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2014年1月17日 (金)

ブランケンブルク『自明性の喪失』その3(改)邦訳60頁~

 前回にひき続き、症例紹介の邦訳の検討です。今回は邦訳60頁の途中からです。

 明瞭な訳し落としや誤訳のほか、細かすぎるくらいの微妙な箇所も取り上げていきますが、それも、この症例がほんとうに分裂病(いまは統合失調症と呼ぶことになっています)なのか、それとも広汎性発達障害(=自閉症スペクトラム障害)なのかという鑑別を考える上では重要と思うからです。

 それと、ここらへんは母親から聴取した病歴が続きますが、邦訳には本人から聴取したかのように表現されている箇所があるので、それらもちょっとずつ直していきます。

 まずは幼少期から一人でも苦にならなかった様子について。

アンネは小さいときからひとりぼっちでほったらかしにされていたが、《おとなしくて文句ひとつ言わぬ》《いい子》であった。(60頁)

アンネは人並より小さいときからすでに自立していていつもひとりぼっちにされていたがその際も《おとなしくて文句ひとつ言わぬ》《いい子》であった。(代案)

 ギムナジウムを中退なのか卒業なのかという点に関わる訂正点は前回もありましたが、次もまた学歴に関わる箇所を含みます。

高校をやめた彼女は、その町で商業実習を行ったが、それには大変興味をもった。(60頁)

学校のあと彼女はその町で商業実習を行ったが、それには大変喜びと興味を示した。(代案)

 「学校のあとNach der Schule」ですが、邦訳63頁によればアンネはギムナジウムの後、商業学校Handelsschuleに通ったとありますし、「Nach der Schule」を辞書で引くと「放課後に」という訳ばかりが出てきますので、ここは「放課後に」という意味だと思います。けれども、とりあえず「ギムナジウムを出た後」ともとれる「学校のあと」としておきます。

 この二つ後の文には「仕事のほかは趣味がなく」とありますが、直訳すると「仕事のほかは特段の興味を育まず」といった感じでして、上の引用箇所の「興味」を受けた表現です。家では何に対しても特段の興味を示さないあたりは、診断上、自閉症スペクトラム障害らしくない特徴と言えるかもしれません。

 次の箇所はとりわけ細かいところなので取り上げるかどうか迷いましたが、いちおう挙げておきます。

当時から自分は他の女の子とは違うのではないかという感じを抱いており、それを口に出していうこともあったが、行動の面では別に目立ったところはなかったという。(60頁)

おそらく当時から自分は他の女の子とは違うのではないかという感じをつねに抱いており、それを訴えることもあったが、行動の面では別に目立ったところはなかったという。(代案)

 次の部分の最初のふたつの訂正箇所は、事実関係に関わる誤訳です。おそらくこの頃、兄は19~20歳ぐらい、アンネは17歳ぐらいとなるでしょうか。残りは細かいところですが、「いい子」は60頁の「いい子」と訳語を揃えました(原文でも二重山括弧で強調されていますから、母親の表現そのままなのでしょう)。

一九六二年、アンネは商業実習を終えて、当時兄が大学に通っていたX市のある会社に就職した。時おり家に帰っては、自分がまだ《ほんの子供》で、《いろんな面で人におくれている》といって悩んでいたらしい。(61頁)

一九六二年、アンネは商業実習を終えて、同時期に兄が大学に通いはじめたX市のある会社に就職した。そこから時おり家に帰っては、自分がまだ《いい子ちゃんで、《あらゆる遅れを取り戻さ》なければ、と訴えていたらしい。(代案)

 単に「遅れている」とか「成熟していない」というだけではなくて、「遅れを取り戻さなければならない」「成熟しなければならない」という強迫的なニュアンスを含む訴えもアンネの特長ですが、そのように訳されていない箇所がなぜか多いのです。次回以降も出てきます。

 次も細かいところですが、アンネが家に関して訴えていたことを強調しておきます。これはこの後にも関連箇所があります。なお、「住まい」と訳した語「Zuhause」は、形からいってもちろん家と関連した語ですが、故郷とか団らんの場といったニュアンスをもつようです。

くつろげる家庭がない、《もうそろそろ安らぎの場が欲しい》というのが彼女の口ぐせであった。事実母親はそれをかなえてやることができなかった。(61頁)

くつろげる家庭がない、《もうそろそろ住まいが欲しい》という訴えが彼女の口ぐせであった。事実母親はそれを与えてやることができなかった。(代案)

 次ですが、「unverstaendlich」という語は、精神病理学、特にヤスパースの本などではふつう「了解不能」と訳されます。

彼女の話は結局理解されずじまいだった。しかし母親は、この悩みはアンネが無邪気すぎて、同じ会社のふつうの平凡な女の子たちといっしょにやっていけないためだと考えた。(61頁)

