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2016年9月12日 (月)

気分障害患者の結婚歴

 中高年以降に発症した気分障害(うつ病または躁うつ病)の患者は、とにかく結婚歴のある人が多いんです。たとえばドイツの精神科医テレンバッハがうつ病症例を集めた名著『メランコリー』に登場する症例とか、笠原・木村が著書で紹介する例は、ことごとく既婚です。

 最近、勤務先の病院に、生涯未婚の中年うつ病患者が入院してきたので、珍しいなあと思い、医局でそう発言してみましたが、周囲の医師には私の感慨はうまく伝わらなかったようでした。

 気分障害患者のほとんどに結婚歴がある理由については、私なりに考えがあります。

①躁うつ病の人(循環性格の人)の病前性格は、異性を恋愛感情に巻き込む力(=同調性、本ブログのひとつ前の記事を参照)が強いので、交際相手ともども気分が盛り上がって結婚に至ることが多い。

②うつ病の人(メランコリー型の人)の病前性格は几帳面で仕事熱心で他者配慮があるので、異性からみて、手堅い結婚相手と捉えられやすく、また一昔前なら縁談も舞い込みやすかった。

 そしてもうひとつ、未婚である私がなかなか人前では言いづらいことなのですが、

③気分障害の人(うつ病の人も躁うつ病の人も)は、もともと性格的に、自分に達成可能な範囲のことしか望まない、とテレンバッハが言っていますが、そういう性格のせいで、彼らは、自分の手に入らないような異性を求めたりせず、自分に見合った範囲の異性から配偶者を選ぶ

ということがあるのではないでしょうか。

 みなさんはいかが思われますでしょうか。

メランコリー [改訂増補版]

H. テレンバッハ(著), 木村 敏 (翻訳)

出版社: みすず書房; 改訂増補版 (1985/12/5)

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コメント

わたしは、何の根拠もありませんが、ヤリチン自慢なひと、ヤリチンを他人に自慢することで何かを証明しようとしているひとと、同じではないかと思います。

( 1) 自分にはひとを愛する能力が欠如していると、本人が確信している。

( 2) 上記を否定するために、欠如しているのではなくて喪失したのだという「幼児の性理論」のようなもの、自分がなぜ自分なのかについての、自分の成り立ちについての、「理論」を持っている。喪失したのであれば、一度も所有したことのないものは喪失することは不可能であるという理論的な厳密性、ほとんど狂気な厳密性があって、いま喪失しているのであれば、かつて所有していたのであり、欠如していないということになるため。つまり、病的にくそ真面目に論理的に厳密。

( 3) ヤリチン自慢なひとは、たとえば、初恋して告白も出来ず終わっていて、その対象を女神の地位に高めている。あのひとがわたしがひとを愛することができる唯一の機会であったのだが、その機会は永遠に失われたということにしてある。

( 4) その「理論」を証明するためには、次々、女性とセックスして、こいつも尻軽、あいつも尻軽……ということで証明するしかない。そして、その自慢話をひとびとに語り、承認してもらうしかない。

( 5) 自分の「理論」に、自動機械として、突き動かされてしまっている。自分の成り立ちについての自分の理論に固執している。それがアイデンティティになっている。その自我欲動、サディズムによって、自動的に作動するマシンになっている。

うつ病患者の場合、奥さんさえいなければ、なんらか理想の女性と、アクセスできるのに…ということにしてあるのではないか。つまり障害物を置いてある。言い換えると、障害物が必要である。なので、結婚している。

あ、すみません。TheOtherWindです。別の名前でコメントをつけてしまいました。

 おっしゃっているのは、アガンベンが『スタンツェ』で書いていたことに近い(というか表と裏になっている)のではないでしょうか。アガンベンはたしか、うつ病患者は、一度も手にしたことのない対象を、「失われた対象」として嘆くことで、その対象をかつて自分が手に入れていたことにしてしまうのだとかいうようなことを言ってました。
 ただ、私はそれはメランコリーぽくないように思います。論じる側の神経症性を投影しちゃっているか、あるいは神経症性うつ病のメカニズムなのか、そんな気がします。

 もうひとつ、気分障害患者の結婚問題は、時間・空間論からも論じることができるかもしれません。気分障害の人は、想像もつかないような未来を想定しない(空間的にいえば、共同体にどっぷり浸かっている)ので、比較的若いうちから身を固める気になりやすいのではないでしょうか。

> 論じる側の神経症性を投影しちゃっている

なるほど! わたし基準ってことですねヾ(´ε`*)ゝ エヘヘ

 神経症性と言ったのは、症状の内容というよりも、「症状・行動のせいで結果的に生じる事態を、むしろ無意識的には故意に狙って症状・行動が作られて(あるいは維持されて)いる」という、病因が未来からくるかのような時間構造を指してのことでした。そういった構造をうつ病者も持っているということを、アガンベンは当然のこととして想定しちゃっている、と。

 本来の(いわゆる内因性の)気分障害の人からは、私は(利得が感じられる場合でも)あんまりそういった時間構造を感じません。助けてもらった後の状況まで計算に入れているかのような自殺企図とかはないように思います。ただ、それこそ僕の見方の癖かもしれませんけれど。

