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2010年1月

2010年1月20日 (水)

フロイト全集11から『精神分析的観点から見た心因性視覚障害』

 現在刊行中の岩波版フロイト全集では従来とかなり異なる訳語を採用していたりするので、論文のタイトルの訳からして従来の人文書院版と同じであることは少ないのですが、この論文は珍しく結構長いタイトルなのに従来通りとなっています。

 さて、私はいつも訳文を読んでいて疑問点があると原書に当たってみるのですが、この論文に関しては、原書を見て確認しても、そのとおり訳す以外無いと納得できる箇所ばかりであったのですけれど、ただ一箇所だけ不満を持ちましたのでここで取り上げたいと思います。

 問題の箇所を下に引用しますが、その前に、論旨の前提となる部分も挙げておきます。論文の冒頭の段落で、シャルコー、ジャネ、ビネなどフランス学派の考え方が紹介されている部分です。

「自発的なヒステリー性視覚障害の機制を、催眠中の暗示による視覚障害を手本にして考えてみてよいわけです。ヒステリー患者の場合、自分の目が見えないという表象は、催眠者に吹き込まれることによって生じるのではなく、よく言うように自発的に、自己暗示によって生じます」(岩波版全集223頁)

「(・・・)ヒステリー性の盲目状態にある人は、意識にとってだけ盲目であり、無意識においては見えているのです。まさにこの種の経験が、我々に意識的な心の過程と無意識的な心の過程とを区別することを迫るのです。無意識においては見えているのに、自分は盲目だという無意識の「自己暗示」をきたすのはどうしてなのでしょうか。
 この新たな疑問に対する答えとして、フランスの研究者たちが提起する説明はこうです。いわく、ヒステリーの素因をもった患者には元から解離 ―心的な生起における連関の融解― への傾向が備わり、そのせいで多くの無意識的過程は意識にまで届かないのだ・・・。今、私たちが論じている現象を理解する上で、この説明の試みが持つ価値についてはひとまず完全に度外視し、もう一つ別の観点に目を向けてみましょう。どうです、皆さん、ヒステリー性の盲目と暗示が引き起こす盲目とは同一だという見地が当初、強調されましたが、ご覧のとおり、これはまた放棄されているのです。ヒステリー性の人たちが盲目であるのは、自分は目が見えないという自己暗示的な表象のせいではなく、視覚行為の中で無意識的過程と意識的過程とが解離した結果なのです。自分は目が見えないという彼らの表象は、その心的な事態の正当な表現であって、その原因ではないのです。」(岩波版全集224-5頁、下線は引用者)

 疑問点と申しますのは、下線部には『もう一つ別の観点に目を向けてみましょう』とあるので、我々読者は、そこから先では別の観点から述べられることになるのだろうと予想して読み進めることになります。ところが、直後に『どうです、皆さん』『ご覧のとおり』のように、すでに述べられた内容を受けて述べているような表現が続くものですから、文脈を追うことが難しいのです。

 そこで内容をみてみます。論文冒頭からずっと論じられてきたのは、催眠中の暗示であれヒステリーの自己暗示であれ、無意識的に作用する暗示という現象です。次に、心因性視覚障害では無意識的には見えているという事実に言及されます。そして下線を含む段落では、無意識と意識との間には解離があるという考え方に言及されます。この解離という説明は、暗示現象に適用しうるだけでなく、意識化されない視覚内容が存在するという事実にも適用しうることになります。後者の考え方、つまり視覚内容が解離して無意識にとどまるという考え方を採用すれば、ヒステリー性の盲目について、もはや自己暗示の存在を仮定する必要はなくなります。これこそ引用した部分の論旨であり、つまり『もう一つ別の観点』とは、「解離のせいで視覚内容が無意識にとどまる」という考え方のことだと思われます。

