すれば、上の二つの等式から派生するのは、「理想的な女=死 (? !) 」という第一の矛盾に他なりませんから、それは Kann ein Widerspruch vollkommener gedacht werden? というように、一括して単数形で捉えられることになります。この「修辞的疑問文 (rhetorische Frage) 」は要するに、「理想的な女=死 (? !) 」などというのは「考えられる限りで最も完全な矛盾」だという意味ですね。
 しかし、また「三姉妹の末娘=〔男の自由意志によって〕選ばれし女 (die Erwählte) 」(「選ばれし女」もやはり日常語にすぎず、この小論自体に出る語ではありません)という等式も成り立っていることから(コーディリアはここでも例外で、一見むしろ「選ばれざりし女」ですが)、「〔自由意志によって〕選ばれし女=死 (? !) 」という第二の矛盾が生じているではないか、これは常識からすれば第一の矛盾以上に承服しがたく、いわば「超完全矛盾」としか思われない…というのが、この節(段落)の末尾の内容をなしています。
 ここではあくまで便宜上、第一の矛盾、第二の矛盾と呼びましたが、実は後者は前者と別物なのではなく、いわば深化した形で前者を捉え直したものであり、dieser zweite Widerspruch とかではなく、diese unwahrscheinliche Steigerung という表現になっているのはそのためです。ただ、「比較変化」とか「比較級」とか訳したのでは日本人にとってすぐにピンとは来ないでしょうから、訳文の上では「矛盾」を繰り返すのはやむを得ないことかも知れません。

 私の浅はかな「解釈」をこれ以上くどくどと説明するのは余りにも馬鹿げていますので(専門家に対して「釋迦に説法」を続けるほど、心臓は強くありませんし…)、コメントは今回をもって最終とさせていただきます。お役には立たなかったと思いますが、どうか寛大にお赦し下さい。

 なお、この小論は自筆原稿が現存しており、そのファクシミリも刊行されています。
[ cf. http://www.amazon.de/Das-Motiv-K%C3%A4stchenwahl-Sigmund-Freud/dp/
Freud/dp/3100227417/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1279748000&sr=1-1 ]
40 cm × 25 cm という大判の紙にFrakturの筆記体でびっしり書き込まれた様子は、一見の価値があります。一気にさっと書き上げられたように見えますが、実はその内容には何年、何十年もの思考の裏付けがあったことは疑いなく、本人にとってはかなり愛着があったものなのでしょう。

 おしまいにしたつもりでしたが,考え直した点もありますので,あと少しだけ…

 A. 単純な訂正

 (1) 比較級〔=「さらに完全な矛盾」、「一層ひどい矛盾」。* ここのSteigerungは、直接的にはvollkommenerというKomparativ (Steigerungsform, -grad, -stufe) を指す〕が、

 ↓

   比較変化〔=矛盾の深化、矛盾がさらに完全に(ひどく)なること。* ここの Steigerungは、vollkommener になるという Komparation を指す〕が、

 (2) 末尾に掲げた http://www.amazon.de/Das-Motiv-K%C3%A4stchenwahl-Sigmund-Freud/dp/の次がFreud/dp/3100227417/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1279748000&sr=1-1 となっていますが、重複している Freud/dp/ は削除して続けて下さい。

 B. 考え直した点

 今日のコメントの冒頭の 「welche Widersprüche が複数形になっているのは、下記のような二つの(二段階で捉えた)矛盾を指しているからではなく、単に…」 という箇所は、理屈の上ではともかく(この段階ではまだ「〔自由意志によって〕選ばれし女=死 (? !) 」という〔、さらに深化した段階の〕矛盾の存在は伏せられているからなのですが…)、余りにも杓子定規な書き方になってしまいました。

 全文の趣旨からすれば、Widersprüche が二つの(二段階で捉えた)矛盾全体を包摂していると解したくなるのは極めて自然なことですから、 「welche Widersprüche が複数形になっているのは、さしあたりは単に…」 くらいに改めたいと思います。

 また、「比較変化」ではとても正しい理解は得られそうもありませんから、やはり「第一の矛盾、第二の矛盾」とか、さらには「表層的な矛盾(食い違い)、いっそう根源的な矛盾(食い違い)」とか、どんどん言葉を補って訳す方がよいのかも知れません。

 以上です。蛇足を加えるたびにますます恥の上塗りをしている感じで、我ながら何とも情けないので、今度こそ本当にお別れを致します。ブログの、また御研究の発展を心から祈り上げます。

