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2011年8月26日 (金)

テレンバッハ『メランコリー』(6)

 この書物の症例の6例目です。

 仕事を通じて他者のためにあるという形で実現されるような対人的秩序は、身近な人の死によって、当然ながらもっとも決定的な危機に曝される。この種の危機が及ぼす作用が一目瞭然に見てとれるような症例も、ときどき見受けられる。
 <症例6>女性患者エンミ・Bがその一例である。1959年のメランコリーが軽快した後に診察したとき、彼女は次のように語った。彼女は昔から、万事とびきり上等に、間違いなくやりたいと思っていた。実際、非常にきちんとしていて几帳面であった -彼女の母親もそうだった。何事につけ、安らかな気持ちで《おしまいにする》ことがなく、次から次へと新しい仕事にとりかかるのだった。家の中はいつも《磨かれたように》きれいだった。《なんでもきちんと考えすぎるんです》。夫からはよく《少々のことは大目に見なければいけない》と言われていた。
 このような過度の正確さについての記述は、すでに1949年の初回入院時のカルテにもみられる。その年の6月に母親が死亡して以来、患者はおかしくなった。どんな無秩序さに対してもすぐいらいらして、それが頭から離れなくなった。それが嵩じて、彼女はすっかり決断力をなくし、意志も気力も失って、ひとりぼっちになってしまったという悲しみと不安とで一杯になった。しかし、彼女が重いメランコリーにかかったのは、夫が膀胱の病気で入院した直後のことであった。
 当時、彼女は4回の電気ショックでほとんど無症状となって退院している。
 2回目の入院は1952年のことである。その半年前に夫が癌で死亡した。1950年に夫が病院に入ったときから、彼女には夫が死ぬことがわかっていた。彼女はそのことで非常に憂鬱になっていたが、メランコリーにはかからなかった。夫の死後、はじめのうちは悲しい気分だった。約6週間の後に、この悲しみがメランコリー性の気分異常に移行した。彼女は、夫のために十分なことをしたかどうか、もっとできることがあったのではないか、と自分を責めはじめた。しょっちゅう泣けてきて仕方がなかったが、それはもう夫の死のことでではなかった。彼女は仕事を全部放り出してしまい、完全に気力を無くして、どうしたらよいかわからなくなった。以下略(邦訳165頁。下線は引用者)

 この症例には、私がこれまで抱いてきた疑問、つまりテレンバッハが扱った症例は、日本精神病理学で広まっている「メランコリー親和型性格」の特徴とずいぶん違うのではないかという疑問を抱かせた二つの特徴を再びみることができます。

 まず、この患者の几帳面さは、夫からいさめられるほど過度なものであるということです。下線を付した部分には「penibel」という語が用いられていますが、辞書によればこれはやはり周囲にとって不愉快な程度の几帳面さを表す語です。この語についてはすでにこのブログで述べました。

  http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-2737.html

 日本の精神病理学で「メランコリー親和型性格」の几帳面さは、仕事熱心・勤勉など大変に好ましい、評判の良い性質として現れるとされていますが、この症例の几帳面さは決して好ましい範囲に収まっていません。

 次に、この症例記載を見る限り、テレンバッハは、我々が普通にうつ病と呼びうる状態に至っても、「メランコリー」という言葉を用いていないことに気づきます。この本全体からの印象ですが、テレンバッハは、患者が単に気分の変化を訴えるだけではなく、思考内容に普段と異なるもの(自責や後悔など)が出現しはじめた時点でメランコリーと呼ぶようにみえます。一方、日本でメランコリー親和型性格は、軽症・非精神病性のうつ病者の病前性格とされていましたから、両者は診断の基準がかなり異なるように思えるのです。この点も以前いちどここに書いたことがあります。

  http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-a81b.html

メランコリー [改訂増補版]

H. テレンバッハ(著), 木村 敏 (翻訳)

出版社: みすず書房; 改訂増補版 (1985/12/5) 

 上に引用した訳文には、「《磨かれたように》きれいだった」という表現が用いられています(括弧つきなのはおそらく患者か家族が実際にそのように表現したのでしょう)が、原文を直訳すると「《舐めたようだった》」となります。ここは患者の掃除の仕方(実際に拭いたり磨いたりしたのでしょう)についての表現ですから、邦訳の「磨かれたように」は当たり前すぎて比喩になりません。しかし直訳で「舐めたようだった」というのも日本では見慣れない表現ですからやはり変で、翻訳というものは本当に難しいと改めて思います。

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