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2014年4月

2014年4月17日 (木)

ブランケンブルク『自明性の喪失』その10・邦訳76頁~

 症例アンネ・ラウの病歴部分の邦訳の検討の続きです。今回は76頁からです。

 次の箇所では、「Gucken sie mal」という表現が「わかってください」と訳されていますが、この本で「わかる」という表現は別のいくつかの語の訳語としても用いられていて、そのなかには本書のキーワード的な「verstehen」とか「wissen」とかもありますから、ここでは別の語を選んでおきます。

どんなにむつかしいことか、わかってください。こうやって入院して、毎日毎日…(76頁)

どんなにむつかしいことか、ちょっと見てください。こうやって入院して、毎日毎日…(代案)

 このすぐ後に入院生活の苦しみが書かれていて、「ちょっと見てください」というのはそれを見てほしいということのようです。

 次の箇所には「immerいつも」という語が訳し落とされています。さらに、「sich verdruecken」という表現が「もみくちゃにされて」と訳されていますが、これを辞書で見ると、「sich」を伴う再帰動詞では「逃げ出す」「つぶれる」といった意味しかありません。ただし、単独で他動詞で用いられると「押しつぶす」「(圧力で衣服などを)しわくちゃにする」といった意味がありますので、ここは保留としておきます。

まるで子供のようにもみくちゃにされて -これは正常な状態じゃありません。(76頁)

まるで子供のようにいつももみくちゃにされて -これは正常な状態じゃありません。(代案)

 次です。「verstehen」が「理解する」と訳されていますが、精神病理学ではふつう「了解する」と訳されます。なお、これまで何度も書いてきたとおり、これは本書のキーワードである「自明性Selbstverstaendlichkeit」という語の構成成分となっていて概念的に繋がっています。このような語義的な問題点のほか、文の解釈上も訂正点があります。

人が自分をどうみせているか、どうやってちゃんと生きているかということが、めずらしかったのです。それはわかったり理解したりできるものではありません。たぶん両親だけが -そう、たぶん両親なんでしょう -両親とまず結びつきがないと -一人の人間としての結びつきがあって、それではじめて理解できることがあるのです。(76頁)

人が自分をどうみせているか、どうやってちゃんと生きているかということが、目新しかったのです。それはそもそも見て取ったり了解したりできるものではありません。たぶん両親だけが -そう、たぶん両親なんでしょう -両親とまず結びつきがないと -一人の人間への結びつきを持つこと、これこそひとが了解していることなのです。(代案)

 次も構文的な変更点を含みます。

今でも、なにも起こらなかったら、どうもないのです。なにかが起きたら、私のもっている少ししかない理解が失われて、私は罪をおかしてしまう…。(76頁)

今でも、大したことは起こらないのに、私はもうやっていけないのです。私のもっている少ししかない概念が失われて、私は罪をおかしてしまう…。(代案)

 次の箇所の「あたりまえのこと」は、例によって、他の箇所では「自明性」と訳されている語です。

たとえば洗いものなんか -むつかしいのは、なにがむつかしいかというと、どういったらいいのか- 私にはそれがあたりまえのこととしてはできないのです。(76頁)

たとえば洗いものなんか -その際むつかしいのは、その際なにがむつかしいかというと、どういったらいいのか- 私にはそれが自明なこととしてはできないのです。(代案)

 次ですが、「居合わせるdabei sein」という表現はこれまでも何度も登場したアンネの口癖で、当ブログでもすでに何度も扱ってきました。

どんな仕事でもそうです。たとえば朝の回診のときとか、刺繍をするときとか -ただ仕事をしているというだけ、それだけのことで、私の心がともなっていません。からだの力がなかったらもうだめ、そしたらもうできなくなるのです》。(刺繍の針をさすことが?)いいえ、そんなことなら、ちょっとした表面的なわかりきったことでしょう、それはできます。(77頁)

どんな仕事でもそうです。たとえば朝の回診のときとか、刺繍をするときとか -ただ仕事をしているというだけ、ただ何となくのことで、ちゃんと居合わせていません。からだの力がなかったらもうだめ、そしたらもうできなくなるのです》。(刺繍の針をさすことが?)いいえ、そんなことなら、ちょっとした表面的な自明なことでしょう、それはうまくいきます。(代案)

 ここにはまたしても「自明」と訳すべき語の不統一があります。

 次は「だらだらして」と訳されている「dahindarben」という語についてです。この語は辞書に見つからないのでどう訳すか難しいですが、語幹にある「darben」は「欠乏に悩む」という意味のようです。

でも私に生活能力があって、こんなふうにだらだらしていないということのほうが、ずっと大切なことですね。(77頁) 

でも私に生活能力があって、こんなふうに欠乏に悩まないということのほうが、ずっと大切なことですね。(代案)

 上のみすず版の邦訳は、ひょっとすると訳者が「dahindaemmernうつらうつら(ぼんやり)して日を過ごす」という語と見間違っているかもしれません。 

 次の箇所のみすず版は、「精神療法の話題はここでは扱わない」という文の直後なのに、精神療法について述べているかのようになってます。

精神療法の問題についてはここでは述べない。彼女の精神療法は時間的にも労力的にも大変に手間がかかった。しかもその手間は、理屈ではない真の触れ合いが生じる以前の対話そのものだけのためについやされてしまうのだった。(77頁)

精神療法の問題についてはここでは述べない。アンネは時間的にも強さから言っても大変な心遣いを要求した。しかもその心遣いは、理屈ではない真の対話プロセスに持ち込まれることなく、いわば実質的に消尽されてしまうのだった。(代案)

 ちなみにここは、下坂幸三が本書を、精神療法的な視点から口汚く批判した論文で、当然引用されやり玉に挙がってしまっています。下坂はフロイトについては原書で読みなおしたという論文を書いたりもしていますが、本書については原書に当たらず批判しているようですが。

 さて今回の最後は、77頁から78頁にまたがる段落からです。

以前ほどではないとはいえ、彼女はまだ、健康な人なら意に介さないようなわかりきった問題に《ひっかかかる》、たとえばなぜこうしなくてはならなくて、別のことをしてはいけないのかということがわからない、という。(77~78頁)

話し合いの際、以前ほどではないとはいえ、彼女はまだ、健康な人なら意に介さないような自明な疑問や問題に《ひっかかかる》、たとえばなぜこうしていて、別のことをしてはいないのかということにひっかかる、という。(代案)

自明性の喪失―分裂病の現象学 W.ブランケンブルク、木村 敏、岡本 進、 島 弘嗣  (1978/7/10)

Der Verlust der natuerlichen Selbstverstaendlichkeit Wolfgang Blankenburg  (2012/11)

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