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2011年10月

2011年10月29日 (土)

ヤスパース『原論』の再読(第一章)

 ヤスパースの『精神病理学原論』の輪読会を機に再読してきましたが、そろそろ終わりにさしかかっています。今回は原書を手に入れて改めて通読していますので、訳文を読んで気になる点の確認ができました。少しずつ紹介していきましょう。

3 心理学的にのみわかる精神生活のごく一般的な変化を形式とする。たとえば分裂性精神生活やヒステリー性精神生活のごときである。この形式をとって人間のありとあらゆる欲求や願望、思考や空想が、内容として現れる。こういう内容は欲求とか思考とかとして、分裂性とかヒステリー性という特別の様式で現れてくる。
 多くの場合形式が精神病理学にとってよけい関心を持たれる。内容はしばしばどっちかといえば偶然なもの、ごく個人的なものと思われる。けれども内容も規則正しいことも稀ではないので(たとえば抑鬱患者の妄想とか自殺傾向など)学問的な研究に関係してくる。(みすず版邦訳34頁)

 引用した2段落のうち1段落目の最後の一文が理解困難で原書に当たったわけですけれど、周囲の部分も含めて以下のような代案を提案します。

3 精神生活のきわめて全般的な一定の変化が、形式として理解されている。たとえば分裂性精神生活やヒステリー性精神生活のごとき、心理学的にのみわかる変化である。それらの形式のなかに、人間のあらゆる欲動や願望、ありとあらゆる思考や空想が、内容として現れる。それら[欲動や願望や思考や空想]は、形式のなかで、まさしく分裂性とかヒステリー性という全く特別な様式で現実のものとなる。
 多くの場合形式が精神病理学にとってよけい関心を持たれる。内容はしばしばどっちかといえば偶然なもの、ごく個人的なものと思われる。けれども内容も規則正しいことも稀ではないので(たとえばメランコリー患者の妄想様の思考とか自殺傾向など)学問的な研究に関係してくる。(代案)

 二段落目のように、訳文の「抑鬱」はしばしば(Depressionではなく)「メランコリー」ですし、「妄想」はしばしば「妄想様観念」であったりしますので、気になる箇所についてはひとつひとつ調べてみることをお勧めします。「妄想患者」のような表現も、「パラノイド」と書かれていれば妄想型統合失調症の病的過程に至る患者のことですから、ヤスパースの診断を正確に知るためにはいちいち調べてみる価値はあります。

 63頁64頁の妄想に関する箇所についてはすでにこのブログで代案を提案しましたhttp://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-0a21.html。その間に挟まれた以下の部分にも小さな訳し落としと蛇足があります。

元来の体験の中には、本当の妄想体験の外に、すでに述べた対象意識の誤りもあるわけであり、こういう妄覚、追想の誤り、偽幻覚などには感覚的な要素が多分に入っているものであるが、この外にまだ感覚的直観的ではないが、そうかといってやはり非常に印象的な誤りがあり、これは意識性という体験の誤りである。(みすず版邦訳63頁)

元来の体験の中には、本当の妄想体験の外に、すでに述べた対象意識の誤りもあるわけであり、こういう妄覚、知覚の誤り、追想の誤り、偽幻覚などには観照的な要素が多分に入っているものであるが、この外にまだ観照的ではないが、そうかといってやはり非常に印象的な誤りがあり、これは意識性の誤りである。(代案、下線は訂正箇所)

 なお、下線部以外で、「anschaulich」という語は、これ以外の箇所で感覚的とか直観的と訳されている語とは異なるので、「観照的」という訳語にしてみました。

 最後は3か所並べて検討してみます。

現象学は今まで対象意識については豊かな展開を見せてきたが、自己意識についてはあまりまとまったことは言えない。けれどもこの意識は従来感情と欲動と呼びならされてきた現象とごく深い関係を持っており、これらは自我被規定性、自我を規定するものと現象学的に解されるが、それだけ単独にはっきりと心に描きだすことも出来もする。(みすず版邦訳42頁)

感情にはまず二つの対立する側面があり、人格意識の側面、自我の被規定性に従うような感情と、対象意識の調子となるような感情とある。(みすず版邦訳84頁)

