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2012年11月

2012年11月23日 (金)

テレンバッハ『メランコリー』(17)

 今回はテレンバッハのメランコリー症例を扱う番です。

〈症例17〉1959年に初めて入院した54歳のマルガリーテ・Tは、もともと勤勉で几帳面な女性で、これまで一度も重い病気をしたことがなかった。数ヶ月前から、急激な血圧の動揺(最高170から220)があった。1959年2月のある夜、突然強い胸部圧迫感、顔の左半分のしびれ、東部の熱感などがからだを襲った。彼女はとっさに《卒中》を考えた。そのときから、心配で眠れなくなり、食欲がなくなり、だんだん楽しくない気持になって、仕事への意欲もなくなってきた。これらの身体症状はすぐ消えてしまったのに、彼女は《頭に腫瘍》があるのだと思い込んで、何人もの医者を訪れた。その間のある日、彼女は待合室で泣き叫んでいる子供を見た。その子の母親がいうには、その子はもう6週間も眠れないということだった。自分が眠れない夜には、その子のことが彼女の頭から離れなくなった。そして、《あの子はもう安眠できるようになっただろうか》ということばかりを考えるのだった。そのようなときにはまた、戦死した息子の思い出も心をはげしくしめつけ、息子はどんなにいろいろとひどいめにあったことだろうと考えるのだった。次第に著明なメランコリー症状が出揃ってきた。4週間の入院で、患者は良好な寛解に達して退院できた。家に戻った彼女は、非常に張り切って、いろいろなことをするのが楽しくてしようがなかった。そして、《新しい人生をもう一度開始しよう》という感じを抱いていた。
 退院後7日目に、隣家の78歳のお婆さんが卒中で倒れ、彼女はお婆さんをベッドに運ぶのを手伝った。お婆さんは彼女に、コニャックを持ってきてほしい、と頼んだきり口がきけなくなってしまった。この隣家の出来事で患者は強いショックを受けて、その晩は多量の睡眠薬をのんでも眠れなかった。以前のいろいろな不安がたちまち現われてきた。6日後の外来診察時には、彼女は再びメランコリーの状態に陥っており、前と同じような状態で再入院しなくてはならなかった。(下線は引用者が付した)

 例によって、翻訳上の問題から指摘しましょう。引用文中の、下線を付しておいた数箇所です。

 「非常に張り切って、いろいろなことをするのが楽しくてしようがなかったvoller Taetigkeitsdrang und Unternehmungslust sein」の箇所ですが、辞書で「Taetigkeitsdrang」は「活動〈行動〉欲」、「Unternehmungslust」は「進取の精神〈気性〉、冒険心」ですので、かなり浮かれて新たにいろいろなことに手を出す状態を表現しているような気がします(私の語感では、みすず版の訳では、家事など元通りの活動をいろいろするのが楽しいという程度に読めます)。なお、「Drang」「Lust」の精神医学上の定訳を用いて訳すなら「活動衝迫と行動欲に満ちていた」となります。

 「《新しい人生をもう一度開始しよう》」は、三人称の要求話法でしょうか、願望や命令をあらわす形になっていまして、「《新しい人生よ、もう一度始まれ》」です。これもドイツ語でどういうニュアンスか、またそれを日本語にどう移すか私には難しいところですが、いずれにせよこれにも患者がかなり浮かれている印象をもちます。

 これらの点もかんがみて、患者はかなり軽躁的な状態に至っていたと言えると思います。現代ではやはり双極性の因子の混入を疑われるかもしれません。

 薬もなかった時代に、治療開始後4週間で治ったり、またすぐメランコリー化したりといったスピードにも双極性を感じます。ただしこの再発については、治ったばかりのうつ病の人が、普段より活動性が高くなっている期間は、まだ本当には治ってないので容易に再発した、と考えたほうが良いのだろうとも思います。

 さて、この症例は、メランコリー型の患者の持ち前の几帳面さが、自己の健康への配慮として現われているばかりか、「他人の苦痛が自分の苦痛となり、ときとしては他人の病気のために自分まで本当に病気になってしまうというような共感的な傾向」の例として挙げられたものですが、こういう共感性も、やはり双極性障害の患者の病前性格に近いものと思います。性格としては笠原のメランコリー親和型性格にも合致するかもしれませんが、いったん悩み出すと何日も悩みつづけて増強していくあたり、下田の執着性格の記載の方が、よりこの患者を考察する上で役立ちそうです。

メランコリー [改訂増補版]

H. テレンバッハ(著), 木村 敏 (翻訳)

出版社: みすず書房; 改訂増補版 (1985/12/5)

