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2017年11月23日 (木)

ラカン『精神分析の倫理』1章再読

 ラカンのセミネール第3巻『精神病』の再読がまだ途中で滞っておりますが、それは今年わけあって第11巻『精神分析の四基本概念』を読み直す必要があってそちらに手間を取られたからでした。私はかねがね第7巻『精神分析の倫理』のセミネールが最重要セミネールだと思ってましたが、11巻も読み直してみると甲乙付けがたいものでした。

 いま、これまたわけあって第7巻『精神分析の倫理』を読み直しているところです。で、例によって翻訳で気になったところなどは章ごとにここで報告してみようと思います。『精神病』に手をつけるときも書きましたが、私はいつも、要約したりする代わりにこういう作業を、自分が今回読んで考えたことのメモとしていくやり方を取っています。

 さて第一章ですが、翻訳はちょっと読みにくいところはあるものの、あんまり目だった問題はないように思いました。意地でもどこか見つけようと探して、なんとか見つけた問題箇所が次のところです。

この問題をもっとはっきりさせるために指摘すべきことがあります。つまり、分析的考察はわれわれの経験の[性器期への]収斂という性格を隠れ蓑にしているらしいということです。たしかにこの性格は否定すべくもありませんが、そこには限界があり、それを越えて進むことは容易ではない、と分析家は感じてもいます。(邦訳上巻11頁、Seuil版p17)

 下線部はse derober devant le caractere de convergence de notre experienceです。他動詞deroberには「隠す」といった意味もありますし、この訳でも大意にそぐわないわけでもないのですが、直後にdevant..とあるので上の訳は不可能なように思えます。このse doroberは、「回答を避ける」といった意味ではないでしょうか。

この問題をもっとはっきりさせるために指摘すべきことがあります。つまり、分析的考察はわれわれの経験の[性器期への]収斂という性格の前では回答を避けるらしいということです。しかも、たしかにこの性格は否定すべくもありませんが、そこには限界があり、それを越えて進むことは容易ではない、と分析家は感じてもいます。(代案)

 上の代案には、次の文とのつながりを考えて、「しかも、」と補ってみました。

 あとは邦訳の19頁に人名「アルフォンス・アレス」とありますが、ふつうは「アルフォンス・アレー」と表記される、といったことぐらいでしょうか。

 といった感じで進めていきます。

 ラカンはこの章で、当時の精神分析で主流であった考え方、患者は性器期的な愛情生活へと成熟することで利他性も身につけて幸福になるといった考え方に苦言を呈しています。精神分析以外の分野の精神医学では、性器期とか愛といった言葉はあまり使われませんが、順調に発達し成熟・成長すれば適応と症状改善が得られるといった楽天的で不気味な考え方はいまも広く共有されているように思えます。この先のラカンの暴れっぷりが楽しみです。

精神分析の倫理 上
出版社: 岩波書店 (2002/6/26)
ジャック・ラカン   (著),‎ ジャック・アラン・ミレール (編集),‎ 小出 浩之 (翻訳)

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