 主として人格意識(自我被規定性)の徴である諸感情と、主として対象の性質(ガイガー)を作る諸感情という現象学的な対立がわかると、この後者に入るものに一連の特別な病的現象があることがわかる。(みすず版邦訳86頁)

 これらの箇所に含まれる「自我被規定性」という概念が今ひとつ分からないわけです。しかし上の一つ目の引用によれば、欲動についてもこの概念で考えることができるとありますので、関連箇所を探してみますと、この語を用いずに次のように平易に説明されています。

多くの欲動は本人の本性や今の状態の自然のあらわれとその当人から感じられる。すなわちその人間自身の欲動であることが当人からよく了解されるように体験される。(みすず版邦訳92頁)

 こういう事態のことを「Ichbestimmtheit」と言っているようです。しかしこれを一言で言える訳語が辞書にありませんし私もなかなか思いつきません。とりあえず上の三か所はそれぞれ次のように代案を提案しておきたいと思います。

現象学は今まで対象意識については豊かな展開を見せてきたが、自己意識についてはあまりまとまったことは言えない。けれどもこの意識は従来感情と欲動と呼びならされてきた現象とごく深い関係を持っており、これらは自我と密接なものと現象学的に解されるが、それだけ単独にはっきりと心に描きだすことも出来もする。(みすず版邦訳42頁、下線部は改訳)

感情にはまず二つの対立する側面があり、人格意識の側面、自我と密接なものであるような感情と、対象意識の調子となるような感情とある。(みすず版邦訳84頁、下線部は改訳)

主として人格意識の特色(自我と密接なもの)である諸感情と、主として対象の性質(ガイガー)を作る諸感情という現象学的な対立がわかると、この後者に入るものに一連の特別な病的現象があることがわかる。(みすず版邦訳86頁、下線部は改訳)

 最後に、書物全体で繰り返し使われている訳語について言いますと、「意識の別化」は「意識変容」、「知覚界の疎外」は「知覚界の疎遠化」ぐらいがいいと思いました。

精神病理学原論 
カール ヤスパース (著), Karl Jaspers (原著), 西丸 四方 (翻訳)
みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

Allgemeine Psychopathologie Ein Leitfaden Fur Studierende, Arzte Und Psychologen (1913) Karl Jaspers (ペーパーバック - 2009/11)

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ラグビーのワールドカップ

 もう古い話になりますが、録画しておいたラグビーワールドカップの日本代表の試合を観おえました。私はテレビでラグビーの試合を何年も観ていませんでしたが、今回はワールドカップが地上波で放送されたので観てみました。

 日本代表の出来がかなり良かった初戦フランス戦だけを観たあと、しばらく忙しくてほかの試合は何週間か観れず、その間、新聞や雑誌で酷評・批判されているのを読んで「そんなに悪くないのに」と思っていたんですけれど、残りの試合を観て、やはり酷評されても仕方がないかな、と思いました。

 しかしまず良い点を挙げるなら、以前の日本代表のバックスには、体格に勝る外国人選手相手にタックルできない選手が混じっていましたけれど(前々回大会なんか、半分ぐらいの選手はほとんどタックルできず、そのせいでフランス戦では金星を逃しました)、今回はそういう不満は抱かずに観ることができました。それは日本代表に外国出身選手が多く入り(いったい日本代表は何語でコミュニケーションをとっているんだろう、と疑問に思ったりします)またその外国出身選手も実直なプレーを続けられる選手がそろっていたからでしょう。かつての外国出身選手はかなり出来にムラがある選手とか、バックスではディフェンスに難がある選手とかだったんですけど、今回はそういう選手がいなくて、いわゆる軽いプレーが少ないのは良かったと思います。日本人選手の体を張ったプレー、スクラム第一列の選手もよく走るプレーはすばらしいと思いました。

 敵との間合いが詰まった状態でパスが回って来ると、そのパスを受けたらすぐに相手のタックルをくらうことが予想できるわけですけど、昔はそれを嫌うバックス選手がいて、パスが来てもしっかりキャッチせずにボールをはたいて隣の味方のほうへタップするような雑なプレー(たいていは隣の味方のところでかえって大きなピンチを招く)も、昔は多かったんですが今はあまり見当たりません。きちんとボールを持って相手のタックルを受けています。