2012年11月19日 (月)

下田、中ら『初老期鬱憂症の研究』6

 躁うつ病の病前性格として執着性格を提唱したことで名高い下田光三の門下、中脩三らの戦前の研究論文の症例を順に紹介しています。

 

 ちなみに、戦後に軽症うつ病を研究し、病前性格としてメランコリー親和型性格を紹介して啓蒙に努めた笠原嘉の自伝的な近著『精神科と私』によれば、笠原が京都大学の精神科で若手精神科医だったころ、当時京都大学系列の教授が居た大阪市立大学の精神科教室へ出向・赴任していたときに、大阪市立大学の次期精神科教授に中脩三が九州大学から来ることが決まり、当時は教授の学閥が変わると教室員の総入れ替えが普通であったので、やむなく笠原は大阪市立大学を離れて京都大学精神科へ戻ることになったという経緯があったようです。笠原は中に対して当時ちょっと反感を持ったと書いています。しかも、中はのちの笠原の研究分野と近い研究をしていたにも関わらず、笠原はこの本では中の業績について全く触れませんし(他の登場人物についてはほぼ必ず触れています)、なんとなく中について書かれた文体もちょっと嫌味に感じられ、私には笠原の反感は今も続いているように思えるのですが、これは私の気のせいかもしれません。
 大阪市立大学からはじき出された笠原は、京都大学に帰って、先輩医師・平澤一の軽症うつ病研究(下田の執着性格を再評価した)に影響を受けて自らも軽症うつ病の研究に着手するわけですから、面白い因縁だと思います。
 それに笠原は、京都大学に戻ったことで、着任間もなかった村上仁教授と出会い、生涯最大の師として大きな影響・学恩を受けることになるわけで、人生とは面白いものです。

 

初老期鬱憂症 

 

 軽鬱状態型
単純なる軽鬱状態

 

症例6 榎○廣 男、満42歳、昭和7年6月10日入院、同8月1日退院。[別表によれば農業]

 

主訴 頑強なる不眠。
既往歴 35歳の時「パラチフス」に罹る、性病を否定す。性格、遠慮深く、心配性、真面目一方、交際広く、円満、徹底的、熱中性、責任感強し、憤怒性なく、規帳面なり。37歳の頃金銭上の取扱いに心痛してより神経衰弱となり悲観的となり約3ヶ月にて治癒せることありと言う。

 

 現病歴 昨年(昭和6年)6月頃地主の為めに会計の世話をなせしことが却って不利の結果を生ずるに至り、非常に責任を感じ、遂に他の仕事をなすにも一々不安を感じ、仕事に手がつかず徒に心痛する様になり、8月末頃より不眠となり、主治医の意見により温泉地にて保養せしも何等の効果なく、主観的には一睡もせずと言うに至る。10月頃熊本医大を訪れ、睡眠剤を服用せしが効果なく、全身倦怠、疲労感の亢進、決断力消失、頭重、覚醒時右手に脱力感のあることあり。陰萎は昨年9月より引続けり。食指不良、秘結に傾き、酒、煙草不用。
 

 

 現在症 身体的に典型的の肥満型、四肢の反射少しく亢進せる外(ほか)著変なく、血圧最高125、最低75ミリ水銀柱なり。精神的に強迫思考的に事務上のことを考え、気力なく、やや苦悶的、意志的にやや行動遅滞する外(ほか)著変なく一見正常なり。 

 

 

 本例は一見神経衰弱の如くなれども温泉保養、通常の睡眠剤等何等の効果なく発病後既に一ヶ年を経てなお治癒せざるものにして、単純神経衰弱にあらざること明らかなり、その性格は「チクロチーム」偏執性にして典型的の肥満型体構を有し、不眠、陰萎、異常感、考慮渋滞、心痛、労務不能などの徴候を有するを以って鬱憂症と診断し得べきなり。患者自身悲観せしことなしと称するも常に心気的にして、意志の抑制あり、煩悶の際は胸に迫る思いあり等言い、強迫思考的に事業上のことを繰り返し考えうる等感情の沈鬱を推定しうべし。
 本例は、投薬期間9日、スルフォナール全量17.5、アダリン9.0にして治癒、嬉々として退院せり。

 

 悲哀や寂寥に類した気分があるわけではないようですから、抑うつ気分があるとは言えないかもしれません。しかしそれ以外の症状が結構そろっていますし、この考察のとおり、鬱憂症との診断でよさそうです。ただこの症例の場合は、発症直後に受診してきたら、会計の失敗に対する一過性の反応ではないかとも考えられたかもしれず、鑑別は難しかったであろうと思います。

