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2012年8月 6日 (月)

テレンバッハ『メランコリー』(13)

 このところ職場では、下田門下(躁うつ病の病前性格として執着性格を主張)の研究論文の症例を読み合わせていますが、そうすると、テレンバッハ(うつ病の病前性格としてメランコリー型性格を主張)の主著『メランコリー』がまた気になってきたので、その症例をまた取り上げてみましょう。症例12まで順に扱ったところで放ってありましたから、今回は症例13を取り上げます。

<症例1363歳の女性患者マリーア・Schは、1959年に重い自律神経症状を伴う悲哀メランコリーで初めて入院してきた。入院時に聞いたところによると、彼女は胆石の診断をうけ、治療がうまく行かずに手術をすすめられていた。手術をうけることには何の不安もなかったと述べている(!)。しかし、手術後も彼女の状態は改善しなかったらしい。ある日、不安感が下の方から首まで上ってきて、それは日を追ってひどくなった。《まるで自殺するよりほかに道はないといった感じなのです》。退院後、彼女は手術を受けたということで自分を責めはじめた。自分の現在の状態はすべて手術のせいだ、と彼女は思った。彼女の夫は、6週間前に胆嚢の手術で亡くなっていたのである。

 メランコリーから完全に寛解した後に、患者は次のようなことを語ってくれた。彼女はいつも非常に几帳面であった。《特に家ではそうでした。仕事はいつもきれいに、きちんとするのが好きでした。もっと外出(散歩)しなくてはいけなかったのに、几帳面すぎたのですね・・・雑草を見つけると、すぐ抜きたくなってしまうのです》。対人関係をきちんとしておくことがいつも念頭にあって、近所の人と意見が違った場合にも自分の意見は言いたがらなかった。《私は気が小さすぎるんですね・・・そっとやりすごして何もいわないほうをとってしまうのです》。まれに家族の中で意見の相違があっても、彼女はすぐに自分の意見をひっこめた。夫が死亡し、娘が嫁に行ってしまって、彼女は非常に孤独になった。しかし彼女は、いろいろな機会に熱心に慈善事業にうちこんで、そこで対人的な接触を求めていた。

 寛解後の現在では、彼女は手術について次のように述べている。彼女は病院で、家に帰るかそれとも手術を受けるかという問題に直面した。そして知人や親類の人に説得され、必ずよくなるという医者のことばに心を動かされて、すぐ決心がついて《はい》といった。《手術を受けよう、ほんのちょっとしたことなんだ、それで万事は片付くんだ、と考えたのです》。しかしこの決心は、本当はそれほど固いものではなかった。手術の前夜、彼女は《本当は家に帰るべきではなかったか》と考えた。翌朝、彼女は家に帰りたくてしかたがなかった。しかし、事態の流れは彼女から決定権を奪ってしまった。夫が同じ手術の後に死んだのだという考えが浮かんでくるのを、彼女は払いのけた。彼女はまだ、《娘や孫のために生きて》いたかったのである。そこで手術の直前は、よくなるんだ、特に疝痛やいろんな苦痛から解放されるんだ、という考えにしがみついていた。麻酔からさめた後、彼女は自分がひどく衰弱しているのに気づいて失望し、愕然とした。《それから強い痛みがやってきたのです -そんなことは考えてもみませんでした》。そこで彼女は、痛みはもう消えない、死んでしまうのにちがいないと思いこんでしまった。《もう立ち上がれないと思ったのです》。なによりも、ちっとも眠ることができなかった。そのうちに、胸をえぐるような落ち着かない気持ちが襲ってきた。彼女は手術を受けたということで自分を責め、自分の絶望的な病状はすべて手術のせいだと考えた。

 
 この症例で注目されるのは手術前の患者が置かれていた状況、つまり手術への不安と回復の希望とのあいだをしきりに揺れ動いた自問自答の状況である。(略)回復する、つまりとりもなおさず自己実現の可能性が増大するという期待をうらぎって、痛みはまだ続き、遂には死の不安のとりことなってうちひしがれるという結果が残った。(下線は引用者が付した)

