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2012年2月

2012年2月 7日 (火)

フロイト全集19から『制止、症状、不安』第8章

 岩波版の第8章の検討に進みます。前の2つの章と比べ、この章には直すべきと思える箇所が非常に多く見つかったので、今回は長くなりました。一つ一つはさほど読解に影響しなかったりもするので、どこまで拾い上げたらよいかも迷いました。

 まずは次の箇所から。

私たちは、不安の本質私たちに解明してくれるようなひとつの認識を求めている。つまり、不安について、その真実と誤謬を区別してくれるような〈あれか、これか〉を求めている。しかし、これを得るのは困難であり、不安を把握することはそれほど容易ではない。(岩波版59頁、下線は引用者が付した)

 一つ目の文の「不安の本質が私たちに解明してくれる」は、原文を見ると「不安の本質を私たちに解明してくれる」とも取ることができます。文法的にはどちらも可能ですが、直後の二文の内容と見比べてみれば、「不安の本質を」と解釈せざるを得ません。

 次は文脈に関する点なので段落全体を引用します。

不安の原因を出生という出来事に求めるなら、当然予測される反論に対して弁護する必要がある。反論とはこうである。不安はおそらくあらゆる生物、少なくともあらゆる高等生物に起こる反応であり、出生を体験するのは哺乳類に限られるので、出生が全ての哺乳類にとって外傷の意味を持つとするのは疑問である。つまり、出生をその手本としない不安というものがある、と。しかし、この反論は、生物学と心理学の間の垣根を越えて立てられている。不安が危険の状態に対する反応として生物学的になくてはならない機能を果さねばならないという、まさにそれゆえにこそ、不安はさまざまな生物において、さまざまな仕方で準備されていなくてはならない。人間とかけ離れた生物にあって、私たちには、不安の感覚と神経支配が人間の場合と同じものなのかどうかもわからない。だからといって、人間にあっては不安の原型は出生過程にあるとする考え方が妨げられるわけではない。(岩波版61頁9~10行、下線は引用者が付した)

 「だからといって」は原文で「also」ですが、「それゆえ」に訂正しないと段落全体の論理が理解困難と思います。

 次です。

個人がある新たな危険状況に陥った際、その時点での危険に見合った適切な反応を示す代わりに、不安状態すなわち昔の危険に対する反応でもって応えるなら、容易に目的にかなったものではなくなってしまう。しかし、危険状況が切迫していると認識され、不安の噴出という信号で注意喚起されるならば、そこには再び合目的性が見いだされる。(岩波版62頁、下線は引用者が付した)

 「signalisieren」という動詞については前回も取り上げました。ここでは「信号で注意喚起する」という訳になっていますが、フロイト理論で「注意Aufmerksamkeit」という語は一つの特殊な働きを指しますので、このように別の語を訳す際の補足としては用いない方が良いです。前回述べたように、「信号される」と訳しておいて「知らされる」とルビを振るのがよいと個人的には思いますが、とりあえず下線部について、「不安の噴出によって信号される[=知らされる]ならば」という代案を提案しておきます。なお、引用しませんでしたが、3行後ろの名詞「注意喚起」も「信号」とすべきです。

 次へいきましょう。

出生の危険と言う時、その語にまだ心的な内実は全くない。確かに私たちは胎児に関して、それが生命の破滅というあり得べき帰結について何か知識らしいものを持つと前提とすることはできない。胎児に気づくことができるのは、彼のナルシス的リビードの経済における巨大な障碍にほかならない。巨大な興奮量が彼のもとに押し寄せ、新種の不快の感覚を生み出し、少なからぬ器官が無理に備給を高め、それは程なく始まる対象備給の序曲のようなものである。このうちのどの器官が「危険状況」を印づける目印として用いられることになるのだろうか。(岩波版62頁)

 下線部「was davon」を、「このうちのどれ」に変更すべきと思います。つまりここは前の文の全体を指しているのであって、「少なからぬ器官」のみを指しているのではないと思います。

 次です。

憧れの人物の想起像は間違いなく強く備給され、恐らく当初は幻覚のように備給されるのだろう。しかしそれは実を結ばないので、まるでこの憧れが不安へと転じるかのように見える。あたかもこの不安が困惑の表現であり、まだまだ未発達の人間が、この憧れの備給で事情をどう好転させたらよいのか皆目わからずにいるかのような印象を与える。つまり、不安は対象の不在に対する反応であると思われる、そして以下のことを私たちに類推させられる。すなわち、去勢不安もまた、貴重と思われていた対象からの分離を内実とし、そして、根源的な不安(出生の「原不安」)は母親からの分離の際に出現する、と。(岩波版64~65頁)

 「ersehnen」は辞書では「待望する」ですし、「Sehnsucht」を「思慕」として訳し分けるよう代案を提案します。他にも、最後の一文は現在と過去がひっくり返っていたりと、細かい不適切箇所があります。