 

精神科と私ー二十世紀から二十一世紀の六十年を医師として生きて
(精神医学の知と技)
 

 

中山書店(単行本 -2012/5/29)

 

笠原嘉

2012年11月 6日 (火)

テレンバッハ『メランコリー』(16)

 今回はテレンバッハの症例を扱いましょう。

〈症例16〉64歳の女性患者カロリーネ・Th・Vは、1958年2月7日、同年10月24日、1959年9月21日の3回、つまり1年3カ月(訳注・原文のまま)の間に3回も入院した。彼女はすでに数年前から軽度の《抑鬱的疲労状態》にかかっていて、そのために1953年と1955年に精神病院に入院したことがある。当科においては3回ともほぼ同様の症状がみられた。すなわち、《焦燥的抑鬱、重篤な抑止、困惑、心気的虚無的念慮、貧困念慮、自責、著明な日内変動》などである。

 この患者の病前性格についてはよくわかりません。患者が語った言葉として、「義務の履行、好ましい職業への献身、内心の誠実さ、気高い心などの点でこの理想にかなう人になろうというのが、私の目標だった」と引用されているのですが、患者自身の性格も本当にそうだったかは記載されていないのです。

 さて、少し飛ばしますが、患者が記した記事の抜き書きを取り上げます。

 《私は子供のころ、よく病気をした。そのために私の心には劣等感が生まれた。しかし、精神的にはほかの子に引けを取らないという気持がそれを埋め合わせていて、それが私の心的安定にはとてもよかった。子供時代の無邪気さは、1903年に突然終わりを告げた。その年に始めて母が重い失神発作襲われた。母はその後数年にわたって、頻回にこの発作をおこした。それを目撃した私の心の中には恐るべき不安感が生じ、この不安感は母が若くして亡くなるまで、私の心に影を落としていた(彼女は47歳で、心筋梗塞で死亡した)。父は、病身の妻をかかえて非常に苦労していた。そして私は、このわけのわからぬもやもやした気分を晴らすことができないことと、自分がそれに対して全く無力であるのを感じたこととで、二重に苦しんだ。私は元来、かなり生真面目な子供だった。そこへ、生きることのつらさが、石のように私のにのしかかった》。(下線は引用者が付した)

 これは患者自身の表現なので、訳文では見失われてしまう原語表現の特徴を少し指摘しておきましょう。
 「目撃した」には「miterleben」が用いられています。つまり患者は、母の発作を単に目撃したということではなくて、「共に体験した」と表現しています。
 下線を付した、「病身の」「苦労していた」「苦しんだ」はいずれも「leiden」ですから、患者は、父も母も自分も同じ語で「苦しんだ」と表現しているわけです。その前の「襲われた」も「erleiden」ですのでやはり関連があります。
 最後の文の「心」は「Herz」という語で表現されています。「心筋梗塞Herzinfarkt」を起こした母との同一化がここにも読み取れるでしょう(ただし、上に引用した訳文内で、これ以外の「心」の語には原文で別の語が用いられています)。加えて母の「失神発作Ohnmacht」と自分の「無力Machtlosigkeit」にも対応を読み取ってよさそうにも思います。

 さて、テレンバッハによる紹介は以下のように続きます。

 風邪を引くと、彼女は決まって床について、14日間は《なにもできなくなった》。そして次のような気持ちを抱いた。《ほら、お前はまた失敗した。お前が百パーセントちゃんとやっていく力のないことを、皆に証明してしまった。だめだねえ》。(以下略)

 ここでは患者は自分に対して「お前Du」で語りかけています。自責や自嘲がこのように二人称で患者の脳裏に浮かぶ場合には、フロイトが『喪とメランコリー』で論じたように、自責は患者自身に該当するのではなく、患者の身近な人物に該当しているというふうに考えやすいと思います。この例での自責・自嘲は当然、病弱だった母親に向けられたものでしょう。フロイトは、こういう場合には、患者と、本来責められるべき人物との間に、愛憎入り混じった両価的関係があるとしています。

 フロイトはメランコリーに関して、対象との同一化も指摘していますが、それはこの症例で以下の箇所にも読み取れます。なお、この患者の職業は、症例紹介よりも後ろのページまで読むと、学校の教師であったことが明かされていますけれども、それを知らないと、以下の部分は理解困難です。