 ただ、実直なプレーは守備面では好ましい反面、攻撃にも特段の魅力のない、面白みの少ない戦いぶりでした。まあ外国出身選手たちは、強豪国の地区代表ぐらいのレベルでしょうから、ちょっと致し方ないかもしれません。かつての日本は、バックスへの展開プレーでは、味方選手の後ろを飛ばしてパスを通すサインプレーをいわばお家芸としていましたが、いまやそれも世界中で普通に使われていて、ニュージーランドもカナダも、後ろ飛ばしパスで日本からトライを奪っていました。これでは、日本ならではのプレーというのはほとんど見あたりません。この辺もメディアが不満に思う理由でしょう。

 私はむしろスクラムハーフの動きが特に気になるんですけれど、攻撃の展開の中で、スクラムハーフが密集からパスアウトするとき、何歩か走りだしながらパスすることが多いことに不満を感じます。彼らがボールを持つ時間をできるだけ少なくしてすぐに放ってほしいところです。特にトンガのようにディフェンスの出足の早いチームが相手だと、パスをもらう人のところですでに間合いが詰まってしまい、バックスは思うような展開ができません。スクラムハーフは、走り出しながら放ったんだから次の密集には早く到着できるというわけでもなくて、タイミングを逸してターンオーバーされることも多かった。

 とはいえ、いつぞやの日本代表スクラムハーフとは違って、ディフェンスにも貢献しているし、フォワードが押されるととたんにスタンドオフへのパスが不安定になってワンバウンドになるということも少ないので、十分によくやっているとは思います。パスを受ける10番以降のバックスのほうも、スクラムハーフからのボールの出方(放るまでの歩数)が毎度違うにも関わらず、よく対応して合わせていたと思います。

 ところで、かつての日本も(おそらく今回以上に)弱かったんですが、一瞬の敏捷さで勝るシーンとか、小さい体で大きな相手の足にタックルして倒すシーンとかがときどきあって、選手も観客もそれに鼓舞されながら(センターに平尾や朽木が居ると、何か予想もつかない創造的なプレーをしてくれるんじゃないかという期待感があったりして)、負けていても最後まで熱中できましたけれど、あれを善戦として見ていたのはある意味錯覚であって、試合全体の出来としては決して世界に通用していたわけではないです。宿沢監督時代に、主力を欠いたスコットランドとのテストマッチに勝ったことやワールドカップでジンバブエに一つ勝ったことはありましたが、それ以前の戦績と言えば、強豪国に接戦を演じたとか、強豪国の、代表より下の選抜チームに勝ったとかいうエピソードが、数年に一度程度あっただけです。アジア大会でも、日本より遙かに選手人口が少ない韓国によく負けてました。

 さて、じゃあ日本代表はどうしたらいいかというのは非常に難しいところです。日本代表は日本国内のラグビーのレベル・傾向を反映しているわけですから、重点的に強化したい点を見定めたうえで、それが伸びるような国内ルールを作って、そのルールで育った高校生が主力となるまで10年単位の長い目での強化が必要でしょう。たとえばプレースキッカー養成のためには、トライ後のゴールを国内では4点ぐらいにしてみるのも良いのではないでしょうか。あとは、バックスがタップパスを失敗したときとか、パスできそうにない状況で苦し紛れに蹴ったときなどは、地面に落ちたボールを敵に奪われるわけですけれど、そこから相手にトライされたときには国内では6~7点与えてみるとかして軽いプレーを戒めてはどうでしょうか(そういうプレーは、強豪国相手の試合でチャンスを生むことはありません)。ほかでは、ラックの最後尾の選手がボールを拾い上げて味方と組み合いながら相手に当たって押し込んでいくようなプレーは、本当は反則ぎりぎりなのにけっこう見逃されてきましたけれど、日本代表が外国チーム相手の試合で同じことをしてモールを押し込んでいくことはありえませんから、まあ国内では厳密に反則と決めて、一度バックスに出すプレーを徹底させた方がいいでしょう。