待望される人物の想起像は間違いなく強く備給され、恐らく当初は幻覚のように備給されるのだろう。しかしそれは実を結ばないので、まるでこの思慕が不安へと転じるかのように見える。あたかもこの不安が困惑の表現であり、まだまだ未発達の人間が、この思慕の備給をうまく扱う術を皆目わからずにいるかのような印象を与える。つまり、不安は対象の不在に対する反応であると思われる、そして以下のことを私たちに類推させられる。すなわち、去勢不安もまた、貴重と思われている対象からの分離を内実とし、そして、根源的な不安(出生の「原不安」)は母親からの分離の際に出現した、と。(岩波版64~65頁)

 ここで「分離」とされているのは全て「Trennung」の訳なので、前回も論じておいた理由から、「分断」とか「切断」が良いと思います。

 次は岩波版のままでも良いかなと思いましたが、一応、代案と並べて紹介しておきます。

外部の対象が、知覚によってとらえられ、出生時を喚起するような危険な状況に終止符を打ってくれる・・・(岩波版65頁)

知覚によってとらえられうる外部の対象が、出生時を喚起するような危険な状況に終止符を打ってくれる・・・(代案)

 次。

まず当初、自分の体を新たにしつらえることによって胎児の欲求をすべて満たしていた母親は、子供の出生後も同じ機能を部分的に、別の手段によって継続する。(66頁、下線は引用者が付した)

 下線部「durch die Einrichtungen ihres Leibes」は、「自分の体のいくつかの仕組みによって」ぐらいでよいです。

 次の箇所は、細かな訂正点の連続なので、まず代案と並べてみてもらいましょう。

対象喪失という不安の条件は、今後も引き続き大きな影響力をもつ。次に引き続く不安の変容はこれもまた去勢不安で、ファルス期に出現する。この去勢不安は分離への不安であり、同じ条件に結びついている。ここでの危険とは、性器が分離されてしまうことである。フェレンツィの至極正当な思考の道筋によって、私たちはここにおける早期の危険状況の内実との関連をはっきりと知ることができる。ペニスに対する高いナルシス的な評価は、この器官を所有することが、性交行為において母親(母親の代替物)と再び合一するための保証を含意する、という点に基づくであろう。男根が剥奪されてしまうことは、母親との新たな分離を示唆することにほかならず、それゆえ再び(出生の時のような)不快に満ちた欲求の緊張に寄る辺なく晒されることを意味する。しかし、その亢進が恐れられている欲求は、特殊化されたもの、すなわち性器的リビードの欲求であって、もはや乳児期のような恣意的なものではない。(岩波版66~67頁、下線は引用者が付した)

対象喪失という不安の条件は、今後も引き続き大きな影響力をもつ。次に引き続く不安の変容は去勢不安で、ファルス期に出現する。この去勢不安はこれもまた分離への不安であり、同じ条件に結びついている。ここでの危険とは、性器が分離されてしまうことである。フェレンツィの至極正当な思考の道筋によって、私たちはここに、危険状況のより早期の内実との関連をはっきりと知ることができる。ペニスに対する高いナルシス的な評価は、この器官を所有することが、性交行為において母親(母親の代替物)と再び合一するための保証を含意する、という点に基づくであろう。男根が剥奪されてしまうことは、母親との新たな分離を示唆することにほかならず、それゆえ再び(出生の時のような)不快に満ちた欲求の緊張に寄る辺なく晒されることを意味する。しかしいま、その亢進が恐れられている欲求は、特殊化されたもの、すなわち性器的リビードの欲求であって、もはや乳児期のような任意のものではない。(代案、下線は変更箇所)

 ここには、あえて訂正しませんでしたが訳語の問題もありまして、上にも触れたように「分離」を「分断」か「切断」ぐらいにすべきであるのと、「男根」はふつう「ファルス」の訳として用いられる同義語なので、上の引用の後ろから二つ目の文にある「男根Glied」には「陰茎」の訳語が良いと思います。

 次は論文タイトルにもある「制止」という語の訳語の統一性にも関わってくる箇所です。

一つ目は、エスにおいて、自我に対し危険状況の一つを賦課する何ものかが生じ、制止のために、これが自我に対し不安信号を送るように駆り立てる場合である。(岩波版68頁)

一つ目は、エスにおいて、自我に対し危険状況の一つを賦課する何ものかが生じ、したがって自我が、阻害のために不安信号を送るように駆り立てられる場合である。(代案)

 次も語句レベルの訂正点なので、代案と並べて紹介します。

すなわち、禁欲や、性欲の蠢きの流れがその乱用によって阻害される場合、また、性欲の蠢きがその心的加工から逸脱する場合には、不安が直接リビードから生じる。(岩波版69頁、下線は引用者が付した)

