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2014年2月

2014年2月25日 (火)

ブランケンブルク『自明性の喪失』その9・邦訳74頁~

 アンネの面接記録部分の翻訳の検討の続き、今回は74頁からです。

 まず、本訳書で「わかる」という言葉は、アンネの訴えのキーワードである『wissen』か『verstehen』に対応して用いられていて、たとえば邦訳117頁から118頁では原著者もこれら二つの語を取り上げて詳論しています。今回の箇所では基本的に『wissen』という原語(「知っている」と訳すほうがよいと思いますが)の訳語として使われていますが、次の箇所だけは違う語(erkennen)に対応しているので指摘しておきます。

でも私にはそのルールがまだはっきりわからないのです。(74頁)

でも私にはそのルールがまだはっきり認識できないのです。(代案)

 次は訳し落としです。『sittlich』はヘーゲル哲学なら「人倫」と訳されますがここでは避けました。

お母さんがきびしくて、そして私を大事にしてくれたから。(75頁)

お母さんが道義的にきびしくて、そして私を大事にしてくれたから。(代案)

 次の箇所ですが、アンネは自分に何が欠けているか、『名付けるbenennen』こと、『名指すnennen』ことができないと、何度も繰り返し語っているので、そこは直訳にしました。『居合わせるdabei seinことができない』というのもアンネが何度も繰り返し語る表現で、前回も扱いました。『感情的なもの』は、邦訳74頁5行目『感情の自明さ』を指しています。

なにかが抜けているんです。でも、それが何かということをいえないんです。何が足りないのか、それの名前がわかりません。いえないんだけど、感じるんです。わからない、どういったらいいのか -悲しい、卑屈な気持ち…。一度だってちゃんとしてついていけたことがありません。わからないけど、どういっても同じことです。どういえばよいのでしょう…簡単なことなのです…わからないけど、わかるとかいうことではないんです、実際そうなんですから…どんな子供でもわかることなんです。ふつうならあたりまえのこととして身につけていること、それを私はどうしてもちゃんということができません。ただ感じるんです…わからないけど…感じのようなもの…わかりません。(75頁)

なにかが抜けているんです。でも、それが何かということを名付けられないんです。何が足りないのか、それの名前で名指せません名付けられないんだけど、そう感じるんです。わからない、どう言ったらいいのか -悲しい、卑屈な気持ち…。一度だってちゃんと居合わせて参加したことがありません。わからないけど、いつも同じです。どういえばよいのでしょう…簡単なことなのです…わからないけど、知識とかいうことではないんです、実際そうなんですから…どんな子供でもわかることなんです。ふつうならあたりまえに身につけていること、それを私はどうしてもちゃんと名付けることができません。ただ感じるんです…わからないけど…感情的なもの…わかりません。(代案)

 次に移ります。アンネは家庭が必要なのだと繰り返し訴えていて、邦訳61頁の『Zuhause住まい』の箇所について当ブログでもすでに取り上げました。

家庭がなければ、そして指導が…両親の指導がなければだめなんです。親がちゃんとやってみせて、いろんなことにぶつかって、自分で正しい道を見つけて、理解できるようになって …私はそれをしませんでした。なにもかもいいかげんだったのです。理解するということも。(75頁)

住まいがなければ、そして指導が…両親の指導がなければだめなんです。親がちゃんとやってみせて、いろんなことにぶつかって、自分で正しい道を見つけて、しかも理性的にも …私はそれをしませんでしたし、それは私には全く生じなかったのです、理性的にも。(代案)

 この箇所からするに、アンネが自分に欠けていると考えている「自然な自明性」は、両親から学ぶべきものであって生得的なものではないことになります。これもあらためて考えてみると面白い点ではないでしょうか。

自明性の喪失―分裂病の現象学 W.ブランケンブルク、木村 敏、岡本 進、 島 弘嗣  (1978/7/10)

Der Verlust der natuerlichen Selbstverstaendlichkeit Wolfgang Blankenburg  (2012/11)

2014年2月20日 (木)

ブランケンブルク『自明性の喪失』その8

 今回から『面接記録とその後の経過』(71頁~)の翻訳の検討に入ります。

 まずは、前置き的な部分から。当ブログで『自明性の喪失』を検討しはじめた「その1」の記事でもすでに取り上げた箇所ですが、次のように、原文と訳文の意味が真逆になっています。

