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2011年11月

2011年11月22日 (火)

テレンバッハ『メランコリー』(11)

 この著作で紹介されている症例をひとつずつ取り上げてきたシリーズの11回目です。今回は、あまり大きな改訳が必要な箇所は含まれないので、下線で変更個所を示すだけにします。みすず版邦訳の問題は主に、「精神病」という訳語が用いられていないことにあります。

〈症例11〉薬局助手のエーファ・Sは人間関係においてはいつも -なかでも道徳的なことがらに関しては- 大変きちんとしていた。《信頼を裏切るなどということはしたくないのです -それがあたりまえだと思ってきました》。子供のころから、自分とはなんの関係もないことでとがめられたりした場合にも、ひどく自信のない気持になるのだった。自分がなにか罪を犯したときには、自分を《けっして許せない》し、そのことを《けっして忘れられない》のだった。《何年かたってからでも、自分の罪のことがどうしても思い出されてくるのです》。実際に犯した罪状のひとつとしては、22歳のとき(つまり30年も前に)最初の婚約者と肉体関係をもったということが挙げられる。それ以来この罪の思い出は、折にふれて、大変な失敗をしてしまったという気持を伴って現れてくる。また終戦直後の窮乏時代に、妊娠を心配して、(夫の勧めで)椅子にわざと激しく腰をおろすという手法で生理を誘発しようとしたこと -それからさらに、《アンケートに嘘を書いて》、それが公務員である夫の地位にかかわるかもしれないと思ったことなども思い出された。
 メランコリーから回復した後に、彼女自身、これらの出来事について次のような意見を述べている。《他の人がそのようなことをする場合には、見過ごすことができるのです。でも私自身は、若いころから身についている義務感のために、自分のこととなるとそんなふうには見られないのです。そんなことは私の性質に反することですから(略)》(略)
 さて、メランコリーの中では、あらゆる過失がグロテスクに形を変えて彼女の口から語られる。14歳になる彼女の息子は糖尿病にかかっているが(これは事実であった)、これは最初の婚約者との不義の関係に対する神罰である。自分は子供をおろしたし、 -《心の中》だけではあったが- 浮気をした(事実彼女は、夫以外のある男性に《とても憧れて》いたことがあったが、その男はこのことをまったく知らなかった)。彼女が病院に入っているのは、自分の人生を台無しにしたからだ。というわけで、彼女は自宅で両手首の動脈と頸動脈とを切ったのだった。
 三回の入院に際しては、いつもきまってこんな風に妄想的に加工された負い目や罪の主題がメランコリー性精神病の中心におかれていた。その他、何よりも、重篤な抑止症状が彼女のメランコリー性精神病の特徴をなしていた。
 この症例においては、メランコリーの中へと陥って行く筋道が、前の症例ほど細部にわたってわかっていない。ただ、二年来くすぶっていた夫との葛藤が急激に先鋭化した時点で、精神病が始まっていることだけは確かである。彼女は夫の極端な性的願望のすべてに応じなかったため、夫は他の女性と関係をもった。このような状態は、1958年のクリスマスの前に危機的な局面を迎えた。3回目のメランコリー相がはじまったのはそのころである。(みすず版邦訳177~8頁、下線部は変更箇所)

 この症例の性格については、整理整頓とか仕事熱心さとして現れるような几帳面さについての言及はなく、人間関係上の道徳に関する几帳面さのみが紹介されています。症例記載をみる限り、他人への親切に努めるというわけでもありませんし、何らかの尽力を日常的に必要とするものは何もないようなのです。これは、テレンバッハの他の症例記載や理論的説明とは異なるものという印象を受けます(ここまでほかの症例では、日本で普通に論じられるメランコリー親和型と、その原典とされるテレンバッハ理論との相違について述べてきましたが、この症例は、そのテレンバッハ理論とも違う気がします)。

 このように自らの道徳的義務感を強調して訴える症例からは、私はどうしても、「自分はこれほど道徳的な人間である」という言外の自己愛的な主張を読み取ることも可能ではないかと思えてきます。

 あるいは、自らのかつての不義の関係や浮気にまつわる訴えを語ることは、妄想のなかで夫の仕打ちに対して復讐しているとの読みも可能と思います。夫の指示通りに月経誘発したことを自責したり、「夫が公務員の地位を失うのではないか」と訴えたりというあたりにも夫への攻撃性が隠れていそうです。

メランコリー [改訂増補版]