彼女の話はみな全く了解不能なままだった。しかし母親は、この葛藤はアンネが無邪気で子供っぽすぎて、同じ会社のふつうの軽薄な女の子たちといっしょにやっていけないためだと考えた。(代案)

 そもそもこの本のタイトルにもある「Selbstverstaendlichkeit」という語は「自明性」と訳されたり「あたりまえ」と訳されたりしていますが、そこにも「了解可能verstaendlich」という語が含まれています。関連は頭に入れておくべきと思います。なお、同年代の女性たちを「軽薄」と表現するあたりは、母親の傲慢な考え方を反映していると思います。

 次は、邦訳では段落途中の一文ですが、原書ではここから別の段落になっています。

 その町で彼女は四週間化学工場で働いたが、もはや勤務に耐えられる状況ではなくなっていて、毎晩帰宅するごとに、自分は《人間として》だめだ、問題が次から次へと出てきて、わからなくなってしまう、自分は《立場》がはっきりしていない、《しっかりした》人間でないから今の仕事は無理だ、などといって悩むようになった。(61頁)

 その町で彼女は四週間化学工場で働いたが、もはや勤務に耐えられる状況ではなくなっていて、毎晩帰宅するごとに、自分は《人間的に》やっていけない、問題が次から次へと出てきて、手にあまる、自分は《立場》がない、《成熟した》人間でなければ今の仕事は無理だ、などといって悩むようになった。(代案)

 「手にあまるnicht bewaeltigen koennen」は、2段落前、邦訳では8行前に登場したときの訳語に揃えました。というのも、本書の他の箇所で「わかる」と訳されているのは別の語「verstehen/wissen」であり、これらは本書全体のキーワードでもあるので避けたかったからです。それと、「人間的に」はアンネが口癖のように語る言葉ですし、成熟しているかどうかもアンネがこだわるテーマの一つですので、やはり直訳で残しておきます。「やっていけない」は邦訳157頁で再掲される際の表現に合わせました。

なにをたずねても、ただ《自分はとにかく人間として役に立たない》という答えが繰り返されるばかりで、具体的にはこれといった理由がみつからなかった。アンネ自身は住み込みの家政婦として働いたらあるいはうまくやれるかもしれないと思っていたが、職業安定所はある託児所を紹介してきた。(62頁)

なにをたずねても、ただ《自分はとにかく人間的にやっていけない》という答えが繰り返されるばかりで、具体的にはこれといった理由が話に出なかった。アンネ自身はどこかの家庭で、家族の一員として扱われながら働いたらあるいはうまくやれるかもしれないと思っていたが、職業安定所はある託児所を紹介してきた。(代案)

 「人間的にやっていけない」は、上にも出てきたように、邦訳157頁の表現に揃えました。

 「家庭で、家族の一員として扱われながらin einem Haushalt mit Familienanschluss」というのは、61頁の引用箇所にもあったように、アンネがずっと「家庭Familieがない、《もうそろそろ住まいZuhauseが欲しい》」とこだわっていたことと関連していると思われます。家政婦に向いていると思ったわけではないでしょう。

 次は「bei jm setzt es aus」という非人称の成句についてです。

すべてがうまくいき、やっとこれで一息つけようかという時になって、あの子はそれ以上進めなくなったのです。(62頁)

すべてがうまくいき、やっとこれで一息つけようかという時になって、あの子のなかで何かがぷつんと切れてしまったのです。(代案)

 「bei jm setzt es aus」は学習辞典には載っていませんが、小学館の独和大辞典で「…は我を忘れる」「自制心を失う」とあります。aussetzenのもとの意味(停止する)も汲んで、上記のように訳してみました。

 次も細かなところですし、アンネの診断とは関係ありませんが、面白いと思ったので挙げておきます。

-このようなことを主治医に物語ったアンネの母親は、「教養」とか公衆道徳とか言うことについて非常に確固とした信念を持っていて、たいへんに厳しく、あまり融通のきかない母親だという印象を与えた。(62頁)

-このようなことを主治医に物語ったアンネの母親は、「教養」とか公衆道徳とか言うことについて非常に確固とした信念を持っていて、たいへん鼻につき、あまり融通のきかない母親だという印象を与えた。(代案)

 次回からはアンネ自身が語った生活歴です。

自明性の喪失―分裂病の現象学 W.ブランケンブルク、木村 敏、岡本 進、 島 弘嗣  (1978/7/10)

Der Verlust der natuerlichen Selbstverstaendlichkeit Wolfgang Blankenburg  (2012/11)

*この記事をアップした後、邦訳157頁の訳文「やっていけない」を参照して二箇所編集しました。

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