以下に再録するのは、大部の資料から抜粋し、読者にとって当面の参考になるようにまとめたものである。その選択は無作為になされた。そうでもしなければ、正確な印象を伝えようとして、抜粋はずっと膨大なものにならざるをえなかっただろう。(邦訳72頁)

以下に再録するのは、大部の資料から抜粋し、読者にとって当面の参考になるようにまとめたものである。その選択は無作為ではない仕方でなされた。そうでもしなければ、正確な印象を伝えようとして、抜粋はずっと膨大なものにならざるをえなかっただろう。(代案)

 次は小さな訳し落としです。

少なくとも最初のうちは、よくことばがとぎれ、同じことばがいつまでもいやになるほど繰り返されたので、それをいちいち書き写したのでは数倍の紙面が必要になる。(73頁)

少なくとも最初のうちは、よくことばがとぎれ、同じことばの断片がいつまでもいやになるほど繰り返されたので、それをいちいち書き写したのでは数倍の紙面が必要になる。(代案)

 ここまでが前置きで、次からは実際の面接記録です。
 次の箇所に出てくる「居合わせるdabei sein」という表現はアンネが口癖のように繰り返す表現なので、同じ訳語で通そうと思います。やや不自然な箇所もありますが、そもそもアンネは、言語新作さえあったと書かれているほど奇異な語り方であったようですから、むしろ翻訳の際に、自然な文を心がけての省略や意訳を行ってはならないはずです。

家でお母さんとは人間的にやっていけません。それだけの力がないのです。そこにいるというだけで、ただその家の人だというだけで、ほんとにそこにいあわせているのではないのです。私には指導的な関係というようなものが -それがはっきりしていないと、ほかのこともできませんから …たとえばある家族とかある一人の女の人とかとの指導的関係が必要なんです。(73頁)

家でお母さんとは人間的に居合わせていませんでした。それだけの力がなかったのです。そこにいるというだけで、ただそこの人だというだけで、ほんとにそこに居合わせているのではないのです。私には指導的な関係というようなものが -私がはっきりしないときそれ[指導的関係]がないともうやれませんから …たとえばある家族とかある一人の女の人とかとの指導的関係が必要なんです。(代案)

 次は本当に細かいところですが。

なにもかもなくしてしまわないように、いつも気をつけていなくてはならなくなったのです。生きていくということは、そのひとの(これは明らかに母親あるいはそれにかわる人のことをさしている)やりかたを信頼することです。(73頁)

今は、なにもかもなくしてしまわないように、いつも気をつけていなくてはならなくなったのです。生きていくということは、彼らの(これは明らかに母親あるいはそれにかわる人のことをさしている)やりかたを信頼することです。(代案)

 今回はひとまずここまでにしましょう。

自明性の喪失―分裂病の現象学 W.ブランケンブルク、木村 敏、岡本 進、 島 弘嗣  (1978/7/10)

Der Verlust der natuerlichen Selbstverstaendlichkeit Wolfgang Blankenburg  (2012/11)

2014年2月13日 (木)

ブランケンブルク『自明性の喪失』その7

 今回は『入院時の所見』の後半の訳文の検討です。

 まず次の箇所ですが、『保続的perseveratorisch』『滅裂Zerfahrenheit』『衒奇的manieriert』といった語は精神医学用語としての定訳があるのでそれを用いるべきです。一方、『すべてどこかへ行ってしまうalles weg』の箇所は、邦訳79頁の訳文の表現に合わせました

形式だけをとり出して問題にするならば、彼女の話しかたは、一生懸命にことばを探そうとし、同じことを繰り返したり途切れたりで、まるで支離滅裂に近いものとなることが多かった。一定のテーマでまとまった文章を作ることは不可能だった。ときどき話の筋道が失われることもあった。自分では考えが途切れる、急に《なんにもわからなく》なる、といっていたが、真の意味の思考奪取は確認できなかった。言語新作もときとしてみられた。苦労して標準語でしゃべろうとする傾向と、やや気取ったしゃべり方とが目についた。(69頁)