H. テレンバッハ(著), 木村 敏 (翻訳)

出版社: みすず書房; 改訂増補版 (1985/12/5)

2011年11月15日 (火)

ヤスパース『原論』の再読(第二章第二~三節)

 ヤスパース『精神病理学原論』について翻訳の疑問点の続きを取り上げていきましょう。

こういう発作の非常に強度のものである癲癇ようの痙攣発作は、稀に感情激動の後、あるいは精神衰弱や精神病質にひとりでに、特発的に起こることがある。(みすず版邦訳165頁、下線は引用者)

こういう発作の非常に強度のものである癲癇ようの痙攣発作は、稀に情緒的激動の後、あるいは精神衰弱や精神病質に自発的に起こることがある。(代案、下線は変更箇所)

 ここで「自発的」としたのは「spontan」です。なお、これについては前回も取り上げましたので参照してください。

 次です。

ぼやぼやしている痴呆患者のいつもまったく空虚な無表情の顔(みすず版邦訳171頁、下線は引用者)

ぼやぼやしている早発性痴呆患者のいつもまったく空虚な無表情の顔(代案、下線は変更箇所)

 ここは「Demenz」ではなく「Verbloedet」なので、認知症の老人患者のことではなく統合失調症による解体患者のことですから、区別するには「痴性化患者」とでもするか、あるいは次に挙げる箇所にならって、「Verbloedung」「Verbloedet」を「早発性痴呆」「早発性痴呆者」と訳すことに決めてしまうのが良いと思います。

さらに早発性痴呆の特徴的な筆跡として、筆跡はきちんとしているのに同じ文句や文字の反覆があり、衒奇的情動的にひどく模様化して飾り立てるものがある。どの器質的痴呆状態でも筆跡はついに全く形のないなぐり書きとなって崩れてしまう。(みすず版邦訳171頁、下線は引用者)

さらに早発性痴呆過程の特徴的な筆跡として、筆跡はきちんとしているのに同じ文句や文字の反覆があり、衒奇的情動的にひどく模様化して飾り立てるものがある。どの器質的認知症状態でも筆跡はついに全く形のないなぐり書きとなって崩れてしまう。(代案、下線は変更箇所)

 私の代案では「Demenz」を「認知症」として違いを強調してみました。

 次の短い引用は、本文ではなく小見出しです。

五 行動と生活態度 (みすず版邦訳175頁)

 この小見出しは原文では「Benehmen, Handlungen, Lebensfuehrung」と三語になっています。みすず版でははじめの二つを「行動」という同じ語でまとめてしまっており、この後の本文でも区別していません。じつは本文の第二段落とその註で「行動」と訳されているのは「Benehmen」、それよりも後の訳文で「行動」と訳されているのはほとんどが「Handung」というふうに使い分けられています。それらを読む限り、意味的にも区別すべきといえそうで、前者の「Benehmen」の訳としては「立居振舞」とか「挙措」という感じがいいんじゃないかと思います。

五 立居振舞、行動と生活態度 (代案)

 このあと2段落目とその註の「行動」は「立居振舞」(または「挙措」)と読み替えてください。そのあとに出てくる「行動」という語のなかにも、読みかえるべき箇所はぽつぽつとありますが、きりがないので割愛します。

 次はまたしても「痴呆」という訳語についてですので、代案もまとめて紹介しましょう。

また痴呆患者は社会的に適応できず、浮浪者になる運命になり、鬱病患者は不安のため目的もなく徘徊し、遁走の状態では特にこういうことが著しい。
 自殺は不安とか、鬱病患者の厭世や絶望とか、痴呆に導く病的過程の突然の衝動などによる。(みすず版邦訳177頁、下線は引用者)

また早発性痴呆者は社会的に適応できず、浮浪者になる運命になり、メランコリー者は不安のため目的もなく徘徊し、遁走の状態では特にこういうことが著しい。
 自殺は不安とか、メランコリー者の厭世や絶望とか、早発性痴呆に導く病的過程の突然の衝動などによる。(代案、下線は変更箇所)

 今回は次が最後です。

いろいろ細かいこと全部の結果をみると、外面的にみれば、あらゆる精神的な病気の結果は現実からの遮断であり、適応不足であり、非社会的な社会的態度である。(みすず版邦訳178頁、下線は引用者)

いろいろ細かいこと全部の結果をみると、外面的にみれば、あらゆる精神的な病気の結果は現実からの遮断であり、適応不足であり、非社会的あるいは反社会的な態度である。(代案、下線は変更箇所)