 この点が伝わりやすいように、私なりに改訳してみます。

 この新たな疑問に対する答えとして、フランスの研究者たちが提起する説明はこうです。いわく、ヒステリーの素因をもった患者には元から解離 ―心的な生起における連関の融解― への傾向が備わり、そのせいで多くの無意識的過程は意識にまで届かないのだ・・・。今、私たちが論じている現象を理解する上で、この説明の試みが持つ価値についてはひとまず完全に度外視し、もう一つ別の観点に目を向けてみましょう。皆さん、ヒステリー性の盲目と暗示が引き起こす盲目とは同一だという見地が当初、強調されましたが、[新たな観点では]これはまた放棄されることがおわかりいただけるでしょう。[つまり]ヒステリー性の人たちが盲目であるのは、自分は目が見えないという自己暗示的な表象[の解離]のせいではなく、視覚行為の中で無意識的過程と意識的過程とが解離した結果なのです。自分は目が見えないという彼らの表象は、その心的な事態の正当な表現であって、その原因ではないのです。」(代案、下線は主な変更点。[ ]内は補足)

フロイト全集〈11〉1910‐11年―ダ・ヴィンチの想い出 症例「シュレーバー」

高田 珠樹 (翻訳), 甲田 純生 (翻訳), 新宮 一成 (翻訳), 渡辺 哲夫 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (2009/12)

2010年1月17日 (日)

センター試験で

 今朝の新聞に載っていた大学入試センター試験の国語の問題で、いきなりフロイトの話題が出ていたので朝から驚かされました。

 それにしても、大学入試センター試験こそ、民主党に廃止して欲しい制度です。センター試験が無くなって志望大学の試験を一発勝負で受けることになっても、実は誰も困りはしないだろうし、各大学で基本問題を作成するのが難しいなら、そのための共通問題を分配して同日同時刻に試験を行うだけで済むはずで、一次試験として別個に一斉に行う必要はないでしょう。

 といいますのは、私は毎月第3日曜日に行われる読書会に参加しているのですが、毎年1月には、参加者のうち数名がセンター試験の試験官の仕事のため欠席せざるをえなくなるからでして、日本中で同じように研究が滞っているであろうと思うと、無駄な制度はやめた方が良いと思うのです。

 他に私の周囲で目につく範囲で言えば、民主党には、政権を握っているうちに病院機能評価を廃止してほしいし、国立病院は今の半数ぐらいに減らすのが良いと思いますね。

2月24日追記:民主党に廃止して欲しいものと言えば、医療観察法こそ真っ先に挙げるべきものですね。

2010年1月12日 (火)

ラカン『精神病』

 「ヤホーで調べていたら見つけてしまったんです」ではじまるのは漫才のナイツのネタですが、私も久しぶりに『精神病』のセミネールを読んでいたら見つけてしまったんです。

 「・・・主体の中で語り、また主体がその主人でもなければ、類似者でもないこの他者とは、どんな他者でしょうか。それ自体で語るこの他者とはどんな他者でしょうか。すべてはこの点にあります。
 この他者は主体の欲望であると言っているのではありません。というのは、主体の欲望とはリビドーだからです。つまり、忘れてはならないことですが、リビドーとは何よりも主体が語るということの裏にある不合理なもの、つまり並外れた欲望のことだからです。」(岩波版下巻142頁、下線は引用者)

 下線部の原文「Ce n'est pas tout de dire que c'est son desir, car...」は正しくは

「この他者は主体の欲望であると言うだけでは十分ではありません」

です。

 しかしそれにしてもこの直後、リビドーについて、「リビドーとは何よりも主体が語るということの裏にある不合理なもの、つまり並外れた欲望のことだからです」とずばっと言い切れるラカンの冴えに私などはいつもながらほれぼれしてしまいます。

 さて、同じ翻訳の問題はすぐ次の段落にもあります。

「 この他者は、合理的なものと考えられている ――実際時にはそうなのですが―― 共通のディスクールと呼ばれているものと同じラングを語るということを口実にして、この他者はいわば我々の類似の者であると言っているわけではありません。・・・」(岩波版下巻143頁。下線は引用者)