形式だけをとり出して問題にするならば、彼女の話しかたは、口ごもりながらことばを探そうとするばかりで保続的であったり途切れたりで、滅裂とすれすれのものとなることが多かった。特定のテーマについてはまとまった文章を作ることは不可能だった。しばしば話の筋道が失われることもあった。自分では考えが途切れる、急に《すべてどこかへ行って》しまう、と訴えていたが、真の意味の思考奪取は確認できなかった。言語新作もときとしてみられた。わざとらしく標準語でしゃべろうとする傾向がつねにあり、やや気取った衒奇的な特徴とが目についた。(代案)

 このあと引用する二つの箇所では強迫症状にも「させられ体験」にも類似した微妙な症状が描かれています。一般に、強迫症状を平易な言葉で(「○○するよう強いられる」のように)表現すると「させられ体験」の陳述に似たものとなってしまいますが、ここでのみすず版邦訳もそのような傾向にあって、大幅に「させられ体験」寄りの印象を与えるものになっています。

 とりあえず次の箇所では、『Gedankendraengen』には精神医学用語で『思考促迫』という定訳がある(訳書86頁ではこの語が採用されている)のでそれを用いましょう。これは濱田の『精神症候学』(弘文堂)によれば「考えが次々にまとまりなく浮かんできて抑えられないこと」だそうです。

考えが押し寄せてきて苦しいという体験があったが、このことにも患者ははじめのうちはそれとなく触れただけで、それがどういう内容のものなのかは詳しく話してくれなかった。(69頁)

苦しい思考促迫があったが、このことにも患者ははじめのうちはそれとなく触れただけで、それがどういうものなのかは詳しく話してくれなかった。(代案)

 次は、後年の多くの学者が注目して、「させられ体験」ではないかとか「自生思考」ではないかとか論じている箇所です。なお、ここで『押しつける』と訳されているのは『aufzwingen』という語であり、『zwingen=強迫する』を含む複合語です。

《空想といってしまってはあまり正確ではありません。とにかく、なにかが中から出てくるのです》 -(どんな内容なの)《たとえば他の人たちにみられたいろいろな反応とか…別にはっきりしたものではなくて…ほんのとりとめのない考えなんです》 -《いろいろな考えがおしつけられるんです。どのようにそれに逆らおうとしてもだめなのです》。しかし、それがだれかから押しつけられたものだとか、催眠術にかけられた感じだとかいうことは、はっきりしなかった。ただ、このことが話題になると、いつもは見なれないしかめ顔すれすれの表情の不自然な歪みや心の動揺が認められ、この体験が恐ろしいものであることがありありとうかがわれた。恐ろしいのは明らかにこの体験の内容ではなかった、。その内容がとるにたりないものであることは、彼女が何度もはっきりと述べている。恐ろしいのはむしろその体験の生じかた、つまり体験成立の形式的特徴らしかった。推察しうる限りにおいて、その空想というのは、彼女が他の人びとの態度や反応の仕方を -その場面全体のいろいろな細部までをも- 心の中で模倣するように強制されている、といったようなものらしかった。(69頁)

《空想といってしまってはあまり正確ではありません。とにかく、浮かび出てくる(herausgeloest)のです》 -(どんな内容なの)《たとえば他の人たちにみられたいろいろな反応とか…とりとめのないものでまるででたらめ(so ganz unvernuenftig)なんです》 -《私に押しつけられたのは、考えでした。それに対してはどうしても無力なのでした》。しかし、それがだれかから押しつけられたものとして体験されているとか、催眠術にかけられた感じだとかいうことにつながる手掛かりはなかった。ただ、このことが話題になると、いつもは見なれないしかめ顔すれすれの表情錯誤興奮が認められ、この体験が恐ろしいものであることがありありとうかがわれた。恐ろしいのは明らかに[この体験の]内容ではなかった、。その内容がとるにたりないものであることは、彼女が何度もはっきりと述べている。恐ろしいのはむしろその[体験の]生じかた、つまり体験成立の形式的特徴らしかった。明らかになった限りにおいて、そこで語られているのは、彼女が他の人びとの所作や反応の仕方を -その場面全体のいろいろな細部までをも- 心の中で模倣するような強迫を感じている、といったようなものらしかった。(代案)

