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2012年1月

2012年1月29日 (日)

フロイト全集19から『制止、症状、不安』第7章

 岩波版の第7章の検討に進みます。

それゆえ、動物恐怖症の不安は、自我の危険に対する情動的反応である。ここで信号化される危険とは、去勢の危険である。(岩波版54頁)

 「自我の危険に対する情動的反応」の箇所ですが、「自我の」は、「危険」ではなく「反応」にかかります。日本語表現でそれを強調するとしたら「危険に対する、自我の情動的反応である」とでもすると良いかもしれません。

 また、「ここで信号化される危険」の箇所は原文で「die Gefahr, die hier signalisiert wird」なので、むしろ危険は信号で伝えられる内容であって、危険そのものが信号になるわけではないと思います。ですので「signalisieren」の訳としては「信号で知らせる」というのが素直で、上の箇所の訳としては「ここで信号で知らされる危険」とでもすべきでしょう。

 ところで、岩波版では、次の二箇所では「注意喚起の信号を送る」という訳がなされています。

症状は、不安の増長によって注意喚起の信号を送られる危険状況を避けるために作り出されるのだ、と言ったほうがより正しい。(岩波版56頁、下線は引用者)

こうして私たちには、不安は情動として注意喚起の信号を送るのみならず、状況の経済論的諸条件を出発点に新たに生み出されることになる、という第二の可能性をまのあたりにするのであることも考え併せねばならない。(岩波版58頁、下線は引用者)

 「信号で知らせる」とするにせよ「注意喚起の信号を送る」とするにせよ、もともと一語の動詞であった語なのに、「信号」という名詞を含む表現に訳してしまうと、意味は正しくても読みにくくなってしまうきらいがあります。私としては、上の3箇所はいずれも受動形なので、「信号される」という一語で訳しておいて、「信号」には「しら」というルビを振って、「知らされる」と読ませるのがシンプルでよいと思います。このブログではルビを振れないので、次のように表記しておきます。

それゆえ、動物恐怖症の不安は、危険に対する、自我の情動的反応である。ここで信号される[=知らされる]危険とは、去勢の危険である。(岩波版54頁の代案、下線は変更箇所)

症状は、不安の増長によって信号される[=知らされる]危険状況を避けるために作り出されるのだ、と言ったほうがより正しい。(岩波版56頁の代案、下線は変更箇所)

こうして私たちには、不安は情動として信号される[=知らされる]のみならず、状況の経済論的諸条件を出発点に新たに生み出されることになる、という第二の可能性をまのあたりにするのであることも考え併せねばならない。(岩波版58頁の代案、下線は変更箇所)

 次の箇所は、前後の文脈には波及しない短い箇所ですし、代案も並べて紹介します。

こうした限定が選択されるに際しては、彼の神経症すべてを支配しているさまざまな小児的な契機の影響が示されている。(岩波版55頁)

こうした限定が選択されるに際しては、神経症によって彼を支配しているさまざまな小児的な契機の影響が示されている。(代案)

 さらに次へ行きます。これも一文で完結する箇所なので、代案とまとめて紹介します。

しかし、超自我のいかなる側面を自我が恐れているのか、と問うならば、超自我による懲罰は去勢懲罰から発展的に形成されたものである、という考え方が浮かび上がる。(岩波版56頁)

しかし、超自我の側からの何を自我が恐れているのか、と問うならば、超自我による懲罰は去勢懲罰から発展的に形成されたものである、という考え方が浮かび上がる。(代案)

 最後は日本語の問題です。

私たちは不安を、これまでは危険の情動信号と見なしてきたが、今では不安は、去勢の危険に関することが非常に多い点からして、喪失、分離に対する反応であると私たちには見える。この結論に反するようないくつかの事柄も、これはすぐ後で示されるが、私たちは極めて奇妙な一致があることに驚かざるを得ない。(岩波版58頁)

 引用箇所の二文目の意味が私には読みとりにくいので、次のように提案します。

この結論に反するようないくつかの事柄 -これはすぐ後で示される- もあるかもしれないが、私たちは極めて奇妙な一致があることに驚かざるを得ない。(代案)

 なお、上に引用した一文目に含まれる「分離Trennung」は、たとえば41頁などで「欲動の分離」という際に用いられた「Entmischung」とは原語が違いますし、別の訳語、「分断」「切離」などが良いのではないかと思います。これは同じ58頁に何度も登場します。

 訳語について最後にまとめて指摘しておきます。52頁2~3行目の「結びつき」は他の箇所と統一するなら「拘束」とすべきです。逆に53頁の8~9行目の「制止」は、他の箇所で「制止」と訳されている語ではないので別の語にすべきで、「阻害」ぐらいが良いでしょう。同じく53頁14行目の「危機」は「危険」に、58頁1行目の「刺激量」は、「興奮量」とすべきです。

 蛇足ですが、次の引用箇所の「直接的direkt」の箇所は、私が使っているFISCHER社のポケット版の原文では「間接的indirekt」とありました。ネットでは「direkt」と書かれた原文が探せたので、おそらく岩波版のままで正しいでしょう。

