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2010年8月

2010年8月21日 (土)

芥川賞の『乙女の密告』

 私は先ごろ、今年の芥川賞受賞作が、『アンネの日記』のドイツ語原文と格闘する女子大生がある種の謎解きに至るというストーリーの、いわば語学ものであることを新聞で知り、自分も日々自分の理解力を超えた外国語テキストと格闘し悩まされ続けているせいもあって非常に興味をそそられ、文藝春秋を買って読んでみました。ちなみに私がその年の芥川賞受賞作を読んでみることなどこれが初めてのことです。結果として非常に楽しめました。個性的な登場人物や突飛なエピソードがおもしろく、またそこに『アンネ日記』の引用がテンポ良く引用されているなか、アンネ・フランクにまつわる謎への関心がいつの間にか読者にも自然に呼び起こされます。その謎がドイツ語原文の読解に関わるものでなくドイツ語が全然出てこないのは私には肩すかしでしたが。

 私はある種のテキスト(読み物だけでなく、患者さんが話した内容とか自分の夢なども含みます)の謎と本気で長いこと格闘しているうちに、過去に自分が経験して未消化のままであった状況や出来事と次第に重なり合ってきて、ついには両者の共通の解であるような解釈を思いついたことがありまして、もはやそのテキストにはそれ以外の読み方がありえないような気さえしてしまいます。ですので、私には、この『乙女の密告』の主人公が結末においてまさにそういう状態に至ったことが非常によくわかります。ただ、主人公が到達した解そのものについては、私には明瞭に読み取れるというわけではなく -というか主人公の解を文字通りに読めば、教授を深くうなずかせるほど優れた考え方とは思えないので、別様の読みも可能なのではないかと考えてしまうので- むしろ読み返す度に次々に謎を解く鍵に見えてくる箇所が増えていってわからなくなってしまいます。私はいまも、アンネが「今、私がいちばん望むことは、戦争が終わったらオランダ人になることです」と書いたという事実について、作中のバッハマン教授が示唆したいくつかのキーポイントを繋ぎながら、教授を深くうなずかせるような解を探して結末前の主人公と一緒に考えさせられたままです。

乙女の密告

2010年8月14日 (土)

フロイト全集19から『制止、症状、不安』第2章

 時間がなくてしばらく放ってあったのですが、第2章を読んでみましたので、翻訳で気になったところなどを取り上げてみようと思います。

「すなわち、エスにおいて意図されていた欲動の蠢きは、抑圧の結果、意図通りの経過をたどることが全くできず、自我は首尾よくその経過を阻止するか、あるいはその方向を逸らせる、と。」(岩波版16頁)

 『欲動の蠢き』という概念は、エスの中にすでに存在して作用する、いわば出発点となる状態を指しますから、『エスにおいて意図されていた欲動の蠢き』というのは変です。原文を見ると『Erregungsablauf』ですから、次のようになります。

「すなわち、エスにおいて意図されていた興奮経過は、抑圧の結果、そもそも成立せず、自我は首尾よくその経過を阻止するか、あるいはその方向を逸らせる、と。」(代案)

 次です。

「外部からの危険の際、有機体は逃避を試み、まず危険なものの知覚から備給を撤収する。その後有機体は、より有効な方法は、その知覚が不可能になるような筋肉活動を行うこと、すなわち危険の作用域から撤退することである、と認識する。」(岩波版17頁)

 ここには訳出されていない挿入句がありまして、直訳して補足するならば次のようになります。

「外部からの危険の際、有機体は逃避を試み、まず危険なものの知覚から備給を撤収する。その後有機体は、より有効な方法は、危険の知覚が -知覚を拒んだりしなくても- そもそも不可能になるような筋肉活動を行うこと、すなわち危険の作用域から撤退することである、と認識する。」(代案。下線は変更箇所)

 『危険から目を背けたり危険を否認したりしなくても』ということなのでしょう。まあ、岩波版ではあえて訳出しなかったのかもしれません。

 次は三つめです。

「代替過程は運動性の放散から可能な限り遠ざけられるのであり、仮にこれが上手くゆかない場合でも、自分自身の身体を変容させることで消耗され、外界へと影響を及ぼすことは許されない。」(岩波版20頁、下線は引用者)

下線部『womoeglich』は辞書によれば『可能ならば』です。

 次へ移ります。

「多くの声は、エスに対する自我の弱さ、私たちの内なる魔的なものに対する合理的なものの弱さを切々と強調し、この言葉を精神分析的「世界観」の支柱としようと手をこまねいている。」(岩波版20頁、下線は引用者)

原文は『sich anschicken』ですから、訳は単に『支柱としようとしている』でよいと思います。訳者は『手をこまねいている』という日本語の慣用句の意味を取り違えてはいないでしょうか。

 最後です。

「私たちは、哲学者が彼らの抜きん出て乏しい立場から私たちを見下すその軽蔑を、恭しく引き受けよう。」(岩波版21頁)

ここはフロイトが嫌味を込めて述べている箇所でなかなか難しいと思います。『彼らの抜きん出て乏しい立場から』は原文『vom Standpunkt ihrer hoeheren Beduerftigkeit』で、この『Beduerftigkeit』には『困窮・窮乏・貧困』のほか『必要・欠乏』もありますが、私は『彼らの(=彼らに言わせれば)高次の必要性の観点から』と取りました。辞書で『hoerer』を確認すると、『より高い・上位の』『更に強大な・すぐれた』といった意味はありますが、『甚だしい』という意味はなさそうに思いましたし、もし仮に『彼らの甚だしく窮乏した立場から』という意味だとすればどうして私たちが見下されなければならないかよくわからないからです。

 この章では、『原抑圧』が複数形だというところがおもしろいと思いました。つまり、前もって抑圧されたものからの引力によらずそれ自体で抑圧を受けるものが複数あるということになります。原抑圧と対比される概念『踏襲性抑圧』の訳語については4つ前の記事http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-6ef7.htmlも参照いただければ幸いです。

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻)

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

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