 非社会的と反社会的という区別は、たとえばみすず版邦訳の372頁にもあります。

精神病理学原論 
カール ヤスパース (著), Karl Jaspers (原著), 西丸 四方 (翻訳)
みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

Allgemeine Psychopathologie Ein Leitfaden Fur Studierende, Arzte Und Psychologen (1913) Karl Jaspers (ペーパーバック - 2009/11)

2011年11月 9日 (水)

医療観察法ムラ

 医療観察法病棟内で事件があったとのニュースがありました。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111104-00000031-mai-soci

 詳細は分からないものの、そもそも無理のある法律やガイドライン・病棟構造のなかで、治療を受ける患者や家族、その治療を行っている末端の担当者にしわ寄せが及んでいるという印象を受けます。

 原発事故以降、「原子力村」とか「御用学者」といった言い方がされることがありますが、医療観察法にも、「医療観察法村」があるように思えます。司法精神医学者たちが、“非定型抗精神病薬の単剤使用と認知行動療法の組み合わせによって統合失調症は治りうる病気になった”、というフィクション(=治療可能神話)で官僚や政治家と結託して(あるいはだまして?)法律・ガイドラインを制定し、いくつかの国公立病院が公金で新病棟を建て、患者一人あたり一般の精神科医療の3倍もの診療報酬を受け取り、さらにその中心にいる医師をはじめとする病棟スタッフは、新しい制度のもとに集められた患者たちを論文や学会発表のネタにもしているわけです。医療観察法に適するかどうかの鑑定を引き受ける医師はかなりの個人収入も得られます(従来は起訴前鑑定だけで済んでいた患者が、もういちどこんどは医療観察法鑑定を受けるわけですから、一人の患者につき少なくとも二度の鑑定料が公金から医師たちに支払われるようになりました)。

 医療観察法で治療中の患者には、実際には結構な数の自殺とか、まれには他害行為の再発も起こっているらしいですが、ムラの中ではひそひそと語られているらしいものの、(私なぞは結構ムラの近くにいるのですが)詳細が全然明るみに出てきません。法律・ガイドラインでは、医療観察法の先進的な知見を今後広く一般医療に広めていくようなことが書かれていますけれど、かなりの隠蔽体質です。

 ガイドライン作りには医者のほか心理士などが参加しているようですが、(過去にここでもhttp://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_22d3.html書きましたが)よくできているとはいえませんし、精神病のことがわかっていると思えません。まるで患者は妄想をいつでもその気になれば捨てられるのに好きこのんで思い込んでいて、治療者と話し合えば主張を撤回するかのような書かれ方なのです。

 治るようになったという前提でできあがっていますから、医療観察法に基づく治療を行っても改善しなかった患者をどうするかという規定はありません。他の病院に転入院を引きうけてもらえなければ、医療観察法病棟にそのまま長期入院となっていくしかありませんので、末端のスタッフが、上層部からの圧力を受けて、各患者がもともとかかっていた病院に転入院を頼み込むなどして必死に病棟を回転させています。

 今回の場合、一度目の事件はすでに標準的な病院で入院治療を受けていたなかでの出来事だったのに、その患者に医療観察法病棟での治療が命令され、入院直後に二度目の殺人事件が起こったということになりますが、はたして医療観察法入院ではこれまでの治療に比べて治療効果の上乗せがどれだけ可能だというのでしょうか?。看護師として普通に看護学校や看護大学で教育されたスタッフが、そうした患者を隔離せずに安全に観察することが可能だという前提は現実的でしょうか?。そもそも医療観察法では鑑定を行った病院から治療病棟へと必ず転院させるシステムになっています(今回は千葉から神奈川への転院の2日後の出来事でした)が、見知らぬ土地とお互いに慣れないスタッフのもとへと転院させることで状態悪化の危険が増すというデメリットはどう考えられているのでしょうか?。そういえば、数年前に医療観察法病棟から外出中の患者がスタッフから離れて自殺した例がニュースになりましたが、それも遠隔地への入院患者でした。遠隔地へ入院させて家族や地域からひき離すといったデメリットを超えるほどの治療上のメリットがないことは、もうそろそろ見えてきているのではないでしょうか?。

 まあ医療観察法ムラの人たちはこの機会に、従来の治療と比べて別に治療成績なんか優れていないし、安全も守れていないのに多額の公金をつぎ込んでいることを、まずは広く情報開示するべきでしょう。

