« 2016年1月 | トップページ | 2016年8月 »

2016年4月

2016年4月30日 (土)

フロイト全集18から『神経症および精神病における現実喪失』2

 この論文の岩波版翻訳もかつてこのブログで取り上げました。

http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_b609.html

 今回読み直して気になった箇所がありましたので紹介します。

 ひとつめ。下に引用する箇所の冒頭の二文は主語がManであってフロイトではありませんから、「読者」としてみます。ここでフロイトは、読者が陥りやすい間違った考え方の例を挙げたあとで、正しい考え方を示しています。最後の文の「不快」は、「Unlust」の定訳ですがここで原語は「Anstoss」なので「不愉快」としました。

もちろん異なる審級のあいだでではあるけれども、精神病の発生に関して、神経症の過程と類比的な何かが起きていると予想できるだろう。したがって、精神病においても、第一段階は自我をまず現実から引き離し、第二段落は損害を賠償しようとし、エスを犠牲にして現実との関係を回復する、という二つの段階がはっきりと分かれると予想されるだろう。実際、精神病において類比の事柄も観察される。ここでも二つの段階があり、その第二段階は修復という性質を持っているが、そうなると類比どころか両過程が同じ意味を持つことになる。精神病の第二段階も現実の喪失を埋め合わせようとはするが、神経症において現実関係が犠牲になるのと同じように、エスを制約するという犠牲を払うのではなく、もっと独裁的な方法で、不快を感じさせる現実を捨て去り、そうした不快をもはや与えることのない一つの新しい現実を創造する。(岩波版312~313頁)

いまや読者は、もちろん異なる審級のあいだでではあるけれども、精神病の発生に関して、神経症の過程と類比的な何かが起きていると予想するかもしれない。したがって、精神病においても、第一段階は自我をまず現実から引き離し、第二段落は損害を賠償しようとし、エスを犠牲にして現実との関係を回復する、という二つの段階がはっきりと分かれると予想されるかもしれない。実際、精神病において少々類比の事柄も観察される。ここでも二つの段階があり、その第二段階は修復という性質を持っているという点であるがしかしここでは、類比どころか両過程がもっと徹底的に同じ意味を持つことになる。精神病の第二段階もやはり[第一段階で生じた]現実の喪失を埋め合わせようとはするが、神経症において現実関係が犠牲になるのと同じように、エスを制約するという犠牲を払うのではなく、もっと独裁的な方法で、不愉快を感じさせる現実を捨て去り、そうした不愉快をもはや与えることのない一つの新しい現実を創造する。(代案)

 上の箇所の直後に、正しい考え方がずばり述べられています。そのあと、以下のように続きます。

神経症も精神病も、両者とも、外界に対するエスの反逆と、現実の危急、《アナンケー》に順応する不快さ、あるいはこう言うことができるとすれば、無能力の表現なのである。(岩波版313頁)

 ここでの「不快さUnlust」は、定訳どおりの訳語ではありますが、直後にzu不定詞句が添えられているので、「○○したくないこと」「○○することに乗り気でないこと」という意味でしょう。また、「Unlust」も「Unfaehigkeit=無能力」も、原文では「seiner=エスの」と明示されています。

神経症も精神病も、両者とも、外界に対するエスの反逆と、現実の危急、《アナンケー》にエスが順応したくないこと、あるいはこう言うことができるとすれば、エスはそうした順応ができないことの表現なのである。(代案)

 このあとに、このブログで前回取り上げた314頁の箇所が続きます。その後ろの部分に移りましょう。以下の箇所では、原文で用いられている「reagieren=反応する」という語のニュアンスが抜けています。

神経症の場合、いつも決まって不安が発動され、抑圧された欲動が突進を試みるものの、葛藤の結末は妥協以外の何ものでもなく、満足としては不完全に終わることが見てとれる。(岩波版314頁)

神経症の場合、抑圧された欲動が突進を試みるものの、いつも決まって不安でもって反応されること、葛藤の結末は妥協以外の何ものでもなく、満足としては不完全に終わることが見てとれる。(代案)

 次は、時間的な順序がぼやけてしまっている箇所が二つ続きますが、まずひとつめ。

これらの違い、いやもしかすると他の多くの違いも、病気を引き起こす葛藤の起点となる状況の局所論的な差異に由来する。すなわち、自我が屈して現実世界に忠実であろうとするのか、それとも、エスに従属するのか、である。(岩波版315頁)

これらの違い、いやもしかすると他の多くの違いも、病気を引き起こす葛藤の起点となる状況の局所論的な差異に由来する。すなわち、そのさい自我が屈して現実世界に忠実であったのか、それとも、エスに従属したのか、である。(代案)

