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2010年2月

2010年2月24日 (水)

フロイト全集11から『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期の想い出』(3)

 この論文の翻訳について扱う続きです。

「自分が養い育てる乳呑み児に対し母親が注ぐ愛は、後になって成人していく子供に向けられる情動よりも、遙かに深くまで及ぶものである。」(岩波版72頁、下線は引用者)

 「後になって成人していく」って当たり前じゃん、と思いましたが、「後になって」は「向けられる」にかかると読まなければなりません。

 それと、「情動」ですが、原語は「Affektion」なので、「愛情」が正しいと思います。ちなみにフロイトは情動という語は主に不快な情動について用いることが多いと思います。

 というわけで改訳の案は以下のようになります。

「自分が養い育てる乳呑み児に対し母親が注ぐ愛は、成人していく子に対して向けられる後年の愛情よりも、遙かに深くまで及ぶものである。」(代案、下線は変更箇所)

フロイト全集〈11〉1910‐11年―ダ・ヴィンチの想い出 症例「シュレーバー」

高田 珠樹 (翻訳), 甲田 純生 (翻訳), 新宮 一成 (翻訳), 渡辺 哲夫 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (2009/12)

2010年2月14日 (日)

フロイト全集11から『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期の想い出』(2)

 この論文の翻訳についても、気になる箇所はほんの何カ所かだけなのですが、これから少し挙げていきます。

 「(…)埋葬費用についての先の計算書では、母を悼む喪の哀しみが、それとは分からぬまでに歪曲されて表面化し、われわれの前に立ち現れているのである。どうしてこのような歪曲が起こりえたのか、不思議ではあるが、実際これはまた、正常な心的過程の観点からは理解できない。しかし、神経症、特にいわゆる強迫神経症という異常な条件のもとで、同様のことが起こるのをわれわれは知っている。そこでは強烈ではあるが、抑圧によって無意識的となった感情が取るに足らぬ馬鹿げた行為に遷移されて表出してくるのを目の当たりにする。これに対抗する諸力が首尾よく、この抑圧された感情の表出を徹底的に抑えつけたものだから、この感情の強度もごく些細なものと見積もられてしまうに違いあるまい。しかし、この些細な表現行為が現れてくる際の有無を言わさぬ強迫性に垣間見えるのは、意識が認めようとしない、無意識に根差す現実の蠢きの力なのである。母の死に際してレオナルドが残した埋葬費用の計算書は、強迫神経症の症状を思わせるこの共通性からしか説明がつかない。(…)」(岩波版全集58頁、下線は引用者)

 下線部は、「何かと何かとの共通性が、強迫神経症の症状を思わせる」という関係を指しているように読めるのですが、原文に当たってみるとむしろ、「強迫神経症症状とのこのような共通性」というシンプルな表現になっています。

 ところで、この論文62頁には、モナリザについて「当時レオナルドの筆がカンヴァスに再現したとりどりの繊細な美の中で、今日もこの絵にとどめられているのはわずかでしかない。この絵は、それが描かれていたとき、芸術になしうる最高のものと見なされた。」という、いわばこの絵の現状の美しさについて否定的な一文があって驚いたのですが、美術の保管などに関する専門的な目でみればこのように言えるのでしょうか。などと考えているところへ、ちょうどいま私が習いに行っているフランス語講座のテキストにモナリザの保存に関するコラムが載っていて、そもそも昔はモナリザはあんなに黄色くなかったが保存のためニス塗り(vernissage)を繰り返さざるを得ないので黄色く変わってきた、といった内容があり、無学な私は、名画は破損を避ける以上に様々な手入れを受けているという事実をそこで初めて知ったのでした。

フロイト全集〈11〉1910‐11年―ダ・ヴィンチの想い出 症例「シュレーバー」

高田 珠樹 (翻訳), 甲田 純生 (翻訳), 新宮 一成 (翻訳), 渡辺 哲夫 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (2009/12)

2010年2月 8日 (月)