 またまたありがとうございます。ご指摘を参考にいろいろ考えているうち、三つ上のコメントの時点での私の解釈とはまた違うアイデアを思いついたりして、興味が尽きません。

 まずなによりも、「Kann ein Widerspruch vollkommener gedacht werden? そもそも矛盾なるものをもっと完全に考えることができるだろうか?」の「ein Widerspruch」は、「そもそもひとつの矛盾なるものを・・・」というふうに、いったん仮設して文中に登場させてしまう用法(文法用語に疎くて済みません)のように思えてきて、それ以前のものを指していないのではないかという気がしていますが、そういう解釈は可能でしょうか?。
 その前の、「welche Widersprüche...」の箇所の複数形の「矛盾」は、直後に紹介される4人の登場人物が体現している矛盾を予示していると私も思うようになりました。

 じつは昨日指摘を頂いて読み直したときは、恥ずかしながらvollkommenerが、Widerspruchに後ろから係る形容詞のように早とちりしまして(うしろにArtを勝手に補って「vollkommener Art」のように思ったのか、あるいはフランス語の癖でしょうか)、「より完全なWiderspruchを考えることができるだろうか」と解釈したので次の文の「Steigerung」に「比較級」という訳あるいは「比較級付きの矛盾」という訳を当てることも可能かと思いました。しかし「vollkommener」は副詞のようですので、これを踏まえると、「Steigerung」に「(副詞の)比較級」という訳を当てるのはょっと苦しい気もしてきました。直後の文では「Steigerungは実際に存在しているではないか」と、いわば実体化され「存在」させられてしまうので、「Steigerung」は「Widerspruch」を指していると考えたくなってしまいます。等々力さんが『また、「比較変化」ではとても正しい理解は得られそうもありませんから、やはり「第一の矛盾、第二の矛盾」とか、さらには「表層的な矛盾(食い違い)、いっそう根源的な矛盾(食い違い)」とか、どんどん言葉を補って訳す方がよいのかも知れません』とおっしゃっているのも同じことをおっしゃっているのかもしれません。

 あと、「それは実際に存在しているではないか」以降の部分の「語勢」についてのご指摘は全くごもっともと思います。はじめの文の短さと「wirklich」という語に特にそれを感じます。

 おかげさまで大変勉強になりました。じつは「制止・症状・不安」の第1章のはじめの2段落にどうしても私の合点のいかない箇所がありまして(それに触れた記事は、いまならこのブログのトップページから一つ前にあります)、できればお力を拝借したいものだとずうずうしいことを考えております。

 例の Steigerung が「比較変化」を意味していることには確信がありましたが、どうも気になったためにネットで英語訳やフランス語訳を捜し出してみたものの、明らかにそのあたりはぼかされていて(意訳のみ)―― 悪くいえば、ごまかされていて ―― 、完全な肩すかしにあいました。西欧語どうしの翻訳は、こういう細かい点に関しては全く参考にならないことがかなり多い気がします。
 すると、こうなったら Freud 自身のテクストから証明したいという妙な意地が生れてしまったもので、七月に登場したばかりらしい Freud im Kontext というデータベースソフトを急遽ダウンロード版で購入し(ひどく高価で痛手でしたし、そもそも私などにとっては正に「豚に真珠」でしかありませんが)、全著作から Steigerung 等を検索するという暴挙に出ました。
 Steigerung の用例は当然ながら百を超えていましたが、ほぼすべて単純な「…の増大」にあたる用例ばかりで、もうすっかりあきらめかけた最後のあたりで、明確に「比較変化」を意味している例を二つ(重要なのは最初の一つだけですが)、ついに発見できました。確認ができて、やはり単純に嬉しくてなりません(馬鹿ですねえ)。
 Komparation は用例がありませんでしたが、Komparativ の方は一つ発見でき、やはりこういった考え方が Freud にあることの傍証になりました。
 そんな次第で、発見した三つの用例を下に御報告しておきます。何かの御参考になれば、幸いです。

 Steigerung 自体が「矛盾」の意味になるなどということはあり得ません。ただ、この概念が日本人の読者にはなじみにくいことが明らかなので、訳注を付して説明するか、全体の趣旨を伝えるために便宜的に「第一の矛盾」「第二の矛盾」等と訳して空とぼけておくか…という選択になると思います。