 しかしこの辺は本当に難しい所です。フロイトが『喪とメランコリー』などで論じているメランコリー機制は、いわゆる内因性のうつ病に該当するという読み方が多数派ではありますが、あれは神経症性うつ病の機制だよという研究者もおられます。

ああ、なるほど。対象喪失が主体の創設に先行していて、絶対に傷つかないわたし、何も失っていないわたし、傷ついていないわたし…ってのは、ない。えと、いきなり、言語を話すときに、言語に棲まわれるときに、無意識の主体の全面的な原抑圧があってという、複雑構造になっていると。えと、不在なものとして主体がある。もうないもの、または、まだないものとしてわたしがある。あなたなしのわたしって何?という対象喪失あって、はじめて、わたしという問題が前景化するので、あなたなしではわたしはわたしの輪郭を保つことすらできない!っていう、喪あって、わたしがある。えと、まったきものではなくて、欠如したものとしてわたしがあるという複雑な構造になっていて、それが、性格。えと、自我変容。それ、時間が導入されてるよねと。えと、絶対に取り返しがつかない、えと、決定的にあのひとが喪失されてしまったってのが時間だと。

なんだけど、メランコリーってのは、実は、そういうことではなくて、そうではなくて、無時間、えと、傷ついていないわたしなんじゃないのと。

それは極めて難しいことで、フロイトがなんでもかんでも、なにがなんでも、神経症のメカニズムで、のたうちまわり、ころげまわっても、どうしても、神経症のメカニズムで説明できないだろうか!?ってことをやるのは、ま、倫理感あるんでしょうね。

安易に、あいつら人間じゃねーみたいなことをゆーてはならん!みたいな。言葉を話すもの=神経症=人間ってことからして、最近、父の機能が弱まっているとか、普通精神病とか、そら、説明はシンプルだが、倫理に反する。すと、はなから、てか、ほぼ生得的に、父性欠如なんで、仕方ないね、ってなことになってしまう。なんもでけん。強いて言えば、小説書いておけくらいになってしまう。そら、あかんやろという。

ああああ。すみません。管理人さんが仰っておられることが、読めてませんでした。ごめんなさい。

(1)「喪とメランコリー」→メランコリーは内因性の精神病だ、とフロイトは言っているというのが、教科書的には、一般的。

(2)いやあ、うつ、って言っても、内因性の精神病だけがうつじゃないだろう。また、実際、フリースへの手紙であれば、現勢神経症。現勢神経症ではあるが、広義には神経症。確かに教義の神経症(精神神経症)ではないが、現勢神経症は神経症なので。フリースへの手紙であれば、不安神経症・神経衰弱、そして心気症に近いものとして、延長として、えと、神経衰弱の直接的な中毒の表現としての神経衰弱の程度が悪いものとして、メランコリーは分類されている。

あるいは、精神病としてのメランコリーと、現勢神経症としてのメランコリーってのがある。

というようなことだったのですね。

すみませんでした。読めていませんでした。

 ありがとうございます。
 実は、私はうつ病をあまりラカン理論と絡めて考えては来なかったのですが、最近出版された「うつの舞台」という本を分担執筆している内海健氏がメランコリーを剰余享楽(というラカン概念)と絡めて論じていることに刺激され、改めてテレンバッハもパラパラめくったりしていろいろ考えていたところでした。

 ところで、この本で内海氏が挙げている事例のなかで、業務成績不振を取り返そうと必死で働くなかうつ病になりかけた会社員が、全く余裕のない精神状態のなか上司に辞表を提出した際に、上司がそれを(突き返すのではなく)「預かりおく」と返事をしたという出来事を、後に、うつ病からの回復途上で想起し、あのときの上司の反応に幻滅したことが発症のきっかけだったと語ったというエピソードがあります。この患者がこの件での上司への不満を語ったのは、回復途上のごくわずかな期間でしかなかったそうです。
 こういうあたりがうつ病の患者らしいところだと思います。神経症の患者ならば、病気の期間全体を通じて(それどころか治ってからも)、上司のあの態度のせいで病気になったというストーリーを表現するために症状が出来上がっていき、将来自分がそのように振り返ることができるように状況を作っていくでしょう。

 気分障害患者に既婚者が多い件戻ると、最近読み直したテレンバッハによれば、気分障害患者は誰かに尽力しながら生きていくことしか考えられず、尽力できる相手を必要とする、ということになりますので、この点から結婚への志向も当然高いであろうということも言えそうです。

> 神経症の患者ならば、病気の期間全体を通じて(それどころか治ってからも)、上司のあの態度のせいで病気になったというストーリーを表現するために症状が出来上がっていき、将来自分がそのように振り返ることができるように状況を作っていくでしょう。

精神神経症(ヒステリーと強迫神経症)であれば、現勢神経症とはことなり、精神=わかんないっていうものっていうもの、が、ないけどあるよね、っていう大前提があるからなんでしょうね…。


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