 だらだら書いてきましたが、私のようにちょっと昔を知っているファンは、日本のラグビーが「昔は強かった」とは思わないにしても、かつて「大きくゲインして密集ができたら次は早く球を出してブラインドサイドを攻める」とか、「バックスは抜けたら外を見ろ(外の選手は、味方が抜けたら横に顔を出せ)」、というような定石といえる組織的な動き方があったり、「ボールは両手で持て」「地面のボールはまたいで拾え」とかいう基本の戒めが選手の間に浸透していた時代が懐かしく、そうしたプレーが減ってラグビーそのものが昔とは違ってきているのはなんだか寂しいです。王国ニュージーランドにも、実直に基本を守っておらず一か八かのプレーをする選手が現れていますし、まあきっと私のほうが時代遅れなのでしょう。

2011年10月24日 (月)

フロイト全集19から『制止、症状、不安』第5章

 この章の訳文は、第4章に比べると問題となる箇所が少なく、またそれぞれ訂正すべき部分も短いのですが、少しでも読みやすくするための代案を提案してみます。

 拘縮は通常、その当時は、当人が意図の支配下にあった筋肉の神経伝達が別の部位へとずらし移されることである。けいれん発作は、自我による正規の制御から逃れたことによる突発的興奮の表現である。(岩波版邦訳38頁)

 拘縮は通常、その当時別の部位で意図されていた、筋肉への神経伝達が、[当該部位へと]ずらし移されることである。けいれん発作は、自我による正規の制御から逃れた情動突発の表現である。(代案)

 二文とも微妙な違いではありますが、邦訳はやや不正確です。

 次に移りましょう。

強迫神経症の症状は一般的に二種類あり、両者は対立する傾向がある。禁止、予防的措置、懲罰のような、すなわち否定的性質のものであるか、あるいは逆に代償的満足であって、こちらは極めて多くの場合、象徴的偽装を纏う。(岩波版邦訳39頁)

強迫神経症の症状は一般的に二種類あり、両者は対立する傾向のものである。禁止、予防的措置、償いのような、すなわち否定的性質のものであるか、あるいは逆に代償的満足であって、こちらは極めて多くの場合、象徴的偽装を纏う。(代案)

 岩波版で「懲罰」とされている「Busse」は辞書によれば「償い」「贖罪」です。

 次です。

最も新鮮な症例においては、症状が二つの時期に分かれる。すなわち、一定の指示に従う行動にすぐ続けて、それを棚上げにしたり、あるいは撤回したりする第二の行動がなされる。もっともその指示と反対のことを敢行するほどではまだない。(岩波版邦訳40頁)

最も新鮮な症例においては、症状が二つの時期に分かれる。すなわち、一定の規定を実行する行動にすぐ続けて -その行動と反対のことを実行するほどではまだないにせよ- それを相殺したり、あるいは撤回したりする第二の行動がなされる。(代案)

 岩波版では「aufheben」を「棚上げ」と訳していて、ヘーゲル的な訳語を避けるという意図が伺えますが、ここの文脈で訳語を選ぶならむしろ「相殺」という感じでしょう。

 次にいきましょう。

 私たちのいくつかの前提に対する矛盾の一つとして、好ましからざる強迫的表象がそもそも意識される、という点をあげることができるかもしれない。とはいえ、そのような強迫的表象がかつて抑圧の過程を切り抜けてきたことは疑い得ない。(岩波版邦訳44頁)

 私たちのいくつかの前提に対する矛盾の一つとして、好ましからざる強迫的表象がそもそも意識される、という点をあげることができるかもしれない。とはいえ、そのような強迫的表象がかつて抑圧の過程を通り抜けてきたことは疑い得ない。(代案)

 本当に細かい箇所で、durchmachenという語の訳だけの問題なんですけれど、私の日本語の語感では「切り抜ける」だと影響を受けずに済んだような印象を受けるので、ちょっと違うなあという感じです。

 次にいきます。

抑圧は、攻撃的な欲動の蠢きの内容を蝕みはしなかったとしても、それに付随する情動的性格を払拭してしまった。そこで攻撃性は自我にとって、刺激因ではなく、患者たちの言うように、冷静さを保たせてくれる単なる「思考内容」であると見えることになる。(岩波版邦訳44頁)