すなわち、禁欲や、性的興奮の経過がその乱用によって阻害される場合、また、性的興奮がその心的処理から転導される場合には、不安が直接リビードから生じる。(代案、下線は変更箇所)

 次も主に訳語の統一性についてです。

その場合は恐らく、不安を一時的に宙づりにしておくことを学び取っている自我はそこから逸れ、次いで症状形成によって不安を縛り付けておこうと試みるのである。(岩波版69頁、下線は引用者が付した)

 はじめの下線部は原文で「ersparen」で、この論文の岩波版では、45頁1行目「省略する」や13行目「せずに済ませている」、51頁1行目「なしで済ませた」といったあたりに既出の語です。二つ目の下線部「binden」は他のほとんどの箇所で「拘束する」と統一されています。

その場合は恐らく、不安を一時的に宙づりにしておくことを学び取っている自我は、この不安をなしで済ませ、次いで症状形成によって不安を拘束しようと試みるのである。(代案、下線は変更箇所)

 次の箇所は、ややこしいので代案も並べて示しましょう。

心的な寄る辺なさという危険は、自我の未熟な時期と対をなす。例えば、対象喪失の危険は小児期のはじめにおける自立の欠如と、また、去勢の危険はファルス期と、超自我への不安は潜伏期とそれぞれ対をなす。他方で、これらの危険状況と不安条件が全て並列的に存続し、自我に不安反応を引き起こさせる。それは、本来の相応しい時期よりも遅い時期のこともあれば、それらのいくつかの時期が同時に作用することもある。(岩波版69~70頁、下線は引用者が付した)

心的な寄る辺なさという危険は、自我の未熟な時期と対をなす。例えば、対象喪失の危険は小児期のはじめにおける自立の欠如と、また、去勢の危険はファルス期と、超自我への不安は潜伏期とそれぞれ対をなす。他方で、これらの危険状況と不安条件が全て並列的に存続し、本来の相応しい時期よりも遅い時期に自我に不安反応を引き起こさせうるあるいはそれらのいくつか[のみ]が同時に作用することもある。(代案、下線は変更箇所)

 原文を見る限り、岩波版の訳のように「遅い時期か、いくつかの時期か」という択一ではなく、「全ての時期か、そのいくつかの時期か」という択一のようです(Aber es koennen doch alle diese Gefahrsituationen und Angstbedingungen...[略], oder es koennen mehrere von ihnen...[略])。

 次が最後ですが、ここも代案と並べて見ていただきます。最初の下線部は、フロイトの他の著作のいくつかで繰り返し論じられている点です。

これまでは、抑圧過程のうち、意識と運動の間の妨害と、代替物(症状)形成という、自我に向いた側に目を向けるだけで事足れりとして、抑圧された欲動の蠢きに関してすら、それが無意識において未規定の形で長期に変化せぬまま存続する、と想定していた。(岩波版71頁註、下線は引用者が付した)

これまでは、抑圧過程のうち、意識や運動への妨害と、代替物(症状)形成という、自我に向いた側に目を向けるだけで事足れりとして、抑圧された欲動の蠢きに関してすら、それが無意識においていつまでも長く変化せぬまま存続する、と想定していた。(代案、下線は変更箇所)

 最後に訳語についてもう少し補っておきます。まず59頁14行目の「分離」は、ここまで区別すべきと論じてきた「Entmischung」「Trennung」のいずれとも違い、原文で「Isolieren」ですので、まあ「単離」ぐらいに訳しておくと良いと思います。次いで60頁1行目で、不安が呼吸や心拍に影響を与えることについて「運動性の神経支配、つまり放散過程」と書かれている部分は、私の訳語選択では「運動出力性の神経伝達、つまり放散過程」としたいところですし、ここ以外にもいくつかでてくる「運動性」「神経支配」の語はみな「運動出力性」「神経伝達」がよいでしょう。「神経支配」というと、解剖学的・静的な構造を指すように思えてしまいます。今回の記事の最後の引用箇所、71頁の註の「意識や運動への妨害」も、「意識や運動出力への妨害」がいいと思います。

1925-28年 否定 制止,症状,不安 素人分析の問題 (フロイト全集 第19巻) 

フロイト (著), 加藤 敏 (編集)

出版社: 岩波書店 (2010/6/26)

 FISCHER社のポケット版では、岩波版59頁11行目の 「さまざまな不快な情動」の箇所が「Verlustaffektenさまざまな喪失情動」になっていまして、意味からして明らかに誤りと思います。実際、ネットで読める原文では「Unlustaffekten」となっていまして、そちらが正しいでしょう。前の章にも誤植と思われる箇所があったことをここに書きましたが、この論文に関してはFISCHERのポケット版はあまり信用してはいけないかもしれません。このシリーズは、他の論文ではほとんど誤植に気づくこともありませんし、入手容易で持ち運びも軽く重宝しているのですが。

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