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2010年7月

2010年7月17日 (土)

テレンバッハの「メランコリー親和型性格」について

 うつ病になりやすい人の病前性格として、勤勉、几帳面、真面目で、他者配慮が行き届き、円満な人間関係を指向するという、「メランコリー親和型性格」が多いという論が一時期国内で広く受け入れられていました。当時、この性格は、社会人としても主婦としても非常に好ましいと周囲から高く評価される人物にみられる特徴とされ、うつ病に関する啓蒙書などでも特に強調して紹介されて、うつ病患者への偏見を取り払って精神科受診のしきいを下げるためにも大きな役割を演じました。じっさい、精神科を受診するうつ病患者にはかつてはこういう性格の人が多かったらしいのですが、平成の時代にはすでにこういう性格の患者はめっきり減っていたようで、私などはほとんど診たことがありません。

 かつての精神科医は、こういう性格ではない人のうつ状態を「抑うつ神経症」など別の名称で呼ぼうとする傾向がありましたから、当時「うつ病」と診断をつけられた人たちの中にこの種の性格の人が多くなるのは当然ですし、そもそも高度経済成長期までは一般人口のなかにもこの種の性格の人が今より多かったようです。ですので、当時、うつ病と診断された人に多くみられる性格であったのはある意味当然です。でも「こういう性格の人がうつ病になりやすい」とまでいわれたのは言い過ぎであったろうと思われます。

 さて、このメランコリー親和型性格という類型を名づけ提唱したのは、ドイツの精神科医テレンバッハですが、その著書『メランコリー』(みすず書房)を読むと、確かに上に書いたような性格が記載され、社会的に好ましいものと書かれているのですが、臨床例として紹介されている患者群の日常生活の描写を読むと病前からかなり変な人が多く、よく言えば几帳面だけど細かいことにこだわりすぎて周囲に煙たがられており、そのくせ几帳面さの他には誉めどころのない人たち、帳簿を付けたりする仕事には重宝されるが決してバランスの取れた社会人にはなり得ないような人たちばかりだということを、私は以前から疑問に思っていました。

 病院に原書があったので最近邦訳と比べながら読んでいるのですが、このギャップの原因が少し分かってきたような気がします。この本の翻訳は、訳語の統一性に対して比較的無頓着で、「几帳面」とか「負い目」などといったこの本のキーワード的な概念さえ、特定の原語と1対1で対応しているわけではありません。これについてはまあそういう方針もあり得るかなとは思うのですが、問題は、メランコリー患者の病前の性格を形容する際には、常に好ましいニュアンスへ好ましいニュアンスへと邦訳されており、普通人の枠内から決して出ないような人柄として描かれているからです。その好例は、この性格について形容する際に時々用いられている「penibel」という語にみることができます。この語の辞書的な意味は次のようです。

penibel(形) 1(peinlich genau)(過度に)きちょうめんな、綿密な:in seiner Arbeit 〈mit seiner Kleidung〉 ~ sein(いやになるほど)仕事〈服装〉がきちんとしている 2《方》やっかいな、具合の悪い、困った」(小学館独和大辞典)

penibel [lat. -fr.] a. ①(unangenehm, muehsam)不快な、やっかいな、めんどうな、煩わしい; penible Lage, 苦境。②(peinlich)ひどく綿密(きちょうめん)な; sie ist ungemein ~, 彼女は恐ろしくきちょうめんだ。」(博友社版大独和辞典)

penibel a ①具合の悪い、困る、恥ずかしい(jm ある人にとって)。②きちょうめんすぎる、口やかましい。→peinlich; peinlich genau.」(新現代独和辞典・三修社)

すなわちこれらの辞書の記載を読む限り、この語は、過剰に几帳面な状態に対してのややネガティブな評価を示すために用いられるように見受けられます。テレンバッハの『メランコリー』では、メランコリー患者の病前のあり方を表現するためにこの語が何度も使われていて、病前から過剰なところを持った人であったことを示唆しているのですが、邦訳を読むと、この語は単に「几帳面」とか「綿密」と訳されているだけであって、負のニュアンスを全く伝えていないのです。これ以外の語も然りで、間違いとまではいえないですが、常に少しずつ好ましい表現が選ばれる傾向があります。

 他方、原著者がこの性格のポジティブな側面について述べている箇所の邦訳では、常にその好ましさを一段と強調した表現が選ばれています。メランコリー型性格の特徴を「正の標識」と言われている箇所が、「正の好ましい標識」と訳される、といった具合です。(原書で用いられた「正の標識」という表現は、「平均人と比べ、何らかの能力が欠損しているのではなくて、何らかの特徴が付け加わった状態」というだけの意味のように思えます)