抑圧は、攻撃的な欲動の蠢きの内容を蝕みはしなかったとしても、それに付随する情動的性格を除去してしまった。そこで攻撃性は自我にとって、衝動ではなく、患者たちの言うように、冷静さを乱さない単なる「思考内容」であると見えることになる。(代案)

 ここも単語レベルの訳だけの問題です。

 さらに次へいきます。

自我は、贖罪行為や自己懲罰のための制限など一連の新たな症状によって、罪悪意識を知覚せずに済ませている。しかしながら、これらの症状は、マゾヒズム的な欲動の蠢きの満足をも同時に意味する。しかし、その欲動の蠢きは退行によって増幅される。(岩波版邦訳45頁)

自我は、贖罪行為や自己懲罰のための制限など一連の新たな症状によって、罪悪意識を知覚せずに済ませている。しかしながら、これらの症状は、退行によって増幅されたマゾヒズム的な欲動の蠢きの満足をも同時に意味する。(代案)

 岩波版は関係詞節を後ろからひっくり返して訳さないことが多いんですけれど、ここはひっくり返した方がよさそうです。

 次が最後です。

強迫神経症における症状形成の一般的傾向は、すでに記述したところである。社会機能を果たすことが不首尾に終わるという犠牲を払って、代替満足がますます大きな領域を占めるようになる、というのがその趣旨である。元来は自我の制限を意味していた同じ症状は、自我の統合への傾向のお陰で、後には満足の制限をも受け容れる。(岩波版邦訳46頁)

強迫神経症における症状形成の一般的傾向は、すでに記述したところである禁止という面が次第に退いて、代替満足がますます大きな領域を占めるようになる、というのがその趣旨である。元来は自我の制限を意味していた同じ症状は、自我の統合への傾向のお陰で、後には満足の症状という意味も帯びる。(代案)

 代案で「禁止」としたのは原書で「Versagung」です。たとえばこの論文の邦訳26頁には「彼が自らに禁じている満足はどこにあるのか。なぜ彼はその満足を自らに禁じなくてはならないのか」という箇所がありますが、そこで用いられている「禁じているversagen」という語に近い語ということで翻訳を「禁止」に統一しました。ただ私としては頓挫とか断念といった訳の方がよいと思います。(邦訳39頁に「禁止(Verbot)」とあり、同じ事態を表していると思いますが、いちおう原語は違うので区別したほうがよいと思います)。二文目は「満足の症状」とも「満足の制限」とも解釈可能ではありますが、このあとの文との整合性などを考えて「満足の症状」としてみました。

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻) 

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

2011年10月 1日 (土)

フロイト全集19から『制止、症状、不安』第4章(2)

 『フロイト全集』の読みは『制止・症状・不安』の途中で長いこと中断していましたが、気を取り直してまた読み始めてみました。正直、この論文には、岩波版全集には珍しく意味がとりづらい箇所が多いので、原文と逐一読み比べなければいけない手間があってしんどいです。

 かつて4章まで扱って中断したので、もう一度、前回すでに気づいていた翻訳上の問題

http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-2784.html

も考慮しながら4章を読んでみました。しかしやはり読みにくいままなので、少しでも読みやすくするために、前回指摘しなかった細かい個所や、今回読み直して気づいた箇所を以下に挙げていきましょう。

 私たちは、分析作業の間に明らかとなるようなこの少年の心的状況全体を考慮しない限り、分析を先に進めることができない。彼は、父親に対する嫉妬と敵愾心に満ちたエディプス的態勢にある。しかしながら、彼は、そのような分裂の原因である母親が頭に浮かぶときは別として、この父を心から愛している。(岩波版邦訳27頁、下線は引用者)

 「分裂」とありますが、直前にある嫉妬と敵愾心は、そもそも対立するものではないですから、訳文を読む限り、何と何との分裂なのかわかりません。原語の辞書的意味は「Entzweiung=仲たがい、不和」ですので、この辞書的意味のままがよいでしょう。

