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2011年2月

2011年2月28日 (月)

ヤスパース(5):ヤスパースの意味での病識

 ヤスパースの『精神病理学総論』岩波書店(第7版の訳)で病識を扱っている部分は、次のような章分けになっています。

疾病に対する患者の構えの取り方
 a)急性精神病の突発に対する了解可能な態度(困惑、変化の意識)
 b)急性精神病が過ぎた後の消化
 c)慢性状態における疾病の消化
 d)自分の疾病に関する患者の判断
  1.自己観察と自らの状態の意識
  2.急性精神病の際の構えの取り方
  3.過ぎ去った急性精神病に対する構えの取り方
  4.慢性精神病における構えの取り方

 すなわちa)b)c)で、急性期、急性期からの回復後、慢性期のそれぞれに患者が取る態度を扱っていながら、d)の2.3.4.で同じようにまた一つずつ取り上げて論じています。病識や疾病意識といった用語は、d)で初めて登場しているのですが、以前読んだときには、どうしてこのようにややこしい論じ方をしているのかよくわかりませんでした。

 原書をよく見直してみると、実はa)b)c)までの本文では、「患者が体験に対して取る態度」というときの「体験」には名詞「Erlebnis」が用いられているのですが、d)からは、「体験する」という動詞をそのまま名詞化した「Erleben」が用いられるように変わっています。つまりd)からは、患者自身が、「体験するという事態」に目を向け、体験様式ひいては自己自身を問題とするような場合について論じられています。幻聴の場合で言えば、幻聴の内容や送り主に対する反応ではなく、幻聴を聞く自分の状態に注意が向いていなければならないことになるわけです。以下はd)の冒頭の箇所ですが、この名詞化された動詞を「体験動態」と訳してみましょう。

『人格が自らの体験動態に対し、観察し判定しながら向かう時にはじめて、本来の意味での構えの取り方が問題となってくる。患者は、自らが何をいかに体験しているかを、心理学的判断のなかで意識化する。患者の体験動態に対する「正しい」構えの取り方の理想的なものは、患者が「病識」において到達するものである。今まで述べた項目では、疾病現象の内容に対する患者の態度や、変化した精神生活への患者の反応や、内容の消化などから種々の特徴を知ったが、ここで我々は、患者が[体験の]内容から離れて自らの体験動態と自分自身へ向かい、この事象の原因を尋ねて、自らの疾病を個々の特徴についてあるいは全体として判定するときに患者が取る構えから、特徴を集めようとする。つまり疾病意識および病識と総括されるものの全てがここに関わる。
 疾病意識とは次のような患者の構えをいう。病気という感じ、変化したという感じが表に現われてはいるが、しかしこの意識は全ての疾病症状や全体としての疾病に関わってはおらず、また発病の種類についての客観的に正しい判断や、疾病の重さの判定について客観的に正しい度合いに達してもいない。ただ、こうしたことが全て行われて、個々の疾病症状全て、あるいは全体としての疾病が、その種類と重さに従って正しく判定される場合にのみ、我々は病識という。しかし我々はこれに制限を加えて、ここでの判定は、同一文化圏の平均的健康人が他の病人に対してできるような正しさに到達すればよいとするものである。』(岩波版を改訳)

 この二段落は非常によく引用される箇所ですが、特に「個々の疾病症状全て、あるいは全体としての疾病が、その種類と重さに従って正しく判定される場合にのみ、我々は病識という」の部分のみを引用して、“ヤスパースの病識概念は狭すぎる”“実際にここまで達する患者はほとんどいない”などと評されることがしばしばです。しかし、ヤスパースはさらにその前提として、患者が自らの体験の様式に着目してその変化に気づいていることをも要請しているのです。

 ここで私がひとつ疑問に思うのは、ヤスパースが「自らの体験動態に対して構えを取る」という場合の、動詞形で書かれた「体験」は、「現在進行中の体験」でなければならないのか、それとも、過去の出来事の際の知覚様式・心理状態などへの振り返りであっても「(動詞形の)体験への構え」とみなしてよいのか、という点です。前者ならば、我々が夢を見ながら「これは夢だ」と気がつくように、あるいは逃げ水を見ても不思議に思わないように、その場で直ちに気づかなければならないことになります。これはあまりにも困難な要請でしょうか。私は、幻聴を聞いてから少し時間が経つと「あれは幻聴だった」と判別できるのに、幻聴が聞こえた瞬間には現実の音声と思い込んだり、幻聴からの命令に従って行動してしまう患者を何人か知っていますが、彼らにはさらなる洞察の余地がありますから、すでに十分な病識があるとはみなしがたいのです。なので、「病識がある」というためにはリアルタイムでの気づきが必須であると考える読み方も捨てがたいと思っています。

2011年2月19日 (土)

機知?

 先日、院内の症例検討会で患者の次のような訴えの報告があり、興味深く思いました。

「先生、ひどいじゃないですか。○○(患者A)さんと××(患者B)さんに[性行為を]やらせて、僕を××(患者B)さんと付き合わせようとしていますね」

 こう訴えた患者には、他の病室から性行為の声が聞こえてくるという病的体験があって、それを機にこのように訴えたようなのですが、なぜ××(患者B)さんと自分とを付きあわせようという企みがあると思ったのか、その根拠については患者本人も説明できないとのことでした。

 私はこれを聞いて真っ先にフロイトが論文『機知』で紹介していた有名な小噺のナンセンスさを思い出しました。もちろんそこに描かれた人間関係そのものは違いますが。

『あるガリツィア地方の駅で二人のユダヤ人が出会った。「どこへ行くのかね」と一人が尋ねた。「クラカウへ」と答えた。「おいおい、あんたはなんて嘘つきなんだ」と最初の男がいきり立って言う。「クラカウに行くと言って、あんたがレンベルクに行くとわしに思わせたいんだろう。だけどあんたは本当にクラカウに行くとわしは知っている。それなのになぜ嘘をつくんだ?」』(岩波版137頁)

 この訳は少々深読みしすぎなんじゃないかと以前ここ

http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_1.html

に書き込みましたが、これは統合失調症の訴えならありうる内容だということになります。

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