2011年11月 5日 (土)

ヤスパース『原論』の再読(第二章第一節)

 今回も、ヤスパース『精神病理学原論』の再読から翻訳などについて気づいた点を挙げていきましょう。第二章全体では多すぎるので今回はその第一節で区切ります。

感覚器による求心性の感覚的の伝導と、中央における過程と、遠心性の運動的な効果器という三つの分け方では、精神的なものは何もない反射弓というのが神経系の生理学の基本概念である。(みすず版邦訳123頁、下線は引用者)

感覚器による求心性の感覚的の伝導と、中央における過程と、遠心性の運動的な効果器という三つの分け方では、あらゆる精神的なもののずっと下方にあるこの反射弓が神経系の生理学の基本概念である。(代案、下線は変更箇所)

 下線は原文で「ganz unterhalb alles Seelischen」です。「unterhalb」ですから「下に」という意味ですし、それが「ganz」(=全く、すっかり)という副詞で強調されています。

 次です。反応試験についての文脈で、理解試験、連想試験、学習試験、供述試験、作業試験、と5つ列挙している箇所の最後の部分です。途中「こういう試験」とは、上記5種の試験すべてを指していると思われます。

五 加算や、測りうる運動を行う課題、この場合できた成績が測られ、それがいろいろの条件でどう変わるかをみる、作業試験 -こういう試験はどれも精神的な反射弓の各節全体をしらべるこのような成績が出てくるには非常に多くの機能が侵されないでいなければならない。(みすず版124頁、下線は引用者)

五 加算や、測りうる運動を行う課題、この場合できた成績が測られ、それがいろいろの条件でどう変わるかをみる、作業試験 -こういう試験はどれも精神的な反射弓全体の部分部分をしらべる成績が出てくるには非常に多くの機能が侵されないでいなければならない。(代案、下線は変更箇所)

 次です。

第一節 精神物理的装置の作業(作業心理学)(みすず版邦訳127頁)

 「精神物理的」という訳語はこの後何度も出てきますが、普通に考えて「精神生理的」でしょう。みすず版訳文でも、124頁では「精神生理学的」とされてもいます(ただしそこでの「学」の一文字は余計です)。

 次は単なる訳し落としと思われる箇所です。

狭義の理解というと、失認とはっきり区別はできないが、単に機能的な障害で、同時にあらゆる感覚領域に現れ、精神生活全体と関連しているものをいう。(みすず版邦訳129頁、下線は引用者)

狭義の理解の障害というと、失認とはっきり区別はできないが、単に機能的な障害で、同時にあらゆる感覚領域に現れ、精神生活全体と関連しているものをいう。(代案、下線は変更箇所)

 なお、ここらへんでは「Ausfassung」の訳語として「理解」が用いられていますけれど、みすず版の138頁あたりでは「把握」と訳されるように変わってしまいます。

 次です。

精神的なものは無数の要素に分たれて、あとからあとからと鎖のようにつながって意識の中を通って行くと考えられる。この要素は何らかの意識外の素地を残しておくので、これによってその要素はまた新たに意識されるようになる。精神的なものは皆外からの刺激が、このような素地を動かすことによって現れるのであり、こういう素地は一部は以前の刺激から得られたものである。(みすず版邦訳132頁、下線は引用者)

精神的なものは無数の要素に分たれて、あとからあとからと鎖のようにつながって意識の中を通って行くと考えられる。この要素は何らかの意識外の素地を残しておくので、これによってその要素はまた新たに意識されるようになる。精神的なものは皆外からの刺激か、またはこのような素地の現勢態化か、いずれかによって現れるのであり、こういう素地は一部は以前の刺激から得られたものである。(代案、下線は変更箇所)

 「現勢態化」とした箇所のもとの語は「Aktualisierung」ですが、ほかに良い訳は思いつきませんでした。

 また、「素地」と訳されているのは「Dispositionen」です。普通の訳では「素因」となりますが、この文脈では、フロイトの概念でいえば「痕跡」のようなものを指しているようで、たしかに「素因」ではぴったり来ないので「素地」もそれなりに良い訳語と思います。ただ、次のような箇所(みすず版140~141頁)にも同じ語がつかわれているのに統一されていないのが残念です。

・・・第二の場合には連合はできるようになっているが「分裂」があるのであって、このものはヒステリー機構によるものであるので、後で詳しく述べる。[→連合的な素地] 