_________

 Man kann nun fragen: Warum macht die Religion diesem für sie aussichtslosen Streit nicht ein Ende, indem sie frei heraus erklärt: »Es ist richtig, daß ich Euch das nicht geben kann, was man gemeinhin Wahrheit nennt; dafür müßt Ihr Euch an die Wissenschaft halten. Aber was ich zu geben habe, ist ungleich schöner, trostreicher und erhebender als alles, was Ihr von der Wissenschaft bekommen könnt. Und darum sage ich Euch, es ist wahr in einem anderen, höheren Sinn.« Die Antwort ist leicht zu finden. Die Religion kann dieses Zugeständnis nicht machen, weil sie damit jeden Einfluß auf die Menge einbüßen würde. Der gemeine Mann kennt nur eine Wahrheit im gemeinen Sinn des Wortes. Was eine höhere oder höchste Wahrheit sein soll, kann er sich nicht vorstellen. Die Wahrheit erscheint ihm so wenig der Steigerung fähig wie der Tod, und den Sprung vom Schönen zum Wahren kann er nicht mitmachen. Vielleicht denken Sie mit mir, er tut recht daran.

[Neue Folge der Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyse, XXXV. Über eine Weltanschauung (Ges. Werke, XV: 186.)]

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 Th. Fechner hat in seiner »Vorschule der Ästhetik« (I. Bd., V) das »Prinzip der ästhetischen Hilfe oder Steigerung« aufgestellt, das er in folgenden Worten ausführt: »Aus dem widerspruchslosen Zusammentreffen von Lustbedingungen, die für sich wenig leisten, geht ein größeres, oft viel größeres Lustresultat hervor, als dem Lustwerte der einzelnen Bedingungen für sich entspricht, ein größeres, als daß es als Summe der Einzelwirkungen erklärt werden könnte; ja es kann selbst durch ein Zusammentreffen dieser Art ein positives Lustergebnis erzielt, die Schwelle der Lust überstiegen werden, wo die einzelnen Faktoren zu schwach dazu sind; nur daß sie vergleichungsweise mit anderen einen Vorteil der Wohlgefälligkeit spürbar werden lassen müssen.«

[Der Witz und seine Beziehung zum Unbewußten, IV. Der Lustmechanismus und die Psychogenese des Witzes (Ges. Werke, VI: 151.)]

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 »Er glaubte nicht allein keine Gespenster, sondern er fürchtete sich nicht einmal davor.« Der Witz liegt hier ausschließlich an der widersinnigen Darstellung, die das gewöhnlich für geringer Geschätzte in den Komparativ setzt, das für bedeutsamer Gehaltene zum Positiv nimmt. Mit Verzicht auf diese witzige Einkleidung hieße es: es ist viel leichter, sich mit dem Verstand über die Gespensterfurcht hinwegzusetzen, als sich ihrer bei vorkommender Gelegenheit zu erwehren. Dies ist gar nicht mehr witzig, wohl aber eine richtige und noch zu wenig gewürdigte psychologische Erkenntnis, die nämliche, der Lessing in den bekannten Worten Ausdruck gibt:
»Es sind nicht alle frei, die ihrer Ketten spotten.«

[Der Witz und seine Beziehung zum Unbewußten, III. Die Tendenzen des Witzes, (Ges. Werke, VI: 99.)]

 

 次々とつまらない書き込みを致しまして、まことに申し訳ありません。しかし、最初に書きましたように、私は貴ブログに対する揚げ足取りをしたくてあれこれ書き綴っている訳では決してありませんので、その点はどうか誤解なさらないようにお願い致します。御一読後あっさり消去して下さっても、私には何の異存もございません。

 私の最初のコメントで「比較級」という不正確な訳語を用いたため、無用の混乱を招いてしまったことを深くお詫びします。これに関連して7月22日の二つの書き込みで訂正を書かせていただきましたが、それらを織り込みますと、原文の Kann ein Widerspruch vollkommener gedacht werden? Doch vielleicht ist diese unwahrscheinliche Steigerung ganz in der Nähe. Sie liegt wirklich vor, wenn... という部分に対する私の「解釈」は次のようになります。

 〔およそ〕矛盾というものがこれよりさらに完全な形で〔=これ以上に完全な矛盾などというものが〕考えられるだろうか ? だがひょっとすると、この〔とても〕ありそうもない〔ように思える〕比較変化〔=矛盾の深化、矛盾がさらに完全に(ひどく)なること。* ここの Steigerung は、vollkommener になるという Komparation を指す〕が、〔探し回るまでもなく〕ごく手近なところにあるやも知れぬ。〔いや、〕それは実際に存在しているではないか〔* 語勢を生かすために、「…存在している」よりも敢えて強い表現に変えてしまいました。ここのふたつの wenn は一般的な「仮定」ではなく、いわゆる「事実の wenn」なので、wenn 以下の部分を先に立てて「もし…だとすれば」等と訳したのでは、全く気が抜けて様になりません〕。何せ〔* 原文にはこれに当る一語はありませんが、文脈全体に潜在している「だって…なのだから」という感じ(後出の doch はそれ自体としては単に「しかし」の意ですが、やはりこの感じを強めるのに役立っています)を表現したくて、敢えてこう訳しました〕、我々の…

