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2010年3月

2010年3月29日 (月)

フロイト全集11から『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』

 これは統合失調症の患者(フランスのラカニアンに言わせればパラノイアの患者)の中でも最もよく論じられているうちの一人、シュレーバー症例についての論文です。

 

 この論文の原タイトルには、「Paranoia」の後ろに括弧を付けて「Dementia paranoides」と但し書きが付されていますが、岩波版の邦訳タイトルからは省略されています。

 

 さて、この語「Dementia paranoides」は岩波版の本文で最初の頁(101頁)にも登場して、「妄想性痴呆」と訳されています。この訳は医学用語としても定着しているので間違いとか言うわけではないのですが、注意しておきたいのは、「パラノイド」という語は、文字通り訳せば「類パラノイア」となることからもわかるように、「パラノイアと類似しているが本当の診断は異なる」という含意があると言うことです。

 

 フロイトからは離れますが、フランスでは現在でも「パラノイド」という語はほとんど妄想型統合失調症についてのみ用いられる語だと言って良いぐらいでして、それを知らないと、例えば次のような箇所が理解困難になってしまいます(なお、やや古い本なので統合失調症は旧称の精神分裂病と訳されています)。

「パラノイア性精神病と妄想型精神病および精神分裂病の精神解離との臨床的・病因的関連」(ラカン『人格との関係からみたパラノイア性精神病』朝日出版社106頁、下線は引用者)

 

「ブロイラーの精神分裂病はわれわれの症例により正確な臨床的枠組みを提供してくれるだろうか? 周知のように、それはわれわれがすでに排除したパラフレニーや妄想性精神病などいくつかの種類の精神病を覆っているが、それらをはるかにはみ出ている。」(同書215頁、下線は引用者)

 訳文を読む限り、引用文のひとつ目では「パラノイア性精神病」と「妄想型精神病」という、重なるもののように思えるふたつの概念の相違が不明瞭ですし、ふたつ目では「パラフレニー」と「妄想性精神病」の両概念の相違がわかりづらく感じられます。じつは両者とも、下線部は「パラノイド」であり、訳としてはこの語をカタカナで残すか、あるいは「妄想型分裂病性の」とでも訳すしかないと思われます。なお、その場合、ひとつ目の訳文内にある「精神分裂病」は、「非妄想型の精神分裂病」という意味に解すべきということになります。この当時は精神分裂病を陽性症状で診断することはありえなかったので、単に「精神分裂病」といえば破瓜・解体型のことだったわけですから当然のことです。

 

 さらに「dissociation」という語もフランスではほとんど統合失調症について用いられる語でして、「association連合」が不完全な状態、つまり日本の普通の精神医学用語では「連合弛緩」(または感情と思考内容の分裂)を指します。ところがこの語はふつう英語論文を訳す際などには「解離」と訳されているので、ひとつめの引用文内でも「解離」とされているのですが、ここは「連合弛緩」と読み替えないと理解困難と思います。

 

 さて、フロイトのシュレーバー論文に戻りますと、私が読む限り、この論文でのフロイトも「パラノイド」の語はほぼ妄想型統合失調症を念頭に置いて用いているように思います。ところがこの語は岩波版では場所によって「妄想性」とか「パラノイア性」とも訳されてしまっているので、そのへんの相違についてフロイトがどう考えているか、われわれ読者が推測する際の手がかりが失われているきらいがあります。例えば次のような箇所です。

「シュレーバーの妄想をここまで吟味してくるならば、このような妄想性疾患こそ長年探し求められてきた「反証症例」、すなわち、性欲が極めてわずかしか関与していない「症例」なのかもしれないという懸念は、たちどころに打ち消される。」(岩波版126頁、下線は引用者)

 

「パラノイア性諸症状でもって発病した症例もやはり痴呆に至りうること、妄想性諸事象と統合失調症性諸事象がさまざまのかたちで相互に結びつき合うこと、パラノイア性痴呆という呼称がふさわしいシュレーバーのような病像が現れるが、欲望空想や幻覚の出現によってパラフレニー的と見なされたり、誘因、投射機制そして転帰の特性に基づいてパラノイア的な性格も認められたりすること、である。」(岩波版182頁、下線は引用者)

 このふたつの引用箇所で、下線部に用いられているのは全て「パラノイド」の語です。フロイトが診断をどのように考えているのか理解することはなかなか難しいのですが、それをわれわれが考察する際の材料として、やはり訳文にも原文の相違が残っている方が好ましいと私は思います。

 

 人文書院版では「空想」と「妄想」の訳し分けが不十分でしたが、岩波版はしっかりと訳し分けてくれているので、パラフレニーでは前者が主症状となっている点が明確に伝わっています。この点では人文書院版よりもはるかに注意が行き届いていますし、誤訳もなく、読者に理解の手がかりをしっかり残してくれている訳と思いますけれども。

 

フロイト全集〈11〉1910‐11年―ダ・ヴィンチの想い出 症例「シュレーバー」

 

高田 珠樹 (翻訳), 甲田 純生 (翻訳), 新宮 一成 (翻訳), 渡辺 哲夫 (翻訳)

 

出版社: 岩波書店 (2009/12)

2010年3月 9日 (火)

