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2010年12月

2010年12月31日 (金)

1年有難うございました

 今年ももう終わりです。年末の休みに入ってからは、タイヤを替えたり掃除をしたりテレビを見たりしているうちに大晦日になってしまいました。

 最近思ったたわいもないことをいくつか。

 録画してあったNHKの番組で、久しぶりに山口百恵の『しなやかに歌って』を聴き、

しなやかに歌って 淋しいときは 

しなやかに歌って この歌を

という箇所に引っかかり、私が子供のころいつも、歌の歌詞の中に「この歌」という言葉が登場すると、どうも気持ち悪く感じていたことを思い出しました。子供のころの私は、自己言及なんて概念を知るわけもありませんから、当時は次のように考えていました。作り手がこの曲を作るとき、あるいは聞き手が初めてこの曲を聴くとき、まさに「この歌」は生まれつつあるわけで、まだ完成していないわけだから、それを歌詞の中に登場させるというのはどうにも腑に落ちない、と。『しなやかに歌って』には当時から引っかかっていましたし、タイトルは知りませんが「私からあなたへ この歌を届けよう」という歌、さらにもっと時代が下ってミスチルの『名もなき詩』とか、類似の歌詞の曲を聴くと、いつも同じ違和感を感じてきました(野口五郎の『コーラスライン』もそうだと思い込んでいたのでいったんここに書き添えましたが、ネットで調べてみたところどうもはっきりと「この歌」と言う箇所はないみたいです)。今回のテレビで、自分がこの感覚を今も同じく持ち続けていることを改めて確認しました。

 もうひとつ気持ち悪いのは、スポーツ記事の締めくくりの部分でよくみる(というかスポーツか芸術関係の記事以外ではまず見かけない)次のような表現です。

 「来期オフの去就も注目される28歳は、『・・・』と言った。」

 他にも「作家はここで○○を表現した」とかいう言い回しがあって、読むたびに気持ち悪いんですけれど、これはなぜなんでしょうか。

 というのは、似たような表現であっても、「横綱の今場所の土俵は充実していた」のような表現は別に気持ち悪くないからです。土俵は、相撲が行われる場所であって、相撲とは隣接の関係にありますしので換喩と言ってよいでしょう。最初の例を少し書き換えて、

「来期オフの去就も注目される左腕は、『・・・』と言った。」

とあれば、左腕はその選手の一部分ですので換喩です。この表現も、前後の文脈がなければ誰を指しているか分からないという点では先ほどの「28歳」と似ています。しかしこれに私は違和感を感じません。選手にとって左腕が、プレーを左右する重要な要素だからでもあるのかもしれません。同じく換喩でも、

「来期オフの去就も注目されるヒゲは、『・・・』と言った。」

は、この文脈ではおかしい気がします。

 「28歳」に戻ると、これは選手の一つの属性であって、しかもこの選手だけに認められる属性ではありませんし、別に28歳以外の年齢であっても同じようなプレーはできるはずです。ここらへんも気持ち悪さの理由でしょう。というのは、

「来期オフの去就も注目されるベテランは、『・・・』と言った。」

という表現は全く自然な表現と思えるからです。「28歳」とこの「ベテラン」を比べてみると、「28歳」の方は、28歳ならではのプレーがあるわけでもなく、たいして重要ではない特徴であって、かつ、必要以上に詳細・正確な情報であるという点も違和感の原因かもしれません。

 私はこの「28歳」みたいな表現は提喩と呼ばれると思ってきたんですけれど、この機会に少し調べてみると、正しいのか自信がなくなってきました。というのは、提喩について辞書などで簡単に調べた範囲では、上の例文に類似した表現の説明には出会ったことがないからです。提喩とは例えば「白いものが降ってきた」という表現ですが、私はこれには違和感を感じないので、上のようなスポーツ新聞表現とはどこか別物という気がします。何となく思うのは、固有名詞で表すべきものを提喩で表すところに違和感の原因があるような気がします。もうひとつ、「白いもの」と違って、「○○歳」は、一見してわかるような特徴ではなく、このような表現のためには選手の名前を知る以上に詳しい知識が必要なはずであり、それなのにあえて名前では語らないところがまた気持ち悪いのでしょう。