 Steigerung(比較変化)という語については、既に若干の補足説明を加え、またFreud 自身の著作からの文例を引いておきましたが、むしろまずKann ein Widerspruch vollkommener gedacht werden? の部分の方をもっと詳しく説明すべきだったことに気付きましたので、今日はそれについて書かせていただきます。

 ネットで見付けたフランス語訳では、以下の部分はPeut-on imaginer contradiction plus flagrante ? Mais peut-être cette si invraisemblable surenchère est-elle tout près d’être comprise... Et elle a réellement lieu chaque fois où, dans notre thème, le choix entre les femmes est libre et qu’en même temps ce choix doive tomber sur la mort, que pourtant nul ne choisit, dont on devient la proie de par le destin seul. となっていました。趣旨は何とか伝わりますが、本当はかなり怪しい訳であることはすぐにご了解いただけると思います。vollkommener を plus flagrante、Steigerung を surenchère としているところに、その弱点がそれこそ flagrant に露呈しているように思います。

 まず、お書きになっていたように、ein Widerspruch vollkommener = ein [noch] vollkomm[e]nerer Widerspruch (? !) という解釈は無理というものです(後者は ein tieferer W., ein größerer W. 等に準ずるものですから、語形がやや重苦しいとはいえ、論理的にはもちろん何の問題もありませんが)。なお、ein Widerspruch vollkommener als... という具合に補足の句が付くのであれば、それはまた別の話になります。また、形容詞が後置されて変化語尾を失うことは、韻文や擬古文体(ないし方言)では Röslein, Röslein, Röslein rot ! とかmeine Mutter selig とか、いくらもあることながら、ここはそれとは明らかに別物です。

 かといって、vollkommen[er] を denken にかかる副詞として(adverbial に)、「とことん考え抜く (durchdenken) 」のような意味に解するのも、やはり不自然です。Man sollte diese Sache noch tiefer (gründlicher) denken. といった表現ならともかく、「 vollkommen に denken する」というのはどうも…

 結論的に申せば、ここの vollkommener はやはり形容詞(文法的機能としては補語、つまり英語ならcomplement)で、「さらに完璧になった(深化した)状態(形)のものとして」という意味ですから、Kann ein Widerspruch vollkommener gedacht werden? は直訳すれば、「〔およそ〕矛盾というものがこれよりさらに完全な形で考えられるだろうか〔=これよりさらに完全な状態になっているのを想像することができるだろうか〕? 」とでもいうことになります。私の「解釈」に「〔=これ以上に完全な矛盾などというものが〕考えられるだろうか」という補足があるのは、もちろん便宜的な意訳を示したものにすぎないことは、既にくどく書きました。

 幸いなことに、ドイツの Google で "vollkommener gedacht werden" というのをまとまった形で検索してみましたら、実にたくさんの文例が出て来るのには正直のところ驚きました。下にそのいくつかを列挙して、御参考に供します。最後の例のように、als vollkommener と als が入っていれば、「…のものとして」という意味であることがさらに一目瞭然ですね。

 1) Der Dichter nähert sich seinem Ziele, indem er uns ein Individuum vorführt, das in seiner inneren Ansicht der Überzeugung fast nahe ist, daß diese Welt nicht vollkommener gedacht werden könne, als sie wirklich ist. [Goethe]

 2) Für den Christen, der ausschließlich Mensch ist und als solcher auch stets erlösungsbedürftig bleibt, kann es nur darum gehen, Maria, dem Menschen wie er nach den Sündenfall nicht vollkommener gedacht werden kann, gleich zu werden.

 3) Georg Müller aus Wyl, hat nach diesen und anderen Indicien eine Fassade entworfen, wie sie für dieses Gebäude nicht vollkommener gedacht werden könnte.

 4) Ihre Adaption des englischen Sensualismus, der wiederum in spinozistischem Gedankengut wurzelt, ermöglichte ihnen die poetische Imaginierung von „möglichen Welten“, die gegenüber der wirklichen Welt als vollkommener gedacht werden können. Ja, es wird sogar die Aufgabe des Dichters, idealere, „höhere“ Welten zu ersinnen, um sie der „niederen“ Wirklichkeit entgegenzusetzen.