フロイト全集11から『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期の想い出』(4)

 さてこの論文で気になる箇所も最後です。

「 本人と親たちとの関係に関わる偶然の事情が、ある人間の運命に決定的な影響を及ぼすと見なし、レオナルドの場合であれば、彼の運命は、例えば私生児として生まれ、最初の継母ドンナ・アルビエラが子供に恵まれなかったといった事実に左右された、と考える考察の結論に気分を害してはならないのか。これに気分を害する権利は誰にもないと私は思う。もし、偶然が我々の運命を決定するのにふさわしくないと考えるのであれば、それは、太陽は動かないと書き留めたときのレオナルド自身がその克服に先鞭をつけた、あの敬虔な世界観の中へ後退するだけのことである。われわれが最も無力である人生の一時期に、義を司る神と善意ある摂理が、その種の影響が及ぶことからわれわれを守ってくれないというのは、われわれにとってもちろん不愉快ではある。ただその際、われわれは、自分たちの人生における一切が、精子と卵子の遭遇によるわれわれの発生以来、本来、偶然であることをつい忘れがちである。偶然とはいえ、この遭遇ゆえに自然の法則性と必然性もそこにそれなりに関与している。単にわれわれの欲望や錯覚が介入する余地などないのだ。体質の「必然性」と幼年期の「偶然性」とでわれわれの人生が決定されると見なし、決定の要因をこの両者で分配する上で、それぞれの割合をどの程度とするかについては、個々の点でまだ不確かなところもあろうが、総じて、ほかならぬこの幼児期の最初の数年間が持っている重要性についてはもはや疑いを容れない。(…)」(岩波版全集96頁、下線は引用者)

 上に挙げた箇所で、下線内の「そこに」が指すものと言えば「人生」ぐらいしか考えられませんが、「この遭遇ゆえに」の意味が良くわかりません。前後の文とのつながりも悪い気がします。

 で、原文に当たってみますと、訳文内の「そこに」に当たる語はありませんし、訳文では「自然の法則性と必然性」が主語になっていますけれども、原文での主語は「偶然」です。

 私なりに次のように訳し直してみます。

「 本人と親たちとの布置における偶然の事情が、ある人間の運命に決定的な影響を及ぼすと見なし、レオナルドの場合であれば、彼の運命は、例えば私生児として生まれ、最初の継母ドンナ・アルビエラが子供に恵まれなかったといった事実に左右された、と考える考察の結論に気分を害してはならないのか。これに気分を害する権利は誰にもないと私は思う。もし、偶然が我々の運命を決定するのにふさわしくないと考えるのであれば、それは、太陽は動かないと書き留めたときのレオナルド自身がその克服に先鞭をつけた、あの敬虔な世界観の中へ後退するだけのことである。われわれの極めて無力な生涯において、義を司る神と善意ある摂理が、その種の影響が及ぶことからわれわれをもっと守ってくれないというのは、われわれにとってもちろん不愉快ではある。ただその際、われわれは、自分たちのにおける一切が、精子と卵子の遭遇によるわれわれの発生以来、本来、偶然であることをつい忘れがちである。この偶然は、自然の法則性と必然性にも関与しているのであって、単にわれわれの欲望と錯覚には関わりがないだけなのだ。体質の「必然性」と幼年期の「偶然性」とでわれわれのが決定されると見なし、決定の要因をこの両者で分配する上で、それぞれの割合をどの程度とするかについては、個々の点でまだ不確かなところもあろうが、総じて、ほかならぬこの幼児期の最初の数年間が持っている重要性についてはもはや疑いを容れない。(…)」(代案、下線は変更箇所)

 すでに述べた以外にもいくつか改変しました。

 ひとつ目の下線部「関係に関わる→布置における」は、原語「Elternkonstellation」を生かしました。

 ふたつ目は「最も無力な人生の一時期に→極めて無力な生涯において」ですが、原文にある「Lebenszeit」をいくつもの辞書で引いても「生涯」という意味しか出てこないので、(岩波版の訳で正しい可能性もあり得ると思いつつも)一応変更してみました。でも意味的には私の案の方が良いような気もします。

 みっつ目は原文の「besser」が抜けていたので補ってみました。ひょっとすると単にニュアンスを添えているだけの用法でもあるのかもしれませんが、辞書では探せませんでした。

 そのあとの「生」は、原語は「Leben」ですが、その次の長い下線部の文意との整合性からみても単に「生」で良いだろうと考えました。

フロイト全集〈11〉1910‐11年―ダ・ヴィンチの想い出 症例「シュレーバー」

高田 珠樹 (翻訳), 甲田 純生 (翻訳), 新宮 一成 (翻訳), 渡辺 哲夫 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (2009/12)

 ところでフロイトはたとえば『精神分析入門』で、言い間違いや夢を単なる偶然の産物と考える立場を厳しく退けて、精神とくに無意識の産物には偶然はないという考え方を強調しています。そうした箇所と、上に引用したダ・ヴィンチに関する論とを見比べるとなかなか興味深く感じます。人間の記憶装置に偶然記載されたものが、後の人生を法則的必然的に決定しているので、後年の性格形成や無意識の産物に偶然はない、とまとめると、上の長い下線部の意味も分かりやすくなりませんでしょうか。

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