 私たちは、分析作業の間に明らかとなるようなこの少年の心的状況全体を考慮しない限り、分析を先に進めることができない。彼は、父親に対する嫉妬と敵愾心に満ちたエディプス的態勢にある。しかしながら、彼は、父との仲たがいの原因となる母親が頭に浮かぶときは別として、この父を心から愛している。(代案、下線は変更箇所)

 次です。

このような抑圧された欲動の蠢きから、私たちが馬恐怖症において想定したような代替物への道は、今までのところ通じていない。(岩波版邦訳28頁、下線は引用者)

 ここの文脈では、「このような抑圧された欲動の蠢き」とは、父への攻撃的な欲動の蠢きのことです。下線部は原文で「dem Ersatz fuer sie, den wir in der Pferdephobie vermuten」で、「vermuten et4 in...」は、「・・・が・・・にあると想定する」ですから、「それの代替物が馬恐怖症の中にあると想定した」です。

このような抑圧された欲動の蠢きから、その代替物 -私たちはそれが馬恐怖症にあると想定した- への道は、今までのところ通じていない。(代案、下線は変更箇所)

 次は訳語の統一性についてです。

母親に惚れ込んでいる小さなハンスが、仮に父親に対する不安を示すとしても、それを彼の神経症や恐怖症のせいだとするのは正当ではなかろう。私たちが眼前にしているのは、どこまでも了解可能な情動的反応であることになろう。この情動的反応を神経症とするのは唯一、もう一つの特徴、つまり父親が馬によって代替されていることである。(岩波版邦訳28頁、下線は引用者)

症状形成の本質をなす歪曲は、抑圧されるべき欲動の蠢きの代理表現(表象内容)においては全く遂行されず、それとは全く別の、本来的に好ましからざるものへの反動に対応する代理表現において遂行されているのである。(岩波版邦訳29頁、下線は引用者)

不安の内容、つまり、馬に噛まれる、および、狼に食われる、という不安内容は、父親から去勢されるという内容に対する歪曲的代替物である。この[後者の]内容は、実のところ、それ自体すでに抑圧を被っているのである。この内容は、ロシア人においては、男性性が示す反抗に対してもはや持ちこたえることができなかった欲望の表現であり、ハンスにおいては、攻撃性をその反対物へと転化せしめた反動の表現である。(岩波版邦訳35頁、下線は引用者)

 上記の3か所は、原文で同じ「Reaktion」ですし、おそらくは同じ事態を指すために対応した表現が用いられています。これは「反動形成」という術語の一部でもあります(しかもこの術語もこの前後で使われています)が、それとは別の意味でつかわれていますし、まあ一つ目の訳に合わせて「反応」で統一するのが良いでしょう。なお、上記3か所すべてで不定冠詞付きで使われていますし、二つ目の箇所では「単なる」という語もくっついていますから、それぞれ「ある種の情動的反応」、「単なるある種の反応」「ある種の反応」としておけば、3か所の対応も分かりやすくなると思います。

 次は簡単なところなのですぐに代案をみていただきましょう。

つまり両価性葛藤は、同じ一つの人物において解決されるものではなく、その蠢きのひとつに、代替対象としての別の人物が滑り込ませられるという形で、いわば迂回させられるのである。(岩波版邦訳29頁、下線は引用者)

つまり両価性葛藤は、同じ一つの人物において解決されるものではなく、その蠢きのひとつに、代替対象としての別の人物が滑り込ませられるという形で、いわば迂回されるのである。(代案、下線は変更箇所)

 次も「unverwandelt」という一語の翻訳だけなので、代案と並べて紹介します。

動物恐怖症の不安は、他へと転化することがない去勢不安であり、それゆえ実際に脅威となっている危険を前にした不安、あるいはいま現実にあると判断された危険に対する不安、すなわち現実的不安である。(岩波版邦訳35頁、下線は引用者)

動物恐怖症の不安は、他のものから転化したものではない去勢不安であり、それゆえ実際に脅威となっている危険を前にした不安、あるいはいま現実にあると判断された危険に対する不安、すなわち現実的不安である。(代案、下線は変更箇所)

 こういう細かいことの積み重ねが、岩波版の読みにくさを招いていると思うんです。

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻) 

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

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