 まず、翻訳で気になったところに下線を付しておきましたので、少しコメントします。

 1段落目の下線部『悲哀メランコリー』の原文は『Jammermelancholie』です。普通『悲哀』と訳されるのは『Trauer』です(フロイトの論文タイトル『Trauer und Melancholie』の人文書院版の訳は『悲哀とメランコリー』でした)が、ここには『Trauer』の語が含まれていませんので、混同を避けるために別の訳を採用したいところです。『Jammer』の語は日本の精神医学辞典類をざっと眺めた中では、西丸四方編『臨床精神医学事典』(1974年)の外国語索引で『Jammerdepression』が探せました。

悲歎抑うつ 英mourning depression 独Jammerdepression 激越性うつ病で単調な悲歎lamentationの言葉をくりかえすもの。退行期うつ病に多い。

ただしこの『悲歎』の語も、死別後の喪の状態との混同されやすいと思います。というか、この辞書の解説そのものが、英語のmourning depressionと対応づけるなど、死別後の反応性うつ病と混同しているように思います。しかし、たとえばテレンバッハ『メランコリー』の症例28にも『Jammerdepression』の語が出てきますが、その例は死別をきっかけにしたものではないという事実からも明らかなように、『Jammerdepression』という語は死別後のうつ状態を指すものではありません。
 この『Jammer』の語については、
テレンバッハの『メランコリー』や西丸も語釈を参考に、私としては、『Jammermelancholie』『Jammerdepression』はそれぞれ『くよくよメランコリー』『くよくようつ病』と訳すのがぴったりと思っています。
 
 翻訳についてもう一点触れておきます。2段落目の下線部はみな原文は「genau」です。これは患者自身が使った言葉でもあるようですから、それをそのまま繰り返しているのでしょう。これが、テレンバッハのメランコリー論の鍵概念である『几帳面Ordentlich』という語そのものではないことを指摘しておきましょう。意味的には同じところを狙っているとは思いますが。
 

 さて、メランコリーという疾患については、フロイトもテレンバッハも、自らのすべての点を罪とみなして自らを責める、という特徴を記載しています。しかし、この症例は、手術を受けなければ良かったという一点ばかりくよくよと嘆いています。まるで、手術さえ受けなければ自分には何の落ち度もないということになりますし、それどころか、むしろ「すべて手術のせいだと考えた」とも記載されるような他責も混じっています。

 ところで、この「すべて手術のせいだと考えた」には、自分の手術だけでなく夫の手術への言及も感じ取れます。そういう目で読み直すと、この例は、夫を手術で失うという経験をして間もないようですから、むしろ、自分がメランコリーになって、自分の手術について告発することで、同時に、夫の手術の失敗の責任を告発する代わりをしているのではないか、と考えたいと思います。第2段落の記載からは、この患者が、普段は医者に対して抗議などできない人物であったことがうかがわれますが、だからこそ、病気を(無意識的に)利用して告発する必要があったのでしょう。

 フロイトは、メランコリー患者の自責は、患者本人よりも、周囲の人物に該当することが多いと述べており、「患者の訴えは告訴である」という一文は有名ですが、この症例は、自責というニュアンスが乏しく、フロイトがメランコリー論で述べるメカニズムには(他者を責めているという点では非常に近いものではあっても)一致しないもののように思います。

 病前の様子について考えると、《私は気が小さすぎるんですね・・・そっとやりすごして何もいわないほうをとってしまうのです》という言い方や、『まれに家族の中で意見の相違があっても、彼女はすぐに自分の意見をひっこめた』という描写からは、結局自分の意見の方が正当であると確信しつつ腹の中に収めるというあり方が伺われます。それが無意識的に行われるというならまだしも、意識しつつ行うというあたりから判断すると、この症例は、うつ病の病前性格を備えた人物と言うよりも、むしろ世間の平均レベルの嫌らしさを備えた、普通に神経症的なところをもった人物のように思えます。対人関係を求めて慈善事業に打ち込むといったあたりもそうでしょう。
 
 なお、私は日常臨床でも、一般に“くよくようつ病”の人には心因を疑ってまず間違いないという印象を持っています。

 

メランコリー [改訂増補版]

H. テレンバッハ(著), 木村 敏 (翻訳)

出版社: みすず書房; 改訂増補版 (1985/12/5)

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