フロイト全集11から『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期の想い出』

 レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期の想い出を扱ったこの論文で、フロイトは、「ハゲワシ」のイメージがダヴィンチの素質形成において多面的・重層的なキーとなっていると論じているのですが、実はフロイトが依拠した独語訳で「ハゲワシ」とされている鳥はダヴィンチの書いたイタリア語原文で「トビ」であったことがわかっています。それでもこの論文の本質的な価値はさほど失われないと思うのですが、やはり私がこれを読むときには、どうしても取捨選択しながら話半分に読み飛ばしてしまうような読み方に陥りがちで、なかなか困ったものです。

 翻訳については、細かいところですがまず次の箇所が気になりました。

「 レオナルドにおいて知識慾がそうであるように、ひとりの人物の性格像の中にただひとつの欲動が過度に強く形成されているのが見いだされる場合、われわれはそれを説明するのに、何か特異な資質といったことを引き合いに出す。おそらくこの資質にも器質的な条件があると思われるが、それについて詳しいことは大概のところまだ何ひとつ分かっていない。しかしながら、神経症者についてのわれわれの精神分析的研究によって、そこから二つの予測が立てられるように思われ、今後それらが個々の事例で確証されていくのを待ちたい。われわれの見るところでは、そういった過度に強い欲動は本人の幼年期の最初期の段階からすでに活動していて、子供の生活の中の様々な印象によってその欲動の優位性が固定されていった。(…)
 人々の日々の生活を観察すると、大概の人は自分の様々の性的欲動力の実にかなりの部分を首尾よく自らの職業活動のほうへ誘導していることが分かる。性欲動はその特性からしてこういった貢献をするのにうってつけである。昇華の能力を備えている、つまり身近な目標を性的でない別の目標、ことによると性的なものよりも高い価値があるとされるような目標と交換することができるからだ。もしある人物の幼年期の歴史、すなわち心の発展の歴史において、過度に強い欲動が幼年期に性的関心に従属していたことが認められるなら、この過程の存在が証明されたものと考えられる。また、成年期になってその性生活が著しく萎縮し、あたかも性活動の一部が過度に強い欲動の活動によって代替されているかのような観を呈するなら、それによってあらためてこの過程の存在が裏付けられると見なしうる。
 以上のような予測を過度に強力な研究欲動に適用するのには、特別な困難が伴うかに見える。(…)」(岩波版23-24頁。下線は引用者)

 下線で強調した「過度に強い」という語は、原文でははじめの二つが「ueberstark」、あとは「uebermaechtig」という具合に言葉が使い分けられています。辞書的には、「ueberstark」は確かに「過度に強い」という意味になりますが、「uebermaechtig」の方は、辞書を引くと「優勢な、優位の」といった意味が出てきます。すなわち、上に引用した部分で、ひとつめの段落では欲動の強力さが話題にされていたのに対して、二段落目からは、他の欲動に比して優位な欲動が話題にされていると考えられます(結局同じことかもしれませんが)。ついでに言いますと、二段落目の最初の下線部から続く部分、「過度に強い欲動が幼年期に性的関心に従属していたことが認められるなら」で、従属していた云々は原文では「im Dienste...stehen」なので、辞書にある「…のために働いている」という語釈を使って、「優勢な欲動が幼年期に性的関心のために働いていたことが認められるなら」とした方が平易と思われます。単に、好奇心や視覚欲動が性に向かうことを指すでしょう。

 岩波版で28頁3行目の「過度に強力な」も「uebermaechtig」なので、「優勢な」が正しいと思います。

フロイト全集〈11〉1910‐11年―ダ・ヴィンチの想い出 症例「シュレーバー」

高田 珠樹 (翻訳), 甲田 純生 (翻訳), 新宮 一成 (翻訳), 渡辺 哲夫 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (2009/12)

 これを読んで、自分が子供のころ恐竜や昆虫に興味を持っていたことを思い出し、生物としての自分の発生の問題に対する興味につながるのだから結局はフロイトの言う性探求をしていたのだなあと改めて思った次第です。

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