 上ではherausgeloestとso ganz unvernuenftigの箇所に原語を残しましたが、それは本訳書86~87頁でこれらの表現が再び取り上げられて検討されており、そこでも原語が併記されているからです。
 『表情錯誤』と訳した『Paramimik』という精神医学用語は、濱田の『精神症候学』(弘文堂)によれば「抑制された、あいまいな表情」のことだそうです。

 あとは細かい訂正ばかりです。

要約すると、臨床観察も問診もテスト所見もすべて一致して、患者が自らの力では対処しえない状況につねにさらされていることを示している。彼女は遭遇するすべてのものから強い衝撃を受け、あらゆる不意の出来事が彼女の人格構造の統合に深い傷跡を残すのをいかんとも防ぎがたいようだった。彼女にとってはごく日常的なものほど動揺の原因となるらしく、このことは強迫性格者を思わすような生活領域および人格領域の全体の規格化や、表情がしばしば仮面のように硬直してしまうことからも推測された。(71頁)

要約すると、臨床観察も問診もテスト所見もすべて一致して、患者が自らの力では対処しえない状況につねにさらされていると体験していることを示している。彼女は遭遇するすべてのものから強い衝撃を受け、まったく無防備なようであり、あらゆる不意の出来事が彼女の人格構造の統合に深い傷跡を残すかのようだった。彼女にとってはごく日常的なものほど動揺の原因となるらしく、このことは制縛「性格]者を思わすような生活領域および人格領域の全体の規格化や、表情がしばしば仮面のように硬直してしまうことからも推測された。(代案)

 次が最後です。もとの邦訳でほとんど問題ないと思うのですが、「圧倒的に」のような言葉尻をとらえて、圧倒されるというのは統合失調症体験の特徴だとか考えられてはいけないので訂正しておきます。

知能や想像力はすぐれているのに、実生活での対処能力が全般に及んで低下していることや、体験領域全般が狭められて周囲とのつながりが表層的で非人格的なものになってしまっていることなどは、精神力動的にみれば、圧倒的に押しよせてくる体験内容に対する防衛機制と見なすことができた。(71頁)

知能や想像力はすぐれているのに、実生活での対処能力が全般に及んで低下していることや、体験領域全般が狭められて周囲とのつながりが表層的で非人格的なものになってしまっていることなどは、精神力動的にみれば、押しよせてくる制御不能な体験内容に対する主要な防衛機制と見なすことができた。(代案)

 今回の部分を検討しながら考えたのですが、精神病の「させられ現象gemachtes Phaenomen」などというときの「させられgemacht」という日本語訳はよくないですね。「○○させられる」というのは強迫症状にもあてはまる表現です。精神病の「gemacht」とは、意図に反して「○○している状態になってしまう」事態じゃないでしょうか。

自明性の喪失―分裂病の現象学 W.ブランケンブルク、木村 敏、岡本 進、 島 弘嗣  (1978/7/10)
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2014年2月10日 (月)

ブランケンブルク『自明性の喪失』その6

 今回からは『入院時の所見』の訳文の検討に入ります。まず冒頭の文。

患者の体型はがっしりした肥満型。内科的、神経学的には病的所見なし。(67頁)

 ここは原文に書かれた情報をもとにかなり自由な語順で訳されているのですが、患者の年齢が「20歳」という情報が抜けています。

 次からは長い引用が続きますがご容赦ください。まず、このブログで『自明性の喪失』を扱った1回目にも紹介した印象的な箇所(「明瞭な部分的発達遅滞」云々)を含む箇所です。

精神的にも、一見したところ外面的には、問題のない、気だてのよいふつうの東独生まれの女の子のように思われた。この印象は誤りであった。鈍重といってもいいほどの平凡な外観の背後に、極度に敏感でもろい精神構造と、人格の著明な部分的未熟さがひそんでいることがわかった。からだが小さいとか知能が低いとかいうのではなく、精神的な発育と自我の発達の点で、患者は驚くほど幼い印象を与えた。(67頁)

精神的にも、一見したところ外面的には、単純で情緒豊かな東独生まれの女の子の類型のように予想された。この印象は誤りであった。ややがっしりとした目立たない外観の背後に、敏感で極度にもろい精神構造がひそんでいた明瞭な部分的発達遅滞があったからだがとか知能がとかいうのではなく、精神的な発育と自我の発達の点で、患者は驚くほど未熟にみえた。(代案)