 5) Denn ein notwendiges Wesen muß als vollkommener gedacht werden als ein zufälliges.

 さて、最後にもう一つだけ。ここの ein Widerspruch は一見すると純然たる仮設のようですが、実はこの修辞的疑問文が意味しているのは、要するに Ein solcher Widerspruch wäre sicher der [aller]vollkomenste! ということですから、念頭に置かれているのは、先日の私の書き方によれば、あくまで「理想的な女=死 (? !) 」という〔表層的な段階の〕矛盾のことに違いありません。

 余りにもしつこくなって、ひどい自己嫌悪に陥ってはおりますが、こうしてあれこれ考えるきっかけを与えていただいたことに、改めて心からの御礼を申し上げます。

 再三にわたり有難うございます。

 ふたつ前でお教えいただいたフロイト『続精神分析入門』をみますと、「eine höhere oder höchste Wahrheit」と、形容詞の比較級・最上級が付された名詞があって、その直後の文で「Steigerung」という表現を用いていますから、それは「WahrheitのSteigerung」であることは明瞭だと思います。これとは違い、『小箱選び』では、「vollkommener」が名詞を修飾していないので、それを「Steigerung比較変化」という表現で受けるというのはなんとなく不自然な気がする、というのがここまでの私の悩みでして、等々力さんは今回そこに言及いただいた上でコメントを戴き、改めてすっきりと頭の整理ができました。名詞を修飾するものとみなして良いのであれば、問題ありません。

 次に「ein Widerspruch」ですが・・・これについても等々力さんが「一見すると純然たる仮設のようですが」と先取りしてくださっているのですけれども、私はどうしても仮設のような気がしてしまいまして自分のドイツ語力を恨むばかりですが、昨晩の当直中もあれこれ考えて(もうすこしお付き合いください)、「denken」を辞書で引くと、相良の辞書(のみ)には次のような思いがけない用法が載っていました。

「④(b)《述語[的形容詞]が動詞の目的語にかかるのではなく、denkenという動作の結果生ずるものを言い表している場合》er hatte seine Entschluesse reif gedacht,彼は考慮の末に決心をつけたのだった; du koenntest dich wohl gar wahnsinnig daran denken,君はそんなこと考えてると気がふれるかもしれないよ」

 ひとつ目の例文は要するに、“彼が「reif denken」した結果として「seine Entschluesse」が生じた”、ということのようです。
 「小箱選び」の当該箇所も、“「vollkommener denken」した結果として「ein Widerspruch」が生じることは可能か”、という文と考えることはできるでしょうか。
 そうだとすると該当箇所は「もっと十全に考え込まれた結果であるような矛盾が生じることはありうるだろうか?」とでも訳せばよいでしょうか。
 もしこう考えても良いのであれば、その直後に「ごく手近なところにあるやも知れぬ。〔いや、〕それは実際に存在しているではないか」と、まるで実体的に存在するかのような言い方がなされている箇所ともスムーズにつながる気がします。とんちんかんな考え方を持ち出したかもしれませんがご容赦ください。

 私の書き込みが舌足らずで、なかなか御了解いただけないところがあり、どうにも弱っています。相変わらずつたない説明ですが、若干の補足をさせていただきます。

 〔1〕 Er hatte seine Entschlüsse reif gedacht. とか Du könntest dich wohl gar wahnsinnig daran denken. というのが、辞書の denken の項にあるとのことですが、この種の表現を denken という動詞の特殊な意味(用法)という形でとらえる必要は、全くありません !

 例えば、Sie hat das Pferdchen völlig müde geritten.(彼女は仔馬を〔さんざん〕乗り回して疲れ果てさせてしまった)という文を追加してみるとよく判りますが、上記のdenken / gedacht とこのgeritten (< reiten) は共に、その本来の意味(考える、〔馬に〕乗る)の他に、「…の状態にする (machen) 」という機能をも帯びて用いられていることが判ります。問題は個々の単語の意味にあるのではなく、実はこの機能自体にあるのです。

 お挙げになった文例の二番目にある、sich(4 格)+ 結果を示す補語(形容詞)+ 動詞 という表現構造に至っては、ドイツ語ではとくによく発達しており、Er hat sich warm gelaufen.(走ったので身体がポカポカしてきた、走って一汗かいた)、Ich hätte mich fast zu Tode gelacht !(余りおかしくて笑い死にしそうだったぜ ―― ただし、本当に面白くて笑った場合もあるでしょうが、実は余りの馬鹿馬鹿しさに声も出なかったというような場合も、あるかも知れません ―― )などという表現では、laufen とか lachen という自動詞 ( ! ) までがやはり「…の状態にする (machen) 」という機能を帯びて用いられることになります。

