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2011年9月10日 (土)

テレンバッハ『メランコリー』(8)

 この本の症例からひとつずつ見てきましたが、今回は8つ目です。

(・・・略)良心はしばしばひどく敏感になっていて、メランコリー親和型の人は、自分のことでいわれのない非難がなされるとだんだん自信をなくし、向けられた非難に甘んじなければならないのではないかという気持ちになってしまう。

<症例8>男性患者ラインホールト・Pの場合がそうである。彼はある商店に勤めていたが、非常に良心的で、会社から高く評価されていた。正確で信用がおけるということで、19歳ですでに出納係をまかされていた。うっかりした事があったりして叱られると、それが心にこたえて、《忘れられない》性質だった。申しわけないことをしたという気持ちで一杯で、その後はびくびくと不安になるばかりで、ふだんは自分の仕事に非常に自信を持っていた彼であるのに、自分のひとつひとつの行為が間違っていないか、何回も確かめてみるのだった。《それ以来というもの、何をやっても以前の間違いが思い出されてくるのです。忘れようと思っても忘れられないし、頭から払いのけようとしてもだめです。もういいと思っても、すぐそのあとからそのときのことがまざまざと浮かんでくるんです・・・私がレジで間違って記入したのに他の人が気づいてくれなかったことがあると、もうこわいのです。もう一度やり直して金額が合うようにできても、気持ちの動揺はおさまりません。(・・・略)》彼のいないところで何か金が足りないというような空気があると、彼は自分にその責任があるような気分にひきこまれるのだった。《とにかく、いつもそうなのです。誰かが叱られていると、自分もいっしょに叱られているみたいに思ってしまいます。工場に見習工が来て、私がその子に仕事の指図をすることになっていました。ある日その子がぼんやり突っ立っているのをチーフに叱られたとき、私はその子以上にショックを受けました》。

 負い目に対するこのような -健康時からみられる- 敏感さは、メランコリー者の罪業妄想の中でグロテスクなまでに形や規模を変えて出現するあの体験を -つまり、僅かな過失が途方もない意味をもったり、他人の罪までひっかぶってしまう誇大的罪業妄想の形をとったりするあの体験を- 理解する鍵を与えてくれる。(邦訳171-3頁)

 まず最初の下線部ですが、原文では(かなり語順が変わっていてわかりづらいですが)「“kauffmaennischer Angesteller”であった」とあります。辞書で「Kauffmaennischer Angesteller」には、「商社員;(会社の)営業担当者、販売人;(商店・デパートの)従業員、店員」といった意味が並んでいます。

 すぐ後の「会社」の原語は「Firma」で、独和辞典では「商会、商社、会社」とあります。

 この対応を考えると、下線部「ある商店に勤めていた」は、むしろ「商社員であった」がよいのではないでしょうか。

 こんな細かいところにこだわるのは、症例紹介にわざわざ「19歳ですでに出納係をまかされていた」と書かれているからには、この患者が若いころに職場で与えられた仕事の重要さは、かなり異例であったはずだと考えるからです。なお、もう少し後ろの方の訳文に「レジ」という言葉が出てきますが、原語「Kasse」には、辞書の上でたしかに「レジ」の訳語もあるものの、これは「金庫」「会計」「現金」などとも訳せる多義的な語です。少なくとも、単にレジを打つ程度の仕事を任されていたわけではないでしょう。 

#9月14日の追記:上に記したように邦訳が原文から大幅に語順を変更している件について、筆者は、この記事をアップした時点では気づいていませんでしたが、本日、改めて原文を読み直して気づいたため、この記事もそれに合わせて変更しました。ただし、「商店」という訳語に関する本記事の論旨(=「商店やレジという語からイメージされるよりももっと大規模な職場ではないか」)そのものは変わりません。

 さて、引用した最後の段落によれば、この症例の紹介はすべて健康時の様子の描写とされています。この患者の、失敗や罪との関わりかたからは、健康時からメランコリーに片足を突っ込んでいる人、という印象がぬぐえません。普通人・平均人の枠内に入る人物とは決して言えないでしょう。

 それに加え、この患者の紹介を読んでいて感じたのは、若いうちに責任ある仕事を任され、ふだんは自分の仕事に自信があったのに、叱られるととたんに自信をなくしたり、自分に関係の薄いことまで自分の罪のように思ってしまう、といった特徴の、全体的ないびつさです。患者の諸特徴は、単に几帳面だとか自責的とかいう方向に全体がそろっておらず、一言でまとめようがないような気がしますし、我々の身の回りに類似の人物をなかなか探せないように思います。こういういびつさもまた、日本軽症うつ病者のメランコリー親和型性格について言われてきたすっきりまとまった(イメージしやすい、どこにでもいそうな)性格特徴との相違点といえるのではないでしょうか。

メランコリー [改訂増補版]

H. テレンバッハ(著), 木村 敏 (翻訳)

出版社: みすず書房; 改訂増補版 (1985/12/5)

 この症例紹介で《 》で囲んで示されている部分はこの患者自身の陳述のようですが、すべて現在完了形で語られていて、なかなか事態の前後関係などがわかりません。「dannそのあと」という副詞も連発されていて、「○○してしまったんです。そのあと○○になっちゃったんです。」みたいな言い方でずっと続いています。邦訳通りのニュアンスではないように思われる部分もけっこうありますけれど、訳文で表現するのは難しい微妙なところです。

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コメント

人格の偏奇、という点からは先に述べておられた
回避性、というDSM2軸から考えてみるのも斬新な発想と思いました。


DSMの状態像を記述していくにしても、どういう
文脈で纏めていくか、どういう情報を取捨選択していくかが精神科医にとっては難問というか、私はなかなかうまくいきません(;´▽`A``。

 いつもありがとうございます。
 DSMなどの人格障害の診断基準には、性格特徴が箇条書きにされていて該当する項目数を数えることになっているわけですが、項目間には特に矛盾はありませんから、全体として何となく同じ方向への偏倚を示しているように思います。重症・典型例ならほとんどの項目を満たすということになるわけです。
 世間で普通に言われるメランコリー親和型性格の特徴もかなりまとまった方向性があります。たとえば、ある人の性格について本人や家族に問診しているとき、まず「几帳面で仕事熱心」であることが語られ、その次に「他人によく配慮する」ことや「義理を重んじる」ことが語られたとしても、それまで語られたことと矛盾はありませんし、おおむね同じ方向性に収まっていて、我々もそこで別に意外な気はしません。
 症例7や8にはそういうまとまりを感じないんです。たとえば「勤め口ではどこでも評判がよかった」と聞いた後、「買い物も自分で決められないような決断不能だった」と聞いたら、我々としては『え、なんで?』と思わずにはいられません。

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