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2011年8月28日 (日)

ヤスパース『原論』の時点での遺伝学

 以前も書いたとおり、いまはヤスパースの『精神病理学原論』の訳本の輪読会を若手と進めているところです。

 私は原書とところどころ見比べているのですが、『第四章 精神生活の関連、その二 因果的関連』の『第三節 内因性原因の作用』の『二 遺伝』の項には、翻訳に大幅な省略があることに気づきました。最初の段落の最後の文とその註、さらにその直後にやや小さな文字で表記されている説明の冒頭6段落です。せっかく読んだところですので、拙訳をここにノート代わりに保存しておくことにします。

 最初の段落の最後の文には、次のように書かれています。邦訳では257頁の1行目の後ろに入ります。

それゆえ我われは、いまだ非常に流動的な状態にある生物学的遺伝学を、短く図式的にではあっても、概括的に知っておかなければならない(註)。

(註)歴史的には遺伝学は一面ではダーウィン説のうえに、一面ではメンデル式遺伝法則の発見、変異の統計、突然変異説のうえに築かれている。ゴルトシュミットは非専門家にも明快なしかたで諸々の学説と文献を理解可能にしている。遺伝科学入門、ライプツィヒ、1911。

 このように、ヤスパース自身が、このあと精神病の遺伝を論じるまえに遺伝学についてある程度の知識が必要である、と述べた上で、当時(1913年)分かっていた範囲での遺伝学理論を簡単に説明しているのですから、(それが現代からみてたいした内容ではないとしても)翻訳においても省略すべきではないと思います。

 その説明とは以下のようなものです。原文での強調部分は邦訳では傍点で示されていますが、以下では下線を付しておきます。なお、ここでは邦訳に合わせて「性質」とした「Eigenschaft」の語は、こういう生物学的文脈ではむしろ「形質」としたほうが良いでしょう。