 この表現は、一般ニュースでは用いないのも不思議なもので、レトリックというよりも誤用なのではないかとさえ思います。

 これらの雑感はともかくとして、今年一年、このブログを書くことと時々戴くコメントが読書の励みとなりました。有難うございました。最近、読売新聞の書評欄が結構おもしろい本を選んで紹介していることに気付きチェックしはじめて、読みたい本は増える一方です。特に今年はマリー・ンディアイという作家を教えて貰ったのが収穫でした(文芸書は普段読まないので書店で見つけることはなかったでしょう)。

 来年もよろしくお願いいたします。

2010年12月23日 (木)

クルト・シュナイダー『臨床精神病理学』(2)

 少しずつ読んできたこの本も、本篇の終わりにさしかかってきました。この本の翻訳についてはストレスなく読み進められるので助かっていますが、原書を参照したくなった(数少ない)箇所の紹介を続けます。

『たしかに、全く奇妙な、筋違いで「狂った」印象を与える着想とその処理暈だけに基づいて統合失調性精神病を想定しなければならない例が存在する。こうした着想には自分自身に関するもの(心気、血統)、他の人に関するもの(追跡、冷遇、嫉妬)、事物に関するもの(発明)がある。こうした例は頻度が高くなく、たいていは単なる異常パーソナリティ発展ではないかという疑問が生じる。我々やヤンツァリックのように、そうした例の中に統合失調症性精神病の1類型しか認めないとしても、コレ(Kolle)にならって誤解のないよう「パラフレニー」と呼ぶこともできるし、ガウプ(Gaupp)にならって「パラノイア」と呼ぶこともできる。命名が重要なのではなく、精神病性の事象と精神病質性ないし体験反応性の発展の区別だけが肝要である。』(針間訳版p94-95、下線は引用者)

 下線の部分ですが、何が何に包含されるのかが今ひとつ曖昧です。原文では「in et3 et4 sehen」の表現ですので、簡単に辞書通り「et4をet3とみなす」と訳したほうが意味が明瞭と思います。すなわち、下線部は「そうした例を統合失調症性精神病の1類型としかみなさないとしても」となります。

 この引用文を読むと、シュナイダーはパラノイアを統合失調症の1タイプとしかみておらず本質的な違いはないと考えているようです。ところが、シュナイダーが統合失調症にかなり特異的として列挙した症状(シュナイダーの言う「1級症状」)は、国際診断基準ICD-10では、統合失調症とそれ以外の妄想性障害(パラノイアを含む)とを鑑別するための指標とされていますし、日本の普通の精神科医の考え方もおおむねこれに近いように思います。しかし、もしシュナイダーの1級症状を援用するのであれば、あくまでシュナイダーに従うべきであり、妄想性障害というカテゴリーを残すことは許されないように思えます。

 上の引用よりも少し前の箇所では、たんなる妄想的解釈と思われる例が妄想知覚(1級症状のひとつ)として紹介されていて、シュナイダーの統合失調症の範囲はかなり広いようです。

 最後にもう一箇所引用しておきます。ここは、カギ括弧内に私が補っておいたいくつかの言葉がないと、ちょっと分かりにくい気がしました。

『循環病性の自己陳述は、はるかにより高い正当性をもって言葉通りに受け取ってよい。循環病性うつ病患者の思考構造と少なくとも内容は、比較にならないほどより非精神病性の生活に近い。このことは、臨床的にここで移行を認めなくても当てはまる。そのため、統合失調症性の自己陳述に特有の置き換えは、臨床的に明らかな[循環病の]例では[存在せず、]問題にならない。ここで[われわれが“置き換え”と言うことで]意味しているのは、厳密に上に述べた意味での[統合失調症性の]置き換えであり、体験されるそれぞれのことから語られることへの、構造に関わらない日常的な変形ではない。』(針間訳版p94-95、下線は引用者)

 この本はまだ補遺と解説が残っていますので、来る年もクルト・シュナイダーを読み続けることになります。

新版 臨床精神病理学 
クルト・シュナイダー、ゲルト・フーバー、ギセラ・グロス、 針間 博彦 (単行本 - 2007/9)
出版社: 文光堂 (2007/09)

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