不安を自我の危険に対する反応であるとみるならば、生き延びることができた生命の危険に引き続いて起こることが非常に多い外傷性神経症を、生命の不安あるいは死の不安の直接的帰結としてとらえるのは自然で、この場合、自我の依存性や去勢は考慮に入れられない。(岩波版56~57頁)

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻) 

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

2012年1月15日 (日)

フロイト全集19から『制止、症状、不安』第6章

 この論文の岩波版の検討を続けてきましたが、今回は第6章に進みます。

強迫神経症儀礼は、なかったことにする、という意図にその第二の根を持っている。第一の根は、ある特定の事柄が起こらないように、あるいは反復しないように、という予防であり用心である。両者の差異は容易に把握できる。用心の措置は合理的であり、なかったことにすることで「棚上げ」するのは非合理的で、魔術的性質のものである。むろんこの第二の根の方がより古いもので、環境世界に対するアニミズム的態度に由来するものだと想定しなければならない。なかったことにすることへの努力は、出来事を「《起コラナカッタ》」こととして扱うその決然とした仕方において、正常なものに対して際立った様相を呈するが、しかし、そこから先なんの対抗策もとられることなく、出来事もその帰結も気にされることがない。他方で神経症においては、過去を自ら解消し、身体運動によって抑圧しようと努める。(岩波版47頁、下線は引用者が付した)

 一つ目の下線部「(なかったことにすることへの努力は)正常なものに対して際立った様相を呈する」は、原文では文頭にあり、「seine Abschattung zum Normalen findet」です。文頭にある以上、「seine」は、前文の「第二の根」を指していると思われます(もちろん「アニミズム的態度」の可能性もありますが、前文全体が「第二の根」について語っているのでこちらをとります)。さらに「Abschattung」を辞書で引くと、「1)abschattenすること 2)輪郭、シルエット」(小学館独和大辞典)、「1)輪郭、略図 2)陰影、《哲》射映」(博友社大独和辞典)とあり、動詞「abschatten」は「1)…に陰影〈濃淡〉をつけ[て際立たせ]る 2)暗くする、影にする 3)…の輪郭〈シルエット〉を描く」(小学館)、「1)輪郭〈略図〉を描く 2)陰影〈濃淡・ニュアンス〉をつける」(博友社)とあります。私はここを、「第二の根は正常なものにも影を落としている」、つまり正常者にもその痕跡が認められるという意味だと考えます。よって下線部について以下のように代案を提案します。

[正常なものが]出来事を「《起コラナカッタ》」こととして扱おうという決心の際の、なかったことにすることへの努力において、第二の根が正常なものにも影を落としている。しかし、[正常なものでは]そこから先なんの対抗策もとられることなく、出来事もその帰結も気にされることがない。(代案)

 これの次の文で下線を付した「身体運動によって抑圧」の箇所ですが、ここは「抑圧」の原語「Verdraengung」の意味に帰って、「押しのけ」「排外」「圧排」といった意味を念頭に置かないと、なかなか腑に落ちないところだと思います。日本語の「抑圧」という語は、心の奥底へ押さえつけるといったニュアンスで読んでしまいがちですので注意が必要でしょう。この段落の最後の文(引用箇所よりもはるか後ろ)の「抑圧」もそうです。

 その次の段落には「その連想的諸連関は抑圧されるか中断されて」という部分(48頁10行目)がありますが、そこで「抑圧」と訳されている語は原書で「unterdruecken」なので「禁圧」か「抑え込む」(←岩波の全集では多くの論文でこれが使われている)ぐらいが良いでしょう。

 次です。

正常な集中の過程は、神経症のこのような手続きにかこつけてなされている。(岩波版48頁)

 これは主語と目的語が逆です。

神経症のこのような手続きは、正常な集中の過程にかこつけてなされる。(代案)

 この短い段落の問題点はこれぐらいだと思います。

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻)

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

 今年のセンター試験の国語の問題は木村敏でしたので、新聞の問題文を読んでみました。私はいつも木村敏の自己論はまさしく国語の問題にすぎないという気がしてるんですが、この問題文の内容からもやはりそういう印象を受けました。

2012年1月 5日 (木)

フロイト全集19から『制止、症状、不安』第5章(2)

 あけましておめでとうございます。今年は、再び我々の生活を大きく脅かすような出来事がないことを切に願っています。

 見通しをつけづらい論文、『制止 症状 不安』の岩波版を、行きつ戻りつしながら読み進めていますが、結局、5章以降は原文と一字一句照らし合わせてみることにしました。すでにこのブログでは、5章の翻訳上の問題を取り上げたことがありましたが、原書と突き合わせてまた新たに見つかった点を紹介します。

また、強迫神経症においては、いつも、その最下層において極めて早期に形成されたヒステリー症状が見出されるようである。しかし、それ以降の形成は、ある体質的要因によって決定的な仕方で変容させられる。リビードの性器的編成は、脆弱で、あまりにも抵抗力を欠いていることが明らかとなる。自我が、自らの防衛努力を開始した際に自我が手にする最初の成果は、自我が、(ファルス期の)性器的編成が完全に、あるいは部分的に、それ以前のサディズム肛門期へと逆戻りさせられる、ということである。(岩波版40頁、下線は引用者)

