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2012年6月11日 (月)

意識性の概念

 ヤスパースの意識性/覚性という概念は、なかなか臨床的に使えるような理解に到達しがたいものです。実体的意識性というタームは有名ですが、ヤスパースが挙げる例に近い患者を診たことがありません。入院している患者で、「病棟の外に誰かが迎えに来ている」と主張するひとは時々居ますが、その誰かの存在を、病棟の外にありありと感じているとすれば、近い症状といえるかもしれません。

 今回、ヤスパースの当該箇所を読み直してみました。

「たとえば速やかに本を読んでいる時のごときである。われわれは文句の意味をはっきりと知っているが、そこでいう対象を目で見えるように表象してはいない。このようにある内容を目で見えないように、心像なしに、心に現していることを、意識性と呼ぶ。」(同書43頁)

 この、本を読んでいるときのように知覚もイメージも持たずに知る、という説明からして、私は、ヤスパースの言う意識性とは、内言語による思考のことであるとしか考えられません。それは例えば次の一節からも明らかです。

「知覚にはいつも何かの意味の意識が伴っている。家は人が住むためにそこに建っており、町を歩く人々は買い物に一所懸命であるなど。このような意味は我われの知覚では我われにはっきりとは意識されていないが、何らかの形の意識性としてやはりちゃんとあるのである。この意味意識が病気の場合に妙に変化するのである」(『精神病理学原論』67頁)

 我われは外部の事物を知覚するさい、内言語表象による認識が絶えず同時発生していますが、上の箇所を読む限りではこの正常の事態が「意識性」と呼ばれるようです(としか考えられない)。

 この意識性にはさらに二種類が区別される。

「このもの[意識性]はまたしても知覚と同じように実物的であることがあり、たとえば自分の後ろに誰かいるなと知るごときで、この場合その人を知覚も表象もしていないのである(このことを普通誰かがいるという感じという)。あるいはまた表象と同じように単に思考的な意識性であることもあるが、これは普通いくらもあるものである。」(同書43頁)

 先に知覚でも表象でもないといっておきながら、ここでは「知覚と同じように実物的」な場合と「表象と同じように単に思考的」な場合とに分けているのはやや理解困難ですが、ここでは(フロイトのW-Bw系を思い出しつつ)、知覚と同様に外部に定位する場合と、意識の内部のものとして捉える場合とに分けているのであろうと思います。

 ここでは大まかにいって言語表象の二つの側面、すなわち、さまざまな知覚物を言分けし差異を示すという面と、内言語として日常的に我われが意識的思考に用いうるという面という二面が扱われているように思えます。しかしこの二つの用法が必ずしも峻別できず混線が生じること、そして正常者はこの混線をほとんど無視することに成功しているが、精神病においてはこの混線がさまざまな症状を生むということが、ラカンの『精神病』のセミネールの主眼のひとつであろうとも思います。

精神病理学原論 
カール ヤスパース (著), Karl Jaspers (原著), 西丸 四方 (翻訳)
みすず書房; 限定復刻版 (1971/01)

Allgemeine Psychopathologie Ein Leitfaden Fur Studierende, Arzte Und Psychologen (1913) Karl Jaspers (ペーパーバック - 2009/11)

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