このように、よくみられる普通の記憶障害でも、再生能力と、記憶の大きな貯蔵庫と、記銘力を分けることができる。[→記憶の素地]

記憶の貯蔵は時のたつにつれて消失し、われわれは忘れるのである。[→記憶の素地]

 次です。

精神病者の非常に多数の、奇妙な運動現象は二つの側からしらべられる。患者の異常な精神生活と意志意識の正常な結果が妙な運動として現れることもある。こういう関連がわかれば、その運動は「行為」や「表情運動」であって、それをわれわれは了解するのであり、たとえば喜びのわき出る躁病患者の運動欲や、不安な人のじっとしていられない状態のごときである。(みすず版邦訳143頁、下線は引用者)

 144頁の「運動性興奮の状態は運動心迫というが・・・」と訳語を統一して、下線部は「運動心迫」の一語に変更するのが良いでしょう。

 次です。

特発性に談話が出てきて、自我はそれに対して傍観者の態度をとるものは、現象学の章の欲動と意志の項の最後に、ある一人の患者の唸りの状態のところで述べた。(みすず版邦訳152頁、下線は引用者)

 はじめの「特発性」は原語で「spontan」で、みすず版146頁などに合わせて「自発性」が良いでしょう。二つ目の下線部は、原書では、「72ページに」と、頁番号(もちろん原書の)を明示しています。みすず版は、おそらく訳文作成の段階では書籍化されるときの頁番号が未定だからゆえの表現でしょう。これに対応する箇所は、みすず版邦訳では96~97頁にある、シュレーバー回想録からの引用部分です。これは「欲動と意志の項」のなかでは最後の引用文ではなく最後から二番目の引用文ですから、上のみすず版邦訳は不正確でもあります。訂正すると以下のようになります。

自発性に談話が出てきて、自我はそれに対して傍観者の態度をとるものは、96~97頁の、ある一人の患者の唸りの状態のところで述べた。(代案、下線は変更箇所)

 ちなみにシュレーバー(現代の診断基準でも日本の精神病理学者の診断でも、ふつう統合失調症とされます)の回想録はこの本で何度も引用されていますが、ヤスパースは彼を「パラノイア者」としています。

 次は上の関連箇所です。

カンディンスキーのいうところによると、時に患者は語誦をしようという気が強迫的に起こることを強く感じることもある(これは上に述べたドリニンの唸りの状態や特発性の談話と同様のものである)。(みすず版邦訳153頁、下線は引用者)

カンディンスキーのいうところによると、時に患者は語誦衝動が強迫的に起こることを強く感じることもある(これは上に述べたドリニンの唸りの状態や自発性の談話と同様のものである)。(代案、下線は変更箇所)

 なお、この「語誦」は巻末索引では「語唱」という表記になっていますし、173頁などでは本文でも後者の表記が使われています。

 ついでにいえば、この前後には「談話欲」という表現もよく出てきますが、他の箇所と統一性を図るなら「談話心迫」とすべきです。

 では次です。

 疲労性、回復性、練習能力、練習根気、転導性、習慣性、気乗りなどという素因は精神物理的機構の基本性質で、クレペリンは人格という。(みすず版邦訳158頁)

 疲労性、回復性、練習能力、練習根気、転導性、習慣性、気乗りなどという素質は、精神生理的機制の基本性質(クレペリンは人格という)として理解すべきである。(代案)

 「素因」とか「精神生理」についてはすでに述べました。もうひとつ、「機構」は、ほとんどの箇所で「Mechanismus」の訳語なので「機制」が良いと思います。精神医学上の慣用として、たとえば「ヒステリー機制」のほうがしっくりきます。

 全体を通しての問題としては、Konstitution、Disposition、Anlage、Veranlagungといった語が、「素因」「素質」「素地」「体質」「でき」「たち」「もちまえ」などの訳語に、ほとんど規則性なしに対応させられているので、文脈的なつながりが見えづらい箇所が多々あると感じました。私の語感としては上の四つにはそれぞれ順に「体質」「素因」「素質」「資質」とあてておくとだいたいの箇所で意味が通ると思います。

精神病理学原論 
カール ヤスパース (著), Karl Jaspers (原著), 西丸 四方 (翻訳)
みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

Allgemeine Psychopathologie Ein Leitfaden Fur Studierende, Arzte Und Psychologen (1913) Karl Jaspers (ペーパーバック - 2009/11)

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