 ここの下線部「Ce n'est pas tout non plus de dire que cet autre est en quelque sorte notre semblable...」は、

「この他者はいわば我々の類似の者であると言うだけではやはり十分ではありません」

ということになります。

精神病〈下〉

ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (1987/09)

 ナイツは『爆笑レッドカーペット』に出るときは「ベテラン風若手漫才」と紹介されていますが、そういえば精神病院には「ベテラン風若手看護師」が時々います。自分よりはるかに年長の患者を「○○ちゃん」「あんた」などと呼び、病院が患者のために購読している新聞を勤務中に患者の前で堂々と広げて読んでたり、夜勤中は空きベッドで寝たり、挙げ句に患者に肩を揉んでもらったりします。

2010年1月 7日 (木)

フロイト全集11より『心的生起の二原理に関する定式』(2)

 岩波版フロイト全集の訳文はかなり素晴らしいのですが、以下の箇所について、どうしても気になるのでここに挙げておきます。

「八 無意識の(抑圧された)過程の性格で中でもとりわけ異様と映り、これに取り組む者としても強い克己心をもってしか慣れることのできない性質は、無意識の過程では現実の検証が全く顧みられず、思考の現実が外の現実と同等視され、欲望がその成就や、あるいは古い快原理の支配からそのまま引き出されるような出来事と同等視されることから来ている。」(岩波版全集11巻266頁、下線は引用者)

 下線部の原文、「dass bei ihnen die Realitaetspruefung nichts gilt, die Denkrealitaet gleichgesetzt wird der aeusseren Wirklichkeit, der Wunsch der Erfuellung, dem Ereignis, wie es sich aus der Herrschaft des alten Lustprinzips ohneweiters ableitet.」のなかの「der Erfuellung」をかつてのフロイト著作集では2格と解釈して、下記のように訳されていました。

「無意識の過程では現実検討がすこしも通用せず、考えのうえでの現実が外の現実とおなじになり、充足をねがう願望がすでに行われた実現とおなじにみられるのであって、古い快感原則の支配のままになっているのである。」(人文書院版フロイト著作集6巻41頁)

 正しくは、「der Erfuellung」は3格で、「dem Ereignis」と同格として訳さなければなりませんが、間違いやすいこの箇所も岩波版は正しく訳しています。ところが、最後の「wie」以下の部分を、岩波版では「dem Ereignis」だけを修飾するように訳しており、関係代名詞の限定用法のようになっている点が私には気になります。

 人文書院版では、「wie」のあとの「es」について、直前の節までで描かれた事態を指していると解して、「wie」以下の節は文章全体に付された付加説明として解釈しています。実際、意味から言っても、そこまでの文で描かれているのは快原理に従って生じてくる事態ですから、人文書院版が正しいように思います。

 ですので、岩波版の下線部を私なりに改訳すると、以下のようになります。

「八 無意識の(抑圧された)過程の性格で中でもとりわけ異様と映り、これに取り組む者としても強い克己心をもってしか慣れることのできない性質は、無意識の過程では現実の検証が全く顧みられず、思考の現実が外の現実と同等視され、欲望がその成就つまり出来事と同等視される -古い快原理の支配からたやすく導かれる通りになっている- ことから来ている。」(代案)

 ただ繰り返し言っておきますが、この論文の訳について人文書院版の方が優れている(と私が考える)点はおそらくこの一箇所のみといってよいぐらいであって、全体的には岩波版のほうがはるかに素晴らしいと思います。

フロイト全集〈11〉1910‐11年―ダ・ヴィンチの想い出 症例「シュレーバー」

高田 珠樹 (翻訳), 甲田 純生 (翻訳), 新宮 一成 (翻訳), 渡辺 哲夫 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (2009/12)

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