 次もすでに紹介しましたが、明瞭な誤訳を含みます。そこは今回、クラウン独和辞典に「von vornherein zum Scheitern verurteilt sein」というひとまとまりで「最初から失敗すべき運命にある」という訳を見つけたので採用してみました。途中、「zugleichしかし同時に」という表現があえて繰り返し使われているので、訳文でも残しました。

こうしたアンネの性格全体からすると、彼女は周囲に対し赤ん坊のように甘えることを願っているように見えたが、これはしかし、最初から果たされる見込みのない願いでもあった。この頼りなげなあどけなさの反面には、わがままで気持ちが通じないという印象も同居していて、あまり釣り合いがとれていない印象を与えた。つまり、自閉的な自己中心性と無防備の無邪気さとが、また極度の閉じこもりと周囲のなすがままにまかせる主体性のなさとが同時に併存していてこの矛盾がひどく特徴的であった。このような人格像は、退行とはいえないまでも、高度の発達遅滞を考えざるをえないものであったが、ヒステリー性幼稚症特有の顕示傾向は見られなかった。(67頁)

こうしたアンネのあり方全体からすると、彼女は周囲に対し、過保護な母のような態度で接してもらおうとしているように見えたが、しかし同時に、そうした態度[で接して]も最初から失敗すべき運命にあるように見えた一面では助けを求めているがしかし同時にわがままで傲慢で気持ちが通じないさまも同居していて、あまり統一がとれていない印象を与えた。むしろ、こうした“しかし同時に”が支配的であった。つまり、自閉的な自己中心性と無防備の率直さとが、また極度の閉じこもりと周囲のなすがままにまかせる剥き出しなさまとが同時に併存していてこの矛盾がひどく特徴的であった。このような[人格]像を考慮に入れれば、退行とはいえないまでも、粗大な発達遅滞を考えざるをえず、ヒステリー性幼稚症特有の顕示傾向は見られなかった。(代案)

 次は細かいところばかりですが内容的に面白いところを含みます。

彼女の感情状態は非常に不安定で、全体的な抑鬱気分は認められないのに、いつもすぐに突然の、「状況にそぐわない」絶望的な不機嫌さにおちいった。そのような不機嫌を起こすきっかけは、いつもごくささいなことだった。それはきまって日常ありふれたちょっとしたことだったが、それはまた、その人が日常生活の自明性の中に根をおろしているかどうかがはっきり読み取れるような事柄でもあった。彼女を不機嫌にさせるのはこの事柄自体ではなく、それに触れて自分の《欠点》をあらためて意識しなくてはならないということのほうであった。ときおり、若い女の子によくあるびっくりするような大笑いが始まり、なにもかも笑いとばしてすませてしまうという様子だった。その底にある疳高い、熱におかされたような調子から、ようやくその笑いの防衛的な性質が気づかれるのであった。(67頁)

彼女の感情状態は非常に不安定で変わりやすく、全体的な抑鬱基底気分は認められないのに、いつもすぐに、突然襲いかかる、「状況にそぐわない」絶望的な不機嫌さにおちいった。そのような不機嫌を起こすきっかけは、いつもごく平凡なものだった。それはきまって日常ありふれたちょっとしたことだったが、それはまた、日常生活の自明性の中に根をおろしているということがはっきり読み取れるような事柄であった彼女がきっかけとして挙げるのはこの事柄自体ではなく、それに触れて自分の《障害》をあらためて意識しなくてはならないということのほうであった。ときおり、若い女の子によくある止めどない甲高い大笑いが始まり、なにもかも笑いとばしてすませてしまうという様子だった。その底にあるどぎつい、せわしない調子から、ようやくその笑いの防衛的な性質が気づかれるのであった。(代案)

 上を読むとアンネは、「日常生活の自明性のなかに根をおろしていることがはっきり読み取れるような事柄」をみると、自分の障害(つまり自明性が失われてしまったこと)をあらためて意識して不機嫌になる、というわけですから、いったいアンネは自明性を把握することができるのかできないのか、非常にわかりにくいところです。そもそもアンネは「自明性」という語を普通の意味で使っていないのかもしれません。

 次はアンネの様子についての細かい訂正です。

会話はすぐに、いつ終るともわからないひとりごとになっていった。何ヶ月もの間、患者は同じ悩みと同じ疑問をいやになるほど根気よく、単調に繰り返し続けた。(68頁)

