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2010年10月31日 (日)

フロイト全集14から『喪とメランコリー』

 岩波書店から刊行中のフロイト全集の最新刊、第14巻には、一般的な精神科臨床にも示唆の多い論文、『喪とメランコリー』が含まれていますので、まずはこれを読んでみました。

 この論文で最も有名な箇所のひとつは、「対象の影が自我に落ちて、自我はいまや、あたかも一つの対象のように、見捨てられた対象のように、ある特別な審級から判定することができるものとなった」(岩波版281頁)というくだりでしょう。この事情については、もう少し前の箇所で、「自己非難は愛情対象への非難がその対象から離れて患者本人[注:『自らの自我』とも翻訳可能です]へと転換されたものだという洞察を得ることによって、わたしたちはメランコリーの病像を解明を手に入れることになる」(岩波版280頁)とも述べられています。これは非常に印象的な箇所であると共に、精神病理学者からは、“本当にメランコリーではそんなことが起こっているのだろうか”という疑問の声がきかれる箇所です。

 私はこのところ、テレンバッハの『メランコリー』という、現象学的な精神病理学者たちからはほとんど鵜呑みにされていると言っても良いほど高く支持されている書物を読んでいるのですが、そこに挙げられた症例たちが、自責を表現する際(に限りませんが)、自分に対して「duおまえ」で呼びかけることが結構目に付くことに驚いています。日本語ではあまり普通の表現ではありませんから、邦訳では一人称で訳されてしまっていますし(例外的に邦訳191頁14行目では原文通り二人称で訳されていますが)、われわれの日常臨床上もそのような二人称で自責を聞くことはないのですけれども、ドイツ語では結構普通のことかもしれませんし、そうだとすればフロイトの言うように、自責とは誰かへの非難を自我に向け直した事態だと考えやすい気がします。

 さて、かつての人文書院版には意味不明な訳文がいくつもあったのですが、新しい岩波版はさすがに良い翻訳で、ストレスなく読み進めることができます。ざっと読んだところでは翻訳上の誤りなどを指摘すべき箇所は見あたりませんが、次の箇所は、別様の解釈も可能ではないかと思いました。

「メランコリーにおける明らかに享楽に満ちた自己虐待は、強迫神経症におけるそれに相当する諸現象と同様、サディズム的傾向ないし憎悪傾向の満足がそこに存することを教える。そうした傾向は、一つの対象を目指しており、上述の経路をたどってわが身へと向き直ったのだ。どちらの疾病の場合にも、患者は自己処罰という迂回路をとって辛うじて本来の対象への報復を成し遂げるのを常としている。そして彼らは、病気に身を委ねることによって彼らの敵意を彼らの愛する人々に直接的に示す必要がなくなったのちには、病気の状態を介してその人々を苦しめるのを常としている。」(岩波版284頁。下線は引用者)

 最後の二文は原文ではひとつづきの文でして、次のようになっています。

「Bei beiden Affektionen pflegt es den Kranken noch zu gelingen, auf dem Umwege ueber die Selbstbestrafung Rache an den urspruenglichen Objekten zu nehmen und ihre Lieben durch Vermittlung des Krankseins zu quaelen, nachdem sie sich in die Krankheit begeben haben, um ihnen ihre Feindseligkeit nicht direkt zeigen zu muessen.」(岩波の訳文で下線を付した箇所に対応する箇所に下線を付した)

 頭から訳してみます。最初のコンマまでの部分では、「どちらの疾病の場合にも、患者は以下のことを成し遂げるのを常としている」と言われています。コンマの後(下線部)のふたつのzu不定詞句で、その内容が「自己処罰という迂回路をとって本来の対象への報復を成し遂げることと、病気の状態を介して彼らの愛する人々を苦しめることとを」と述べられています。次のコンマの後ろは、「病気に身を委ねてしまったのちには」、その次のコンマの後ろは「患者がその敵意を彼らに直接的に示す必要のないように」と、いずれも前の文に付加説明している箇所です。この最後の二つの付加説明は、岩波版では下線部のzu不定詞のうちふたつ目だけを修飾するように訳されています。私が疑問に思ったのは、最後のコンマから後ろの句は、ふたつのzu不定詞句の両者に掛かっている(というか文全体に掛かっている)とも取り得るのではないか、という点です。そもそも下線部では、ひとつ目のzu不定詞句では「本来の諸対象」への報復が、ふたつ目では「彼らの愛する人々」を苦しめることが扱われており、その目的語が違います。前者は自分を捨てた人物、後者はその後も愛情関係を保っている人々を指してのことと思われます。最後のコンマの後、「彼らに敵意を直接示す必要のないように」という部分の目的語は代名詞「彼ら」ですが、この代名詞は上の両方の人々を指していると考えたい気がします。

 これを踏まえた場合に、最初の下線「辛うじてnoch」について、私は「それでもやはり」とか「ちゃっかりと」という意味に取りたい気がしました。そうすると結局以下のような訳文になります。

「どちらの疾病の場合にも、患者は、自己処罰という迂回路をとって本来の対象へと報復することと、彼らが病気に身を委ねたのちには病気の状態を介して彼らの愛する人々を苦しめることに、ちゃっかりと成功することが常であり、患者の敵意を彼らに直接的に示す必要はない。」(代案)

 もう一箇所、人文書院版の頃から難しいと思っていた箇所があるので紹介します。

「反転された自己非難の中に真正の自己非難が散りばめられていても、それほど驚くには当たらない。そうした自己非難は、他の自己非難を隠して事の真相を知られないようにしてくれるので、前面にしゃしゃり出ることを許されるのだ。しかしまた、そうした真正の自己非難が、結果として愛の喪失をもたらした、愛するがゆえの諍いの中に現れた賛否の交錯に由来していることもある。」(岩波版280頁、下線は引用者)

 下線部の原文は「Fuer und Wider des Liebesstreites」です。かつて人文書院版の正誤表を作ったとき、私は「愛の諍いによる利害〈に対する後悔〉」と訳してみましたが、今回読み直してみてやはり自信の持てないままです。

新宮 一成 (監修)

出版社: 岩波書店 (2010/9/30)

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