 このような機能は「 machen 型の意味形態」と呼ばれるものですが、私は語学者でも何でもないので、これ以上の説明は御容赦願います。「意味形態」については、関口存男(つぎお)著『趣味のドイツ語』という本がありますので(絶版)、古書で入手して御一読下さることが、さしあたりおすすめです。ふざけたタイトルに見えるので、初心者向きのつまらぬ本と誤解する人もあるかも知れませんが、実はかなり底知れぬ内容のある著作です。

 〔2〕 Kann ein Widerspruch vollkommener gedacht werden? のdenkenを強いてこの意味形態として解するなら、「一層〔深く〕考え抜いて、この矛盾をさらに完全なものにすることができるだろうか」(余りごちゃごちゃするので、能動文として訳しましたが、その方が判りやすいと思ったまでのことで、受動→能動の転換によって文意をねじまげようという魂胆ではないことは、御了解いただけますね)ということになります。論理的にはそういう内容であっても構わない筈ですが、実際にはおよそあり得ない話でしょうね。

 また、「vollkommener denken した結果として ein Widerspruch が生じることは可能か」、「もっと十全に考え込まれた結果であるような矛盾が生じることはありうるだろうか」というような解釈をなさるとすれば、それは上記のような意味形態とは全く関係がなく、vollkommen[er] を denken のありかたを示す副詞として考えておられるにすぎません。これは既に述べましたように、やはり論理的には一応可能な解釈ではありますが、かなり不自然です。―― ここの vollkommen[er] はあくまで Widerspruch に結び付けて考えるべきです。Endlich hat er [sich(3格)] eine vollkomm[e]nere Lösung ausgedacht.(遂に彼はさらに完璧な解決(解答)を)案出した)というようなのは、もちろんまた全く別物ですが。

 〔3〕 Kann ein Widerspruch vollkommener gedacht werden? を単なる仮説と考えたくなるとすれば、それはやはり ein Widerspruch vollkommener = ein vollkomm[e]nerer Widerspruch という考えに引き摺られているからではないでしょうか。

 話をぐっと卑俗化・単純化してみます。―― ある女性が夫を殺害しました。彼女もそのことを完全に認めています。しかし長年にわたり、精神的・肉体的な暴力によって夫が彼女や子どもたちを責め苛んできたことは、さまざまな状況や近親者等の証言から明白です。犯罪事実の有無は争うべくもありませんので、弁護士が彼女の被害者としての面を強調すると共に、その追い詰められた精神状態について、心神耗弱とか何か(このへんは素人の私にはよく判りませんが…)といった医師の鑑定をも根拠として、情状酌量と減刑を求めるのは当然のことです。しかし、検察官はそれらには一切耳を傾けず、あくまでその殺害の計画性や残虐性を強調し、断固として死刑を求刑しました(こんなことが実際にあり得るかどうかは、さしあたり考えないことにして下さい)。

 さて、こういう場合に、Kann man sich einen kaltblütigeren Staatsanwalt vorstellen?(これ以上冷血な検察官(kaltblütigerは付加語)〔の存在〕なんて、想像することができるだろうか ? )というとすれば、このStaatsanwalt は実際にはいない訳ですから、ein[en] Staatsanwalt は確かに純粋な仮設です。しかしここで、Muß ein Staatsanwalt so kaltblütig sein?(〔およそ〕検察官というものは、かくも冷血で(kaltblütigは補語)なければならないものだろうか ? )という場合、この ein Staatsanwalt は実在の何の某という人物を「一個の検察官として」捕え直したものであり、不定冠詞こそ付いていますが実際には特定の人物を念頭に置いている訳です。

 Kann ein vollkomm[e]nerer Widerspruch gedacht werden?(vollkomm[e]nerer は付加語)ならば、前者と同様に、このWiderspruchは単なる仮説ですが、Kann ein Widerspruch vollkommener gedacht werden?(vollkomm[e]nerer は補語)の場合、後者と同様に、このWiderspruch は実際には、「三人姉妹の末娘=理想的な女」および「三人姉妹の末娘=死」という二つの等式から導かれた新たな等式、すなわち「理想的な女=死 (? !) 」という具体的に存在する矛盾を指しています。しかしこの辺からまたややこしくなってきますが、これは「この完璧な矛盾がさらに深まってさらに完璧になるなどということを、〔そもそも〕考える(想像する)ことができるだろうか ?〔いや、とてもそんなことは…〕」という修辞的疑問文であるが故に、つい「さらに完璧な矛盾」という仮設との区別が曖昧になってしまうのでしょう。