 だいたい、「メランコリー親和型性格」という表現からして、もとのドイツ語に脚色が加わっています。原語を直訳すれば単に「メランコリー型(性格)」でして、実際、テレンバッハが紹介している症例の中には、普段のあり方もメランコリーに片足を突っ込んでいる人が、かなり含まれるように思われます。

 この性格の人はドイツではさほど好意的には評価されないらしく、その理由は両国の文化的な違いにあるのではないかと論じている我が国の大家もおられますが、上のような点に気づいてみると、文化的問題などではなく単に翻訳の問題のように思えてきます。つまり高度成長期の日本のうつ病患者に多かった好ましい性格は、テレンバッハのいうメランコリー型性格と(ある程度の重なりはあるでしょうが)同じものではなかったのだろうということです。まあ、こういう題材を捉えて文化論に触れてみたりすることも、我が国の精神医学のセレブリティたち(になる)には必要なことではあったんでしょうけれども。

H. テレンバッハ(著), 木村 敏 (翻訳)

出版社: みすず書房; 改訂増補版 (1985/12/5)

 いまちょうどこの本は限定復刊中ですが、復刊期間が終わるとアマゾンなどでの古書の値段は定価よりもかなり高く跳ね上がりますので、未入手の方はこの機会に是非購入を検討ください。定価もかなり高いですけど。

2010年7月14日 (水)

フロイト全集19から『制止、症状、不安』第1章

 前回は、フロイト全集19巻の冒頭に収録された論文「否定」を扱いましたので、同じ巻の論文「制止、症状、不安」を見ていくことにします。

 この論文の冒頭は、制止と症状という両概念の相違についての話題から始まりますが、第2段落の終わりに、「これらのこと全ては、実際重要なことではなく、私たちが出発点とした問題設定はほとんど実りあるものではないことが明らかとなる」とありまして、フロイト自らが冒頭2段落の問題設定を切って捨てているように見受けられます。ところが、フロイトはこのあとも制止や症状についてずっと検討していきますし、両概念の相違についても言及されますので、いったいこの問題設定のどの部分を「ほとんど実りない」といっているのかが今ひとつ良くわかりません。これはかつての人文書院の訳でも今回の訳でも、原書を読んでも合点がいかないままです。(両概念の用語習慣上の相違から出発することには意味がない、と解釈したいのですが、フロイトがはっきりとそのような書き方をしていないので困るのです)

 そのあと3段落目以降は自我機能の制止について記述されています。その中で多少翻訳上気になるところが散見されます。まずは性機能の各段階での制止について列挙している箇所からです。

「(・・・)四、安全対策による性機能の予防。五、不安が生じることによる性機能の中断、これは不安の発生を抑えることができない場合に起こる現象である。」(岩波版13頁、下線は引用者)

 下線部は正しくは、「性機能の開始をもはや」です。意味的にも、不安と制止の関係について重要な箇所です。

 次は歩行機能についての箇所です。

「わけても特徴的なのは、特定の条件が加わった際に増強する歩行移動の困難である。この現象が起こらない場合には不安が生じることになる(恐怖症)。」(岩波版13頁)

 これも意味的に明らかに変でしょう。代案はこうです。

「わけても特徴的なのは、特定の条件を加えることによる、歩行移動の阻害である。つまり、その条件が満たされない場合には不安が生じることによる阻害である(恐怖症)。」(代案)

 次に移ります。

「より全般に及ぶ自我の制止では、以上とは別の単純な機制が働いている。自我が、例えば喪のような感情の極めて強い抑え込みや、持続的に立ちのぼる性的空想を抑えつける強制力といった、特に重要な心的課題を負わされている場合、自我が自由にできるエネルギーは極めて乏しくなるので、その消費を多くの場所で同時に制限しなければならなくなる。」(岩波版15頁、下線は引用者)

 下線部は正しくは、「喪や、情動の極めて強い抑え込みや、」です。

 最後は最終段落からです。

「以上から、制止に関し、次のように締めくくることができる。制止は、自我機能の制限であり、それには、エネルギーが欠乏してしまうことへの用心によるものもあれば、エネルギー欠乏の結果によるものもある。」(岩波版15頁、下線は引用者)

 下線部は省くべきです。意味的にも、数頁前から読み返してみれば明らかでしょう。

 岩波版には珍しく、この論文の訳は、ちょっと不安を感じさせる立ち上がりのように思います。

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻)