 これは誤植のようで(私はどうして一度目に読んだとき気づかなかったのでしょう)、三つめの「自我が」を省いてください。なお、その直前の「成果Erfolg」は、41頁10行目で同じ事態が説明される際には「戦果」とされています。

 次の問題点に移ります。

早期小児期の自慰を続けようとする誘惑は、容赦なく厳禁され、それゆえにまた必ずしも成功せず、退行的(サディズム肛門的)表象に依拠するようになる。他方でその誘惑はまた、ファルス的編成への抑えつけようのない関与を代理表現している。(岩波版42頁、下線は引用者)

 この訳文では、「成功せず」の主語は「誘惑」であるかのように読めますが、原文は違います。

早期小児期の自慰を続けようとする誘惑は、容赦なく -だからといって必ずしも成功しないが- 厳禁され、いまや退行的(サディズム肛門的)表象に依拠するようになる。他方でその誘惑はまた、ファルス的編成の克服されていない関与を代理表現している。(代案、下線は変更箇所)

 二つ目の下線部は、何が何に関与しているかという事項関係に関する訂正と、「bezwingen」の訳語を岩波版40頁8行目と統一するという点で変更しました。

 次です。

なぜなら、まさしく抑圧された自慰が強迫的行為という形で、満足への接近をどこまでも追求するからである。(岩波版42頁、下線は引用者)

 いつものことですが、「抑圧」は「verdraengen」の定訳なので、ここの「unterdruecken」は「禁圧する」とか、岩波の全集のたとえば『精神分析概説』など多くの後期論文で用いられていた「抑え込む」といった訳にしたほうが良いでしょう(岩波版44頁6行目の「抑圧」も同様です)。二つ目の下線部については些細な変更かもしれませんが一応直しておきます。

なぜなら、まさしく抑え込まれた自慰が強迫的行為という形で、満足へのかぎりない接近を掴み取るからである。(代案、下線は変更箇所)

 次です。

ヒステリーの防衛過程は抑圧に限定され、そこでは、自我は好ましくない欲動の蠢きを避けて、無意識の経過にこれを委ね、その運命にこれ以上関与しない。もちろん、このことが唯一正しいわけではないが、実際、私たちは、ヒステリー症状が同時に超自我の懲罰要求の満足を意味するような症例を知っている。(岩波版42頁、下線は引用者)

 下線部の日本語表現からすると、その後には、ヒステリーの防衛過程が抑圧に限定されているような例が挙げられるであろうと思えますが、そのあと実際に挙げられているのは、ヒステリーが抑圧以外の役割を果たすような例です。以下のように訂正します。

ヒステリーの防衛過程は抑圧に限定され、そこでは、自我は好ましくない欲動の蠢きを避けて、無意識の経過にこれを委ね、その運命にこれ以上関与しない。もちろん、このことが唯一正しいわけではない。というのも、実際、私たちは、ヒステリー症状が同時に超自我の懲罰要求の満足を意味するような症例を知っている。(代案、下線は変更箇所)

 次です。

かくして、一方では幼児期の攻撃的な蠢きが再び目覚め、他方では新たなリビード的蠢きの、程度差はあっても大きな部分 -最悪の場合にはその全部- が、退行によって予め敷かれた軌道に従い、攻撃的で破壊的な意図として登場する。このような性愛的要求の仮装と、自我における強い反動形成の帰結として、ここに性欲に対する闘いが、倫理的な旗幟のもとで継続される。(岩波版44頁、下線は引用者)

 下線部ですが、原文では「Infolge dieser Verkleidung der erotischen Sterebungen und der starken Reaktionsbildungen im Ich」とあり、2つ目の「der」は、「Reaktionsbildungen」が複数形ですから2格であり、「der erotischen Sterebungen」と同格です。岩波版ではこの「der」を誤って3格と解したようで、「dieser Verkleidung」と同格であるかのように訳されています。この点を改めて(ついでに私なりの訳語選択で「Strebung」を「要求」ではなく「志向」と訳して)、以下のように提案します。

かくして、一方では幼児期の攻撃的な蠢きが再び目覚め、他方では新たなリビード的蠢きの、程度差はあっても大きな部分 -最悪の場合にはその全部- が、退行によって予め敷かれた軌道に従い、攻撃的で破壊的な意図として登場する。性愛的志向と自我における強い反動形成とのこのような仮装の帰結として、ここに性欲に対する闘いが、倫理的な旗幟のもとで継続される。(代案、下線は変更箇所)

 次の箇所で今回の最後にしましょう。

この疾病を最初から支配していた、エスと超自我との間の極度に先鋭化された葛藤は、無力で媒介しえない自我がどのような方策を用いても、それに巻き込まれることから逃れようがなくなるほどに拡張することもある。(岩波版44頁、下線は引用者)

 下線部「zur Vermittlung unfaehig」ですが、「(エスと超自我とを)調停しえない」ということでしょう。

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻)

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

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