 要は、〔いくつもの同類の内の〕二つの矛盾を対比しているのではなく、同じ矛盾の二つの段階ないし層を対比しているのであり、「さらに完璧な矛盾」という仮設に代るものとして登場するのは、「その矛盾がさらに深化すること」を示すdiese unwahrscheinliche Steigerung(この〔とても〕ありそうもない〔ように思える〕比較変化)であって、これに定冠詞類のdieseが付されているのは、まずはたった今話題に上せたからでもありますが、実はそれが単なる純粋な仮設ではなく、「選ばれし女=死 (? !) 」という、矛盾の新たな段階ないし層への深化として、既に Freud の脳裏にあるからでもあります。

 今回もまた実にダラダラした乱文になってしまいました。すっきりした説明ができず、申し訳ありません。まあ、こういう屁理屈で御勘弁下さればまことにありがたい次第ですが、理屈は理屈として、実際問題としては、このあたりは「さらに完璧な矛盾」等と意訳しておいても構わないだろうということは、再三申し上げた通りです。

 〔4〕 vollkommenerがdenkenのあり方を示す副詞ではなく、Widerspruchのあり方を示す形容詞(ただし、付加語ではなく補語)であることは、以上の説明の通りですが、そういった文法用語のごときものをひねくりまわしたりしなくとも、昨日のコメントに引用しました"vollkommener gedacht werden" の五つの例文をお読みいただければ、まったく一目瞭然だと思います。前後の文から切り離してしまっているので、以下の補足説明に付ける訳文には、本当は見当外れなところがあれこれ生じてしまっているかと思いますが、もう全文を捜し出して検討し直すのも面倒なので、それぞれ一つの訳例としてだけ御覧下さい。

 まず最も短い、5) Denn ein notwendiges Wesen muß als vollkommener gedacht werden als ein zufälliges.(というのも、必然的な存在〔物〕というものは、偶然的な存在〔物〕よりもさらに完全であると考えられ(想定され)なければならない)ですが(必然であるということ自体に、既に大きな意味があると考えるべきだ、といった主張)。ここには vollkommener... als... という比較の対象を示す als の他に、「…として」の意の als が挿入されていて、vollkommenerが補語であることがなおさらくっきりと(判りやすく)示されています。しかし、この als は不可欠という訳ではなく、ことに古めかしい文章ならないのが当たり前でしょう。

 次に、(2) 「キリスト教徒は〔たとい如何なる聖人であろうと高位聖職者であろうと〕あくまで〔罪深き〕人間であり、そういう存在として常に〔神の恩寵による〕救済を必要としているのであるから、人間にとって最も大切なこととは、〔聖母〕マリア ―― 創造された当時のアダムとイヴは別として〕原罪以後においては、これ以上完全なものとして〔=…ものとなることなど〕考えることなどできないような人間 ―― と同等〔の、私を捨て去り、ひたすら謙虚に神の教えに従う存在〕になること以外にはあり得ない。」 ―― ここでも、der vollkommenste Mensch ないし ein vollkomm[e]nerer Menschといった表現は用いられておらず。マリアも凡夫も「人間」という同じ存在のあり方として捉えている(例の Widerspruch と同じような把握ですね)ことが、dem Menschen [= der Mensch], wie er ... nicht vollkommener gedacht werden kann となっていることにはっきりと示されています(wie + 人称代名詞が、関係代名詞 +「…のような」に相当するといったことへの説明は省略致します)。

 神学的なことはよく判りませんが、これはたぶんカトリックかルター派(ルター派ではマリア崇敬を否定していませんから)の聖職者の発言だろうと思います。Mutter Gottes(神の母)と呼ばれることのあるマリアも、実は我々と同じ人間にすぎないが、人間としてはこの上なく完全な存在であった。我々は神と同等になることなどあり得ないが、せめてマリアという極めて完全な人間存在を目標として生きようではないか… といった趣旨のお説教の一部ではないでしょうか。

 申し訳ありませんが、ひどくくたびれてきた上に、やらなければならないことがあれこれとありますので、あとは割愛させて下さい。

 ここは貴ブログのトップからは発見できない隅っこにあるので、つい気楽に余計なことを書き込んで、かなり穢してしまいました。どうかすみやかにこんなゴミは掃除して、本来のクリーンな状態に戻してくださいますように。