会話はすぐに、いつ終るともわからないひとりごとを喋り続けた。何ヶ月もの間、患者は同じ訴えと同じ疑問をいやになるほど冗漫に、単調に繰り返し続けた。(代案)

 次は、「自明性Selbstverstaendlichkeit」という語のなかに「了解可能verstaendlich」という語が含まれていることを明示したいところです。

それはまず、彼女自身のいう《自然な自明性の喪失》についてであり、母親も他の人も理解できないということであり、根本から《劣っている》ということであった。彼女は、自分の状態をできるかぎり正確につかみとり、自分自身に対しても医者に対してもわかるような言葉にして表現しようとして、繰り返し繰り返し懸命に努力しているのがよくわかった。(68頁)

それはまず、彼女自身のいう《自然な自明性の喪失》についての訴えであり、母親も他の人も了解できないということであり、根本から《劣っている》ということであった。彼女は、自分の状態をできるかぎり正確につかみとり、自分自身に対しても医者に対しても把握できるようにしようとして、繰り返し繰り返し懸命に努力しているのがよくわかった。(代案)

 今回は次が最後です。「あたりまえ」と訳されている語は例によって本書の他の多くの箇所で「自明性」と訳されている語と同じです。

彼女はいつも自分の《疑問》に対する答えをほしがっていた。それは、大人になるとはどういうことか、自分のどこが悪いのか、ごくありふれたことばの意味や日常生活のちょっとしたあたりまえのことなどがどうしたらわかるのかといった疑問だった。(68頁)

彼女はいつも自分の《疑問》に対する答えをほしがっていた。それは、大人になるとはどういうことか、自分のどこが障害なのかさらには、ごく普通の概念や日常生活のちょっとしたあたりまえの[=自明な]ことなどがどうしたらうまく扱えるのかといった疑問だった。(68頁)

 ここを読むと、やはりアンネは自明なことそのものは把握できているようです。

自明性の喪失―分裂病の現象学 W.ブランケンブルク、木村 敏、岡本 進、 島 弘嗣  (1978/7/10)

Der Verlust der natuerlichen Selbstverstaendlichkeit Wolfgang Blankenburg  (2012/11)

2014年2月 4日 (火)

ブランケンブルク『自明性の喪失』その5

 前回に続いて、『アンネ自身の追想』の翻訳を扱います。今回は後半です。細かな訂正箇所が続き、大幅な意味の違いはないのですが、アンネの様子を正確にイメージするために、またこの前後の箇所との訳語の統一のために、必要とおもわれる箇所を取り上げていきます。

 まずはアンネのちょっとした言動から。

両親の離婚が彼女にとって悲しいことだったかと問われた時、アンネは熱にでも浮かされたような笑いを浮かべて、《いいえ、ちっとも。私にはどうでもいいことなの》とこたえた。(65頁)

両親の離婚が彼女にとって悲しいことだったかと問われた時、アンネはせわしなく吹き出して、《いいえ、ちっとも。私にはちくりともしないことなの》とこたえた。(代案)

 「ちくりともしない」と直訳した箇所は、むしろ「痛くもかゆくもない」という日本語表現がぴったりとおもいましたが、「痛いweh」という表現が後ろの頁でキーワードとして出てくるので避けました。

 次の箇所では、これまでも何度も出てきたように、「人間的」「取り戻さなければならない」といったアンネが繰り返す決まり文句について訳語を揃えるべきです。他にも細かい点がいくつかあります。

その職場はちっとも楽しくなかった。仕事は結構面白かったが、《人間関係がとてもむつかしく》彼女には耐えられなかった。ほかの人たちが変な目で彼女を眺め、彼女がすこしおかしいことに気づいているようだった。彼女は、自分は、自分はまだ精神的な成長がおくれているのだ、自分はまだ子供なのだと考えた。《それにこの職場で私は何者でもない…人間として一人前ではないのだ》と彼女は考えた。(65頁)