 あらゆる生体の変異性Valiabilitaetは、はじめは概観できない不規則なものであるが、以下のようにして驚くほど規則的なものとなる。すなわち、ひとつの種の個体から任意に選び出した集団(ひとつの「個体群Population」)において、ひとつの性質を観察し(例えば、徴用された兵士における身長)、その性質(身長、肌の色調、歯牙の数、シミの数、など)のさまざまな程度に応じたグループに属する個体の総数を数える場合である。これらのグループを、垂直の線として描き、それらの先端を結ぶならば、ひとつの規則的曲線(「変異曲線Variabilitaetskurve」)が例外なく得られる。そこでは、平均値から両側に向かって、つまり性質の弱い発現と強い発現に向けて、個体数が減少する。変異曲線は、ある個体群全体の、ひとつの性質の方向での変化、例えば境遇の影響(気候、食物、など)を、読み取ることができるような尺度である。
 多数の個体のなかから、改良したい性質をもった個体を選抜し(選択)その子孫だけを養育すれば、変異曲線はこの性質の側へ向かって遷移する。かつては、このようなやり方である型を全く別の型に移行させることができると考えられた(人為淘汰、あるいは自然においては生存競争における自然淘汰)。しかし、もしも「純系reine Linie」を扱う場合(例えば穀物)には選択は無力であることが実験的に示された。純系とは、「個体群Population」とは対照的に、限られた変異曲線のなかのみを動く個体の集団であって、しかもその各個体は再び曲線全体からなる子孫を持つようなものを言う。個体群においては、多くの純系からなる交配があること、そして、選択とは新たな型への改良ではなく、単に純系の単離にしか達しないことが知られている。
 こうしたことからさらに、個体の性質生殖質の性質という重大な区別に至る。純系では両者は同一であり(「遺伝型Genotypus」)、個体群ではその個体はしばしばその生殖質とは別のものを持っているように見える(「表現型Phaenotypus」)。例えば巨大な個体は、純系のなかでの極端に上方への変異であれば、ほとんど小さな個体のみを産する(「先祖がえりRueckschlag」)が、同様に巨大な別の個体は、その純系の中間に相当するならば再び同様に巨大な個体を産する。
 さまざまな研究はさらに、「遺伝単位Erbeinheiten」を区別すべきであることを教えている。各個体は、莫大な遺伝単位(「性質Eigenschaften」)からなる。各遺伝単位は、それ以外の遺伝単位と独立に遺伝する。そして、この遺伝単位とともにはじめて、規則的に確認される遺伝法則が発見された。この遺伝法則はメンデルによって明らかにされた。二つの孤立的に[=他の性質と無関係に?]現れる性質(例えばエンドウ豆の白色と赤色)を交配させると、子孫におけるこれらの性質の出現は、数の上で決定されている;第1世代では、一つの性質が「優性であるdominiert」(例えば全て白いことによる)。しかし、もう一方の性質(優性なものに対して「劣性rezessive」の性質)が生殖質に存在する;というのは、第2世代ではここに性質の分離が現れるからである。つまり子孫の4分の1は白く、かつ白い子孫のみを持つ。4分の1は赤く、かつ赤い子孫のみを持つ。それに対し、4分の2は白く、かつその次の世代もまた4分の1は最終的な白、4分の1は最終的な赤、4分の2は優性な白の子孫を持つ、等々。この数の比は、生殖細胞の結合における無数の遺伝単位(この理論上の単位は遺伝子、決定因子と呼ばれている)の偶然の結合の原理に従って予想され、きわめて多様な条件の下に左右されると見積もられ、さらに実験で確かめられている。
 多くの研究者は、かつて分離と結びつけられたこれらの性質(「メンデル則mendelnde」遺伝)のみを、全くの同型遺伝[=単一の性質のみが現れ続ける遺伝]と並んで、遺伝法則として認めている。別の研究者たちは、これ以外にもうひとつ、「融合的verschmelzend」遺伝を想定している。メンデル則遺伝においてひとつの性質が優性を保つとは限らず、白色と赤色が淡紅色へと -この場合は一時的に- 融合するのと同じように、性質の永続的な融合もあるはずであり、これが同型遺伝で繁殖していく。メンデル則遺伝に従えば、個体の多種多様性は、つねに分離して[=別々に]遺伝する遺伝単位の変動的な組み合わせから把握されるが、ここでさらに、遺伝単位から新たな遺伝単位への融合なるものが加わる。
 もしも、次第に遷移させて新たに改良したり、融合によって遺伝単位を新たに創出することが全く行われないならば、いかにして、新たな形式が産まれたり、家族内に初めて疾病が現れてそれ以後は遺伝される、等の事実が説明されるべきであろうか。これは、「突然変異Mutation」という、同じく実験的に研究された事象によって説明される。生物のそれまで遺伝されてきた性質が表現する変異曲線から遠くかけ離れた新たな性質が、跳躍的に、時折、造り出される。理論に従えば、ここには新たな遺伝単位が形成されていなければならない。若干の事例では突然変異が歴史的に確認されており、さらに別の事例では実験により観察されうる(ド・フリース)。この場合に注目されたのは、部分的には制御可能な外的影響のもとで、突然変異周期なるものが生じ、突然、普段のふるまいとは対照的に多数の跳躍的な変異が現れ、それら全てが遺伝する。飼育栽培者には「気まぐれSports」として古くから知られていたこうした突然変異は、今はしかし多くの事例で、変異とさほど原理的に区別できない -それ以外の事例は外観上もそう見える- ことが証明されている。これによって次のように言える;我われにわかるのはただ、この区別を硬直的に保持しようとしてはならないということだけである。

 このあとに続く7段落目だけが邦訳に訳出されています。なおそこには「遺伝質」という語がありますが(原語はKeimplasma)、これは「生殖質」とすべきもので、上の拙訳にもそのように訳しました。

 また、代々同じ形質が遺伝される場合を「gleichartige Vererbung」と呼んでいるようで、このあと邦訳では「同種遺伝」とされていますが、種に関わることではないですし、だいたいホモ接合体[=同型接合体]の遺伝のことと思いましたので、上では「同型遺伝」としてみました。

 私にとっては、この部分がないとやはり後ろの頁は理解困難という気がします。歴史的に、染色体と遺伝の関係について分かっていない段階でのメンデル理論というのはなかなか雲を掴むような話であったろうと想像しながら読む必要があると思うからです。

精神病理学原論 
カール ヤスパース (著), Karl Jaspers (原著), 西丸 四方 (翻訳)
みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

Allgemeine Psychopathologie Ein Leitfaden Fur Studierende, Arzte Und Psychologen (1913) Karl Jaspers (ペーパーバック - 2009/11) 
出版社: Kessinger Publishing (2009/11)

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