小訂正

 さきほどのコメントの〔1〕の第三段落にあるIch hätte mich fast zu Tode gelacht ! は、Ich hätte mich fast tot gelacht ! に改めて下さい。文の意味内容には変りがありませんが、ここでは sich(4 格)+ 結果を示す補語(形容詞)+ 動詞 という表現構造を問題にしているのですから、tot でなければなりません。どんな例文にしようかとあれこれ迷っている内に、肝心のところを忘れて表現をいじってしまった、そんな単純ミスです。

 あのコメントはいったんワープロソフトで下書きをした後、ここであれこれ手を加えた形にして、「確認」ボタンを押すところまで行ったのでしたが、うっかり「送信」ボタンを押すのを忘れてブログを閉じ、一瞬にして全部を消してしまうという失態をやらかしたため、すっかり意気銷沈し、やむなく下書きの段階のものを改めて送信した次第です。

 どっちみち大した内容はありませんから、それで十分ではありますが、やはりちょっと悔しかったというのが本音です。

もう一つの訂正

 (下書きの段階で、コピー & ペーストによって書き足したり削ったりしている内に、妙に短縮された形になってしまっていました。文意が通じなくなっており、御迷惑をおかけしました。)

 〔2〕の後半ですが、

 … それは上記のような意味形態とは全く関係がなく、vollkommen[er] を denken のありかたを示す副詞として考えておられるにすぎません。これは既に述べましたように、やはり論理的には一応可能な解釈ではありますが、かなり不自然です。―― ここの vollkommen[er] はあくまで Widerspruch に結び付けて考えるべきです。…
 ↓

 … それは、辞書にあった 「述語[的形容詞]が動詞の目的語にかかるのではなく、denkenという動作の結果生ずるものを言い表している場合」 という説明文をを誤読されたために生じた解釈で、成立不可能です。「動作の結果生ずる」のはある「状態」であって、この場合は形容詞(補語)か、それに類する語句に限られます〔* 注 例えば、上の第一の訂正にある tot は形容詞、zu Tode は句ですが、意味内容はほとんど同じです〕。―― Er hatte seine Entschluesse reif gedacht. とは「reif denken した結果として seine Entschluesse が生じた」のではなくて「考え抜くことによって自分の決心を熟させていた〔=確固たるものとして完成させていた〕」の意味です。

 また、vollkommen[er] を denken のありかたを示す副詞として考えること自体は、既に述べましたように、論理的には一応可能な解釈であるかのようにも見えますが、実際はかなり不自然です。―― ここの vollkommen[er] はあくまで Widerspruch に結び付けて考えるべきです。…

 ご説明の労をおとりいただき有難うございます。

 はじめにお詫びしなければいけませんが、私はこのところ「Kann ein...」の文と「Steigerung」との関係ばかりを考えてきてしまったようでして、いつのまにか「in der Naehe」と「vorliegen」をごっちゃにしてしまい、「Steigerungはすぐ近くに現に存在するではないか」といった意味の文があとに続いていると思い込んでしまっていたことに気づきました。つまり私はここまで、「Steigerung」に対して、「比較変化」のような訳語よりは、「比較変化した(=より高まった)矛盾」のように(可算的なものとでもいいましょうか)、後に続く「存在する」という述語にしっくりくる訳語を当てたかったように思います。しかし実際には、「...ist...in der Naehe」も「vorliegen」も、さほど強く実在を含意していない表現ではないか、と気づきまして、訳語が「比較変化」でも違和感を感じなくなりました。

 これを踏まえ、等々力さんが紹介してくださっている「vollkommener gedacht werden」の5つの用法も読み直しますと、かなり腑に落ちてきました。(それにしても、vollkommenerの前にnichtが入っているだけで、例文が、基本的には同じ構文なのに私にもすっと理解できるのが不思議です)

 さらに本日いただいたコメントを読みますと、これまでのコメントをさらに懇切に説明いただいたので、ほぼ自分としては腑に落ちたような感覚を持っております。ありがとうございました。それでも訳については等々力さんがおっしゃるように少々工夫しないと通りにくいですね。

 私のブログ/HPは等々力さんのレベルの方からみれば笑止千万かもしれませんが、また何かお教えいただければ幸いです。まあ、元の岩波版よりは、私がかつて考えた解釈の方がちょっとマシだったかなと胸をなで下ろしております。ありがとうございました。

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