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2010年4月14日 (水)

ラカン『精神病』(2)

 ここでかつて、「病的体験」という語は精神医学の事典や教科書の類で語義が探せないことなどに触れながら、「病的体験を核として、それを説明するために妄想が構築される」という考え方を紹介したことがありますが、これに関連した話題について下のブログでも話題にされています。

http://d.hatena.ne.jp/lacanian/

 私自身、ラカンがセミネール『精神病』などで、「自分が使っている基礎的現象という概念はクレランボーから借りている」という趣旨のことを言っているのをそのまま信じ込んでいたので、じつはそうではないという上の記事に興味を引かれましたし、文献への詳細な参照にも刺激を受けて、病院にあったヤスパースの原書も開いてみました。確かに、「基礎的現象」の語は、ヤスパースの『原論』にも『総論』にも、妄追想の文脈に一箇所登場してます。『総論』では訳は「元素的」となってまして、巻末で「元素的」を引くと探せます。

 ラカンの『精神病』のセミネールについて、さいきん気づいたことをついでに付け加えておきます。

『私が説明してきたシェーマにおいては、この「je」と「tu」はどこに在るのでしょうか。皆さんはおそらく「tu」はあそこ、あの大文字のAの水準にあるとお考えになるのではないですか。全く違うのです。次回はその点から始めようと思います。つまり、言葉として言われた「tu」は大文字のAと呼んできたあの極と重なるものでは全くない、という点から始めようと思います。』(ラカン『精神病』下巻 岩波書店194頁、下線は引用者)

『パロールのシェーマとして以前あげた例のシェーマに、先程の定式、「Tu es celui qui me suivras partout.」をあてはめてみれば良いでしょう。当然のことですが、SとAとは常に相互的なものです。そして、われわれが受けとるのがわれわれを創設する他者のメッセージである限りにおいて、大文字のAは「tu」の水準に、小文字のa'は「qui me」の水準に、大文字のSは「suivras」の水準にあります。』(ラカン『精神病』下巻 岩波書店217頁、下線は引用者)

 この二箇所、とくに下線を付した部分を読み比べると、表現は微妙に違うものの、シェーマ(もちろんここでは『シェーマL』のことです)における「A」と、二人称代名詞「tu」とは重なり合うものかどうか、正反対の内容になっています。スイユ社から刊行されているセミネール講義録の原書に当たっても全く同じように書かれていたのですが、ラカン派精神分析団体アソシアシオン・ラカニエンヌから出版されている講義録をみると、これはスイユ社版に問題がありそうで、上の二箇所では前者のほうが違っています。つまり「tu」とAは重なり合うと考えて良いようです。

 岩波版の訳を読んでいてもこういった原書の問題箇所に気づくことができるというのは、訳がかなり忠実になされているからといってよいのではないでしょうか(たまには良いところも取り上げないと)。

精神病〈下〉 

ジャック ラカン (著), ジャック・アラン ミレール (編集), 小出 浩之 (翻訳), 川津 芳照 (翻訳), 鈴木 国文 (翻訳), 笠原 嘉 (翻訳)

出版社: 岩波書店 (1987/09)

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