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

2010年7月 5日 (月)

フロイト全集19から『否定』

 フロイト全集19巻がつい先ごろ発売され、手元に届きましたが、そこに含まれている論文『否定』は、たいへん短いながらも難解とされ、かつ最重要論文の一つでもあり、すぐに独文と照らし合わせながら読み始めました。

 翻訳上、決定的なミスといえるのは次の一箇所だけでしょう。

『少なからざる精神病者に見られる全面的な否定欲や拒絶症は、おそらくリビドー成分の撤退による欲動の混合の兆候と理解すべきだろう。』(岩波版9頁)

 「混合」と訳されている語は、原語では『Entmischung』なので、『混合を脱すること』の意味です。ですから一語で訳したければ『分離抽出』とか『純化』と訳すべきと思います。意味的にも、普段は死の欲動は必ず生の(つまりリビドー的)欲動と混合して働いているわけですから、精神病の際に「リビドー成分の撤退」によって死の欲動が純粋に現れてくるという事態を説明している箇所です。

 あとはたいしたところはないのですが、気になったところを頭から順に取り上げてみます。

『その「否」は抑圧のしるしで、《ドイツ製》という表現に比較されるような、自らの起源を証明する言葉なのである。』(岩波版4頁)

 「ドイツ製」は、注を見れば「made in germany」という英語であることが分かりますけれど、ここでは、英語であるということが大事と思います。つまり“原産地がドイツであるという事実を、ドイツ以外の土地で通用している言語で表記する”ということが重要です。なぜなら、ここでフロイトがこの例を出しているのは、否定では、“無意識に由来している内容が、意識の中で通用している表現法で表されている”といいたいからだと思われるからです。なので、日本語訳の中でも、この語は日本語以外の言語で表現されているべきと思います。

 次ですが、私は以前、このブログで『心的生起の二原理に関する定式』に対してコメントして、『訳語として、従来「現実検討」とか「現実吟味」とか訳されていた語「Realitaetspruefung」に「現実性の検証」を当てている点も素晴らしい。これは外的情報(あるいはその記憶)と照合する作用だからです。』と書きましたが、今回の論文『否定』ではかつての定訳『現実吟味』になっているのはちょっと残念です。で、その『現実吟味』の働きについて述べられている部分です。

『現実吟味の最初の、つまり直近の目的は、表象されたものに対応する対象を現実の知覚の中に発見することではなく、それを再発見すること、すなわちそれがまだ存在しているということを確認することなのである。主観的なものと客観的なものとを互いに別々のものとすることができるためには、さらに思考力の中の別の能力が必要となる。表象の中で知覚が再生産される時、いつも元の知覚が正確に反復されるとは限らない。それは省略によって変更されたり、さまざまな要素が融合して改変される可能性がある。そこで現実吟味が、こうしたさまざまな歪曲がどの程度まで及んでいるのか監視しなければならないのである。』(岩波版6頁、下線は引用者)

 下線部の言い方だと、ここも現実を吟味するために必要な働きであるかのようですが、そうではなくて、ここは、『現実吟味』の働きを要請する事情の説明であり、いわば前段階です。下線部については以下のようにしたほうが良いのではないかと思います。

『主観的なものと客観的なものとが互いに別々のものとなるためには、さらに思考力の中の別の能力も働いている。』(代案)

 最後です。

『自我は定期的に少量の備給量を知覚系に送り、それによって外的刺激を試しに味見し、そのように手探り的に外部に侵入しては、再び引き返すのである。』(岩波版7頁、下線は引用者)

 下線部の原語は『Vorstoss進撃・進出』で『外部』という語を含みませんし、文脈も単に自分の知覚器官に注意を向けることですから、岩波版の『外部に侵入』はちょっと言い過ぎでしょう。

 という具合に見てきましたが、実はこの論文は、『科学的心理学草稿』(岩波版では『心理学草案』という題になる予定)で『判断』について書かれていたことを下敷きにして読まないと、ほとんど理解不能ではないかと思います。すなわち、フロイトは『判断』について、知覚や表象の際に生じるひとかたまりのイメージを主語と述語に分ける作用とか、あるいは、そのようなひとかたまりのイメージをまとめて主語として、別の述語を付ける作用(これに実在の判断や否定も含まれるようです)などのように、心的装置内の表象を分割したり付加したりする作用を指しているという点を念頭において読むべきと思います。

 まあいずれにせよ今回のような良い訳文で一気に読むと、たいへん気分よく理解が進んでうれしい限りです。

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻)

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

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