その職場はちっともめぐまれなかった。仕事は結構面白かったが、《人間的にはとてもむつかしく》彼女には耐えられなかった。ほかの人たちがしばしば変な目で彼女を眺め、彼女がなにかおかしいことに気づいているようだった。彼女は、自分は、自分はまだ精神的な発達の遅れを取り戻さなければならない、自分はまだ子供なのだと考えた。《それにこの職場で私は何者でもない…一人前の人間ではないのだ》と彼女は考えた。(代案)

 次もアンネの強迫性を伝え損ねているところです。「考えねばならぬ」という表現の訳は邦訳91頁に揃えました。それと、原文で二重山括弧で括られている箇所は、おそらく陳述された表現のうち著者が特記すべきと考えた箇所でしょうから、訳文でも残すべきです。

しかし、そこでもやはり仕事にうちこむことができず、これまでと同じように、いつも「考えごと」ばかりしていた。いろいろな考えや疑問が頭の中にいつも住みついていた。(65頁)

しかし、そこでもやはり仕事にうちこむことができず、これまでと同じように、いつも「考えねばならぬばかりがあった。いろいろな考えや疑問がいつも《自分と共に》あった。(代案)

 次の冒頭の「Selbstverstaendlichkeit」ですが、訳書では、ここのように「あたりまえ」と訳す場合と、書名にもある「自明性」という漢語に訳す場合とが入り混じっていて、どう訳し分けられているか基準ははっきりしません。

《あたりまえ》(Selbstverstaendlichkeit)ということが彼女にはわからなくなった。《ほかの人たちも同じだ》ということが感じられなくなった。人はどうして成長するのかという疑問が、頭から離れなかった。(65頁)

自明性=あたりまえ》(Selbstverstaendlichkeit)ということが彼女には失われてしまった。《ほかの人たちも同じだ》のようには感じられなくなった。人はどう成長するのかという疑問が、頭から離れなかった。(代案)

 次は、これまで何度も出てきた「了解」という語、書名にもある「自然」という語についての訂正点のほか、疑念や関係念慮のニュアンスに関わる訂正点です。

なにごとも理解できなくなり、なにをしてもうまくゆかなかった。彼女はなにひとつ信じられなくなった。神も信じられず、《他人との関係も》、《自分の立場も》、信頼も、もちろん母親に対する信頼も、それに対人関係も、何もかもすっかり消えてしまった。道で人が集まっているのに会うと、《私がそういった疑問を持っているということをその人たちがすぐに見抜いてしまう。でもそれが他人にわかるということはちっとも不思議なことじゃない》という妙な感じをいだくことがよくあった。この「妙な感じ」は母親に対しても生じた。《お母さんだって -お母さんの目なんです。私にはお母さんがまるでわからない》と彼女はいう。(66頁)

なにごとも了解できなくなり、なにをしてもうまくゆかなかった。彼女は全てを疑った。神も疑い、《他人との関係も》、《自分の立場も》、信頼も、もちろん母親に対する信頼も、それに対人関係も、何もかも持っていなかった。道で人が集まっているのに会うと、《私がそういった疑問を持っているということをその人たちが見抜き、気づいているということが私にはすぐに分かった他人が何かを見て取っているということは、自然なことだ》という妙な感じをいだくことがよくあった。この「妙な感じ」は母親に対しても生じた。《時にはお母さんだって -お母さんの目なんです。私にはお母さんがまるで了解できない》と彼女はいう。(代案)

 次が最後です。「構えStellungnahme」の語はヤスパースの訳書などでの定訳に合わせましたが、平易に訳すなら「捉え方」ぐらいでしょう。

患者の気持ちは最初のうちはまるではっきりしなかった。すぐまた自殺を企てることはないかもしれませんが、死がずっと私を《ひきつけてはなさない》んですと彼女は言った。(66頁)

患者の構えは最初のうちはきわめて皮相的だった。すぐまた自殺を企てることはないかもしれませんが、死がずっと私には《まさしく好ましかった》んですと彼女は言った。(代案)

 ところで私はこのところテレビで「当たり前体操」を見るとアンネ・ラウを思い出すようになってしまいました。反対にこの本を読んでいるとしばしば「当たり前体操」のメロディを思い出します。

自明性の喪失―分裂病の現象学 W.ブランケンブルク、木村 敏、岡本 進、 島 弘嗣  (1978/7/10)

Der Verlust der natuerlichen Selbstverstaendlichkeit Wolfgang Blankenburg  (2012/11)

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