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2012年9月17日 (月)

幻覚は見えるのか?

 先日、ある統合失調症の長期入院患者を診察していたときのことです。彼はふだん、自らの体験について「幻聴」や「幻覚」(彼は幻視をこう呼ぶ)という言葉を用いて報告するので、その日、私が何気なく、最近幻覚は見えますか、と尋ねたところ、彼は次のように答えたのです。

「あなたねえ、見えますかっていうけど、幻覚というのは、感覚器官で感じるんじゃないんですよ。脳で感じるんです。そんなことも知らなかったんですか?」

 もちろん、幻覚は脳で感じるものだというのは正しい意見と思います。この患者さんは、精神医学や心理学の本を読む人ではないけれど、オカルト関係の本を読んだりするので、その辺からの影響で、「幻覚は感覚器官で感じるのではない」という考え方を持っていたのかもしれません。ただ、そうだとしても、私が「見えますか」と尋ねた時にこのような返事が返ってきたという点が面白いと思います。私が言った「見える」という語は、「目で見える」という意味を補って受け取られたということでしょうが、この点だけみれば、ある意味では具象化傾向に近いものとも考えられ、思考障害のひとつと考えてよいのかもしれません。けれども、そう片づけてしまうことのできない本質的問題に触れているような感覚があって、ここに報告してみたくなった次第です。

 私はそのときとっさに、「それはそのとおりだけど、患者さんたちは『見える』という言いかたをすることが多いですよ」と返事をしました。私はこの患者の本質的指摘に対して、「幻覚が見える」という言い回しの一般性をもちだして返答してしまったわけです。

 
 しかも、いまこの自分の返事を思い返してみて思うのですが、たしかに患者さんが「幻覚が見える」という言い方をすることは多いものの、患者さんが書物や治療スタッフの言葉遣いの影響ではなく自発的に「幻覚が見える」と表現することは果たして多いのかは疑問で、自信がなくなってきました。もしそれが正しくないとしたら、私が言ったことは、自分(たち)の言葉づかいを押し付け続けてきた結果をもちだして、目の前の患者にも同じことを押し付けようとしただけになってしまいます。

 ともかく、ここで患者さんの方は、単なる言葉の問題としてではなく、幻覚の局在性に関する事実をどう描写するかという問題としてとらえています。さらには、幻覚の感覚性についても疑問に付しているようにも捉える事が出来ます。彼の考え方は、脳内現象を内視する小人を仮定するような素朴な考え方を逃れているようですし、一般に行われている疾患教育のテキストのレベルよりも上を行っている気がします。
 

 なお、この患者さんの趣旨から離れますが、「幻覚が見える」っていう言い回しは、例えば「視覚が見える」と言うようなもので、冗語的であることにも気づかされました。
 

 さて、この患者さんは以前、高校の数学の教科書を読んでいることが多かったのですが、数年前に教科書を無くして退屈そうにしていたとき、「病棟のテレビで、教育テレビの高校数学講座とかを観てみては?」と提案したところ、彼の答えは、「あれはIQが200ぐらいの人向けですよ。数学は、普通の人には、テレビで解き方を見て理解できるようなものじゃなくて、自分で手を動かさなければ理解できないんですよ」というもので、これもまたもっともな意見と思ったことでした。

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