 すでに子供のころから、病気は恐ろしいことであった -《お母さんが心配するから、学校に行くのが好きだから》。後にはそれに循環器の障害も加わって、それは感染症が治ったのちも、いつも2週間は後に残った。それに引き続いて -もう何年も前のことだが- 最初の気分異常が現れた。のちには、感染症が治って元気になって2日もすると、かかりつけの医者に《もう学校へ行っていいでしょう。学校へ行かないと行きにくくなってしまいますもの》とせがむのだった。医者がだめだというと、彼女はメランコリーの状態に陥るのだったし、医者が学校に行くのを許すとメランコリーにはならないで済むのだった。この話をカロリーネは、次のような言葉で結んだ -《実際私の人生は、次に来る病気を待ちかまえているということでなりたっているのです》。

 ここで、「(お母さんが)心配するから」の箇所には「不安がるaengstlich sein」が用いられていますが、この語はここまでむしろ患者自身が、母親の発作と自身の健康に対して抱いていた感情として何度も登場していて、ここでは患者が自らの不安を母親に投影しているということになるでしょう。

 ここまでですでに、患者が母に抱いていた両価性と同一化は明らかだと思いますが、この後の段落には、より直接にそれが語られていますし、テレンバッハ自身も、アブラハムとフロイトの名を挙げ『両価性の葛藤』を論じています。

 精神病理学者はよく、「“患者が自責を語りながら他人を責めている”というフロイトが言うような例を見たことがない」とか、「そんな説は信じられない」と言います。しかし、彼らが典拠とすることの多いテレンバッハの主著の中にこのような症例が存在し、テレンバッハ自身がフロイトの論に準拠しているというのはなかなか興味深いことと思います。

メランコリー [改訂増補版]

H. テレンバッハ(著), 木村 敏 (翻訳)

出版社: みすず書房; 改訂増補版 (1985/12/5)

2012年11月 2日 (金)

抑圧という意味で去勢を知ろうとしなかった・・・

 いま、フロイト全集から、14巻の『狼男』症例を読んでいます。
 ラカンが引用して有名な、次の一節に引っかかりました。原文と合わせて紹介します。

 彼は去勢を棄却したと私が述べたとき、この表現のさしあたりの意味は、抑圧の意味であって、去勢など知らないということである。(邦訳89頁、下線は引用者が付した)

 Wenn ich gesagt habe, dass er sie verwarf, so ist die naechste Bedeutung dieses Ausdrucks, dass er von ihr nichts wissen wollte im Sinne der Verdraengung.

 まず明らかな間違いとして、下線部は原文には「wissen wollte」とあるので「(去勢など)知りたくなかった」という意味になりますが、岩波版邦訳にはこの助動詞「wollen(・・・しようとする、するつもりだ)」のニュアンスが無く、「(去勢など)知らない」とされています。

 この箇所の翻訳が問題だと思うのは、上の訳では、“私は棄却という言葉を、抑圧という意味で使った”という意味になってしまうことです。

 といいますのは、「彼が去勢を棄却したと私が述べたとき」とは邦訳83頁のことですが、そこでフロイトははっきりと、「抑圧は棄却とは別ものである」と言っているからです。

 私としては、岩波版のように「『棄却』=『抑圧』」といわれているのではなく、「『棄却』=『抑圧したい』」ということではないかなと思うのです。訳としては、次のようになるでしょう。

 彼は去勢を棄却したと私が述べたとき、この表現のさしあたりの意味は、去勢など -抑圧の意味で- 全く知りたくなかったということである。(代案1)

 もう少し意訳して良ければ、

 彼は去勢を棄却したと私が述べたとき、この表現のさしあたりの意味は、去勢などは、抑圧に沿うように全く知りたくなかった、ということである。(代案2)

 さて、ラカンは、『抑圧』と『排除』(先のフロイト全集では『棄却』と訳されていた概念)との相違(それぞれ、ラカンが神経症のメカニズムと考えるものと、精神病のメカニズムと考えるものです)を説明する文脈で、この症例から次のように引用しています。

 「排除」に関して、フロイトは次のように言っています。「主体は、抑圧という意味においてすら、去勢について何一つ知ろうとしなかった」。実際、抑圧という意味では、知りたくないと思っているものを或る意味では知っているわけです。(ラカン『精神病』邦訳上巻250頁)

 ちなみに、初めの二文のフランス語原文は、A propos de la Verwerfung, Freud dit que le sujet ne voulait rien savoir de la castration, meme, au sens du refoulement.となっています。

 

 この仏訳(およびそこからの邦訳)のように取れば、抑圧と排除は別物ということになりますし、フロイト全集邦訳83頁の説明(=抑圧されたものは、以後も多くの影響を及ぼし続ける)にも合致しています。ただ私にとっては、フロイトの原文をそう読むことができるかなあ、という疑問が残るんで、この訳が全面的に正しいとまでは言えない気がしてます。

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