 細かいことを言い出すとキリがないのですが、上の「局所論的」の箇所の原語は「topisch」であって「topologisch」ではないので、翻訳も単に「局所的」でよさそうな気がします。

 次は空想世界についての説明箇所からです。やはり時制が問題です。

この世界は、現実原理が導入されるさいに現実の外的世界から隔離され、その後は一種の「保護」によって生活必要上なされるいろいろな要求から解放された領域である。(岩波版315頁)

この世界は、かつて現実原理が設置されたさいに現実の外的世界から隔離され、その後は一種の「保護」によって生活必要上なされるいろいろな要求を免除されてきた領域である。(代案)

 この論文についてはここまでにします。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

2016年4月25日 (月)

フロイト全集18から『神経症と精神病』2

 フロイトの論文『神経症と精神病』の岩波版翻訳については8年以上前に取り上げました。

  http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_eafb.html

 今回読み直してみて、また少し翻訳についてコメントしたい箇所がみつかったので報告します。

 まず一つ目。以下の引用箇所では、下線を引いた訂正箇所のうち3つめが特に重要と思います。

これらすべてのことによって、神経症が形成されるのである。自我が抑圧を行う際に、超自我の命令に基本的に従い、この超自我の命令は、現実の外的世界が、超自我のうちに自分の代わりを立てさせ、影響を行使することによって、成立していることに異議はない。ここで自我は、超自我の側に立っている。自我にとっては、超自我の要求の方が、エスの欲動要求よりも強力なのである。(岩波版240頁)

これらすべてのことによって、神経症の病像が形成されるのである。自我が抑圧を行う際に、超自我の命令に基本的に従うこと、この超自我の命令は、現実の外的世界が、超自我のうちに自分の代わりを立てさせ、影響を行使することによって、成立していることに異議はない。ここで自我は、これらの力[現実と超自我]の側に立っている。自我にとっては、それらの力の要求の方が、エスの欲動要求よりも強力なのである。(代案、[ ]内は補足)

 次の引用箇所では、一文目は副詞が形容詞として訳されていること、二文目は日本語の自然さが問題と思います。

そこで自我は、自らが統御する新しい外的世界と内的世界をつくりあげることになる。ここで次の二つの事実をみてとることは疑いない。(岩波版241頁)

そこで自我は、自分勝手に新しい外的世界と内的世界をつくりあげることになる。ここで次の二つの事実に疑いの余地はない。(代案)

 次は訳し落としです。

妄想の形成についての分析から明らかになったのは(岩波版241頁)

妄想の形成の成因についての分析から明らかになったのは(代案)

 この論文については次が最後です。どうも(この論文に限りませんが)副詞の訳し落としが多いように感じます。論理の繋がりなどを示す大事な副詞も含まれますけれども、いちいちすべて指摘するほどでもないようにも思われ、どう扱って良いか悩ましいところです。

欲望の不首尾は、根本的には外的な要因によるものであるが、個々の症例にあわせて言うならば、現実要求の代わりを引き受ける(超自我における)あの内的審級によって、不首尾は引き起こされるといえるだろう。病気を引き起こしているのは、自我が外的世界に従い続け、結果としてエスを黙らせようと試みるか、それともエスに打ち負かされて現実から引き剥がされるか、という葛藤した緊張状態に自我が陥っていることにある。この一見すると単純な状態に、超自我の存在が複雑さを持ち込むのである。というのも超自我は、未だ解明されていない結びつきによってエスと外的世界からの影響をひとつにまとめるからだ。ある意味で、超自我は、自我のあらゆる追求が目的とする理想模範であり、自我の幾重にも依存した諸関係の調停を目標としている。(岩波版242頁)

欲望の不首尾は、根本的にはつねに外的な要因によるものであるが、個々の症例にあわせて言うならば、現実要求の代わりを引き受けた(超自我における)あの内的審級によって、不首尾が引き起こされることもありうるここでは、病気を引き起こしている効果は、自我が葛藤した緊張状態で外的世界に忠実に従い続け、結果としてエスを黙らせようと試みるか、それともエスに打ち負かされて現実から引き剥がされるか、という点にかかっている。この一見すると単純な状態に、超自我の存在が複雑さを持ち込むのである。というのも超自我は、未だ解明されていない結びつきによってエスと外的世界からの影響を自らのうちでひとつにまとめるからだ。ある意味で、超自我は、自我のあらゆる追求が目的とする事柄の、つまり自我の幾重にも依存した諸関係の調停の、理想模範である。(代案)

 最後の文の解釈は難しいところですが、私は上のように考えました。

フロイト全集 18 1922-24年 (18)

フロイト(著), 新宮一成(編さん)

出版社: 岩波書店 (2007/08)

« 2016年1月 | トップページ | 2016年8月 »

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